第三話
呂布が河北入りする直前、袁紹軍内では規模で言えばごく些細な、しかし影響力で言えば一国を割るほどの大きな問題が起きていた。
「今この時の急務は、河北の統一でも公孫瓚の討伐でも、まして近隣の賊討伐ではなく、長安に攻め入り皇帝陛下を救出する事です。これこそが国士の鑑たる名門の中の名門、袁家を代表する袁紹様の最優先すべき事。それ以外は瑣末な問題です」
そう主張するのは、袁紹から高く評価されながら家臣ではなく食客として招かれている人物、荀彧文若である。
長身痩躯で色白な事から誰の目にも文官であると一目でわかる体格ではあるが、それは決して貧相ではなく、目鼻立ちの整った涼しげな風貌は見る者を魅了する男である。
「ここから長安までは遠い。その間、この河北を留守にすると、荀彧先生は言われるのか? その深慮遠謀、凡俗な私にはいささか理解しがたいのですが」
荀彧の主張に対して口を挟んできたのは、逢紀だった。
この逢紀は袁紹とは古い付き合いであり、袁紹と歳は変わらないものの袁紹軍においては最古参の一人でもある。
優秀な人材の揃う袁紹の家臣団の中にあっても、五指に入るほど極めて高い能力を持つ人物ではあるのだが、とにかく自己主張が強く自分の言う事が正しいと言って譲らない人物でもあった。
「現在の河北は袁紹将軍と言う強大無比なお方がいて、初めて一枚岩となる事が出来ているような不安定な状況。荀彧先生の物言いは、平地に乱を起こすが如き事。とても王佐の才と謳われる先生の献策とは思えませんな」
逢紀は挑発する様に言う。
しかし荀彧は逢紀には一瞥をくれただけで、最初から逢紀など相手にしていないと言うように袁紹の方を見る。
「袁紹様、袁家は何故に名門と言われるのですか? それは漢と言う国の中で重責を担うべき能力を持つ人物を多く輩出したからにほかならないでしょう。袁家の人間に優れた者が多い事など、子供でも知っています。ですが、漢を見限ってなおその名声は保ち得るでしょうか? 今、この漢の窮地を救ってこその名門袁家ではありませんか?」
「夢物語ですな」
そう断じたのは、郭図である。
家臣団の中にあっては中堅辺りにいた人物だったが、最近になって頭角を現し始め、その発言力や影響力も日増しに大きくなっていっている注目株の一人でもあった。
「荀彧先生、長安までどれほどの距離があるか考えましたか? 洛陽は焼かれ、長安近隣からは董卓やその配下の者達が略奪の限りを尽くし、まともな補給も期待出来ない状態。そんなところへ遠征など、正気の沙汰とは思えません」
「董卓の圧政に苦しむ漢の民を救う為の戦いであり、その旗印として立ち上がるのが袁紹様であれば、これまで董卓の影響下で重税に喘ぎ、無実の罪で都を追われた商人達はこぞって袁紹様の元へ集まる事でしょう。苦しむ民を救う。その分かりやすい図式に、何の疑問がありましょうか。仮にこの河北を空にして全軍を持って長安に向かったとしても、この河北を攻めるは火事場泥棒とみなされ天下の笑い者となり、また天下万民の救済と言う王道を歩むのであれば、援助の声も憚るものは無し。今、この時にこそ立ち上がるべきです」
荀彧は一歩も譲らず、袁紹に主張する。
普段は冷静で感情を表に出す事の少ない荀彧にしては、この時は珍しく感情的になっているのが見ていてわかるほどだった。
「田豊はどう思う?」
袁紹は別の男に振る。
田豊と言う人物は元韓馥の軍師で、袁紹軍への参軍で考えればさほど長く在籍しているわけではなく、袁紹の旗揚げの時から付き従う逢紀や、黄巾の乱の時から加入している審配などと比べると新参と言ってもいいほどだった。
しかし、この場における最年長の人物であり、その軍師としての実力は食客として招かれている荀彧と比べても遜色ないほどである。
が、物言いが柔らかい荀彧に対して田豊は強情で感情的なところもある為、時々袁紹とは噛み合わない事もあった。
「荀彧先生が清廉の士である事は、十分によく分かる。言っている事も道理。だが、やはり長安は遠い。それは郭図の指摘した通りの事。まして我らの背後には公孫瓚がいる。皇族の劉虞さえも手にかける野心の男。例え我らが皇帝陛下の為に動いたとしても、公孫瓚であれば留守を襲いかねない。今の公孫瓚には、比類無き武人と称される関羽と張飛もいるのだから、洛陽より近くであればともかく、長安までの遠征は些か危険に過ぎるのでは、と儂は思う。悪く思われるな、荀彧先生」
田豊の言葉に荀彧は食い下がろうとしたが、深くため息をつくと肩を落とした。
「袁紹様。私は貴方が韓馥氏を騙し冀州を奪い取った事を責めたりしません。それは漢の為であったと、私自身を納得させる事が出来たからです。皇族であった劉虞様を見殺しにした事にも、あえて目を瞑りましょう。ですが、現皇帝陛下の窮地を知りつつ救う為に動かない事は、名門の中の名門と謳われる袁家にとってどの様な理由も通らない不忠。天下に二心有りと疑われる事になります。どうか、漢への忠義を忘れないで下さい」
「荀彧先生、既に漢王朝の命脈は尽きています。『蒼天既に死す』と言われ、十年近くが経とうとしていますから、天下万民は新たな天下を望んでおられるのですよ?」
逢紀と同じく旗揚げの時から袁紹に付き従っている許攸が嘲る様に言うのを、荀彧は睨みつける。
細身の優男と言う見た目の荀彧であったが、その迫力は真剣の刃先を向けられているかの様な鋭さがあった。
「あの董卓が何故自身の国を立てず、漢の相国で有り続けたか。それは漢の命脈が尽きていないと、機を見るに敏な董卓がそう判断したからです。もし名門の袁家であったとしても、今、新国家を樹立して皇帝を名乗ろうものなら、その支持は得られず、むしろ漢全土の敵とみなされましょう。くれぐれも佞臣の甘言に騙されませんよう」
荀彧はそう言うと、再び深く息をついて首を振る。
「今までお世話になっておきながら、大した働きも出来ずに申し訳ありませんが、もはや私は必要無いでしょう。これだけの見識をお持ちの方々に支えられているのですから。袁紹様、よく臣下の言に耳を傾け、正しい決断を」
そう言うと荀彧は、袁紹軍の軍師の会議から出て行く。
それは即ち、袁紹軍を去ると言う事である。
「お、お待ち下さい、荀彧先生」
それを慌てて引き留めようとしたのは、田豊の一番弟子と目される沮授であった。
「この先袁紹殿の繁栄には、必ず荀彧先生の手腕が必要になります。今回の事、荀彧先生の言われる事はごもっともなれど、我ら軍師は危険に対処するのも役割の一つ。今回は田豊、郭図の両名が危険だと判断した以上、それらに備える事も我らの役割のはず。その備えが十分に済んでから皇帝陛下救出の兵を挙げてはいかがですか?」
「そう思うのであれば、それで構いません。ここにおられる方々は皆素晴らしい能力を備えた実力者ばかり。私一人いなくなったところで、さしたる問題はありませんよ」
荀彧は沮授に向かって答えた後、振り返る事無く部屋を出て行った。
沮授を除いて、その荀彧を引き止める者はいない。
それは荀彧にとって譲る事の出来ない大きな事だったと、田豊や沮授は理解している。
もちろん逢紀や許攸もそれが分からないわけでは無かったが、それ以外にも理由はあった。
ここで強力過ぎる実力者が消える事で、自分達の発言権や影響力を増す事が出来る好機が訪れたと言う見方である。
逢紀達からすると、あの歳下の実力者は非常に目障りな存在であった。
袁紹から直々に招集され、ごく少数の身内だけと言う固有の勢力も持たない若い軍師であったが、その実力たるや瞬く間に袁紹軍を、河北一帯を牛耳る巨大勢力にまで成長させてしまった。
その手腕は見事としか言い様が無く、それに奢る事無く事細かに問題点を調べては一つ一つ丁寧に解決させていく。
許攸などは、その必ずしも効率的とは思えないやり方に疑問を持っていたのだが、袁紹の荀彧に対する信頼は絶大であった為、口にする事が出来なかったのだ。
だが、これでその問題も消え、袁紹軍の軍師達はそれぞれの実力勝負の世界になった。
その事を自分の能力に自信を持った面々は喜び、同じように袁紹陣営から荀彧がいなくなった事を喜んでいた。
だが、この時その危険に気付いていた者はいなかった。
さほど戦いを好まない荀彧と言う人物の事を知っていたから、と言う事もありはするのだが、荀彧は袁紹軍の内情を誰よりも細かく知っている人物の一人である。
その人物が袁紹陣営から離れると言う事は、その情報を持って別の陣営に身を投じる恐れがあり、そのまま敵対する事もごく自然に起きうる。
この時は荀彧と言う天才軍師が抜けると言う衝撃が大きすぎて、僅かな思考の隙間が発生して、その歪みに先の展望が飲み込まれてしまった形になったのだ。
時同じくして、人知れず袁紹軍の中から知られざる天才が去ろうとしていた。
その人物が袁紹軍から去ろうとしていたその時、呂布が河北に到着した。
「呂布将軍、お待ちしていました」
呂布を迎えに出たのは、面識のある張郃だった。
「袁術将軍よりの援軍、到着致しました」
呂布はそう言うと、張郃に頭を下げる。
「袁紹殿の元へ案内いたします。こちらが先導致しますので、ご同行願います」
「よろしくお願いします」
張郃と呂布は挨拶を終えると、お互いに微笑む。
「お久しぶりです。また一緒に戦えると思うと、安心出来ます」
「あまり期待されても困りますよ」
「まーたまた。文遠もな」
張郃は、呂布の傍らに控える張遼に言う。
「張郃将軍ほどのお方がいらして、援軍が必要なほどの敵がいるのですか? それはどれほどの大軍で?」
「嫌味を言うなよ。俺は新参だから、大した兵は率いれないの」
張遼の言葉に、張郃は苦笑いしながら言う。
張郃の武将としての実力は極めて高く、漢でも有数の勢力となった袁紹軍の中にあっても最上位に位置する実力を持っている。
個人の武勇だけでなく、兵の統率、さらには戦術眼においても非常に高い能力でまとまっていた。
が、それでも張郃は元々韓馥軍の武将であり、同じ立場でありながら先に袁紹に帰順の意を示した麴義に韓馥軍は任され、たまたま募兵で韓馥の元を離れていた為に投降が遅れた張郃は予備戦力とされた。
また、袁紹軍には袁紹からの信任も厚く、河北では最大級の勢力を誇った侠客であり豪勇無双と評される顔良、文醜と言う二枚看板や、かつて袁紹や曹操と同じく西園八校尉に任命されていた淳于瓊などの名声を持つ者達にも遅れを取る事になり、この様な地位にいる。
「もったいないな。張郃であれば一軍の将として余り有る能力を持っていると言うのに」
「呂布将軍にそう言ってもらえるのは有難いですけど、それは俺だけではなく文遠もそうでしょう? 若いってだけで兵を預けられる事が無い。それはもったいないんですけど、仕方が無い事ッスからね」
「なるほど、確かにその通りか」
「ま、そんな事より、呂布将軍に引き合わせたいヤツがいるんスけど」
張郃は笑いながら切り出す。
「俺に? 袁紹殿じゃなくて?」
「一兵卒なんスよね。袁紹殿に引き合わせるには、ある程度の地位が無いと門前払いされちゃうんスよ」
張郃は肩を竦める。
それも袁紹が比類無き名門であるが故、避けられない問題でもあった。
この時代、実力よりも縁戚や名士の推挙が何よりも重要であり、どの様な実力者であったとしても、独力でのし上がっていく事は極めて困難だった。
漢全土を見回しても十人といないであろう豪傑であった華雄や、陽人の戦いで呂布と互角に戦った関羽や張飛などがまったく無名扱いを受けているのは、有力者の後ろ盾が無い事が最大の原因である。
現状で弱小勢力で人材不足に悩まされる曹操陣営などであればともかく、名門中の名門である袁紹軍では、実力がどれほど高くてもそれだけで袁紹への目通りも適わないのは仕方が無い。
「で、それはどちらの豪傑で?」
「んー、見た目にはそんな豪傑って感じじゃないんスけど、これがまた腹が立つくらいに小生意気って言うか。ちょうど洛陽にいた頃の文遠みたいなヤツですよ」
「そりゃ将来有望そうだ。なあ、文遠?」
「今ひとつ言われ方が気に入らないのですが」
張遼は憮然として張郃を睨むが、相変わらず胆力が並外れた張郃はどこ吹く風と言う態度のままそれを崩さない。
名将の大器を持つ張郃だが、器用にそれを隠している印象が強い。
奇抜な外見は黄巾の乱の時のままではあるが、長く実戦を経験してきた落ち着きが見られるようになっている。
「ちょっと呼んできますよ」
張郃がそう言った時、ちょうどその人物がこちらに歩いてくるのが見えた。
「お。ちょうど良かった。呼びに行こうと思ってたところだ」
「あ、こっちも探していたのですよ、張郃さん。私、ここ辞めますから」
「……はぁ?」
張郃は突然の事に言葉を失っている。
「え、あ、はぁ?」
「ここ辞めるんですよ。正直、がっかりなんですよ。最強の勢力と聞いて来たんですけど、ここは『本物』じゃない」
その人物は、槍を一本と自分の最低限の荷物だけを持った若い男だった。
張遼や張郃よりさらに若い。まだ十代かもしれないくらい若いが、張郃に対しても物怖じした雰囲気は無い。
「じゃ、今までお世話になりました」
「いやいや、待て待て。ちょっとだけ待て。ここに『本物』が来てくれたから。これぞ『本物』だから、ちょっとだけ待て」
「……そちらは?」
張郃に引き止められ、その若い男は呂布の方を見る。
「天下の名将、飛将軍にも例えられる呂布奉先将軍だ」
「え? 呂布将軍?」
男は張郃の言葉に素直に驚いていた。
「馬上で失礼ながら、お初にお目にかかります。呂布奉先です」
呂布は歳下と言うだけでなく、官位も無い一兵卒である若い男に対しても丁寧に声をかけて頭を下げる。
「あ、いや、こちらこそ失礼しました。趙雲子龍と申します」
この後『この時代におけるもっとも完成された武将』とさえ評される事となる男、趙雲子龍も、この時にはまったく無名の一兵卒に過ぎなかった。
我が子房なりとまで言わせた男
荀彧の事です。
生粋の曹操軍の軍師と言うイメージがありますが、董卓の暴政やその命令を受けた李傕の略奪から逃れる為に韓馥を頼るはずが、すでに袁紹の領地になっていた為、そのまま袁紹の食客となっていた経緯がありますので、袁紹軍に所属していたと言っても差し支え無いでしょう。
よく張良ではなく蕭何の方が近いのではないか、とも言われていますが、荀彧の政策は富国の為と言うより軍略に乗せた外征の為のところが大きく感じますので、天才的な戦略家であった事もふまえて張良の方が近そうだと、個人的には思っています。
まあ、高祖劉邦と違って曹操自身が並外れた政治家だった事もありますが。
荀彧が袁紹の元を去った事には諸説あるみたいですが、おおよそ袁紹と言う人物を見限った為で間違い無いみたいです。
本編で言っていた様なやり取りは見受けられませんが、荀彧であればこんな献策をしたでしょうし、正当な理由も無く、ただ領地争いに終始していたとあっては荀彧が去るには十分な理由だったのでは無いかと思って創作しました。
私が考える袁紹が天下を取る最大のチャンスはここだったと考えています。
この時皇帝を袁紹が押さえていれば、その後の大戦そのものが起きなかった事でしょう。
まぁ、たらればの話なのでどう転んだか分かりませんが、おそらく曹操の魏と言う国は無く、袁紹軍の元で曹操は重職に就いていたのではないでしょうか。
その後に国を乗っ取って魏が起きた可能性も十分過ぎるくらいありますので、結果的には何も変わらないのかも。
本編の終わり際に出てきたもう一人の天才については、また後ほど。




