第六話
李粛は笑いが止まらなかった。
漢の事実上の丞相となった王允から、地位の確約を得ているからである。
それも騎都尉の様な中途半端な地位ではなく、三公の武の要である太尉をである。
もちろん現状ではまだ若すぎると言う理由で、正式に太尉に任じる事は出来ないと説明も受けているし、それは李粛自身も考えていた事であったので納得出来た。
その為、李粛に用意されている地位は補佐官職なのだが、それはそれで構わず、五年から十年後には太尉の地位が約束されているのだ。
王允は董卓と違って、呂布を引き入れた功績と言うものを分かっている。
もし呂布が王允陣営に加勢せず董卓の警護を行っていたとしたら、確実に董卓暗殺は失敗していた。
それ故に第一功は李粛である、と王允は伝えてきた。
「ですが、若干とは言え問題があるのです」
と、王允は付け加えてきた時には切り捨てようかとも思ったが、王允の口から出て来た問題と言うのは本当に若干でしかない程度の問題だった。
今回呂布を寝返らせた事はあくまでも内密であり、呂布は董卓の圧政に苦しむ民衆の為に立ち上がった英雄でなければならない。
また、そうだからこそ李粛の功績も大きくなると言うものだが、内密である為に李粛が突然大抜擢される事が妙な注目を集める事になってしまう。
また、三公の太尉と言えば武官では大将軍に次ぐ地位であるものの、実質的には前線に出て兵を率いる立場ではなく、後方で指示を出す役割である。
それでも武官は武官。
そこに推挙すると言うのであれば、分かりやすい武勲を要求される。また、それがあった方が周囲を黙らせやすい。
その為、王允が出してきた条件は今回の旧董卓軍との戦いで何らかの武勲を上げる事、と言うものだった。
董卓四天王と大層な通り名を持っているが、所詮は西涼の片田舎で幅を利かせていた程度の者達であり、呂布の敵ではない。
だが、呂布は不思議な性格の持ち主であるせいか詰めが甘く、敵将を討つまで徹底した戦い方が極端に下手な男である。
そこで逃げ散るだけになった武将達を討ち取るだけで、武勲と言う大魚が手の中に転がり込んでくるのだ。
これで王允を始めほとんどの者を納得させられると李粛は思っているが、それで納得しない狂犬とでも言うべき徐栄のような輩が難癖をつけてくる事は考えられた。
面倒なので徐栄は戦死してくれれば良いと思っていたところ、それさえも黙らせられるほどの幸運が舞い降りた。
敵先発隊が、四天王と比べて明らかに軍才に劣る牛輔だと言うではないか。
これで李粛は一番槍と、董卓の義理の息子の首と言う誰の目にも明らかな武功を上げる事が出来ると言うわけである。
しかも牛輔と言う人物については、李粛も少なからず知っている。
体格も悪くなく、その外見もいかにも荒くれ者の豪傑であり、実際に多少の武勲は上げてきたと言う実績もある。
だが、それは表向きの評価であり、董卓の義理の息子に対して大幅に気を遣った結果として伝えられているものでもあった。
牛輔と言う男は、その厳つく高圧的な外見とは裏腹に臆病な性格で、董卓と言う圧倒的な後ろ盾を失った今となっては、四天王に対しても強く出る事は出来ない。
また、集団でいる時や周りから持ち上げられている時には強気で剛毅なところも見せるが、実際には腕力だよりで大した武芸を持ち合わせている訳ではない。
今のこの状況は牛輔にとって望まない状況であり、四天王にとっても牛輔は目の上のたんこぶとして扱いづらい存在である。
それ故に先発隊として厄介払いされているのだろうから、用兵に粘りがあるはずもない。
それでも李粛は念のため自身に割り当てられた五千の兵から、さらに五千を追加して一万の兵を率いて先発隊の牛輔の部隊との戦闘に入った。
遭遇した牛輔軍の総数は五千、李粛軍の総数は一万と二倍の兵力差がある事からも戦闘は長引く事なく、それどころか遭遇してからの第一戦で牛輔軍は散り散りに敗走する事になった。
まったく勝負にならない弱さに李粛は笑いが止まらなかったが、このまま逃がしてしまっては武勲にならない。
「西涼兵は騎馬の扱いに慣れていると聞くが、騎馬の本質は逃げる事にあるらしい。あの逃げ足を追うのは容易な事ではないな」
李粛はそう言って笑うと、敗走する牛輔軍を追撃する。
李粛の率いている兵にも騎馬は多いのだが、それでも敗走する牛輔を追うのは本人が言った様に容易ではなく、追いついたと思った時にはすでに周囲は薄暗くなり、呂布の本隊とも切り離されていた。
李粛は自分の置かれた危機的状況に気づかず、それどころかまだ自身の勝利を疑う事も無かった。
これ以上時間が経つと、夜戦に入る恐れが出てくるかと言うところで牛輔に追いついた李粛は、ここで勝負を決めようと一斉突撃を命じる。
この一斉突撃で牛輔軍は壊滅する。
はずだった。
牛輔軍に追いついたのではなく、牛輔軍は所定の位置についたのでその速度を落とし、李粛に追いつかせたのだ。
李粛軍一万と言っても、その全てが騎馬隊だった訳ではなく四割が騎馬で、残りが歩兵と言う編成である。
ここが好機と一斉突撃を命じた李粛は、四千の騎馬隊の中心に陣取っていた。
その槍が牛輔軍を捉えようとしたまさにその時、周囲から怒号が響く。
それを合図に牛輔軍は反転して、李粛軍に正面から突撃してきた。
左右からは伏兵として伏せていた李傕と張済の軍が突撃してくる。
牛輔、李傕の軍は李粛の騎馬隊を、張済の軍は少し遅れた歩兵を狙う。
牛輔軍こそ五千だったが、李傕、張済の軍はそれぞれ一万を率いてきたので合わせて二万五千。策がこの上なく的中した事もあり、その士気は極めて高い。
一方の李粛軍は、李粛自身が策に嵌められた事に気付くのが遅れた為、退却の指示をすぐに出す事が出来なかった。
その結果、機動力に優れる李傕軍に側面を突かれ、分断された前方を牛輔軍に蹂躙される事になった。
それだけでなく、後続との合流も張済軍に阻まれ李粛軍は大混乱に陥る。
もはやなすすべ無く打ち倒されていく中、李粛は適切な指示を出す事も出来ず、自分だけでも逃げようと考えたものの周囲は李傕、牛輔の兵に阻まれている為、自分の身を守る事だけで精一杯だった。
このまま殲滅させられるしか無いと諦めた時、李粛はもちろん、一方的な虐殺を行っていた旧董卓軍も驚く援軍が李粛を助けに来た。
徐栄である。
呂布、張遼に次ぐ疾さと集団戦の強さ、何よりも呂布と比べて圧倒的に攻撃的な性格から、その攻撃力はかなり高い。
徐栄の実力をよく知る李傕と張済の軍はすぐに戦場を離脱し、李粛を深追いしていた牛輔の軍は徐栄の逆撃を受けて多大な被害を出して撤退させられる事になった。
「李粛、なんてザマだ」
徐栄は数十騎にまで減らされた軍の中で怯えていた李粛を見て、呆れて言う。
「じょ、徐栄! 何だ! 何のつもりだ! 僕はお前の援軍など求めていないぞ!」
「はっはっは! 命拾いしておいて、命の恩人に対してそんな態度か! 立派な屑っぷりには感心するぞ、李粛」
徐栄は大笑いする。
「く、屑? 屑だと? な、何様のつもりだ、徐栄! 徐栄の分際で!」
「はっはっは! 無能は無能なりに無能を認めて満足しておけば良かったものを、身の程を弁えず余計な事など考えなけりゃ良かったのになぁ」
徐栄はニヤニヤしながら、李粛に近付いて行く。
「普通に考えろよ、無能。お前如きが三公になれるはずがないだろうが。王允ほど喰えないオッサンの口約束を信じたのか?」
「なん……だ……と?」
「王允のオッサンからすると、お前の役割は終わってんだよ。いや、あの呂布将軍を引き抜くってのは大したモンだと思うぞ? だから、お前みたいなクソが偽物であったとしても武将として扱われてる事に、誰も文句はつけねーんだよ。それで満足してろよ。お前みたいなクソが一万もの兵を率いる事が出来るわけねーって事は、言われなくてもわかるだろーがよぉ」
ぶひゃひゃひゃひゃひゃ、と徐栄は下品に笑う。
普段はいかにも武将として振舞っている徐栄だが、一度戦場に出るとその態度も肥大化し、戦闘を行うにつれて人間味も薄れていく傾向にある。
この興奮状態はそこまで長続きしないとはいえ、興奮状態にある徐栄は董卓軍の武将達の中でも群を抜いて残虐な性格と恐れられていた。
実績から見ても、陽人の戦いの前に袁家の者を数百人惨殺したり、郿塢城制圧の折も董卓の親族を皆殺しにしたりと、その残虐さは遺憾無く発揮されている。
そこでようやく、李粛は救援に来たのが徐栄だったと言う不自然さに気付いた。
もし本当に救援が目的だった場合、もっとも疾い上に多少の面識もある張遼が来るはずではないだろうか。
あるいは呂布自らが動き、敵に圧力をかけて退却に追い込むのではないか。
それらの人員がいる中で、徐栄という人選は明らかにおかしい。
「……まあ、いい。ここでこれ以上話していても、意味は無い。必要だったかどうかはともかく、援軍には感謝してやる。僕は奉先と話がある」
「お前如き無能が、呂布将軍と対等のつもりで口をきくな。不愉快の極みだ」
下卑た笑顔を浮かべていた徐栄が、険しい表情でギロリと李粛を睨む。
「ぼ、僕は奉先とは同郷の幼馴染み。今の奉先があるのは、僕のお陰なんだ! 徐栄、お前こそ、僕に対する口の利き方に注意する事だ!」
「俺はよ、この世に俺を上回る武才を持っているのは五人といないと思っていた。まあ、今でも近い事を考えちゃいるんだが、呂布将軍は別格だ。あの人こそ、最強の武将だろう。お前の如き羽虫がまとわり付くようにな。だが、安心しろ李粛。お前の役割は終わりだ」
徐栄はそう言うと、肩に担いでいた長刀を李粛に向ける。
「な、何のつもりだ徐栄! 僕は味方だぞ!」
「いやぁ、誇り高り李粛殿にはどちらか選んで頂く事になりますので」
徐栄はニヤリと笑う。
「何しろ李粛殿は自身の五千の兵だけでなく、無断でさらに五千もの兵を勝手に招集しておきながら壊滅させられているのですから、そりゃ敗戦の責任をとって死罪は免れないでしょうなぁ。五千の牛輔軍を相手に一万の兵力で挑んで、敵の策にかかって惨敗した挙句に本陣に逃げ帰って敗戦の責任を取らされて死罪になった無能になるか、最期まで勇敢に戦いながら善戦むなしく散った勇将となるか。どうします?」
「な、何を勝手な事を! 奉先が僕を死罪にするわけがない!」
「さすがの呂布将軍も、今回は庇えないでしょうなぁ。ここで庇い立てして士気を落としては、あの勇猛果敢な董卓四天王を相手に苦戦を招く事になりますからなぁ」
徐栄がニヤつきながら李粛に近付いて行くが、李粛は恐怖に竦んで動けなかった。
「心配しなさんな。あんたの首を持ち帰っても、上手い事伝えておいてやるよ。敵に対して手も足も出ないまま、慌てて逃げ帰る様な真似はしなかったってな」
「だ、黙れ! 僕は……」
李粛は徐栄に言葉を叩きつけようとしたが、その時には徐栄の長刀が一閃し、その首は宙を舞っていた。
徐栄が李粛の首を持って呂布の本陣に戻った時、本陣は奇妙な来客を迎えているところだった。
「徐栄将軍、李粛は?」
呂布は徐栄に尋ねると、徐栄は首を振って首桶を出す。
「すでに討ち取られていました。かろうじて首を取り返す事は出来ましたが、最期まで勇敢に戦われたのでしょう」
徐栄の言葉に呂布は眉を寄せたが、詳しく追求する事は無かった。
「それで、その者は?」
徐栄は、自分と同じように首桶を持って来たと思われる男を見る。
「義兄……、いや、敵将牛輔の首だ」
呂布は徐栄に説明する。
「この攴胡赤児は漢に反逆する事に恐れを抱き、漢に帰順する為に敵将牛輔を討ち取って来たと言う事だ」
「ほう、感心な事で」
徐栄はそう言うが、攴胡赤児と言う者が何を考えて降ったかは分かる。
李粛軍を蹂躙したまでは良かったが、その後の徐栄に手も足も出なかった牛輔軍にいては勝利を望めないと思ったのだろう。
その手土産として、董卓の親族の首と言う大手柄を持って来たと言うわけだ。
「だが、俺にはその権限が無い。攴胡赤児とやら、それは長安にいる王允殿に元へ持って行っていただき、然るべき処置を取るが良いだろう。楊奉将軍に道中警護してもらうと良い」
呂布がそう言って手配すると、楊奉は素直にそれに従う。
「……そうか、初戦は敗れたか」
攴胡赤児が幕舎を離れた後、呂布は徐栄に向かって呟く。
「これで将軍の責任も大きく重くなりましたが、どうですか。勝算はありますか?」
呂布は徐栄に尋ねる。
「四天王と並び称されているものの、四人が一丸となって協力して連携出来るほどあの四人は仲が良くありませんからな。個別であれば、こちらにも十分に勝算有りです。四人の内の一角を切り崩す事が出来れば、保身を優先するでしょうから積極策に出る事も無くなるでしょう」
徐栄がそう言うと、呂布は頷く。
結局呂布の方から徐栄に、李粛の事について尋ねる事は無かった。
李粛について
実は第一話から出ていた人物で、二度の親殺しのどちらにも重要な役割を持っていた人でもあります。
本編ではほとんど良いところが無かった李粛ですが、演義の中では陽人の戦いの際に孫堅軍に対して有効な策を用いて撃退するのに一役買っているなど智謀の士である一面も見せたりしてます。
が、正史でも演義でも本編でも同じように、牛輔に敗れて敗戦の責任によって死罪と言う末路には変わりありません。
演義では呂布自らが死罪を申し付けています。
呂布の運命に深く関わる人物でありながら、ある意味ではこいつさえいなかったらけっこう色々違ったんじゃないかとも思える、ある意味では一番悪いヤツでした。
ちなみに最後の方でちらっと出て来た攴胡赤児ですが、演義では『攴』が抜けて胡赤児と記されてます。
ただ名前が一字違うだけで役割やら何やらは変わりませんので大した事ではありませんが、本編ではちょっと珍しかったと言うだけの理由で正史の方の名前を採用しています。




