再会の予感
青い空に浮かぶ不動の白い雲、いくら進んでも不変の景色。妖孤が羽ばたき、風を切る音以外、何も聞こえない無音の世界が続く。
それでも三人はその苦痛に耐え、残りの仲間を探して進むしかなかった。
「……」
「どうしたんだい?」
妖孤が時より、左右に顔を振りだしたのに気付き、声を掛けた。
「上手く言えぬが、心の奥の方で何かがざわつくのだ」
「少し休もう」妖孤の言葉が気になり、眼下の草原へ降りるように言った。
固まった体を解しながら、「まだ、ざわつくかい?」と妖孤へ訊いた。
「あぁ。何か、この世界に有ってはならない感情を、僅かに感じた」
「随分と難しい表現ですね。」
幾分か背伸びをして朱雀が答えた。
「有ってはいけない感情って?」
「怒りは私が持ち込みましたよ」少し自慢げに言った。
「『諍い』って言うのか――。」
「争いではなく?」
「それほど大きな感情では無いように思う」
「諍いって事は二人以上居るってことでしょ。さっきの妖孤の話では、会いたくなければ、存在する空間が違うのだから、諍いや争いは回避できるよね。」
「それでも、敢えて同じ空間に居て、意見が衝突しているのだ。」
妖孤は答えながらも、目を閉じ感情を求めて集中していた。
「ひょっとして、私達の仲間ではないでしょうか?」
「十分にあり得るね。妖孤どっちか分かるのかい?」
捜索の邪魔をしない様に、声を抑えて訊いた。
「そう遠くは無いと思う。だが、時より見失うほど非常に弱いな。」
「私と同じ虫でしたら、すごく小さい感情かと……」
「どうだい?」
ある程度の方角を掴めたのか、目を開け「然程遠くは無い、行ってみいるか」と二人を振り返った。
二人は頷くと妖狐を先頭に、ゆっくりと歩き始めた。
ここへ来た当初は素晴らしいと思った景色も、今は味気のない退屈な風景でしかなかった。確かに、再生を静かに待つ通常の魂には最適なのだろうが、感情を持ち、目標を持ち、焦る気持ちさえ持っている八坂達にとっては、移動している実感が得られず、動いている感覚さえ消えてしまうこの世界は、『苦痛』の世界そのものであった。
こうして草原を歩いていても、無音に支配される。三人の息遣いも、草を踏む音すらも無い。当然、三人が黙っていれば、、話し声も無いし、飛んでいなければ風を切る音も無い。耳が痛くなる程の『無音の世界』に耐えられず「本当に静かだな」と八坂が口を開いた。
「辟易といたしますね。」
朱雀も耐えかねていたのか、八坂の救いの一言に返事をした。
「向こうの世界だったら、鳥の鳴き声や川のせせらぎ、何処に居ても何かしらの音が聞こえていたな。」
「さようでございます。山奥でも、人の話し声を始めに、生活をしている様々な音が、聞こえ伝わってきておりました。」
妖狐が振り向き二人の話し声を無言で制した。八坂と朱雀は黙り、再び無音が三人を包んだ。
それからしばらくの間、無言のまま先を歩いていたが、唐突に妖狐は立ち止まり「あの丘の、上の辺りのようだ。」と二人へ伝えた。
「本当かい?」
そう言いながら八坂と朱雀も耳を澄ます。
「ここからでは、何も聴こえないな。」
「私と同じ虫でしたら、草の中だと思いますが」
言われて八坂は、「こうやって探すのかな」と草むらに四つん這いになった。その時虫が一匹、八坂の目の前に突然現れた。
「この!」
反射的に八坂は虫に手を振った。
「駄目で御座います!」
「なんて事を!」
朱雀と妖狐は同時に大声を張った。八坂は二人の大声と、無意識とはゆえ、やってはいけない事をしてしまった事の重大さに、驚き息を呑んで立ち竦んだ。
「どうしよう……」
「足元を探せ」
「踏まないように、ご注意を」
八坂は気を取り戻し恐る恐るしゃがみ足元を探した。すると裏向きにひっくり返って、足をバタつかせている虫を見付けた。
「大丈夫ですか?大変申し訳ない事をしてしまいました。何と言ってお詫びすれば――。」
「良いから起こしてください。」
虫はもがきながら答えた。慌てて八坂はひっくり返っていた虫を拾い上げ、掌に乗せた。
「ふー、助かった。私はひっくり返ると、自力で起きられないのです」
そう言いながら、一度羽を広げて仕舞い直している。赤い背中に黒い七星が見えた。
「怪我はしませんでしたか?」改めて八坂は尋ねた。
「ご安心ください。大丈夫です。先を急いでおりましたところ、突然、大きな物が現れたので、びっくりして落ちただけですので、気にしないでください。」
「先を急ぐとは、無いかありましたか?」
八坂の掌へ朱雀が移動しながら訊いた。
「実は、私には気の合う者がおりまして、その者達が仲違いを始めた様なので、仲介にと急いでおりました。」
八坂は妖狐を見た。妖狐は無言で頷いた。
「お詫びの代わりに、私達もご一緒させてください。」
「お気持ちは有り難いのですが……」
八坂の突然の申し出に、三人の顔を見回すと、見知った者ではないことに困惑して、最後まで言葉が続かなかった。
「私は朱雀ともうします。ここは同じ虫同士、助け合いましょう。ここにいる大きな者達は、私の連れで、怪しい者ではございません。貴方様が飛ぶよりは、この者達に連れて行かせた方が、早く着きましょう。」
「それもそうですが……」、とてんとう虫はまだ半信半疑でいる。
「そうですとも、ここでは、焦る者は先へは進めません。しかしながら、この大きな者達は、一歩の大きさが、桁外れに大きいのです。文字通り、大船に乗ったつもりで、行き先をおっしゃってください。」
「では、先を急ぎたいので、ご厄介になります。」
「お任せください。で、どちらへ行けばよろしいでしょうか?」
朱雀の話術に任せ、引いていた八坂が行き先を訊いた。てんとう虫は八坂を見上げながら「この先に小さな丘があります。その丘の外れに、私の連れ達がおります。」
八坂は言われた方を見た。先程、妖狐が言った丘であった。その外れには木々が青々と茂っている。
「あの木の辺りですか?」
八坂は一本、大きな楠木が見える辺りを指した。
てんとう虫は、「然様でございます。」と返事をした。
「では、参りましょう」
朱雀の言葉を合図に、八坂と妖狐は歩き出した。
「失礼ですが、貴方様のお名前は?」
こういう時に、社交的な朱雀が居てくれて助かった。八坂は目的地に着くまで、てんとう虫の相手を朱雀へ任せ、二人の話しを聞く役に徹した。
「私に名前はございません。」
「それでは、お連れ様方と一緒の時に、お呼びになるのが大変ではございませんか?」
「はぁ。実を申しますと、連れの中の一人が、勝手に名前を付けて呼ぶのです。」
「ほう。勝手にですか?」
「はい。私を青龍と呼んで、自分を白虎と言っております。」
三人は声を出しそうになるほど驚いた。
(白虎がいる。すぐ近くに白虎が……)
「それは困りましたね。その他には何と?」
「こちらの様な大きな人がおりますが、その人を天寿院と呼んでおります。」
「天寿院!それは本当ですか!」
堪えきれずに八坂が割って入った。てんとう虫は驚き、手足をたたみ本能的に防御の姿勢になった。しかし八坂は、「本当なのですか!」とさらに見境無しに畳み掛けた。
「おい、いい加減にしろ!落ち着かなければならない時に、取り乱すでなはい!」
すかさず妖狐が八坂を叱責した。
「ご、御免。でも、白虎に一葉までもそこにいるんだよ!」
「だから落ち着けといっている。ここでは記憶を持たない事が本当の姿だ。なのに、どうして白虎とやらは、記憶を持っているのだ?」
「それは、保憲が私と同じ苦しみを与える為に――。」
「そうではない、他の仲間だとどうして判るのか――。と言うことだ」
「確かにそうですね。私の場合は、生前の記憶が有って。何らお変わりの無い数珠様にお会いできたので、数珠様にお声掛けができましたが、妖狐の事は未だに誰か判りません。」
「それにだ、わしの様なうろ覚えでも、この世界の事を知っているのであれば、近しい魂だけが見え、集うことができると判るが、生前の記憶だけでは、身近におる者が全て、生前にわしと戦った仲間だと判るはずもあるまい。会って話しを聞いてみなければ判らんが、最悪は保憲の、手の者の策略かも知れんぞ。」
「ここは天国だよ。争いは厳禁で、相手を騙せば地獄へ落とされる世界だ。そんな危険な事は、保憲だってしないさ。だから急ごう」
八坂が本心を見失ったままなのを見て、妖狐は下を向き溜息と共に、首を左右に二・三度振った。
「朱雀よ、これがお前達の大将なのか?お前達が全滅したのも判るような気がする。」
八坂へ聞こえる様に、わざと大きな声で妖狐は言った。途端、八坂は硬直したかの様に、身動きひとつできなくなった。
「保憲がお前を騙すのではない。保憲の手下がお前を騙し、お前が地獄へ落ちる様に仕向けるのだ。それを基本に考えれば、お前の最大の弱点を突くのが、神との遊びを早く勝って終わらせる、確実な方法だ。だからこそ、どの様な事が起きても、お前は慎重に対処しなければならんのだ。それなのに名前を聞いただけで、何の疑いも無く、興奮した状態で合おうとするなど。言語道断!保憲と神の仕業を明白にできるのは、お前と七人の仲間、それに一葉を含んだ。保憲と神が選んだ駒だけなのだぞ。全てが揃わなければ成らなんのだ。生前と同じ轍を踏むような事が有ってはならぬのだ!」
「妖狐、ごめんよ――。そうだった。もう仲間を失う訳にはいかない。」
八坂は妖狐の叱咤を聞き、涙を流しながら寂しそうに言った。そして手の中のてんとう虫へ目を落とした。
「君にも謝らなければね。君を無闇に疑う事はいけない事だけど、今の僕はもっと慎重にならなければいけない。」
てんとう虫は手足を出し、八坂の顔を恐る恐る見上げた。
声を荒げた口には八重歯が見えた。横に広い鼻と涙で潤んだ鳶色の瞳に、意外と太く濃い眉毛。短く刈った前髪で剥き出たおでこ。そのおでこに微かに、ぼんやりと見える勾玉の光。
「おい、勾玉の光が浮き出ておるぞ」
妖狐が言った。
微かな光はやがてはっきりとして、八坂の周りを照らした。
「僕は意識して出ていないのに」
八坂自身も驚いた。
「この光は浄化の光だと言っていたな。」
「え?そうだよ。ヒーローには必殺技が必要だし、業には名前も重用だと思って、白虎が現れた時に、僕が咄嗟に着けた名前だけどね。」
「そうだったのですか?光は良く判りませんが、実に素晴らしい命名でございます。」
「わしは、この光を始めて見た時、何かを思い出せそうだった。今も持てる記憶の中の、もっと奥の方にある何かが開きそうなのだが――。」
「慌てることは無いさ、皆が集まるまで時間はある」
「でも、再会は突然にございますぅ」
今まで黙っていたてんとう虫が言った。
「その口癖!」八坂はてんとう虫を懐かしそうに見つめた。
「記憶が……。生前の記憶が蘇って参りましたぁ――。数珠様。」
「お帰り。君に――。玄武に会えて本当に良かった。」
「そのお言葉、私も大変嬉しゅうございますぅ」
「そして、御免ね。君達を守れず、命を亡くしてしまった。」
「とんでもございません。私こそ、数珠様だけではなく、天寿院までもお守りできずに、申し訳御座いませんでしたぁ」
光は段々と小さくなり、やがて八坂の額に消えた。
一息着いたところで、「白虎と天寿院殿がおられるとか?」と朱雀が玄武へ訊いた。
「それが、定かではないのですぅ。私は白虎が言うので皆の前では『青龍』という名を使っていたのですがぁ、今思うと、私が知っている生前の白虎とは、少し違うように感じますぅ」
「皆って言うのは、一葉と白虎のことかい?」
「他にも、『玄武』と呼ばれております蝶と二頭の山羊を『阿形』『吽形』と呼んでおりましたぁ」
「凄いな、皆揃っているのか……。」
八坂が呟く。
「して、白虎の容姿は?」と妖狐が訊いた。
「白い猫ですぅ」
妖狐を怪訝そうに見ながら答えた。
「怪しいな」
三人が声を合わせた。
朱雀が玄武の感情を汲み、「この白馬は妖狐です」と告げた。
途端、玄武から怒りが込み上げて来るのを感じ取り、「妖狐は僕達の仲間だよ。本当の敵は他にいるんだ。」と八坂が玄武の怒りを抑えようと続けた。
「どう言う事でしょうかぁ?」
当然の疑問を八坂へ向け、朱雀へ同意を求めた。
玄武が『妖狐』と訊いた瞬間に、天寿院を食い千切った時の一幕が蘇った。あの、恐怖を覚えた容姿と、絶大なる力、一瞬でも、それに怯えた自分が許せなかった。それゆえに激情して憤死した自分と、それをさせた者。対峙して一層、八坂と朱雀が一緒にいる事に疑問を深めた。
八坂が朱雀から訊いた話しを伝えても、玄武自身の恐怖と怒りを抑える事は難しかった。
もしてんとう虫の姿では無く、生前の玄武の姿で、妖狐へ一矢浴びせる事ができたのならば、八坂の声が容易に届いたのかも知れないが、今は玄武の込み上げる憤りを、八坂は止める術を見付ける事ができない。
見かねてか黙っていた妖狐が口を開いた。
「もし、わしが本当に妖狐だと判ったのら、お前達皆でわしを討てば良い。だが今は、真実を知るために、八坂に協力して欲しい。ここで諍いを起こせば、わしかお前が地獄へ落ち、誰も真実を知る事無く全てが封印される。」
妖狐の目に濁りを見出せず、玄武は躊躇していた。
「玄武お願いだ。もう一度僕に力を貸して欲しい!」
八坂が続く。
「貴方が本物の妖狐では無い可能性は、あるのでしょうかぁ?」
「現状ではまず無いだろう、わしは恐らく本物の妖狐だと思う。」
玄武から目を逸らさず、はっきりと答えた。
「それでも、数珠様や朱雀は、仲間と認めているのでしょうかぁ?」
二人は頷き肯定した。
「割り切る事ができる男の人って得ですぅ。白虎達も許せるのでしょうかぁ?」
「判らない。でも判って貰えるまで、僕は説得するつもりだよ。でなければ、真実を知る事ができない。事はもう、僕達だけの小さな問題ではなく、地球上の生命の真意そのものに関る事だ。そのことを知っている僕達は、真相を明らかにしなくてはならない宿命にあると思う。」
「判りましたぁ。天寿院がそう簡単に納得するとは思えませんがぁ、数珠様の御意に従いますぅ」
「ありがとう。できたら、一葉を説得する時、近くにいてくれないかな」
八坂の脳裏に一葉の顔が浮かんだ。
「天寿院に臆したか」
「ははは。まさか――」八坂は笑って誤魔化すと、「さて、白虎の所へ行ってみようか」と話題を変えた。




