第十六話
董卓の身辺警護の厳重さは、他の誰よりも呂布がよく知っている。
今の呂布はその身辺警護の責任者から外されているが、あくまでも責任者が変わっただけで身辺警護する人物が変わった訳ではない。
董卓の身辺を警護する者達は、諸事情により武将にこそなれなかったものの、個人の武勇で言えば並外れた実力者であり、文字通り一騎当千の武芸者と言える。
彼らは出自や財力に恵まれなかった事もあって実力を発揮出来ず燻っていたところ、呂布や李儒から拾い上げられた者達だ。
どれほど董卓の身辺警護が薄くなると言っても、最低でもそう言う人物が五人から十人は付いて回る上に、董卓自身も並外れた豪傑という事もあって確実に董卓を討つつもりであれば、もっとも警護が手薄になるところを狙って百人以上の兵を投入するくらいでなければならない。
その場合の最大の問題は、兵の手配を董卓に知られない様にする事が極めて困難である事と、それほどの兵を展開出来る状況で董卓の警護の兵が五人から十人と言う事が有り得ないと言う二点である。
より多くの兵を集めて伏せる場合、その数を集めている前に李儒などに頭を抑えられて未遂に終わる事は疑いない。
董卓の警戒心の強さの現れでもあるのだが、それだけに董卓を武力で排除する事は難しい。
それを可能にするのは、呂布の武勇ではなく王允の役割である。
郿塢城の董卓に李粛を派遣し、ついに皇帝から太師董卓に帝位を禅譲したいと言う事を伝えに行かせた。
当然これは断るべきところであり、どれほど野心家である董卓でも一度目の申し出で受ける事は有り得ない。
はずだったのだが、董卓はいきなり乗り気だった。
当然それに対して蔡邕は猛反対したが、董卓は断るにしても書状ではなく皇帝の前でその意思表示をする事が筋だ、と言って郿塢城から長安へ連れ出す事には成功した。
李粛や郭汜などは禅譲したいと言うのであれば、皇帝を長安から郿塢城へ呼ぶべきだと主張したが、蔡邕が激怒して李粛達は説教される事になった。
長安までは樊稠とその軍が同行したが、宮廷まで軍が付き従う事は出来ない。
また、この時李儒は早朝から妻の陣痛が始まったと言う事もあり、急遽であったが休暇を取っていた。
董卓は宮廷に馬車で乗り込んでいく。
そこには警護の兵さえも入る事の出来ない聖域であり、董卓の他は馬車の御者しかいない。
「そこで止まれ、董卓!」
宮殿の前まで来たところで、衛兵が槍を構えて董卓の馬車を止める。
「何事か」
董卓は馬車から姿を出さずに言う。
「勅命である! 逆賊董卓、天下に仇なす者として捕縛する!」
「ほう、この太師を裁くと。一兵卒が勇ましい事だ」
董卓はのそりと馬車から現れ、槍を構える衛兵達を睨む。
とてもまっとうな人とは思えぬ威圧感と迫力に、衛兵達は何もされていないと言うのに一歩下がる。
「んん? 勅命、とか言っておったのぅ。では献帝陛下が、この董卓の罪を問うと言うたのか? そんな事があるはずもなかろう」
董卓が一歩前に出ると、衛兵達はさらに一歩下がる。
宮殿の前には衛兵達以外にも、董卓を裁くための重臣達が並んでいたが、その者達はさっそく血の気が引いて逃げ出さんばかりだった。
「献帝陛下は、キサマらの浅知恵より遥かに聡明であり、この董卓の罪を問う時にわざわざ禅譲などと浅い策を弄する事も無く、本人が直接名指しで問う事だろう。そんな事も分からず、陛下の威光を利用するような小細工をしたのは誰だ」
董卓は七星剣を抜く。
「名乗り出る事も出来んだろうから、誰が主導したか言え。言った者は生かしてやるぞ」
董卓は七星剣を向けながら、笑みを浮かべる。
見る者を恐怖で氷漬けにする様な、凄惨な笑みは尋常ではなかった。
もし呂布を武神とするのであれば、反董卓連合で戦った関羽は鬼神、この董卓は魔神と呼ぶに相応しいだろう。
「どうした、皆殺しにされたいか」
董卓は一歩一歩確実に、宮殿に近付いて来る。
「臆するな! その者は罪人である!」
王允が衛兵達を鼓舞する様に言う。
「なるほど、貴様の手か。王允」
董卓はそう言うと、王允に七星剣の切っ先を向ける。
「貴様らしい小細工であるな。王佐の才と謳われたのも、今は昔。取るに足らない小物に成り下がったものよ」
董卓は鼻で笑う。
「捕えよ。その者こそ、大罪の徒である!」
董卓の轟雷の如き声は、衛兵達を硬直させる。
「天子様の勅命である! この者の脅しに屈する事なく、討ち取れい!」
王允の声に呼応する様に衛兵達は槍を構え、一斉に董卓の大きな胴を槍で突く。
だが、董卓は倒れる事無く、むしろ不敵に笑う。
「どうした、腰抜けども。天意を成す者は鋼の刃さえ弾くと言う。天子の勅命こそ天意であるはずだが、どうだ? その勅命に天意はあるのか? その勅命は本当に天子によるものか? もし勅命を弄ぶようであれば、この董卓以上の大罪と知れぃ」
「だまされるな! それは天意などではなく、下に鎖帷子を着込んでいるからだ!」
「ふっはっは! 聞くに耐えぬ戯言よの、王允」
董卓はそう言うと、自らを突く槍を数本脇に抱える。
「ぬぅん!」
その槍を力任せに振り抜くと、その槍を持っていた衛兵数人をまとめて薙ぎ倒す。
「偽勅を持って太師を害するなど、言語道断。それに加担した者も、三族皆殺しだ」
ばらばらと槍を足元に捨てると、董卓は七星剣を衛兵達に向ける。
「が、儂とて鬼ではない。勅命であると言われ、それに背く事などそう簡単な事ではないからのぅ。首謀者をお前達の手で、この儂に引き渡せ。さすれば、加担した者達の罪は問わぬ。だが、長くは待たぬぞ。今すぐその大罪人を捕えよ!」
空気が変わるのを、誰もが感じていた。
これはもう、見事としか言い様がない。
董卓は王允の指摘の通り、着込んでいた鎖帷子で槍を止める事が出来た。
おそらく董卓は衛兵達が本気で自分を突くとは思っていなかったはずだが、それでも突いてきた事には驚いたはずだ。
そこからが天下人、董卓の行動である。
その想定外の事態に対して、それを利用するなど誰にでも出来る事ではない。
槍を帷子で止めたと知った後の脅し文句は理知的で嫌でも頭に入り、その直後に人並み外れた膂力を見せて物理的な恐怖を煽る。
心身同時に攻められては、衛兵達に恐怖を感じるなと言う方が無理な話だ。
動揺が走っては、数の有利が薄れてしまう。
不安が伝播すると、誰もが好き好んで犠牲になりたいと思わないのだから、誰も前に出られなくなってしまうのだ。
「どうした。明日では、この場にいる全員を罪に問うぞ」
董卓は笑いながら言うが、衛兵達は誰も董卓に向かって行けなくなっていた。
その董卓に、一騎近付いて行く者がいた。
大炎を思わせる真紅の巨躯の馬、それに騎乗しているのは黄金の鎧を纏う美丈夫であり、その手には方天戟を持つ勇将の姿。
「奉先か」
董卓は一瞬嬉しそうな表情を浮かべたが、すぐにこの場に現れた呂布の真意に気付いた。
「そうか、奉先。お前も踊らされた側か」
「太師、お願いですから罪に服して下さい。これ以上罪を重ねては、太師だけではなくその御身内にまで及びます。今なら、太師で止める事が出来るのです」
呂布は赤兎馬から降り、方天戟さえも持たず、丸腰で董卓の前に膝をついて訴える。
「たわけ! どれだけ踊らされれば気が済むのだ! 童子でもあるまいに、どれだけ甘い事を考えておるか! 奉先、今すぐ王允を捕えよ! さすれば貴様の罪は問わぬ。儂に逆らえば、貴様はもちろん、三族皆殺しだ!」
「太師、私の父は貴方です。思い止まってはいただけませんか?」
「くどい!」
董卓は怒鳴りつけると、呂布に向かって七星剣を振り下ろす。
しかし呂布は膝をついた体勢から素早く側転して剣を躱し、一歩後ろに下がる。
それでも董卓はすかさず呂布に向かって切りかかるが、呂布は逆に前に踏み出し、董卓の右手を抑えて肘を押し、さらに手首をひねる。
その結果、董卓の七星剣は自らの分厚い胸に吸い込まれて行く様に貫いていた。
衛兵の槍では貫く事が出来なかった帷子も、宝剣である七星剣を止める事は出来なかった。
単純に七星剣の切れ味の良さと言うだけでなく、董卓の攻撃の勢いをそのままに誘導して自らを貫かせた、呂布の超人的な技術もある。
衛兵が槍で突いてもカスリ傷一つ付けられず、逆に戦意を失うほど実力の違いを見せていた董卓を、呂布は素手であしらったのだ。
それは自分で胸を貫く事になった董卓だけでなく、呂布本人を除く全員が目を疑う光景だった。
「太師、何故こんな無茶を……」
呂布は、まるで自分が刺されたかのように苦しげな表情で呟く。
「こうも簡単に敗れるとは思わなんだ。まったく、歳は取りたくないものよのぅ」
胸を貫かれながらも、董卓は呂布と違って穏やかな表情で、笑みさえ浮かべて呟いた。
「まったく、子供でも分かる絵を描いていたと言うのに、王允如きに乗せられおって。呆れてモノも言えんわ」
そう言いながら、董卓は膝から崩れ落ちる。
「太師!」
「儂の描いた絵では無いが、事ここに至っては仕方が無い。奉先、よく聞け」
董卓は呂布の肩を掴む。
「我ら董一族を要職から解き、西涼の地で適当な地位につけてやれ。ゴネて歯向かうのであれば、構わんから打ち倒してやるが良い。だが、他の者達には寛容であれ。さすれば天下安寧の道も開けよう。都合の悪い事があれば、全て儂の責任にすれば良い。今後の事で何かわからない事があれば、李儒と蔡邕に相談する事だ」
言い終わると、董卓は大きく息を吐く。
「死ねぇ、董卓!」
衛兵の一人が董卓を後ろから槍で突くが、董卓は面倒そうに振り返り、衛兵を睨む。
「空気の読めん奴め。黙って見ていろ、愚か者めが」
結局董卓を貫く事は出来なかった衛兵の槍を董卓は掴むと、逆に衛兵を叩き伏せる。
胸を穿たれ、鮮血は足元を濡らし、片膝をついた状態の六十を前にした董卓だが、それでも並外れた膂力を見せつけた。
この衛兵も宮殿を守るほどの役職を与えられた人物であるのだから、相当な実力者であるにも関わらず、董卓の足元にも及ばない。
「呂布、その化物を討ち取れ! そやつは大逆の罪人だ!」
王允が叫ぶのを、董卓は鼻で笑う。
「程度が知れるのぅ、王允。残された親子の僅かな時間くらい、好きに使わせろ。なぁ、奉先よ」
胸を貫かれた董卓は、もう長くは生きられない。
それは董卓本人が一番よく分かっている。
だが、周りから見ている者達にはそう見えないのだ。
この魔神董卓は、このまま死ぬ様な事は無く、暴虐の限りを尽くすのではないか、と言う恐怖に煽られていた。
それだけに王允は呂布に命じたのだが、他の者達と違って呂布は死が間近に迫っている董卓を恐れていない。
「王允も、もう少し出来る奴かと思っておったが、存外俗物であったか。儂も見る目が曇っていたらしい」
董卓は、自らの胸に刺さる七星剣の柄を握る。
「良いな、奉先。これは、漢王朝再興の布石であり、今後千年に及ぶ栄華の始まりにもなる大業である。ツメを誤るなよ」
董卓は自ら七星剣を引き抜く。
そこから鮮血が溢れ出し、董卓はそのまま血溜まりの中へ崩れ落ちた。
董卓が長安へ遷都して一年足らず。
西暦一九二年、四月二二日。現漢王朝において最高位である太師董卓、大逆の罪によって誅す。
英傑の死は、そう記される事となった。
「狼煙を上げろ! 逆賊董卓、討ち取ったと!」
董卓の元で放心している呂布を置いて、王允は周りに指示を出す。
勝鬨を上げ、衛兵達が狼煙を上げる中、呂布だけが董卓の死を悼んでいた。
三国志中で、もっとも天下統一に近かった男
それが董卓だったのではないでしょうか。
晋の司馬炎が天下統一を果たしますが、その時すでに魏と蜀は無く、ぶっちゃけその時代を三国志と言っていいのかとも思いますので、私の中では董卓がもっとも統一に近かったと思っています。
が、ここが董卓の限界で統一は不可能だったとも思います。
洛陽時代の董卓であればともかく、長安に入ってからの腐敗ぶりは目に余るモノがあり、董卓の年齢から考えても長く無かったでしょうが、そう遠からず董卓政権は瓦解していた事でしょう。
ちなみに本編中に董卓が描いた絵がどうとかですが、これは天下の展望の話であって絵画の話ではありません。
そういう趣味は無かったのではないでしょうか、多分。
それの内容については次々回辺りで詳しく説明します。多分。




