使命
「さて、この妖猫をどうしたものか?」
動きを封じた、妖猫の傍らにしゃがみ込んで八坂が言った。
「どうするって、殺すしかないじゃない。」
そう言いながら天寿院は、早くも呪文を唱え始めた。
「でも下手に殺すと、こいつが持っている勾玉も消えて無くなるかもしれないな」
「えっ?勾玉を持っているですって!」
「うん。持っていると言うよりは、埋め込まれている。と言った方が合っているような気もするけど」
「貴方には見えるの?」
「一葉ちゃんには見えないの?」
「えぇ。どうやら私には、そういった能力は備わっていないようね」
「随分と素直だね」
「大きなお世話よ。」
「でもこれで丁度良いじゃない?」
「何が?」
「結界を張って守る力と、勾玉の在りかを見る力。それが亡き母から僕は貰っていたようだけど、君のような攻撃的な力は無いみたいだ。つまり防御型の僕と、攻撃型の君との二人で、僕等は一人って事じゃない。」臭い台詞を言った。
「何か最後のくだりがすごく気に障るけど、大方はそのようね。」
ふざけているような会話をしていても、二人の視線は常に妖猫へ注がれ、天寿院は攻撃態勢を崩さず、八坂も手印を結んだまま妖猫を押さえ込んでいた。
「ではこの妖猫をどうするか。改めて決めようか?」
「勾玉を取り出して葬る。」
天寿院は呪式を整えると右手が輝き、剣が現れた。その剣を構えて即答したが、八坂は神妙に沙汰を待っている妖猫を、できれば助けてやりたいと思った。
「勾玉を取り出すのは賛成だよ。でも、葬るか逃がすかは、その後って事でどう?」
妖猫が安堵の表情を浮かばせた。
「逃がす気は微塵も無いけど、取り出す事は同意ね。それで勾玉はどこにあるの?すぐに取り出すわ!」
「右肩から前足の間。痛くない様に上手く切ってやってね」
妖猫は全身の力を抜き、八坂が言った部位を天寿院の方へ向けた。
「この妖猫、観念したようね。勾玉を取ったら、すぐに楽にしてあげるわ」
その一言を聞くと、妖猫の全身に力が再び入り、逃げ出そうともがきだした。
「下手に動くと首を切り落とすわよ」
「君がそうやって脅すから、逃げようとするんじゃないのかな?」
妖猫は八坂の方を向き、涙に憂えた瞳を見せた。
「ほら。いじめは絶対にやってはいけない事だよ」
「貴方は命を狙われた上に、家まで壊されているのに。この妖猫を庇うの?」
「うん。何となく友達になれそうな気もするし――。それに、はっきりとは言えないけど、勾玉を取れば暴れたりはしないような気もする。」
天寿院は八坂の甘い考えに些か呆れたが、心の中の何かが、八坂の甘い考えに惹かれ始めたのを感じた。
それを確かめる訳では無いが、天寿院の右手は痛みを最小限に抑えるかのように、静かに動いた。すると妖猫の右肩の切り口から、大人の拳大の勾玉が床に落ちた。
八坂が落ちた勾玉を拾い上げると、勾玉自身が光を放ち『貧』の文字が浮かび上がった。そして勾玉の光と文字が消え、八坂の首元に表れた銀製の輪に連なり消えた。
「貴方にはもうひとつ、勾玉を浄化する力もあるようね」
「そうなの?自分の意思でした事じゃないから、ピンと来ないけど」
その言葉から、自分の手から勾玉がどこへ消えたのか、八坂が理解していないことを天寿院は知った。
「さて、お前の勾玉は浄化したわ。悪いけど消えて貰うわよ」
成敗される事を受け入れたのか、妖猫は両目を硬く閉じた。
「ちょっと待ちなさいって」
八坂が慌てて止めに入った。
「勾玉を取り出したから、もう少し待てば元の猫に戻るよ。例え魔物でも、無益な殺生はいけないと僕は思う。」
「元々妖怪だったみたいだし、それは期待できないわね」
八坂が悲しい顔をして天寿院を見た。
「だったら貴方がこの妖猫の、妖力を封じれば良いじゃない?」
「僕に出来るかな?」
「出来なければ殺すだけよ」
「わかった。やってみるよ」
八坂は妖猫の傍らにしゃがみ、結界を出した時と同じ手印を結ぶと、横たわる妖猫は柔らかな、白い光に包まれ、二メートル近くあった体は徐々に小さくなり、体長五十センチほどの、丸々と太ったトラ猫に変わった。
天寿院はそれを見届け、右手の光剣を収めた。
「たいしたものね。貴方に免じて許してあげるけど、猫と言うより子豚じゃなくて?」
「何を無礼な事を言う!わしは元来、数珠様がお生まれになられる遥か古より、八坂家をお守りしてきた『四神獣の白虎』じゃ!先程から黙って聞いておれば、小便臭い小娘如きが言いたい放題言いよって!」
白虎と名乗るトラ猫が、いきなり天寿院を怒鳴りつけた。
「八坂のおじさんに助けられた命を、そんなに粗末にしても良いの。トラブタさん」
「数珠様!この小娘は本気でわしを殺す気ですじゃ!私の妖力をお返しくだされ!」
「一葉ちゃん、ちょっと待ってくれないか?」
白虎の話に興味を持ち、印を結びかけている天寿院を止めた。
「選択する時間は上げても良いけど、結果は同じだと思うわよ」
「何じゃと!」
「二人とも止めなさい!」八坂が本気で怒鳴った。
八坂は二人を促して、台所にあるテーブルに付かせた。天寿院は八坂が座っている正面に、先程と同じ様に正座をし、白虎は椅子を介してテーブルの上によじ登り、一度、天寿院を威嚇してからその場で丸くなった。
「何か起きる予感がしていた矢先に、君達が突然やって来た。しかも、二人がそれぞれ持っている情報は、お互いが、お互いに必要としている情報だと思う。だから二人とも、ちゃんと聞いた方が良いんじゃないかな。」
八坂に諭され、二人はお互いを警戒しつつも、その忠告を素直に聞き入れた。
「まずは、散々ちゃかして置いて申し訳ないから、一葉ちゃんの話から聞こうか?」
何か言いたげな白虎を牽制しつつ、八坂は天寿院の目をみて言った。
「やっぱり知っていたのね。」
天寿院は恨めしそうな目で、八坂の目を睨み返した。
「御免ね。君が本当に僕側の者かどうか、半信半疑だったからね」
「まぁそれもそうね。股間を締め上げた事もあるし、忘れてあげるわ」
「何!股間を締め上げたじゃと!」
テーブルの上で丸くなっていた白虎が、突如起き上がり、テーブルに爪を立て「フー!」という声と共に、天寿院を再び威嚇した。
「大人しくしていろよ、白虎」
天寿院を威嚇している白虎のアゴを指先で撫でると、忽ち白虎はゴロゴロと言いながら、八坂の膝の上に移動して丸くなった。
「では一葉ちゃん。始めてくれるかい?」
「わかったわ。細かい事まで話すと長くなるから、簡単に話すわ」
「助かる。始めて『力』を使った所為か、長時間は持ちそうにもないからね。」
天寿院は疲れ気味の八坂の顔をみて、「そのようね」と頷き、話す内容を、頭の中で簡単にまとめて話し始めた。
「さっきも言ったけど、私の主は、平安中期に陰陽家の総頭をされてい、た賀茂保憲様。ある時、京の都を魔物が襲い、とある神社の神殿に奉られていた、三種の神器のひとつで煩悩を封印した『勾玉』を盗んで逃げたの。保憲様は弟子でご子息の賀茂光栄様と、同じく弟子の安部晴明様の御二人を連れて魔物を追ったわ。そして苦労して何とか追い詰めた。しかし事もあろうか追い詰められた魔物は、自分の命と引き換えに、勾玉を時空の狭間へ投げ入れてしまった……。時空を越える事は人間にはできない。保憲様はすぐさま呪術で私を呼び寄せて、勾玉を追うよう、勾玉と同じ時空の中に飛ばしたの……」
「それがこの時代の僕の家って事か」
「そのようね」
「煩悩の数となると百八個か、全部だと結構多いな。」
「勾玉の数は、慢・瞋・疑・見・癡・貧の六個よ」
「六個?一気に減るね。」
「その六個が分かれて、最終的には百八個の煩悩になるの。逆に六個がひとつになると、地球上の全ての生命に、想像もつかない災いをもたらす脅威になるのだと、保憲様がおっしゃっていたわ」
「さっき白虎から『貧』の勾玉を封印したから、残りは五個ってことか……。いくら数が減った上に、勾玉が見える力があると言っても、この広い世の中で、残りを全部見付けるのは至難の業だな」
「あら、そうかしら?」
「どう言う事?」
「そこのトラブタが来たときに、言っていたじゃない?」
八坂の膝の上で丸くなって寝ている、白虎の耳がピクリと動いた。
「何て?」
「トラブタと同じ気配が、六個ほど玄関まで来る。って」
「ほぉー。そう言うことか、『灯台下暗し』かい?」
「『家宝は寝て待て』の方が近いかもしれないわ」
「それはおそらく、青龍達じゃと思います。」
膝の上で黙っていた白虎が口を挟んだ。
「白虎は知っているのかい?」
二人の視線が白虎へ向いた。
白虎は起き上がると、大きく伸びをひとつして「やっと、わしの出番じゃ」と言い、八坂の膝の上から、テーブルの上によじ登った。
そして天寿院に背を向け、八坂の前に凛とした姿勢で座り、話し始める間を取った。
「勿体ぶらなくて良いから、早く話しなさい。」
向けられた背を人差し指で突っついた。
「フン!まったく無礼な小娘じゃ!」
白虎は天寿院をチラッと振り返り、不愉快そうに言い返した。
「あら?やる気なの?」
また二人の間に険悪なムードが漂い始めたのを察知して、八坂はやむなく仲裁に入った。
「二人とも縛ろうか?」
「やっぱり、そういうプレーが御好み?」
「一葉ちゃん!痛っ!」
八坂は慌てて、膝をテーブルにぶつけた。
「冗談よ。慌てることなんか無いのに……。本当にその気が有るみたいじゃない?」
「欲求不満娘は黙っておれ!」
天寿院の目がテーブルの上の白虎へ、冷ややかに向くとお互いの視線が合った。
「やっぱりこの場で殺してあげるわ?えっ!――体が動かない」
八坂の呪式が二人の体の自由を奪った。
「数珠様、何も私まで……」
顔は天寿院の方を向いたままで、動
かすことができず、視線だけを八坂へ向けて、白虎が異議を唱えた。
「白虎、君も同罪だ。喧嘩両成敗だよ」
「身動きを封じて、変なことしないでしょうね?」
天寿院の憎まれ口を無視して、八坂はテーブルに身を乗り出した。
「二人ともいいかい?僕は二人の話を聞いた上で、今後の対応策を考えなければならない。一葉ちゃんが言う、『保憲様の命』とやらを早く遂行するためにも、君も一緒に、白虎の話しを聞くべきだよ。」
「そんな事わかっているわ。でも何故か、そのトラブタが気に障るのよ」
「わしとて同じじゃ!」
天寿院を睨み付け白虎が反論した。
「まぁまぁ」二人の昂りを抑えながら続けた。
「事と次第によっては、僕達は力を合わせなければ、解決できないかもしれない。だから、全てが終わるまで『停戦』にしてくれないかな」
「わしは、数珠様の命であれば、如何なる事も守りますじゃ」
「ありがとう白虎。一葉ちゃんは?」
「保憲様の為に――。多少の事は我慢するわ」
「助かるよ。それじゃ『停戦』と言う事で良いね。約束を反故にしたら、今度は動きを封じたまま変なことするからね」
八坂は冗談混じりにそう言うと、呪式を解き、「大人しく白虎の話を聞こうね。」と天寿院へ明るく言った。
体の自由を取り戻した白虎は、軽く咳払いをして話し始めた。
「わし等は遥か昔……。戦国時代の末期より、数珠様のご実家の、神社をお守りしていた『四神獣』でございますじゃ。私の名は『西の白虎』。残りの者は『南の朱雀』『北の玄武』『東の青龍』と申します。」
「『神獣』って中国の話かと思っていた」
「実は……」
「真似――と言うより、完全なる偽者よね。」
白虎は一瞬『ムッ』という表情をしたが、堪えて八坂へ素直に、「お恥ずかしい限りでございます。」と頭を下げた。
しかし八坂はその事には触れず、「残りの二つは?」と訊いた。
「狛犬の『阿形』と『吽形』ですじゃ」
「阿形と吽形。それに白虎達の四神獣を加えて、六個ということか――。あっごめんね。続けて」
八坂は話しの続きを促した。
「では。八百年程昔の事ですじゃ。わしら四匹は、秋田の片田舎で、時折、近くの人間を浚っては、魂やら肉やらを喰らっておったのですじゃ」
八坂の眉が微妙に動いた。
「そんなある日の事、一人の修行僧がその地で無人になっていた、古ぼけた神社の境内で護摩を焚いて結界を張り、祈祷を始めたのですじゃ。それから三日目の夜の事、わし等は術中に嵌り、体の自由を封じられ捕まってしまったのですじゃ。その僧の名前は、陰陽師の八坂元成様、数珠様の遠い先祖になられますじゃ」
「このおじさんが、陰陽師の末裔?」
天寿院は八坂の顔をまじまじと見た。
八坂は真意を確かめる様に、白虎へ視線を向けると、「はい。さようでございますじゃ」と八坂の視線を受けて、深々と頭を下げた。
「そして元成様は、捕らえたわし等にこう申されました。『この地を我が永住の地とし、安寧のものとする為に、お前達四匹の魔物を捕らえた。護摩を焚いたこの火の中で葬る事は、本に容易い事。しかし、境内の四方に作りし祠に入り、『邪気』を『神気』に変え、遥か先の我が子孫の窮地を救っては貰えぬか』と。わし等は最初、元成様の寿命が尽きるまでの我慢。運がよければ、隙を見て逃げ出す事もできる。などと姑息な考えでその話しに乗りました。」
白虎は当時の事を思い返し、元成の優しさを、懐かしんでいるように見えた。
「その日からわし等は祠に入り、元成様を見て過ごしました。毎日、いかなる時でも、わしらに御神酒と米を供え、神気になるよう祈祷していただいたのですじゃ。歳月は流れ、元成様ご自身の命が尽きる……、あの日の朝も同じじゃった……。」
白虎の目から一筋の涙が流れ、テーブルの上に落ちた。
「元成様亡き後、御子息様も御孫様も……。毎日、元成様と同じ様に、われ等に接してくださいました。長い――。本当に長い時間が経つうちに、わし等は八坂家をお守りする、『四神獣』と呼ばれるようになっておりました。気が付けば、それがわし等の誇りとなり、何時の日かやって来るであろう、元成様の命を守る事が、生きている証になっておったのですじゃ……」
「でも不本意ながらも、勾玉に心を奪われてしまった……」
天寿院が静かに言った。
「その通りです……じゃ……」
黙って聞いていた八坂が、うつむき涙する白虎を気遣いながら「いったい何が起きたんだい?」と訊いた。
白虎は俯いた顔を八坂へ向け直し、「今からおおよそ、六十年程前の事ですじゃ」と涙声で話しを続けた。
「数珠様のご母堂様が十二歳を迎えられた夜に、九本の尾を持つ妖孤が神社に突然現れたのですじゃ」
天寿院は「九尾の妖孤ですって!」と驚き大声を出した。
「どうしたの?」
「勾玉を奪って逃げたのも、九尾の狐だったの」
「そうだとすると、保憲様の時と同じ妖孤かな?」
「恐らく」と天寿院は頷き「でも、保憲様からは『退治』したと聞いていたのに」と疑問を口にした。
「保憲様に討たれたと見せかけて、実は勾玉と一緒に時空を越えた。と見るべきだね。」
「そんな……」
『ゴホン』と白虎が、わざとらしい咳をした。それを受けて八坂は、天寿院へ掌を見せ『待った』の合図を出すと、白虎が話しを続けた。
「神社の守護である、狛犬の阿形と吽形が『邪気』にいち早く気付き、応戦に出たのですが、妖孤は自分の尻尾を二本切り取ると、阿形と吽形へ一本ずつ投付けたのです。尻尾は青味かかった光を放ち、形を勾玉に変え二匹に命中しました。」
白虎は当時の状況を、未だに鮮明に覚えているようであった。
「勾玉は二匹の体内に入り消えると、阿形と吽形はその場で倒れ、動かなくなったのですじゃ」
天寿院が八坂の顔を見た。
「阿吽に遅れを取りながら、応戦に出たわし等も、朱雀を始めに、玄武、青龍と順番に――。」
「味方が全滅なんて、あなたの主人の嘆きが聞こえてきそうね。」
天寿院の一言で、白虎の目から大粒の涙がボロボロと溢れだした。
その姿を見て「ご免なさい。言い過ぎたわ」と素直に白虎へ謝った。
「一葉ちゃんも深く反省しているようだから、許してあげて貰えないかな?」
「小娘の言う通りじゃと……、わかっております……。」
「ありがとう。白虎のお陰で、大体の流れが分かったよ。」と深く落ち込んだ白虎へ礼を言った。
「そうね。玄関先まで来る、六個の邪気の正体と理由もわかったし」
「うん。でもどうして妖狐は、六個の勾玉を手放したのかな?」
「正直、どうしてかは判りませんじゃ」
「それともうひとつ。白虎達から勾玉を取り返せば済むはずなのに、どうして僕を襲わせるのか理解できないな」
「それは、あなたの首にある『銀の房』の所為よ」
「銀の房?」
「そう。六個の勾玉を持っていれば良いと言う訳では無いのよ。もともと勾玉には、六個をまとめる銀製の輪。つまり『房』が有ったの」
「それを僕が持っている――と?」
「さっき勾玉を浄化した時に、浮かび上がったでしょ」
「えっ、僕が持っているの?てっきり浄化して消えたと思っていたよ」
「あなたって、頼りになるのかならないのか、判断に困る人ね」
「その点については、わしも同感じゃ」と天寿院を振り返った。
その時玄関のチャイムが鳴った。
八坂は不穏な顔をして、「誰だ?こんな真夜中に……」と言いながら席を立ち、「君達はここに居て」といったジェスチャーを二人にして、玄関の客を迎えに出て行った。
玄関に着いた時に、もう一度チャイムが鳴った。
「どちら様です?」
八坂は外灯のスイッチを入れながら、外に立つ影に訊ねた。
「隣の……、町内会長の杉田です。」
八坂の声を聞いて訪問者が返事をした。
「杉田さん?」
真夜中の訪問者に心配になり、天寿院と白虎も八坂の脇まで出て来た。八坂は奥に行って待つように、手振りで見せたが、二人はまったく動く気は無く廊下に座り込んだ。
「夜分に恐れいります。駅前交番の者です。」
(警察?)
八坂は小市民らしく、その職種に敏感に反応した。鍵を開けながら、「何かあったのですか?」と扉の向こう側の人影に訊ねる。
「八坂さん――。我々はそれを聞きにきたのですよ。」
杉田が返事をしたときに鍵が外れ、引き戸の扉が八坂の手によって開かれた。
「それを、って?」
杉田と警察官の二人が戸口に立っていた。
「さっきね。ガラス窓が割れる音が聞こえたので、何か合ったと思いましてね。慌てて交番へ走っていって、こちらの人に来て貰ったってわけで……。」
杉田の横にいた警察官が、「夜分に失礼いたします。」と言いながら入ってきた。
「はぁ。これは大変ご迷惑をお掛けしたようで……。申し訳ありません」
八坂は素直に訪問者の二人へ詫びた。横に居る天寿院の事も含め、咄嗟の言い訳を考えていた。
「真夜中に窓ガラスが割れるとは、とても尋常ではないと思い伺った次第です。」
警察官は家の奥の方を窺うようにしながら言った。
「実は……風呂上がりにビールを飲もうと冷蔵庫を開けたら、ビールが無くて。仕方無しにそこのコンビニへ買いに出掛けたのですが、途中で財布を忘れたのに気付きまして、家に戻ったのです――。」
最初は苦し紛れに言い出したが、段々調子が出てきた。
「それで家まで戻って来たら、鍵を落としたらしくて。思案の末に、裏の居間の窓からなら入れるかと思って裏に回りました。」
警察官と杉田は、胡散臭い顔をしているが、八坂は構わず続けた。
「雨戸を外そうとしたら、窓の木枠が腐っていて、雨戸ごと家の中に倒れ込んでしまった。と言う訳でして、お恥ずかしい限りで……」
こんな、いかにも今作りましたと判るような話を、二人がどこまで信じてくれたのかは疑問であったが、もうこれで押し通すしか無いと腹を括った。
黙って立っている二人のその脇を、天寿院が動き出した。八坂は慌てた。
「えっと、その子は」
「?。その子って?」
「ですから、横にいる」
「横?誰のです?」
警察官と杉田はお互いの顔を見合わせて、「誰か、いるのか?」と言いたげであった。
天寿院の姿は本当に誰にも見えないのだとわかったが、『後の祭り』であった。一筋の汗が、脇の下から流れるのを感じた。
そのとき、白虎がゴロゴロと喉を鳴らしながら、八坂の足に体を擦り付けてきた。それに杉田が気付いた。
「あれ、八坂さん。いつから猫を飼い始めたのですか?」
「えっ?そ、そうですよ。ですから、この子がね」そう言い、白虎を拾い上げて、「一人暮らしが長いもので……」と二人の顔の前に出して見せた。
「本当に何も無いのですね?」
警察官が事務的な口調で確認する。
「はい。本当に何もありませんよ。」と白虎を抱きながら笑顔で応えたが、自分にも分かるほどに引きつった、醜い笑顔であった。
「わかりました。では、本官はこれで帰りますが、物騒ですので窓は早急に治してください。」
「わかりました。早速明日にでも、サッシに変えるように手配します。」
「それじゃ、私もこれで帰りますよ。」
「ご心配をお掛けしました。明日、お詫びに伺います。」
「いいえ、それには及びませんよ。これも町内会長の仕事と思っていますんでね。」
そう言い残して二人の訪問者は、夜中の闇に消えて行った。
八坂はホッとし、体中の力が抜けて、玄関の扉を閉めたその場に座り込んだ。
「見付けたわよ」
天寿院が放心状態に近い、八坂の脇に立ち唐突に言った。
「ん?何をだい?」辛うじて反応した。
「随分と気が抜けているわね」
「君のダメ押しのお陰でね。その反面。白虎、君には本当に助けられたよ。ありがとう」
「勿体ないお言葉ですじゃ」
上機嫌でゴロゴロと喉を鳴らした。
「ちょっと、こっちの話を聞いてもらえるかしら。」
天寿院は八坂の目の前にしゃがみ込み、無愛想に言った。
「表札の裏に『お札』が貼ってあるの、それが結界を作ってあなたを守っていたのよ。」
「母が僕を守っていてくれたってこと?」
「えぇ。でもお札の効力が薄らいだ上に、私がこの家に入り込んだから、トラブタが強引に侵入してきたってところね。」
八坂の膝の上で仰向けに寝そべり、腹を見せている白虎は、天寿院の売り言葉には、反応しなかった。
少し物足り無い感では有ったが、天寿院はさっきの負い目があり、八坂の身も案じて、「今日はもう休みましょう。」と言いながら八坂の手を取り引っ張った。
「ありがとう。悪いけど、一葉ちゃんの言葉に甘えさせて貰うね」
「その方がいいわ。敵は判ったけど長引く事も考慮して、体は休められる時に休ませるようにしなくては……。あら?こんな所で寝ていいなんて言ってないのに――。」
すでに全ての生気を使い切った様子で、八坂は座ったまま、爆睡していた。
天寿院は白虎を抱えると、手印を結び呪文を唱えた。すると八坂の体が浮き始めた。
「今日は初対面だから、白虎も含めて特別よ。明日からは甘えさせないわよ。」
八坂は白虎を抱えた天寿院の後を、空中を彷徨いながら着いてくる。二人を布団に寝かせ、天寿院は居間の壊れて開け放たれた窓辺に座り、残った窓枠に体を預けた。
「あら?困ったわね。月が出ていないわ――。」
窓から見える夜空には、月の姿が見当たらなかった。しかし、月の代わりに幾千もの星ぼしが、東京の夜空を飾っていた。窓枠に頬杖を付きながら、星ぼしの瞬きを眺める天寿院の顔は、戦士の面影は無く、安堵の和らいだ、優しい少女の顔であった。