龍は放たれた 第一話
第三話 龍は放たれた
衝撃は大きかったが、呂布も長時間放心していた訳ではない。
「王允殿、大逆の罪とは言え、それでも正式な太師は陛下に任じられた正式な官位。手厚く葬っていただけますか?」
「何を言われるか、呂布将軍。天下万民の怨嗟の声が聞こえぬとでも? 悪逆非道の報いを受けさせてこそ溜飲が下がると言うもの。何進大将軍の一族を始め、数多の臣下に行った無道を知らしめるためにも、その死体は晒すべし」
「それでは恨みを深めるのみ! 聡明な王允殿ならば分かるはず!」
呂布は食い下がるが、王允はそれを跳ね除ける。
「董卓の罪はそれだけ重いのは、将軍もお分かりのはずでしょう! 董卓のみならず、その身内、親族全て根絶やしにすべし!」
「待って下さい、王允殿! それでは禍根を残します!」
「それを断ち切るには根絶やししか無い! それは将軍も分かっているでしょう!」
「分かりません! それではただ徒らに血を流すだけではありませんか!」
呂布はそう言うと、赤兎馬にまたがる。
「俺は太師の身内を保護に行きます!」
「お待ち下さい、将軍! 将軍にはこの場を守護する任務があります!」
「俺も太師の身内の一人。俺も根絶やしの対象では無いのですか」
呂布の言葉に、王允は首を振る。
「将軍は董卓を討ち取った英雄です。なればこそ、この宮殿を守る時にその武勇と勇姿、その勇名が役に立つのです!」
「だとしたら、董太師の身内の暴発を避けるにも役に立つはず! もし太師の身内の罪を問うと言うのであれば、都から離れた西涼への流刑で手を打つべきです!」
「将軍!」
呂布は王允の制止を振り切って、宮殿から駆け出す。
しかし感情に任せて飛び出してきたのはいいが、董卓の身内と言ってもその数は多く、まず誰のところへ行くべきかを悩んだ。
呂布が最優先にするべきは、やはり自分の家族である。
王允は呂布を英雄と言ったし、おそらく呂布も王允派の武将として認識されているはずだが、それでも呂布が董卓の養子であった事実は変わらない。
「奉先、何が起きているんだ?」
呂布が自宅に戻った時、高順が呂布を迎えながら尋ねてきた。
「アレは狼煙か?」
高順は宮殿の近くから上がる煙を指差す。
「……ああ、狼煙だ」
「奉先、お前……」
高順は言いかけた言葉を飲み込む。
付き合いの長い高順は、この騒ぎに呂布が関わっている事に気付いたのだ。
「何の狼煙かは聞かないが、この騒ぎを収めるのであれば、お前が来るのはここじゃないだろ」
高順はそう言って、呂布の胸を拳で突く。
「何があってもお前の家族は俺が守ってやる。だが、奉先。お前にしか出来ない事があるだろ」
「ああ、分かっている。赤兎の足であれば、各所を回るのも……」
「待て、奉先。確かに赤兎の足は別格だが、さすがにそれは無茶だ。まずは太師府で兵権を掌握しろ。それから伝令を走らせて混乱を収める方が遥かに早い」
「そうか。そうだな」
混乱の中にあっても、高順は冷静に呂布に説明した。
この混乱を招いた当事者である呂布は、自分が思っている以上に冷静さを欠いていた事が分かった。
確かに赤兎馬が他の馬と比べて圧倒的な速さを誇ると言っても、多方面に同時に向かう事は出来ない。
それなら高順が言う様に、兵権を握って事態の収拾を図る方が明らかに早く、また呂布が各地を回るより的確で混乱も少なくなるはずだった。
急いで太師府へ戻るが、そこはすでに混戦の真っ只中にあった。
この状況を収拾するには、やはり軍権を掌握してしまう事が最良である事は誰もが目をつけるところである。
急遽弾圧される立場になった董卓の親族達と、一気に勝負を決めてしまいたい王允派の者達とで、激しい戦いを繰り広げていった。
まず先手を取ったのは言うまでもなく王允派だったのだが、この太師府に限らず全体で言えば董卓派の方が比べ物にならないほど多い。
そんな状況であるにも関わらず王允派の者達は、この太師府に対して高圧的な態度を取った為に、事態は一気に激化したらしい。
呂布が到着した時には、すでに双方に死者が多数出るほどの乱戦となり、この争いとはほぼ無関係な文官達の死体もいたるところで見られた。
これに関して言えば王允の落ち度とも言えるのだが、今ここでその王允に責任を問うにも本人がこの場にいないし、何より意味が無い。
「皆の者、余計な争いは止めよ!」
呂布が太師府に入り、大音声で叫ぶ。
「我は呂布なり! 我が声、聞こえぬか!」
呂布の声が届いた者達は、争いの手を一時的に止めて耳を傾ける。
王允派からすれば呂布こそが切り札であり、事態を飲み込めていない董卓派にとっては、呂布は董卓の義理の息子であり後継者としての最有力候補と言う人物である。
双方にとって非常に重要な人物であるだけでなく、何より尋常ならざる豪傑なので、その人物が来たと言う事だけでも争いの手を止めるほどの影響力があった。
「勅命により、太師董卓、大逆の罪により誅す! 既に太師は亡く、これ以上の争いは無意味である。今すぐ武器を置け。太師の親族と言えど罪が及ばぬよう、この呂布も尽力する事を約束する。今は無用無益な争いをしている場合ではない!」
呂布は戟を手にして叫ぶ。
元々何が起きてこんな事になったのかを把握していなかった董卓派の者達は、ここでようやく事態の重大さが分かったらしい。
「反逆者共を捕えよ!」
呂布ではなく、王允派の部隊長らしき男がそう指示を出す。
「その必要は無い!」
兵が動く前に、呂布がその指示を無効にして部隊長に向かって戟を向ける。
「この者らは反逆者ではなく、漢の民である。董太師の一族であるならいざ知らず、そうでない事くらい分かっているだろう。ならば武器を置き、投降するだけで良い。そもそも全員を捕らえると言っても、全員を収容出来る訳ではないだろう」
「ですが、王允様より……」
「この呂布が言っているのだ。それでは不服か?」
呂布が戟を揺らしながら問う。
こう言うやり方は好きではないのだが、ここで無用の口論を続けて無駄な時間を過ごしては、助けられる者も助けられなくなってしまう。
「分かったなら、行け! 皆に伝令を伝えろ! これ以上、無駄な血を流すな!」
呂布が部隊長に怒鳴る様に言うと、その部隊長ではなく周りの兵達が一斉に散り始める。
直接王允から指示を受けた隊長格ならともかく、その指示に詳しい説明もなく従わされている兵士達にとっては、訳のわからない命令より、武将として勇名を馳せる呂布からの具体的な命令の方が受け入れ易かったのだろう。
「呂布将軍、本当に我々に罪が及ばないようにしていただけるのですか?」
不安に思った兵士達が呂布のところに集まってくる。
「案ずるな。必要とあらば、罪に問われた者全員を俺の直轄部隊として集めてやる。そうすればいかに王允殿と言えど、そうそうに罰する事など出来ないはずだ。それに、罪人を量産したところで国益には何ら寄与しない。俺で分かる事であれば、聡明な王允殿には説明の必要もないだろう」
呂布の言葉に、兵士達は安心した。
だが、末端の兵士達はそれで説得出来たとしても、董卓の親族はそう簡単にはいかなかった。
これまで董卓が罰してきた者達はその親族にまで罪が及び、中には死罪にされた方が遥かにマシな扱いを受けた者達も少なくない事を知っている。
その為、呂布がどれほど言ったところで、自分達が同様に罰せられる恐怖は拭えないでいるのだ。
特に頑強に抵抗したのが、董卓の親族の中でも郿塢城ではなく長安にいた牛輔や董白達である。
董白は子供の身でありながら董卓の威光を振りかざしてやりたい放題であった事もあり、周囲の恨みを買うには十分過ぎたと言う事もあった。
「もはや勝敗は決した! これ以上無益な争いを続けると言うのであれば、力で押し通るが、それでも良いか!」
要所要所で立て篭る董卓の親族に対し、呂布は声をかけていく。
さすがにいかに広いとは言え宮殿内を赤兎馬で走る訳にもいかず、呂布は徒歩で数人の王允派の兵を連れて移動していた。
「呂布将軍、将軍は罪が及ばぬよう尽力すると言われるが、その言葉に偽りは無いか」
堂々とした少女の声が、立て篭る部屋の中からする。
「必ず罪に問われない様にする事は約束出来ないが、この呂布に出来る事であればいかな労力も惜しまない。この言葉に嘘偽りは無い」
呂布はそう言って一度言葉を切り、優しい口調で続けた。
「まして娘と同門の徒であるのなら、尚更だろう?」
その説得に応じて、董白とその近辺の者達も立て篭っていた部屋から出てきて投降する。
「董白殿、牛輔義兄がどこにいるかご存知ですか?」
「あの臆病者は、軍権を放棄してさっさと郿塢城目指して逃げちゃったわよ」
「そうですか」
「さあ、それより早く私に護衛を付けなさい! この私は捕らえられたのではなく、自らの意思で投降したのです! その処遇については、身分に相応しいものを要求します!」
胸を張って頭ごなしに兵に命令する董白には、さすがに呂布も苦笑を禁じえない。
董卓の英雄としての気概をもっとも色濃く受け継いだのは、案外この董白なのかも知れないと思えるほどだ。
呂布は手近なところにいた兵士達に董白とその一行の護衛を任せ、太師の執務室を目指した。
軍務だけで言えばその中枢の部所は別なのだが、最終的な決定権はほとんど太師によって行われる事が常であり、一部例外が軍師である李儒や王允の決済のモノがある程度だった。
しかもその一部例外は内務の事であり、軍権の掌握であれば太師の執務室を抑える事が最短である。
待てよ、執務室か?
呂布はふと思い当たった。
董卓が長安の太師府にいる時、執務室にいただろうか。董卓からの信用のいかんに関わらず、呂布は重要書類を董卓の元へ運んだ事があるが、その時運んだのは太師の執務室ではなく私室だった。
事の真偽は分からないが、董卓は以前冗談混じりとはいえ、太師の仕事など判を押すだけなのだから私室でも出来ると笑っていた事があった。
普通なら考えられない。
太師の決済を仰ぐ様な文書であれば、当然機密事項も含まれる。
それを執務室ではなく私室に運ばせる事など、あらゆる面から考えられない行為である。
が、董卓ならやりかねない。
それに董卓が太師としての執務を行うのは郿塢城の方が多く、この長安の太師府には口うるさい蔡邕から逃げる時に使う、と董卓は笑い話をしていた。
と、すると私室にあるのかも。
董卓派も王允派もこぞって兵権を狙っている中、場所の違う執務室と私室を同時に抑える事など困難であり、呂布一人では不可能である。
呂布は悩んだ末、董卓の私室を目指すことにした。
太師の執務室であれば、他の王允派の者も目指す事も十分に考えられる上に、私室を選んだ事にはもう一つの理由があった。
貂蝉である。
この長安で董卓の寵愛を一身に受けた少女は、立場上文句なしに王允派だった。
それゆえに、董卓派の者達から害される恐れもあったのだ。
王允の頑なな態度が招いたこの混乱を収める為にも、王允の養女である貂蝉の力添えは必要になる。
董卓は、この混乱を望んではいなかった。
それに、この粛清を徹底的に行えば董卓派の非常に強い反感を買い、軍の中枢である董卓軍の反逆を招く事になる。
そうなっては、董卓の目指した漢王朝再興への道が遠ざかってしまう。
呂布はそう思いながら、数人の王允派の兵を連れて董卓の私室に向かった。
その部屋の前に、薙刀を手に勇猛果敢に戦う貂蝉の姿があった。
「呂布将軍?」
まだ離れたところにいると言うのに、貂蝉は呂布に気付く。
「貂蝉、無事だったか」
呂布が行こうとしたその時、呂布が連れていた兵達が一斉に貂蝉に向かって矢を放つ。
「何?」
呂布が目を疑った時には既に矢は放たれ、貂蝉の小さな体を射抜いていた。
「貂蝉!」
呂布は無数の矢を受け、崩れ落ちる様に倒れた貂蝉を助け起こす。
「……将軍、ご無事だったのですね」
自身がもはや助かりようも無い致命傷を負いながら、それでも貂蝉は呂布の身を案じていた。
「あ、ああ、俺は大丈夫。それより貂蝉だ」
呂布はそう言うと、振り返って怒鳴る。
「医者だ! 急ぎ医者を手配しろ! お前達への質問は後にする。まず医者だ!」
「……将軍、太師は? 董太師はご無事なのですか?」
貂蝉から目に見えて生気が失われていくのが分かるが、それでもまだ貂蝉は他人の心配をしていた。
「……ああ、大丈夫だ。無事、郿塢城へ行かれた」
「そう、ですか。それなら、安心です」
そう言って微笑むと、貂蝉の全身から力が抜けた。
「将軍、ここで立ち止まっているわけには行きません」
後ろから声をかけてきた若い部隊長の襟首を、呂布は掴んで引き寄せる。
「貴様、何故矢を放った」
「例え女であれど、武器を持って将軍のところへこようとする董卓派の者。将軍にお近づけする訳にはいきますまい」
部隊長は悪びれる事なく言う。
「彼女は王允殿の養女だぞ? お前は、その娘に矢を射掛け、さらにはその命を奪ったのだ」
「董卓の侍女です。私は王允様より、董卓の縁者を殲滅せよとの命令を受けています。例外は呂布将軍とその妻子のみ、と。それを実行したまでであり、それを咎められるのであれば王允様からであるのが筋ではありませんか?」
呂布を恐れる事なく、その男は言い放つ。
「貴様、名は何と言う?」
「王允様の甥、王凌と申します」
「……分かった。貴様の言には一理ある。では、特に貴様に命じる」
呂布はそう言うと、既に事切れた貂蝉を抱き上げ、王凌に渡す。
「事の次第、貴様の口から王允殿に告げ、成否を問え。後の事は、王允殿に従うと良い」
呂布はそう言うと、王凌を突き放した。
王允と呂布。
本来であれば磐石であったはずの体制だが、協力体制を取り合うべき二人の間にはこの時にはもう修復不可能なほどの溝があり、そこには闇が広がっていた。
貂蝉の最期
三国志正史ではそもそも貂蝉は存在しておらず、モデルとなった侍女も王允から呂布と董卓を仲違いさせるように指示された後の消息は不明です。
三国志演義の原点とも言え、貂蝉と言う架空の人物が登場した羅貫中氏の演義では、貂蝉はその後呂布の妾となって生き残りました。
日本で広く知られる三国志である、吉川英治三国志や漫画の横山光輝三国志では、董卓の死後自害して果てています。
漫画蒼天航路では、貂蝉は王允の放った暗殺者によって暗殺されています。
その他では、呂布の妾となった後に曹操の元に身を寄せ、後に赤兎馬とセットで関羽に与えられたとか、曹操と関羽が取り合って殺されたとか色んな最期があります。
ただ、何事にも100%完璧を求める王允の性格から考えると、董卓討伐はあくまでも国家の為と言う大義名分での事であるようにしないといけないので、策略の全貌を知る貂蝉は生かしておけなかったのではないでしょうか。
また、国を憂い自ら連環の計を実行した聡明な貂蝉であればその事も十分承知していた事も考えられ、その結果事を成したら自害すると言うのは自然な流れだとも思います。
その一方で、もし王允が私欲に走ったのであれば貂蝉を呂布の妾と言うより妻にする事で、身内による天下乗っ取りを画策したでしょうし、貂蝉自身死にたくないと思ったのなら呂布にその身を預けて保身に走ったと考えれば辻褄は合いますが、どうも王允にしても貂蝉にしてもそれらしくない気がします。
本編の貂蝉は口が軽いと言う事はありませんが、頭が良くてお人好しなので王允の裏工作に気付く恐れがあり、その場合黙っていられないかもしれないと王允が判断した為、暗殺対象の中でも董卓や李儒と同等の優先順位だったと言う事になります。




