訪問者
「!」八坂は絶句した。
細く垂れた目を大きく見開き、呼吸をすることも忘れ、ただ目の前の老婆に見入った。もはや明日、考えるなどと言うような、悠長な事を言っていられる状況では無いことが、辛うじて理解できた。
どう対処するべきか、フル回転で案を練る八坂と対峙して、夢の中の老婆は、無言で八坂のつま先から頭のてっぺんに至るまで、細かに観察している。
困惑の中、とりあえず『タオルを取り腰に巻く』、という答えに辿り着いた八坂は、タオルへ手を伸ばしかけた。
「やはり、ぬしにはわしが見えるようだな」
観察が終わったのか、上下に動いていた視線を八坂の視点に合わせ、老婆が訊いた。
「は……はい。そのようで……。巫女さんの衣装が、良くお似合いで……すよ。」
八坂はやっとの思いで答えた。
「そう驚いていないようじゃが?」
「とっ、とんでもございません。お陰さまで充分驚いております。」
「その割には、悲鳴を聞けなんだ」老婆が冷ややかな目で睨む。
「ぎぇー」
口先だけの驚きの声を上げた。決して恐怖といった感情の伴わない、乾いた台詞のような悲鳴であった。
「情け、かい?」
「いいえ。決してそのような事はございません。」
老婆はわざと怯えた風を装う八坂を見て、心と頭の中を読んだ。が、何故か読み取れなかった。
(ただの虚けか――)
八坂を見定める為か、老婆は話しを続ける。
「まぁええ」
風呂桶を入れても、畳一枚半ほどしか無い狭い風呂場の中で、二人は向き合ったままでいた。
「あ、あのぅ」
「なんじゃ?」
「ちょっと冷えてきたので、もう一度シャワーなど浴びてもよろしいでしょうか?」
「別に構わんが……。それよりも、わしに聞きたい事があるのではないのか?」
「はぁ。でもまずはシャワーを優先したいので」
言葉が終わる前に、八坂は老婆へ背中を向けて、シャワーの蛇口を開け、さっきと同じ熱めのシャワーを浴び始めた。
(ふぅー。やはり虚けであったか)
老婆は深い溜息を吐いた。
「目の前のものから逃げる性格は、今後の為にもならん。早急に直してもらうからのぅ」
大声で言ったつもりだったが、八坂には聴こえていないようであった。仕方無く老婆は、八坂のシャワーが終わるまで待つことにした。
蛇口が閉まり、狭い風呂場に再び静けさが戻った。
「それで、わしに聞きたい事はまとまったかのぅ?」
シャワーで温まった体を、タオルで拭き始めた八坂は問われ、タオルを腰に巻くと、「そうですね……」
少し考えた振りを見せ、「僕が今、一番気がかりなのは、あなたが一体いつ帰るのか。といった事ですかね。」そう老婆へ返した。
「!」今度は老婆が絶句した。
絶句しながら、老婆の全身がワナワナと震え出したが、そんな事はお構い無しに続けた。
「明日は、待ちに待ったナナちゃんのコンサートへ行くので、早く帰って頂きたいですね。」
「バカモノ!」
老婆の怒りは、その一言で極限の値を一気に飛び越えた。
「ぬしの様な者はこうじゃ!」
老婆は自分の口元に右手の人差し指を立て、小さな声で呪文を唱えた。
「うっ!いっ!痛てぇ!」
八坂は股間を抑え苦しみ始めた。狭い洗い場の床に倒れこみ、体をふたつに曲げ、息も絶え絶えに、もがき苦しんでいる。
(こやつは、保憲様が思われている様な器の持ち主では無い。生かして置けば必ず未練が残る。今ここで滅っするべきじゃ)
老婆は自分の足元に、全裸でもがく八坂を見下しながら決断した。
「婆さんの仕業か!僕の……大事なモノが……使う前に……」
「この戯けが!この期におよんで、まだそのような猥事を言うか!」
「こんな卑劣な事をする……婆さんに……説教なんて……」
「救う余地は無いようじゃ。もう……仕舞いにするかのぅ。」
老婆が口元の右手に左手を合わせると、両手の指を組み始めた。
『天寿院、何をする気じゃ』
「そのお声は保憲様!」
間一髪『保憲』と呼ばれる声が、老婆の頭の中で響いた。そしてその声は、老婆の五体の自由を奪い、八坂を救った。
『その者は、『逸した煩悩』を取り戻せし者。それを守護するのが天寿院の役目のはず』
「良くわかっております。しかしこやつに、保憲様の命を遂行できるとは思えず、判断いたしましたゆえ。それに今後こやつに、変な期待など待たぬ様、今ここで滅した方が良いと――。」
『成らぬ。天寿院ともあろう者が、見かけに騙されるとは』
「騙される?私がですか?」
『暫くその者を観るが良い。それから、裁断を下しても遅くはなかろう』
「しかし……すでに数ヶ月も前より幻夢を見させて、首尾は万端と――」
『天寿院を見、天寿院と会話のできる人間が、何人おるのか?』
「……」
『天寿院よ、頼むぞ――。』
保憲の声が消え、体に自由が戻った。足元に転がっている八坂へ、「ぬしは救われたな。」
口元から組んだ指を外して呪式を解いた。
「保憲様の命ゆえに、暫く生かして置く。しかし、このまま戯けが続く様であれば、ぬしと刺し違えるからのぅ」
「まったく酷い話だ。いきなり僕の股間を鷲掴みにするなんて……」
股間の激痛から開放された八坂は、老婆の話しには答えずに、まだ疼く股間を抑えながら苦情を吐いた。
「別に股間を狙った訳では無い。頭を締め上げる術を放ったのだが、ぬしの思考が変わっているため、股間に効いただけのことじゃ」
「へぇ。僕の頭は『股間』にあるのかい?まったく変な事を言う婆さんだよ。」
八坂は老婆へ背を向け、股間の逸物に外見的損傷が無い事を確認した。
「ところで、あんた誰?」
「やっと本筋を聞いてきたか。わしは、平安中期に都を守護された、陰陽家の総頭であられる。加茂保憲様の式神じゃ。名を天寿院と申す。」
「陰陽家だか式神だか知りませんが、近所には介護ホームは無いから紹介も出来ないけど――」
「ぬしはわしの話しを聞いておったのか!」
天寿院は自分だけでは無く、主人の保憲までを侮辱され、間髪入れずに問い正した。
「聞いてますよ!式神様でしょ――。確かデイサービスなら近くに有ったな……。」
「本にぬしは懲りぬ奴じゃのぅ」
天寿院が右手の人差し指を口元に運んだ。それを見た八坂は慌てて天寿院の腕を取った。
「何をする!」
「何を、って。こっちの台詞でしょ!また股間を締め付けられては、本当に使えなくなっちまう」
「なら、わしの話しを聞け!」
「あのね。僕の話しも聞いていただけますかね?明日は朝から忙しいの!判ります?だから貴方には出て行って欲しいのですよ!」
天寿院はつかまれた腕を通じ、再び八坂の心と頭を覗き込んだ。今度は天寿院への警戒が薄れ、八坂の心に隙が生まれて、思考が読み取れた。
(こやつ、わしが見えるだけでは無く、わしの腕を掴みよった。保憲様の言われた通り、わしを謀ったか……。仕方無いのぅ。不純じゃが、こやつを滅するわけにもいかぬ。あまり気は進まぬが――)
「それにね。夜中に人が入っている風呂場へ黙って入って来る事……自体……が……」
老婆に起きている只ならぬ事態に気が付き、身を退いた。
「ちょっと。婆さん……。いや、おばさん……では無くて、お姉さん?いいや、お嬢ちゃん?」
見た目、百歳とも思えた老婆が、四十歳代の婦人になり、二十歳の若い女性になった。その後も若返り、最終的には十二、三歳の少女に変わり落ち着いた。
「あなたの希望に合わせたら少女なったわ。」
今までは老婆であったため、気にせずに接していたが、相手が中学生程の少女となると、話はまるっきり変わってくる。八坂は急いでタオルを拾って、股間を隠すとやっとの思いで訊いた。
「き、君はだれ?」
「やっぱり――。貴方には老婆の格好よりも、この姿の方が接しやすくて良いようね」
天寿院は八坂の関心を得てひと安心した。
「接する?ちょ、ちょっと待ってくれないか?僕は君に触れてはいないよ」
そう言いながらバンザイをした。当然、無情にもタオルは床に落ちた。慌てて落ちたタオルを、再び拾おうと屈んだ時に、背後の壁に尻が当った。体は本人の意思に反して、濡れた床で足を取られ、少女へ大股を開いた格好で、無様に尻餅を突いた。
「あら、はしたない。」
少女は醒めた目で八坂を見て、薄く笑みを浮かべ言った。
八坂はなんとかタオルを掴むと立ち上がり、腰に巻き両手でしっかり抑え、何事も無かった風を装い体勢を整えた。
「き、君みたいな若い……いや、若過ぎる娘が、夜中の、独身男性が入っている風呂場になんか、入って来るのは良くないな。」
老婆へ言い掛けた台詞をアレンジして、目の前の少女へ告げた。
「あらそう?さっきまで全然気にしなかったじゃない。それに貴方の裸ならもう見飽きたわ」
「なっ!なんてはしたない事を言うの!由々しき問題だよ」
「少女に大股開いて変な物見せて、挙句、こんな狭い個室に二人きりでいる現状が、私には由々しき問題だと思うけど?」
少女に言われ、第三者に見られたら、何の言い訳も効かない、今のこの状況に正直焦った。
「そうだ!今のこの状況が問題だ!早くここから出なければ――。君がそこにいると、僕はここから出られない。悪いけど、ちょっと下がってくれないか?」
「仕方ないわね。着替えが済むまで、向こうで待っているわ」
少女はクルっと回ると、風呂場を出て廊下へと消えた。
「ありがとう!すぐに着替えるから、そこで待っていて」
八坂はそう言い残し、脱衣場の引き戸を閉めた。
ものの数分で濡れた体を拭き、新しい下着とパジャマに着替えて、意気揚揚と廊下へ出たが、そこに少女の姿はなかった。
「君。何処にいるの?」
左右に首を大きく振り、広くも無い我が家の中を大声で呼んだ。
「私ならここよ」台所の方から返事が聞こえた。
八坂が台所へ行くと、少女は食卓用の椅子に正座をして待っていた。
「もう帰ってしまったかと……。心配したよ。」
冷蔵庫から冷えた缶ビールと、瓶のオレンジジュースを出しながら言った。
「あら。さっきは誰かのコンサートへ行くから、早く帰れと言っていた筈よね?」
「それはあの婆さんへ言った事で、君に言った訳じゃないさ。」
栓を抜きジュースを少女の前に置いてから、自分用の缶ビールを開けた。
「貴方、私を見ていたでしょ?」
「勿論。白い着物に赤い袴。巫女さんの服装がとても似合っているよ」
やらしく取られそうな言葉を、大真面目に答えると、喉を鳴らしながらビールを半分ほど飲んだ。
「お褒めの言葉は有り難く頂戴しておくわ。でも私が言っているのは、老婆=(イコール)私って事。」
「そんな事は有り得ない。君は君であの婆さんは婆さんだよ」
「でも貴方の目の前で、老婆からこの姿になったじゃない」
「僕は、君と婆さんが入れ替わった。と記憶しているけど」
「あら随分と都合の良い記憶ね。貴方、やっぱり少女好きの変体じゃない?」
「とんでもない!僕はちゃんとした中年男だよ。」
八坂は胸を張って言い切った。
「あらそう?五十近くにもなって結婚もしていない。単なる少女好きな、変体オタクかと思ったわ。」
少女は出されたジュースには手を付けず、八坂をまっすぐ見て厭味を言い放った。
「酷いなぁ。君は僕を誤解しているよ。僕はこれでも、亡くなった母と叔母の言い付けを、真面目に守って生きている積りだよ。」
「あらそうなの。どんな言い付けかしら?」
「そうだな――。第一に人を無闇に信じてはいけない。特に愛想良く近付いてくる女性は疑ってかかれ!」
そう言ってから残りのビールを飲み干した。
「私もあなたに近付く女よ?」
「君の場合は、正直『愛想良く』って所が欠けている。それに、怪しそうには見えないよ」
「そう?色々な面で十分怪しいと思うけど……」
少女は左手の小指で、耳に掛かる髪をすくい上げながら、わざと醒めた言い方をした。
「そんな、自分を揶揄する言い方は良くないな」
八坂の目は真剣であった。
「私は人間じゃないのよ」
「今、言ったばかりじゃないか、そんな……事を……」
少女の顔を見ていて話しが途切れた。
「ひょっとして……。君は一葉ちゃんじゃない?」
少女は自分が式神だと言う事を、未だに理解できず、突飛な事を言い出した八坂を睨み付けた。
「賭けてもいい。絶対、一葉ちゃんだよ!」
睨む少女の顔を見て、八坂は確信し断言した。
「随分と古風なナンパね。子供だからってバカにしているの?」
「そんな事は無いさ」
八坂は思い出や記憶という名の引出しを、ひとつひとつ開けて一葉を探し始めた。
式神とはいえども、長い時間、熱い視線で見つめられると、それなりに意識してしまう。間が持てず天寿院は口を開いた。
「私は今日初めてあなたに会ったのよ。いい加減に理解しなさいよ!」
最後の方の言葉は、口調がきつく大声になった。しかし、八坂は自分の『思い出す』という作業に没頭していて、その言葉は届かずに、食卓の上に有る空間と同化した。
「思い出した。ちょっと待っていて」
手をポンと打つと、台所を出て隣の居間へ行った。
「まったく!少しは人の話しを聞いたらどうなの!」
何かを探しているのだろう、引出しや扉を開け閉めする音が聞こえてくる。大声で言った言葉に返事が無いので、天寿院は少し気になり、食卓の上に両手を突き、身を乗り出して居間の方を覗いた。
「あった!ありましたよ」
八坂が戻ってくる気配を感じ、天寿院は慌てて椅子の上に正座をしなおした。
全体がクリーム色で、蓋に薄茶色の花の絵が描かれた、四角い缶を手に戻ってくると、「この中に、君が一葉ちゃんだと言う証拠があるよ」
そう言いながら八坂は、食卓の上に持ってきた缶を置いた。
蓋には『そばぼうろ』と書かれてある。花柄に見えたのは商品のお菓子の絵であった。
天寿院が缶の蓋に気を取られているうちに、八坂は鼻歌混じりに缶の中身をあさり始めていた。
缶の中には、写真やら手紙の類が、缶の淵まで乱雑に入っていた。八坂はそれらを、ひとつひとつ取り出して確認した。
「いくら探しても、私はそこには居ないのよ。いい加減に理解して。私の話しを真面目に聞いてちょうだい。」
式神らしくなく、相手のペースに入ってしまっていることに、天寿院は苛立っていた。
「あったよ。」嬉しそうに、一枚の写真を食卓の上へ置いた。
「!」
出された写真を見て、天寿院は驚きを顕にした。
「ね。僕の言った通りでしょ」
驚いた天寿院の顔を見て得意気に言う。
「ま……まさか。ここまで酷似しているなんて……」
「えっ?これは君でしょ?」
「そんな事は有り得ないわよ。この写真相当古い物よ」
出された白黒の写真を手に取り裏を見た。
『尾上一葉 十一歳』と万年筆の青いインクで書かれてあった。
「この古さで十一歳とすると、今はあなたと同じで五十近い、結構な歳になるわね?」
「そうだけど……。君は、『神隠し』に遭った当時のままでいられたって事じゃないの」
「神隠し?」
「そうだよ。この写真を撮ったあと、君は神隠しにあった……」
八坂は当時の事を思い出し、悲しい面持ちで古い写真を見ていた。
「まだ見付かっていないのね」
「いいや。三十六年振りに、昔のままの姿で、僕の目の前に突然現れた。」
先程見せた悲しい面持ちなど微塵も無い、満面な笑みを天寿院へ向けた。
「だから、私は違うって言っているでしょ!」
「君がそう思うのは、神隠しの里で、記憶を操作されたからだよ」
「神隠しの里?」
「今、僕が勝手に付けた名前だけど」
「まったく!里でも国でもどちらでも構わないけど、私が別人だってことを理解できないなんて――。本当に頭の悪い男ね!」
「君こそ、いい加減に本当の自分を、思い出すべきだと思うけど?」
「……」
天寿院は純粋馬鹿な八坂を、説得させる自信が持てなかった。しかし、そんな天寿院を気にする事無く、八坂の話しは勝手に進む。
「一葉ちゃんが言う通り、君は僕よりひとつ下だったから、今は四十七歳になるけど、神隠しの里では歳は取らない。だからその当時のままの、年齢と姿で現れた――」
「姿って?彼女も、私と同じ巫女の格好だったの?」
「そうだよ。だって一葉ちゃんの家は、神社だったじゃない。」
「えっ」
「やっぱり昔の記憶が無いようだね。一葉ちゃんの家は、この近所にあった神社だよ。」
八坂は子供の頃を思い出しながら語り始めた。
「一葉ちゃんのお父さんは、古くから浅草にある神社の宮司さんで、確かお母さんは、京都で刀鍛冶をしていた人の、一人娘だったと聞いた気がするけど」
「宮司と刀鍛冶……ね。ところで、その神社はここから近いの?」
「近くには近くだったけど……」
「その口振りだと、今は無さそうね?」
「うん。一葉ちゃんには残念な話だけど、君の家は不運が続いてね、君が神隠しに遭った翌月には、燃えて無くなってしまった……」
「火事?」
「うん。母は不審火って言っていた」
「不審火って、放火なの?それに、続いたってどう言う事?」
「放火かどうかはわからない――。でも、不運は君が消えてから始まった。神隠しから一週間も経たないうちに、君のお母さんが、境内で獣に襲われて亡くなった」
「獣?」
「野犬に襲われたと、警察は発表したらしいけど、発見した人の話しでは、熊みたいな大きな動物に襲われたとか――」
「東京の街中に熊は無いわよね。でも、どうして熊なの?」
「君のお母さんの頭が拉げていた上に、首の付け根――。つまり左鎖骨当りが、大きく食い千切られていたらしいんだ。」
八坂は右手で、自分の左側の鎖骨から、首の付け根の辺りを、肩を揉むような仕草で掴んだ。
「惨いわね」
「惨いって?一葉ちゃんのお母さんの事だよ。よくそんなに冷静でいられるね。」
「だから私じゃないって言っているでしょ!」
「わかった。きみの洗脳は完璧らしい。君の記憶が戻るまでは、僕が一緒に居てあげるよ」
「……あら、すごく嬉しいわ」
天寿院は半ば自棄気味に言った。
「喜んで貰えるなんて光栄だな」
「あなたって、本当に人の気持ちが判らない、とっても素敵な人ね」
「え?それって誉められているのかな?」
天寿院は、保憲が残した、『この男を良く見ろ』と言う言葉が、恨めしくなってきた。
保憲の命令が遂行できるまで、この一方通行男と一緒にいることになる。特に主の命の重要さと難しさから、何年掛かるか判断が出来ない命を、天寿院はその間ずっと、この男と生活を共にし、場合に寄っては守りながら、敵と戦う事になる。不安で一杯なこの先を考えると、式神なのに何故か胃の辺りが痛んだ。
「お腹、痛いのかい?」
「どうして、そう思うの?」
思わず『お前の所為だ』、と喉元まで出掛かったが、何とか堪えた。
「手がお腹を抑えた様に見えたからだけど……違ったかな?」
自分が無意識の内にした一瞬の動作を、逃さず観ていた八坂の洞察力に、天寿院は驚かされた。
「たいしたものね。その優しさを普通の女性に向けたら、その歳で独身なんて事にはなってなかったのに」
八坂へ今言える最大級の厭味で返した。
「僕は――。君を待っていた気がする」
「やっぱりただの、少女好きな変体だったようね」
八坂の意外な返事を、袈裟切りで、一刀両断にした気分であった。
「違うよ。誤解しないでくれないか」
「それじゃ、どういう事か、説明してもらえるかしら?」
「勿論。ただその前に、外に来ている『お客さん』の相手が先のようだ。」
八坂の言葉で、天寿院は初めて妖気に気が付いた。今まで馬鹿にしていた八坂に先を越され、屈辱感は有ったが、天寿院は素早く戦闘体制を整えながら訊いた。
「どうして?」
「この変な感じが、この頃頻繁にやって来るけど、一葉ちゃんにも判るの?」
「頻繁に?」
天寿院は左手で懐から数珠を取り出し、右手の人差し指を口元に立てて呪文を唱え始めた。
「うん。六個位かな、感じは微妙に全部違っていてね。入れ替わり立ち代りに玄関先まで来ては、暫く居座って帰って行く。」
「玄関先?何かあるの?」
「表札と郵便受けくらいかな?」
「気配が裏に回ったわ、入って来るかも!私の後ろに隠れていて!」
「冗談じゃ無いよ!子供の君の陰に隠れるなんて、出来るわけがないでしょ!君こそ、僕の後ろに隠れていなさい!」
居間の雨戸が、何かの振動を受けて震え、ガタガタと音を立てた。
「いつも玄関で帰るのに、どうして今日は家の中へ入ろうとするのかな?」
「多分、私の所為ね。」
「君の?」
「式神と言っても、保憲様の呪力の塊だもの。他の魔物に先を越されたと勘違いしているのよ。」
「来る!」
二人が同時に声を発した。
大きな音と共に雨戸と窓ガラスが散った。
八坂は暗い居間の向こう側にある、深い闇の入口から何者かが入って来たのを感じた。
「一葉ちゃん早く僕の後ろに!」
「私は貴方を守る為に、この時代に送られて来たのよ!普通の人間では到底敵う相手じゃないの!だから貴方が下がっていて!」
そう言った時、天寿院は八坂の額に勾玉の形をした光が、ぼんやりと浮かんでいるのに気が付いた。
「まさか、あなたは本当に、『逸した煩悩を取り戻せし者』なの?」
「何それ?僕は僕さ。ただの臆病な中年男で、そんな大層な人間ではないよ。」
ゆっくりと獣の唸り声が間合いを詰め近付いてくる。天寿院は呪珠を暗闇の居間へ向けて飛ばした。閃光が暗い居間の中を走った瞬間、獣の唸り声が苦しむ声に変わった。
「当ったようね!」
「いや、トラップだ!本体はうしろだ!」
八坂の声で天寿院は慌てて振り返った。目の前に体長二メートルほどの『妖猫』が、獲物を狩ろうと身を低く保っていた。
天寿院は急ぎ呪文を唱え、呪力を貯め始めた。が、妖猫の攻撃の方が一瞬早く、カミソリの様な鋭い爪が、天寿院目掛けて振り下ろされた。
天寿院は『殺られた』と思った瞬間、飛ばされたのは妖猫の方であった。
「これは――結界?」
八坂の額に、勾玉の形の光がはっきりと輝き、その光が結界となって二人を包み守っていた。
「これがあなたの呪力なの?」
「何と無く、君の真似をしてやってみたらできたけど、実際にできると自分でも驚くね。」
八坂は両手を組み合わせ『手印』を結んでいた。
「初めてでそれだけ使えれば立派よ。これが済んだら、百八の手印を書いて渡すわ。全部覚えてよ」
「そんんなに有るの?昔から勉強は苦手でね」
「見ただけでできるのよ。あなたならすぐよ。」
「何か君に誉められると股間が疼くな。」
「見直し掛けたけど、あなたってやっぱり下品!」
「ただ、和まそうとして言っただけだよ」
「この状況で和む必要は無いと思うけど?」
「それもそうか。ではどうする?」
「何故か今日に限って、呪力を貯めるのに時間が掛かるの。仕留めるには、まだもう少し掛かりそうだわ」
「あと少し弱ってくれると、完全に動きを止められるかもしれないけど……」
「わかったわ。弱らすくらいなら――」
天寿院の右手から光が飛び妖猫に命中すると、妖猫は畳の上に倒れ込んだ。それを見て今度は八坂が妖猫に、直接手で触れ別の結界を張って、妖猫の動きを完全に封じた。