第三話
袁術の本拠地である寿春は、都である長安からそこまで遠いと言う距離ではないもののその規模は大きく、また袁家の影響力も強い事もあって治安も悪くない。
人口で言えば長安に及ばないものの、名門袁家の影響力と言う地盤、精強なる軍、何より董卓と言う心配の種が無いと言う事もあって、その明るい雰囲気などから長安より遥かに豊かな印象を受ける。
本来であれば呂布軍もその街の中に入って一休みしたいところではあるだが、呂布はこれまで袁術と敵対していた事はあっても面識は無く、しかも三千程度とはいえ軍を率いている。
これで街の中に入ろうものなら無用の誤解を生むだけと言う配慮もあって、街の外で待機して、袁術に使者を送っているところだった。
その使者の役には張遼が自ら志願して、単身で袁術の元へ向かっている。
「正直、心配しか無いんだがなぁ」
高順は門を見上げながら言う。
比較的新しい印象を受ける城壁なのだが、その高さは長安のそれにも匹敵するのではないかと思われ、ちょっとやそっとの事ではこの城を攻め落とす事は出来そうにないのは、一目見ただけで分かりそうな堅牢振りである。
「心配? この城壁を見る限りでは、ここに立て篭られたらそう簡単に落とせるとは思えないけど、高順は何を心配しているんだ?」
「いや、別にこの寿春が攻められないかと心配しているのではなくてだな。文遠は確かに頭も切れるし、相手に呑まれて萎縮する様なヤツでもない事は知っているけど、どう考えても使者には向かないんじゃないか、と思ってなぁ。俺の方が良かったんじゃないか?」
「……まぁ、今さら呼び戻しようも無いからなぁ」
高順の心配を聞き、呂布は苦笑い気味に答える。
張遼は若いに似合わず冷静沈着で頭の回転も早く、苛烈な闘志と並外れた胆力を持つ、武将としては極めて優れた資質を持っている。
が、融通が利かず、何より人の好き嫌いが激しくそれを隠そうとしない辺りは、こういう場面では非常に大きな問題になりかねない。
まして相手は袁術。
聞き及ぶ限りでは、名門の出自を鼻にかける傲慢さがあるらしい。
袁術も洛陽にいた頃に見たことはあるのだが、威風堂々とした偉丈夫であり強烈な印象に残る袁紹に対し、袁術にはそこまで強い印象は残っていない。
曹操ほど印象が薄いと言う事は無いのだが、比べる相手が袁紹では存在が異質な劉備や人間離れした外見の華雄くらいでなければ、ほとんどの人物が印象に残らないだろう。
しかし、張遼を使者として送り出した以上は彼が戻ってくるのを待つしかない。
呂布は視線を寿春の城壁から、自分について来てくれた軍の方に向ける。
荊州時代からの精鋭達がついて来てくれたのはありがたいが、呂布個人が驚いたのは長安の屋敷で雇っていた家人達が同行を望んだ事だった。
男女を問わずついて来てくれたが、彼らは別に呂布の親族というわけではないので、長安に残ったからと言って罰せられる様な人物達ではない。
むしろ呂布達に同行する事によって、長安を追放された連中の一味となってしまうのだ。
それを良しとして同行してくれたのだから、非常に有難い。
今は妻の厳氏が、その家人達を労っている。
立場的には逆にも思えるのだが、厳氏はその見た目や将軍の妻と言う立場になってからも、本質的には最初に出会った頃と何も変わらない下女気質とでも言うか、世話好きなところがある。
見た目にそぐわない並外れた体力も持っているので、疲れた家人達の面倒を見ている事も多かった。
そんな気取らないところが、まったく無関係でありながら同行を望むほどに家人達の心を掴んだのかもしれない。
こうして張遼の戻りを待っていた呂布達だったが、張遼より先に別の来客を迎える事になった。
「失礼。こちらの軍は?」
寿春の前に待機している呂布軍に、地味な武将が近づいてくる。
「我らは袁術殿を頼りにやって来た呂布軍の者。そちらは?」
その武将に対して、呂布ではなく高順が答えた。
「呂布将軍? 長安で変事があったとは聞き及んでいたが、呂布将軍がこんなところに?」
すぐには信じられないのか、地味な外見の武将は訝しんでいる。
特別疑っていると言うより、呂布奉先といえば名の通った武将である。その武将がこんなところに流れてきている事が、よく理解出来ないと言った雰囲気だった。
長安の政変の詳細は、まだこの寿春までは届いていないのが分かった。
「私の不徳の致すところ。袁術将軍に援助していただこうと思い、厚かましくも流れてきた次第です」
高順ではなく、呂布自身が出てきて相手武将に言う。
「こ、これは呂布将軍! 失礼しました!」
呂布はこの地味な武将に見覚えは無かったが、向こうは呂布の事を見知っているらしい。
まあ、それは考えられない様な事ではない。
あの陽人の戦いには全国各地の諸将が参加していた。そこに参戦していたのであれば、呂布をどこかで見ていてもおかしくなかった。
何分、一目見たら忘れられないくらいに目立つ男である。
「私、袁術軍に所属する孫策軍配属の韓当と申します」
「これは、恐れ入ります。立ち話もなんですから、幕舎の方に行きますか?」
「あ、いえ、この部隊が呂布将軍の部隊であるとわかれば、我が主が興味を持たれるはず。大変失礼な事ではあるのですが、我が主への報告を済ませたいのですが、よろしいでしょうか?」
「それはもちろん。むしろお引き止めして、申し訳ない」
呂布は笑顔で言うと、足早に去っていく韓当を見送る。
「……あれ?」
来客と聞いてもてなそうとしていた厳氏が、声をかける間もなく緊張した面持ちで会釈する韓当とすれ違った。
「……呂布将軍、来客だったのでは?」
声もかけられなかった厳氏は、怪訝な表情で呂布に尋ねる。
「ああ、そうだったんだが、まずは主に報告だそうだ。だから、またすぐ来ると思うよ」
「でも、これといってお出し出来る様なモノも無いのですけど。何か取ってきましょうか?」
厳氏が心配そうに言う。
厳氏の料理の腕前に疑う余地は無いのだが、以前董卓を激怒させてしまった事もあり、厳氏も慎重になって呂布に尋ねてきたのだ。
「……いや、向こうもさすがにそれを望んだりはしないと思うから、それは大丈夫だと思うよ」
呂布はそう言って、厳氏を労う。
あの韓当と言う男も、主である孫策にそこを期待出来ない事くらいは報告してくれるだろう。
「孫策と言えば、孫堅の長男だったな」
呂布と高順はいったん幕舎に戻ってから、高順の方が切り出す。
「そうなのか?」
「ああ、武勇に優れているらしく、陽人の戦いでもその武勇を示したそうだ。文遠と同じくらいか、それよりちょっと若かったんじゃなかったかな」
「へえ。孫堅が討たれてから袁術の庇護を受けているとか言う話は小耳に挟んではいたが、こんな形で関わるとはなぁ」
華雄などがいれば多少なりとも橋渡しをしてくれそうだったが、さすがにいない人間に期待しても仕方ない。
「ま、ここで人脈を広げておく事は悪い事じゃない。お前にそんな器用な事は期待しちゃいないが、それでも接待くらいはやらない訳にはいかないだろう。なんだったら俺が調達してこようか?」
高順の提案に、呂布は腕を組んで考え込む。
確かにここで孫策との人脈を築く事は、悪い事ではない。
今まさに袁術の庇護を受けるべく張遼を派遣しているが、ここで孫策にも口利きしてもらえれば、袁術にも受け入れてもらえるかもしれない。
この寿春であれば、厳氏や蓉も落ち着いて暮らせそうな雰囲気なので、呂布としても出来る事なら腰を落ち着けたいと思っていた。
しかし、単純明快ながら解決しがたい問題があった。
金に余裕が無いのだ。
何しろ急遽追放となった身であり、呂布だけではなくその家族も急いで長安を脱出する必要があった。
特に倹約していたと言うつもりも無かったが、本人達の一番しっくり来る生活が質素極まる生活だったので呂布の屋敷にはそれなり以上の資産があり、その為家人に対する待遇も良いと評判だった。
もしそれらを持ち出せていれば、張遼にも多大な金品を持たせて袁術への使者に出せたのだが、それらの手土産なども持たせられていない。
呂布軍を維持する為、粗末な食料で細々と食いつないでいるところである。
これに表立って不満を言ってくる者は今のところいないが、それも呂布や厳氏、蓉と言った真っ先に贅沢したいと言い出しそうな人物達が不満を表に出さないので、末端の自分達が文句を言い出せない、と思っているところもあるようだ。
ここで孫策の接待の為、貴重な生活費をこれ以上削るとなっては兵達に更なる苦労を強いる事になりかねない。
百歩譲って兵達には苦労を強いるとしても、今回の騒動に巻き込まれただけの妻や娘、善意で同行してくれた家人達にそれを強いるのはあまりにも心苦しかった。
高順であれば確かに安くで色んな食材を用意してくれそうだが、袁術の庇護を受けられないとなった場合の事を考えると、ここでの出費はできる限り避けたい。
それが呂布の悩みの種だった。
孫策と言えば、由緒正しきとまではいかないまでも漢の将軍位にあった孫堅の長男であり、あの古の兵法家である孫子の末裔である。
孫策と言う人物を詳しくは知らないが、やはり粗相は出来ない事を考えると厳氏が現地調達してくるのもさすがに危険かもしれなかった。
「なんだったら豚の一頭でも盗んでくるか?」
「待て、高順。それはまずいどころじゃない」
「わかってるよ、冗談だ」
「お前だったらやりかねないだろう」
元々野盗頭の様なものだった高順であり、今でもそう言う気質なところは無くなっていない。
また、なまじ武勇に優れている上に無駄に器用なところもあるので、本当に家畜くらい盗んで来る事は出来る人物なのである。
「それじゃ、どうする? 韓当ってヤツのあの反応だったら、たぶん孫策連れてくると思うぞ?」
「うーん、そうだなぁ。逆に状況の悪さを見てもらって、袁術殿に説明して同情していただける様には出来ないかなぁ?」
「めちゃくちゃ情けない事言うなよ。お前は偉そうにふんぞり返っていれば良いんだから。何でお前夫婦はそうなんだよ。少しは娘を見習え」
娘は娘で問題はあるのだが、呂布と厳氏のお人好しに高順は常に頭を抱えていた。
もっとも、そんな穏やかな気性であったからこそ高順も粉骨砕身でこの家族を守っているのである。
そう思っているのは高順だけではなく、善意でついて来た家人や荊州時代からの精鋭達もそう言う気持ちが強い。
気性が激しく主人以外近付けようとしない赤兎馬ですら、厳氏と蓉には牙をむいたりせず、それどころか厳氏から躯を洗ってもらうのは好きみたいだった。
明確な答えも出せず、高順と呂布が対応を話し合っていると、一人の兵が大慌てで呂布のところにやってくる。
「しょ、将軍、大変です」
「どうした?」
「そ、孫策殿が来られたのですが、それがちょっと大変なんで……」
「ここか!」
「止まれって言ってるでしょ!」
報告を受けているところに、珍妙極まりない人物達が慌ただしく入ってきた。
若く精悍な男が、後ろから羽交い締めにしようとしている蓉を振りほどくこと無く、そのまま背負う様にして入ってきたのである。
「呂布将軍、はじめまして! 俺、孫策伯符といいます!」
「孫策殿?」
「うわー、本物の呂布将軍だ! 俺、陽人の戦いで将軍を見かけてから、是非お会いしたいと思っていたんですよ!」
「だから、私が娘だって言ったでしょ!」
「信じられなかったんだよ。それに直接会った方が早かっただろう?」
孫策と名乗る青年は、背後で怒鳴り散らしている蓉に笑顔で言う。
「……孫策殿?」
呂布は不思議そうに周りを見るが、高順は首を傾げ、蓉はまだ言い争っているし、伝令に来た兵も困りきっている。
「申し訳ございません」
呂布の幕舎にさらに別の人物がやって来た。
厳氏が連れて来たのは数人の武将達であり、その中には韓当の姿もあった。
「殿! 非礼が過ぎますぞ」
「程普、若殿はそんな事では聞きやしないぞ」
韓当以外の二人がそう言うと、その片割れである無骨な男はがしりと孫策の頭を掴む。
「伯符。いくらなんでも無礼だぞ」
「いや、黄蓋の方が無礼だろ」
「お前、後ろに背負っているのは呂布将軍の娘だぞ? 向かったのは呂布将軍の幕舎だったから良かったものの、別の所だったらお前、呂布将軍の娘を誘拐した事になっていたぞ」
「うおっ! そうだったか。それは失礼した、姫君」
孫策はそう言うと、別に孫策に背負われていた訳ではなく止めようとしていた蓉を、地面に下ろす。
「……何事だ?」
呂布と高順は、まったく事態を把握出来ず目を白黒させる事しか出来なかった。
この頃の寿春
演義でも正史でも特に記述はありませんが、この頃の寿春はおそらく漢王朝全土の都の中でも屈指の大都市であったと思われます。
何しろ袁家でも本家筋に当たる袁術の本拠地ですので(実質は袁紹が袁家を継いでいましたが)、その名声によって人が集まってきます。
それによる軍備の増強などもスムーズだったでしょうし、天子の都長安の様な大きな混乱も見られなかった事もあり、非常に安定していたはずです。
この頃寿春に匹敵する都と言えば、袁紹の本拠地である鄴、劉焉の成都くらいでしょう。
後に皇帝の住む都となる曹操の許昌ですが、この時にはまだ一地方都市で、現在急ピッチに開発が進んでいるところです。
また、この時の袁術軍には野戦の鬼、後の小覇王孫策がいましたので近隣の賊征伐を終え、目下の問題を抱えていなかった事も大きいと思われます。
そう言う意味では、長安、鄴、成都などの大都市以上に人口、活気、治安などにおいても漢でトップクラスの都だったのではないでしょうか。
あくまでも『この頃は』の話ですが。




