第二話
その日、李儒が出仕していなかったのには、ごく個人的な理由があった。
明け方に妻の陣痛が始まり、そこから出産に立ち会っていた為である。
元々李儒にとって董卓の栄達にはさほど興味が無く、皇帝の禅譲の話も手筈通りと言えた事もあって、大事である認識が無かった事も大きな原因と言えた。
むしろ董卓が皇帝になる事によって李儒は一通り役目を終えたと思い、育児が落ち着いたら出身地である西涼で隠遁生活を送る予定も立てていた。
その事は、同じ董卓軍の頭脳である賈詡や蔡邕と数日前に話をしていた。
賈詡は引き止めたかった様だったが、蔡邕は李儒の意見を尊重する様に賈詡を諭す。
「こう言うとなんだが、そなたはもっと血生臭いと思っておった」
その時に蔡邕は李儒に向かって、そんな事を言っていた。
「嘘偽りなく申せば、董太師の悪巧みのほとんどがそなたの手引きであり、悪逆の覇道を歩ませている張本人だと思っていたのでな」
蔡邕のあまりにも率直な意見に、李儒と賈詡は苦笑いする。
こう言うところが蔡邕と董卓が常に口論になる原因なのだが、あまりに率直な蔡邕は裏表が無い人物として、董卓から重用されている事も事実だった。
「極論かもしれませんが、僕は天下の帰趨というモノに興味は無いのです。妻と、生まれてくる子供の為に乱世を終わらせ、安寧の時代が来てくれれば自分の名声など関係ないのですよ」
「それでは、今やっている事は逆に乱している事になりはしないか?」
蔡邕はそう尋ねるが、李儒は首を振る。
「蔡邕殿。十常侍の時代、果たして安寧の時代と言えたでしょうか?」
「うむ、その通りだの。その時代の人間としては耳が痛い限りではあるが、そこは軍師殿のいう通りだ」
「ですが、悪し様に言うわけではありませんが、董太師の代になって十常侍より優れた安寧の時代になったと言えるでしょうか?」
「言えませんね」
賈詡の質問に、李儒は即答した。
「迷いが無いな、軍師殿は」
蔡邕の言葉に、李儒は頷く。
「言ってしまえば、十常侍の時代はごく上層部のみが豊かであり、その下の者達が汚泥の中に沈んでいた状態だったのを、董太師の時代になって撹拌した事によってその汚れが混ざり合った状態になったわけです。これからその汚れを取る時代へと移っていき、それが済んだ時に安寧の時代がやって来るのですから」
「うむ。それはまさに軍師殿の言う通りではあるが、具体的にどうするつもりだ?」
「策はあります。実は既にその策は動き始めてまして、董太師には話してあるのです」
「ほう、つまり軍師殿と董太師のみが知る秘中の秘と言うわけか」
「申し訳ございません」
「いや、構わん。なあ、賈詡よ」
「ええ。おおよその予想は付いていますから」
賈詡がそう答えると、蔡邕は興味深そうに見る。
「ほう、どんなモノか、この翁にも教えてくれんか? 軍師殿にも聞いてもらおう。もちろん、それが正解かどうかは答えずとも良いからの」
蔡邕に言われ、李儒は笑顔で頷く。
「それでは、と言ってもすでに動き出していると言う事だったので思い当たった、と言った方が正しいのですが、董太師が退位なさるのではありませんか?」
「何? あの男が退位? それは有り得んだろう?」
蔡邕でなくとも董卓が傲慢で強欲な事は知っているので、誰もがそう思うところだろう。
「私自身そう思わなくはないのですが、撹拌した時まず最初に取り除くのは、やはりかき回すのに使った棒でしょう。つまり、董太師と言う事です」
「だが、それは荒れるだろう、余計に」
「董太師、迷惑だから辞めて下さい、と言ったら荒れるでしょうね、さすがに」
「いや、それは荒れるどころでは済まんだろう」
「ですので、太師が納得される理由を与えて説得すれば、退位、引退していただけて、後の事は二代目以降に任される様になると言う事です」
「ふむ。しかし、そう上手く行くものかのう?」
「それは軍師殿の手腕次第と言う事で」
賈詡が最後にそうやって矛先を李儒に回してきたので、李儒は笑顔でかわす。
さすがに鋭い、と李儒は感心していた。
賈詡の予想はずばり的中し、まさに李儒と董卓が行っている事だった。
ここで全てを話せば、おそらく蔡邕は烈火の如く怒りそうなので先に蔡邕自身が言った通り、李儒は答えを口にする事は無かった。
太師退位の為のきっかけ。
それが帝位禅譲である。
だが、董卓は帝位に就くつもりはない事を李儒に対して明言していた。
董卓の言葉を借りて言うのであれば、目的はあくまでも漢王朝の復興であり新王朝の樹立など最初から眼中に無い、との事だった。
そう宣言した時の董卓の顔の晴れやかさは、皆に見せてやりたいくらいの、絵に書いた様なモノだったので、李儒は笑うのをこらえるのに苦労させられた。
その宣言や内容は事実であると李儒も認めるところだが、真実は別ではないかと李儒は疑っている。
筋金入りの無責任な董卓は、どんな形であったとしても一番上に立つ事を嫌う。
また、自分の手柄を自慢したい董卓にとって新帝国を樹立した初代皇帝の偉業より、瀕死の国家を復興させた偉大な人物として名を残す事を望んだ。
今の漢王朝は、現皇帝である献帝は自分のお陰で帝位に就くことが出来た上に、自分がいたからこそ偉大な皇帝として名を残す事が出来たのだ、と言えるからである。
それをそのまま蔡邕に伝えてしまうと、董卓の小さ過ぎる自意識の為に陛下を利用するとは何事だ、と怒鳴られそうだったので黙っていたのだ。
正直に言えば、李儒も董卓の過剰な自意識に付き合う必要も無く、董卓の悪行は万民が知るところなのでむしろ刑法に照らし合わせて断罪した方が漢王朝復興への近道ではあるのだが、それで上手く行くはずが無いので取った方法でもある。
董卓の退位に合わせて董卓の身内と言うだけで役職に就いている者達も、董卓の身辺警護と言う名目で西涼の僻地に飛ばし、その一方で地方の太守に任じた袁紹や袁術、以前暗殺に失敗して逃亡した曹操など、才能豊かな中堅格を中央に呼び戻して役職につける。
董卓に対する憤りから、大連合まで起こした彼らである。
現状の董卓が起こした腐敗を許すべからずと、急速に汚れを落としていく事だろう。
それによって衰退した漢王朝は息を吹き返し、再び腐敗するまでの数百年を過ごせる。
と言うのが、李儒の思い描いた策であった。
言うまでもなく、反感はある。
その為には武力行使も止むを得ないところなのだが、董卓は後継者に理想的な人物を残してくれていた。
呂布奉先である。
一騎当千の豪勇と言うだけでなく、率いて千軍万馬の名将である武神の名は広く知られるところであり、また善良で温厚な人となりも重責を担う立場の人物たる武将であった。
当然補佐は必要になるが、そこには格式に詳しく細やかに整える事の出来る袁紹が適任だろうと、李儒は考えていた。
漢王朝復興に際してあくまでも敵対する勢力など、おそらく西涼の韓遂、益州の劉焉の他には北方や南方の異民族くらいである事から、軍部は呂布と袁紹に任せておけば瞬く間に制圧出来るはずだった。
内政面では、北門の鬼として知られた曹操の辣腕に期待出来る。
それらの事が全て軌道に乗っていると言う実感があったからこそ、李儒は妻と生まれてくる子供の方に意識を向けていた。
そこに油断があった事は否定出来ず、詰めの甘さが致命的な結果を招いた。
助産婦達が屋敷に到着して、落ち着かないから出ていて下さいと言われ部屋を追い出された李儒は、普段の知的で冷静な軍師としてではなくただの父親として子供が生まれてくるのを心待ちにしていたが、突然屋敷の中が騒がしくなった事に気付く。
その騒ぎ方は、子供の誕生が待ちきれず宴を始めました、と言う様な微笑ましいものとは思えない悲鳴や怒号も混ざっていた。
この場を離れる事には抵抗があったが、それでも李儒は屋敷の主として騒ぎを収めなければならない。
自室から刀を取って腰に下げた時、屋敷の使用人の一人が李儒の元へ走ってくる。
「旦那様! た、大変です!」
「落ち着いて。何がありましたか?」
「兵隊が、兵隊がやって来て」
使用人の少女は、息を切らせて訴える。
兵、と聞いて最初に浮かんだのは董卓だった。
やはり李儒の立てた計画が気に入らなくなったかと思ったが、董卓は家族に対して情が深い人物でもある。
少なくとも李儒の妻は董卓の娘であり、兵を屋敷に送り込むと娘も傷付く恐れがあるので、董卓らしくない方法だと李儒は考えた。
「分かった。僕が話してみよう」
李儒はそう言って使用人を落ち着かせようとするが、使用人の少女は怯えて首を振る。
「殺されます! 警備の方も、旦那様と奥様を逃がしてくれと!」
「何? どう言う事ですか?」
それはあまりに董卓らしくない。
いや、董卓ではない。では誰だ?
李儒は使用人の少女に他の使用人と一緒に裏から避難する様に伝えると、状況を確認する為に屋敷の入口の見えるところまで移動しようとする。
が、既に遅かった。
門衛を突破してきたと思われる兵が数人、やって来たのだ。
「何の用ですか? ここを軍師李儒の屋敷と知っての狼藉であれば、どのような刑罰があるかも知っていよう」
李儒の静かな物言いに、兵士達は僅かに怯む素振りを見せた。
その様子から、これは董卓軍の兵ではない事を確信する。
だとすると反乱か。
そこに思い至った時、李儒は笑いがこみ上げてきて、堪えきれずに吹き出して高らかに笑っていた。
これぞ失笑と言わんばかりに、笑うしかなかった。
勝ったつもりでいた事に。すべて片付いたと思い込んでいた事に。
董卓はあれだけの事をやって来たのだから周りは当然敵だらけであり、反乱の火種など探すまでもなく燻っていたのだ。
李儒はひとしきり笑うと、薄気味悪そうにこちらを見ている兵士の方を向く。
「それで、首謀者は誰だ?」
李儒の質問に、兵士は答えない。
答えなくても、予想は付く。
董卓に敵対意識を持っている者は数多くいるとしても、それを行動に移せる人物となるとその数は極端に少なくなる。
その上で兵を動員して反乱を起こせる人物となると、この長安の都では二人しかいない。
皇帝である劉協と、司徒の王允。
あるいは、その二者が協力しているかだが、この二人だけで董卓の武力に対抗出来るとは思えず、また王允ほどの知恵者であれば当然対抗策は考えているだろう。
それはもう、あの若き武神一人しか考えられない。
「何をしている! その者は大逆の徒、董卓の娘婿。生かしておく理由は無し!」
兵の後ろから檄を飛ばしている者がいた。
王允の友人でもあり側近も務める、士孫瑞だった。
これほど強気に出てくると言う事はもはや大勢は決し、すでに残党刈りへ移行していると言う事だろう。
董卓が死んだ、か。
その事にはさして感慨深いモノは無かったが、李儒の思い残しとしては生まれてきた子供を見る事が叶わなかった事であった。
せめて妻や助産婦達が逃げ出してくれれば。
おそらく不可能だとは思うものの、そう願わずにはいられなかった。
士孫瑞に煽られて、兵達が李儒に槍を向ける。
「これでも西涼の男。そう易々と討たれはしない」
李儒は剣を抜いて、立ちはだかる。
剣を振って槍を打ち払い、兵を切り倒しながら李儒の脳裏に浮かんだのは呂布の事だった。
いたって善良で温厚でお人好しではあるが、呂布はさほど愚かと言う訳ではない。目の前に財宝を並べられ、後の地位を約束されたからと言って董卓との親子の縁を切って寝返るとは思えない。
また、王允と手を組んでいる事を疑った皇帝劉協だが、王允と結託しているのであればこのように内々に手を回すよりは、昨年の反董卓連合の招集を勅命によって行う事も出来るし、おそらく皇帝の威を示すのであればその方が良い事は王允にも分かるはずだ。呂布と言う天下無双の名将を押さえているのであれば、尚の事である。
そうしないと言う事は、これは王允の独断で陛下は関係がないと言う事だろう。
「……だとすると、偽勅か」
李儒がそこに思い当たった時、ついに兵士の槍が李儒を捉えた。
一人の兵士の槍が李儒の腹部を貫き、動きを止めた李儒の体をさらに数人の兵士が槍で突き刺す。
「臣下の分際で勅を操るなど、言語道断。大逆であるとするなら、太師など比にもならぬ。そこには私心の欲得のみであり、大義正道無し。その天下、短かろうて」
李儒は槍に貫かれ、吐血しながらも士孫瑞に向かって剣を伸ばしたが、兵の後ろに隠れる士孫瑞の元へは届かなかった。
董氏には苦労ばかりかけた。せめて僅かでもその苦労に報いてやりたかったが、それも叶わなくなってしまった。
李儒は薄れる意識の中で、妻と生まれたであろう子供の事を思い浮かべていた。
そうだ、董氏から子供の名前を考えてくれと言われていた。どんな名前が良いだろう。せめて、子供には幸せになってもらいたいものだ。
「何だ、殺してしまったのか? 生け捕りにして四つ裂きにしてやろうところだったものを」
薄れゆく意識の中、士孫瑞の声が最期に李儒の脳裏に響いたが、もはや李儒にはそれに反論する事も出来なかった。
李儒と言う人物
すでに何度か言ってきた通り、李儒と言う人物は三国志正史では皇帝劉弁に毒の盃を持って来た人、と言うだけの存在で董卓の軍師ではありません。
正史ではここは逃げ延びて李傕を頼ったらしいのですが、それ以降は消息不明になっています。
と言うより、別に軍師でも武将でも無いので、それ以降の活躍の場が無かった一般のモブと言う方が正しいかもしれません。
一方の演義では、本編の最後に士孫瑞が呟いた通りの四つ裂きの刑に処されているみたいです。
悪逆の報いなのでしょうが、漢の時代には封印されていたはずの極刑が用いられる辺り、人間蝋燭にされた董卓並の悪党扱いです。
が、意外とさらっと流される事の方が多いのも特徴と言えるかも。
ちなみに李儒の語った董卓退任後の展望ですが、おそらく董卓が洛陽で清流派や若手を大量登用したのは、こう言う事がやりたかったんだろうなと思って
私が勝手に妄想した事であり、本当にそのやり方で天下を収められたかは不明です。
まあ、董卓が相談役で幅をきかせているようでは、まず上手くいかなかったでしょう。




