第二話
寿春を目指す事にした呂布一行はすぐに南下を始めたが、ほどなくして張済軍に発見されたと言う報せが届いた。
「来るか。その数は?」
「およそ二万。ですが歩兵も含まれています」
「二万、か。思っていたより多い数だ。引き続き様子を見て知らせてくれ」
呂布は伝令にそう伝えると、張遼と高順を呼ぶ。
「逃げ切れると思うか?」
「まず無理だな」
呂布の質問に、高順は即答する。
「俺も高さんと同意見ですね。さすがにこうなったら戦うしかないと思いますが」
「董卓四天王の一人である張済だ。そう簡単な相手ではないと思うぞ」
呂布は慎重だが、高順と張遼の評価は違った。
「確かに張済については情報が少ないのは認めるが、もし本当に有能であれば李儒軍師は華雄を重宝してなかったんじゃないか?」
「高さんの言う通りだと思いますよ。西涼にいた頃は四天王も活躍したのでしょうけど、董卓政権樹立以降は呂布将軍や華雄、徐栄と言った武将の方が四天王より武勲を上げてきているワケですから、そこから考えると張済は華雄、徐栄ほどの能力は無かった、あるいはよほど扱いにくかったと言う事になりますよ」
それはちょっと過小評価ではないかと呂布は思うのだが、李儒が四天王ではなく華雄を重宝していたのは間違いない。
それはもちろん能力の高さにもよるところだが、軍師から好まれないからといって能力が低いと思うのは短絡的である。
それに長安遷都直後に会った張済と樊稠の様子からすると、少なくとも李傕や郭汜よりは柔軟そうにも思えた。
「それに、ここは戦うには悪くない地形です」
張遼は周りを見ながら言う。
大軍勢と言う訳ではないので少々険しい道のりであっても寿春への近道を通ってきたのだが、今通っている道は嫌でも縦列でなければ行動できない様な細い道である。
張済が二万もの数を率いてきたのは呂布を警戒しての事だったのだろうが、この地形であればその数の利を活かしづらい。
「そうは言ってもおおよそ十倍近い数だ。力だけでどうにかなる数ではないぞ?」
「どうにかなる程度の差だ。その程度なら」
「なんだ、高順。いい考えでもあるのか?」
自信満々な高順に、呂布は尋ねる。
「もう少し行くとそこそこ長い上り坂がある。そこで迎え撃とう。と言っても難しい事じゃない。下から上がってくる奴らに奉先が矢を射掛けるだけで事は済む」
「なるほど、それで行きましょう」
呂布の意見も聞かず、張遼はさっそく迎撃の準備を始める。
一方張済軍の方は、二万の兵力を有するものの一枚岩とは言えない状況だった。
「オヤジ殿、地の利を相手に抑えられては不利。実際に被害が出る前に退いた方が良いです」
張済の副将も務める同族の青年、張繍が張済を引き止めていた。
今回の追撃自体が張済の独断であり、軍師の賈詡からも呂布には手出し無用と釘を刺されていたにも関わらず、張済は呂布追撃に出たのだ。
確かに天下の名将呂布奉先とは言え、今は率いている兵は三千程度。しかも家族など足手まといの一般人も連れている。
ここでならば、呂布を討ち取る事が出来ると張済は戦に踏み切ったのだ。
呂布を討ち取る事が出来れば、それこそ第一功であり他の四天王達より一歩抜け出す事も出来るのである。
千載一遇の好機とは、まさにこの事だ。
腰の重いな樊稠はともかく、手柄にうるさい李傕と郭汜もこの機会を逃すとは思えず、本来であれば騎馬のみで三万を用意したかったのだが、張済は自軍のみで急ぎ出発したのだった。
それに強く反対しているのが、一族の中でも特に軍才に優れる族子の張繍である。
「軍師の賈詡が言っていたではありませんか。呂布とは戦うべきではない、と。陽人の戦いでは単騎で三軍の動きを止め、郿塢に現れた賊との戦いでもほとんど被害を出していないばかりか、ほぼ素人の皇甫酈に手柄を譲るほど余裕を持って勝利しているのです。もし数の差があれば討ち取れると言う程度の武将であれば、あの賈詡が逃すはずもないでしょう。どうか、どうかお考え直し下さい、オヤジ殿!」
「ほほう。いつの間にやら随分と弁が立つ様になったではないか、張繍よ。それはつまり、わずか三千足らずの兵しか率いていない呂布と戦ったら、この二万の兵を有する張済が敗れると言っておるのだな?」
表情だけ見ると笑っている様にも見えるが、それは激怒の表情を無理矢理笑顔で押さえつけているだけだと言う事は、言われなくても張繍には分かった。
これ以上の諫言は、命に関わる危険がある。
「呂布将軍は稀代の名将。その戟と馬術は天下無双にして、その強弓はかの董太師さえも凌駕するとの事。それほどの武将に地の利を奪われているこの状況、オヤジ殿はいかな兵法を用いて呂布将軍と相対するつもりですか?」
張繍はそれでも引かず、張済に食い下がる。
「呂布奉先にいかほどの武勇があれど、十倍の兵力差をどうしようと言うのだ? 呂布の強弓がどれほど優れていようとも、所詮は一将の一矢。その一矢で十人を屠れる強弓であっても、百度放って千人で呂布の首を落とせるのであれば安いものではないか」
「無策で挑むのは危険過ぎます。考え直して下さい、オヤジ殿!」
「くどいぞ、張繍! 貴様の様な者は味方の士気を下げる! 歩兵を率いて、予備兵として控えておれ!」
あまりに強く諌めた事により張済の怒りを買い、軍才に優れると評価の高い張繍は前線を外される事になった。
張済とて歴戦の武将である。張繍に言われるまでもなく、呂布の異質な武才については知らない訳ではない。
だが、それでも張済なりの勝機はあった。
呂布の家族思いは誰もが知り、最強の武神の最大の弱点でもある。
その呂布が家族に護衛をつけないはずはなく、兵力三千と言っても前線に出られるのは最大でも二千が限度。
それであれば張済は十倍の兵力である事は間違いなく、この兵力で呂布を討ち取る事が万が一にも失敗したとしても、呂布の家族さえ押さえてしまえばそれで勝利は約束されるのだ。
呂布が乗るのが千年の名馬である赤兎馬であったとしても、それで移動出来るのは呂布だけであり、呂布の妻や娘がそれで逃げていく訳ではないのだから捕らえる事は造作もない事である。
その勝機の説明を、張済は張繍にしなかった。
その理由は単純に腹が立っていたからと言う事と、あからさまに下に見ている張繍に対して自分にはこれだけの才がある、と言う事を証明したかったと言う二点からである。
兵力には余裕があったので、この作戦を張繍に説明していれば、張繍は別働隊を率いて呂布軍の先回りをして家族を捕らえると言う方法もあったのだ。
が、張済はこれだけの兵力差があれば十分と考え、それ以上を必要としなかった。
そしてもう一つ、張済は知らなかった事がある。
呂布の家族思いは確かによく知られている事であるのだが、その家族に危害が及んだ時、普段は温厚な呂布が武神そのものに変貌とすると言う危険性は知られていなかった、と言う事である。
その呂布は、周りが思っている以上に自己評価は低く、慎重なところが強い。
張済軍が正面から挑んでくるのを見ても、呂布の次に疾い張遼に家族の警護を任せ、何かあればすぐに知らせる様にと念を押している。
策謀に弱い事は自覚している呂布だが、本人が思っている以上に戦術面では優れた戦術眼を持っているので、戦場での駆け引きに弱いと言う事はない。
この時も張済に確たる戦術は無く、正面から武力押しで来る事を看破した呂布は迎撃の体勢をとる。
呂布が率いるのは荊州時代からの精鋭が千人ほど。他は高順、張遼が残りをそれぞれ率いて、張遼は呂布の家族の護衛についていた。
呂布は手勢の千に弓を持たせると、張済軍に向かって矢を放つ。
坂の上と言う事もあり通常より飛距離の長い遠距離攻撃ではあったが、来る事を予測していた張済軍は盾をかざして呂布軍の弓の雨を凌ぐ。
逃げる呂布軍には十分な物資も無いので、その矢の雨もさほど長くは続かない事を張済も知っているので、現時点では主力の騎兵もその機動力を活かすのではなく盾で矢を防ぐ事に集中していた。
その辺りはさすが戦い慣れた董卓軍の中にあって、四天王と評される張済というべきか。
対応は単純でも、早さは目を見張るモノがあった。
問題があったとすれば、それはただ一つ。
相手が悪すぎた、と言うだけである。
呂布軍は上方から一斉に張済軍に矢を放ったが、それを防ぐ為に盾を持ち上げる。
そこに開いた隙間を狙って、呂布が一矢射る。
張済は、一矢で十人を貫いたとして、百度放っても千人の被害だと分析した。
それ自体は間違いでは無い。
いかに人間の常識からかけ離れた呂布であったとしても、騎馬で突撃してくる部隊を背にしながら百度も矢を射る事など出来ない。
であれば、多少の犠牲を出したとしても敵の数が少ない時こそが勝負であり、勝機と見た張済は決して間違ってはいなかった。
相手が呂布でさえなければ。
呂布の放った一矢は、もはや矢ではなく槍のような破壊力と貫通力を持っていた。
その一矢は盾を、鎧を、人体を貫く。
その一矢で犠牲になったのは四人と、張済の例えから考えると半分以下の被害で、二万を有する張済軍からすると数えるまでもない被害である。
あくまでも兵を駒や数として見るのであれば、の話しだが。
通常の矢であれば、盾や甲冑で止まる。
特殊な弓矢や驚異的な使い手であれば、盾や甲冑を貫き致命傷を与える事もある。
が、それを複数貫く事など有り得ない。
それが三矢も放たれれば、騎馬突撃の準備に入っていた部隊であったとしても、恐怖に足を止めるだけの重圧があった。
一度恐怖を刻み込まれた軍は、その能力を大きく低下させられる。
董卓軍がもっとも得意とする戦い方だったはずが、呂布を前には無力であるどころか、逆に押し込まれる形となっていた。
兵力は十倍を率いたとしても、戦う事を恐れた者達であれば、どれだけ集まっても意味を成さないと言う事を張済は見落としていた。
「恐るな! 敵はまともに組み合う事を恐れるからこそ、飛び道具で重圧をかけるしか手がないのだ! 一気に坂を駆け抜けて肉薄すれば、どのような強弓も意味は無い!」
張済は僅かな犠牲で瓦解しそうになった軍を留める為に、檄を飛ばす。
よく通る声に呂布は苦笑いする。
「さすが張済。ここで留まるか。退いてくれれば良かったんだが」
呂布はさらに一矢を射ると、弓から方天戟に持ち換える。
それは接近戦を行うと言う意思表示であり、そうなると数の差がある張済軍の方が有利になる。
本来であればそう言う考え方も成り立つのだが、この時それほど楽天的に考えられる者は張済軍の中にはいなかった。
呂布の好みの戦い方では無いのだが、わざとらしく雄叫びを上げ、呂布自らが先頭とない後続を率いる。
後続も同様に雄叫びを上げ、一つの塊と錯覚させるような突撃を繰り出していた。
露骨に相手の恐怖心を煽る戦い方なのだが、先頭を走る呂布は燃え盛る業火を思わせる真紅の並外れた巨馬の赤兎馬に跨り、また呂布自身も人並み外れた長身で、身にまとう黄金の鎧が日光に照らされるその姿は、巨大な人ならざる武神に見えてしまう。
それが猛然と吠えながら突撃してくるのだから、数的優位だけで戦う気力を保つ事は難しかった。
もし相手が漢の正規軍であれば、この時点で戦意消失して瓦解し、撤退していたかもしれない。
だが、相手は勇猛果敢な西涼兵であり、それを率いるのも四天王と称される張済であった為、事態はそれでは済まなかった。
恐怖に飲まれて瓦解したと言う事実を受け入れられない西涼兵は張済の指揮を待たず、半狂乱状態で呂布を迎撃しようとした。
しかも張済が率いていたのが騎馬兵であった為、呂布の武威に恐れをなした馬と冷静な判断力を失った騎手とで噛み合わず、その場で落馬する者も相次いだ。
そんな集団としての機能が完全に失われた張済軍に、呂布が襲いかかる。
気持ちは迎撃しようとする西涼兵だったが、呂布の狙い澄ました一撃は西涼兵が自覚するより先に、その首を刎ね飛ばす。
閃光の如き突きの一突き毎に騎兵は一人、また一人とまるで果実でも収穫するかのように正確に、それでいてどこか無造作に討たれて行く。
「お、恐るな! 敵の数は少数だ! 一斉にかかれば、敵の方が少ないのだから崩れるのは奴らの方だ!」
張済は踏みとどまるべく、大声を張り上げて兵の同様を防ごうとする。
一度瓦解してしまっては、どれほどの名将猛将といえどもそれを制御する事は至難の技であり、この機会を逃しては二度と呂布を討ち取る事は出来ない。
その為にも、ここは何とかして踏みとどまりたかった。
しかし、呂布の狙いもそこにあった。
張済が踏みとどまろうと奮闘している右手のヤブの中から、怒号の様な声を上げて高順率いる呂布軍の伏兵が襲いかかる。
将軍位を持たない高順の存在は董卓軍内にあって名前さえ知らない者の方が多く、高順は呂布の家族を守る護衛程度にしか思われていない。
呂布との接点がほとんど無かった張済は、呂布と張遼の事は知っていて警戒もしていたが、存在そのものを知らなかった高順に備える事は出来なかった。
ただでさえ呂布の脅威にさらされて混乱している張済軍に、高順率いる千の伏兵を防ぐ手立ては無く、張済の奮戦虚しく崩壊してしまう。
張済自身も高順の手にかかって討ち取られようかとしたその時、張済軍の予備戦力であった張繍が合流する。
「敵伏兵は少数だ! 恐るな! 伏兵を蹴散らし、大将を守れ!」
張繍はあえて高順に向かって聞こえる様に叫ぶ。
呂布も兵力差の事は分かっているはずなので、ここで無理に張済を討ち取る事にこだわらず、機を逃したと知れば撤退するのではないかと言う考えがあっての事である。
高順の伏兵は張繍と組み合う様な事はせず、張済と言う手柄を放棄してヤブの中へと消えて行き、伏兵が退いた事を知った呂布も思う存分に張済軍を蹂躙した事もあり、悠々と引き上げていく。
今なお張済軍の兵力は呂布のそれをはるかに上回っているのだが、時間をかけて再編を済ませた張済軍の中に、呂布への追撃を望む者は誰一人としていなかった。
ちょこっと張済伝
この後、本編での失態によって張済は長安での権力争いの主流から外れてしまいます。
長安の残留戦力の中でリーダー格の樊稠が大本命だったのですが、利害の一致した李傕と郭汜の策謀によって樊稠は濡れ衣を着せられて処刑され、長安は李傕&郭汜が統治する事になります。
この辺りで張済は身の危険を感じ、また李傕&郭汜の冷遇に耐えられなくなって長安を脱出。やさぐれて荊州近辺で野盗になってしまいます。
そこで討伐隊と戦闘になり、流れ矢によって死亡。
張済の率いた軍は張繍が引き継ぎ、未亡人となったあの人や長安からの脱出組である賈詡も合流する事になります。
こうやって書くと、張済さん、何も良いところも見せ場も無いまま退場する事になりました。
まあ、しょうがないよね。
ちなみに今回の本編の展開は全て私の創作で、正史にも演義にも呂布VS張済と言う戦いはありません。
と言うより、呂布が逃亡したのを追撃すると言う展開は無く、そんなヒマがあったら長安の制圧を行っていたはずです。
もし戦っていたら、ここまで一方的だったかはともかく、おそらく張済では相手になっていなかったのではないでしょうか。
張済はなまじ勇猛なので、一騎討ちとかで一刀両断にされてそうな気もします。




