第十三話
王允もようやく董卓と言う人物が分かってきた。
先入観と言うのは厄介なモノで、王允は中々董卓と言う人物の事を正確に理解する事が出来ず、これまで後手に回っていた事を認めざるを得ない。
まず董卓は猛将であり、ワガママで癇癪持ちかつ気紛れ、贅沢を好み責任感は希薄で、事の善悪より好嫌を優先すると言うのが、誰もが持つ董卓の印象である。
当然それも董卓ではあるのだが、それは董卓の目立つ一面でしかなく、本質となると別であると言える。
董卓は西涼の出身なので辺境と言えるのだが、それでも十分すぎる教養があり、情を優先するのは間違いないが理を蔑ろにすると言う事も無い。
感情の起伏が激しい上にワガママな性格でありながら、人の話に耳を傾け、その判断力も人並み外れたところがある。
腕力自慢の猛将でありながら、実は軍師並の先見の明と冷徹な知略、判断力を有する人物と言うのが董卓なのだ。
だが、董卓には一流の軍師には無い強みと弱みがある。
強味としては、基本的に頭脳労働の軍師と比べて圧倒的に腕力に勝り、いざと言う時には暴力に訴えると言う、通常の知略戦ではありえない選択肢を用意出来ると言う事。
弱味は感情に任せる事が多く、それによる失敗を認めないところである。
特に独特の考えと言うか、自分が考えている事が正解だと信じたい傾向が極めて強い。
情報戦において、その考えは致命的欠点と言える。
特に今であれば、忠誠心には乏しいものの能力は桁外れに高い李儒の意識が董卓ではなく、出産間近の妻の方に向いている為、王允はここから全てを賭けて動く事を決断出来た。
董卓暗殺の手段として、刺客を送り込むと言うのは下策中の下策と言える。
以前より呂布が遠ざけられつつあるとはいえ、それでも移動などの際には身辺警護を行うのは呂布であり、また董卓自身も並外れた武勇を持つ豪傑である。
もっとも有効と思われるのは毒であり、今ならその知識も豊富な貂蝉が誰よりも董卓の近くにいる上に、どこが気に入られたのか溺愛されている事も好都合だった。
が、これも断念せざるを得ない。
何しろ貂蝉に嘘を吐かせたところで一瞬にして露見し、貂蝉が個人でそんな事を企むはずもなく、すぐに養父である王允の差金だとバレてしまう。
呂布にしろ貂蝉にしろ嘘が極端に下手な人物である事から、あの慎重な董卓や李儒が側近として近付ける事を良しとしているのだ。
曹操から裏切られた後は、さらにその傾向は強い。
……毒、か。
最近貂蝉に会った時、貂蝉は満面の笑みを浮かべてこんな事を言っていた。
「太師が私に料理を食べさせてくれるんです。太師って、いつもあんな美味しいモノを食べてたんですね!」
実に幸せな娘だ、と王允は心の底から感心しつつ呆れ果てた。
要は毒見である。
貂蝉は医術に精通していることもあって、鼻が利く。
殆どの場合ただの食いしん坊としか見られないのだが、香りだけで料理に使っている食材や調味料を言い当てる事が出来るほどで、毒を混入させる事は極めて困難なのだ。
つくづく嘘が下手なのが悔やまれる。
しかし、それだけに董卓から寵愛され、重用されている事も分かった。
だが、毒とは何も毒薬の事だけを指すモノではない。
王允にとって痒いところにあと少しで手が届いていない状態が続いているが、そこを待ってはいられない。
董卓の元には連日董卓の身内の者が集まり、こぞって呂布の危険性を説き続けている。
大体の場合は二、三言聞いて追い返す事が常なのだが、最近では若干風向きが変わってきていた。
数多くいる董卓の孫の中でも、もっとも溺愛している孫娘董白までも呂布に対して反感を抱いてきたのである。
董白が言うには、呂布の娘から散々な暴力を受けて私塾から自分を追い出そうとしていると言う。さらには父親である呂布も董卓の事を力で排除しようとしている、との事だった。
所詮は孺子、女児の戯言よと蔡邕などは一蹴したのだが、普段であれば同じように一蹴したはずの董卓が、何故かこの時は聞き入れる素振りを見せた。
最近の董卓は、呂布を煙たく思っているところがある。
今回の、本来であれば騒動にもならないはずの子供の喧嘩に、太師である董卓が口を挟む事自体がおかしな事なのだが、その事について何故か王允も呼ばれた。
いつもならここに李儒がいるところなのだが、この時は董卓と蔡邕と王允くらいしかいなかった。
「呂布将軍の事を知れば、その様な事が無い事はお分かりのはず。呂布将軍であればその能力はありましても、その様には考えたりしないでしょう」
王允は董卓に対して、そう答えた。
「……そうよのう」
董卓は考え込む様に呟く。
今なら董卓が何を考えているか、王允には手に取る様に分かった。
董卓は悩んでいるのではなく、迷っているのだ。
もし董卓が心底呂布を信頼しているのであれば、いかに溺愛する孫娘董白の言葉であったとしても、蔡邕が言った様に所詮は孺子の戯言と切り捨てたはずであり、また逆に董白に対して忠臣に対する讒言を咎めたはずだ。
だが、董卓には先日呂布の接待が気に食わず、呂布を一兵卒に降格させただけでなく呂布の妻を足蹴にした負い目がある。
呂布の家族思いは特に知られている為、あの一事だけでも董卓に対して恨みを持つ事は十分に考えられる、と董卓自身が考えているのだ。
そして呂布がその気になれば、その武力を董卓軍では排除する事は困難である事も董卓には分かっている。
十中八九呂布が裏切る事は無い。だがもし、万が一にもそう言う事があった場合にはどうか、と言う迷いが出ているのだ。
それであれば、迷いは深い方が良いと王允は判断した。
「呂布将軍と言えば、高潔なる人士であり、当代一の名将。都の女子衆も呂布将軍が姿を見せるだけで卒倒する者もおるとか。いや、閣下も後継者に恵まれ安泰ですなぁ」
王允の言葉に、董卓は眉間に皺を寄せる。
董卓の気難しい性格も、逆手に取れば簡単に利用出来る。
董卓は自分の考えや価値観が第一であり、それに反する意見は聞き入れるのに時間がかかる。
また、自分の意見に対しての反対意見には態度を硬化させる傾向が強く、もし呂布に対して絶対の信頼を置いているのであれば、危険性を説けば説くほど呂布を信頼しようとする。
その逆もまた然り。
呂布に対する疑念が沸いたのであれば、呂布を褒めちぎる事によって董卓の疑念をさらに深くする事が出来るのだ。
おそらく董卓は解散したあと、それとなく貂蝉に呂布について尋ねるだろう。
それは貂蝉の意見を聞きたいというより、考えを整理する為の独り言に近いものなのだが、貂蝉はこちらから指示するまでもなく呂布の肩を持つはずだ。
と言うより、貂蝉は誰に対しても悪し様に言う様な性格ではない。
それが今の状況では、素晴らしく都合が良い。
董卓に軍師としての資質があったとしても軍師となれないのは、その感情の起伏を自分で制御出来ない事にある。
決断に迷う董卓に、寵愛している貂蝉が自分の考えとは逆の事を言われると、さらに呂布に対しての不信感を募らせる。
そうして芽生えるのが嫉妬の心。
嫉妬心と言うのは、一度芽生えると消える事は無い。
若く才気溢れる美男子の呂布奉先に対し、どれほど権力を得たとしても醜く老いていく事は変えようがない真実であり、鏡を見るたびにその嫉妬心は膨れ上がっていく事だろう。
董卓に対して打てる手は、今のところこの程度であり、あとは董卓自身が暴走して自滅していくはずだ。
問題は呂布である。
呂布に対しても同じ手を打ち、同じように嫉妬に狂わせてこそ貂蝉と言う鎖を利用した美女連環の計の完成なのだが、呂布にその気が一切ないのは問題であり、また貂蝉もそこを自分の判断で調整出来るような人物ではない。
このままでは董卓一人嫉妬に狂ったところで、前の様に呂布が降格するだけで事が収まってしまう。
董卓を正面から討ち取れるとすれば、それは呂布をおいて他にない。
それだけではなく、董卓亡き後の武の要として呂布の利用価値は十分すぎるほどにあるのだから、手駒として手懐ける必要がある。
「今日のところは、ここまでとする。皆、ご苦労だった」
董卓は今もなお迷っているのは一目見て分かる状態だったが、王允と蔡邕を部屋から追い出す様に解散を宣言する。
「王允殿、何をお考えか?」
蔡邕は王允に尋ねる。
「何を、とは?」
「貴殿の先ほどの言、あえて太師を惑わしているようにも聞こえたが」
「いや、その様な意図はありませなんだ。私は貴重な後継者である呂布殿を、この様な些細な諍いで失うような事が無いようにと思い、呂布将軍の素晴らしさをそれとなく太師にお伝えしたつもりだったのですが」
「……ならば良いのだが」
そう呟くと、蔡邕は去っていく。
蔡邕なりに疑念を持ったようだが、蔡邕も漢の臣である。
董卓の専横を快くは思っていないはずなので、いずれ事が成就した際にはわかってくれるだろう。
王允は帰宅する前に呂布家に書状を届け、呂布を自宅に招いた。
標的は呂布なのだが、呂布には非常に分かりやすい弱点がある。
呂布の家族である。
なので今日は呂布だけでなく、妻と娘も招待してあった。
普段から質素な生活をしていると有名な呂布家であり、太師をもてなす時にも蛇や蛙を捕まえてくる様な一家なので、今日は董卓を迎えた並のご馳走を用意してある。
使用人達も董卓の時とは違って、命の危険が無いので伸び伸びと料理を作っていた。
「こんばんは。お言葉に甘えて、家族でお邪魔させていただきに来ました」
呂布はそう言って、王允に挨拶する。
いつもの矛は持っていないが、呂布は赤兎馬に跨り帯剣している。
これだけで十分絵になる男だ。
後続の馬車に呂布の妻である厳氏と、娘の呂蓉が乗っている。
護衛は最低人数であり、呂布の知名度から考えるとちょっと少なすぎるのではないかと不安になるほどだが、呂布自身が桁外れな武将であるのだから護衛自体必要無いかもしれない。
呂布とその家族を王允は迎え入れると、呂布の護衛としてついて来た者達も、それぞれ別室に案内する。
呂布は家人との繋がりも強く、どちらかといえば家人側の方が呂布家の人物達より金のかかったモノを食べていると言うのは聞いたことがあった。
「こんばんは。本日はお邪魔させていただきます」
呂布の妻の厳氏と、娘の呂蓉が王允に頭を下げる。
黙って座っていれば、と言う特殊な条件付きではあるのだが、厳氏は『長安でも三指に入る美女』と、呂蓉は『長安一の美少女』と言われている。
が、二人共そんな特殊な条件が必要になるほど、見た目とは裏腹なところが大きい。
特に娘の呂蓉は、同年代の暴君董白に一歩も譲らない女豪傑として名が通っており、また並み居る不良少年達を腕力でねじ伏せたと言う武勇伝すら持っている。
今回の騒ぎの一因も、この少女だった。
「いえいえ、大したおもてなしもできませんが、本日はごゆっくりして下さい」
王允はそう言うと、呂布一家を案内する。
その間、呂蓉は妙に周囲を見回していた。
落ち着きの無さはある程度予想していたが、何か探しているのだろうか。
「父ちゃん、貂蝉の姉ちゃんは?」
呂蓉が呂布の袖を引いて尋ねているのを、王允は聞きつけた。
「貂蝉は太師のところだけど、おや? 呂布将軍のところに行っていませんか?」
王允は首を傾げて呂布に尋ねる。
「ウチにですか? いや、ウチには来ていませんが」
「おかしいですね、太師が貂蝉を連れて行く時、私は太師に伝えたのですよ。貂蝉は呂布将軍のお嬢様と何かしらの約束があるらしいので、呂布将軍の家に行かせて下さいと。太師も分かったと言っていましたので、てっきり呂布将軍の家にお世話になっているものと思っていたのですが」
王允は白々しく言う。
今日は居ないものの、貂蝉は時々この王允邸に帰ってきては近況報告をしている。
董卓との口約束の事を貂蝉は知らないらしく、本人は本当に太師の身の回りの世話の為に董卓に仕えているつもりでいた。
「まあ、太師にお仕えしているなんて。さすが、王允様のご息女ですね」
厳氏が素直に喜んでいる。
他人事に一切関わりを持とうとしない氷の美女とでも言う様な外見なのだが、驚く程のお人好しでおっとりしている厳氏なので、基本的に口を開くと台無しになってしまう。
娘の方も外見は大人びているのだが、実際には実年齢より幼く感じられる上に、上品で美しい外見とは裏腹にがさつささえ感じさせる。
それは呂布にも言えるのだが、共通している事は、家族揃って裏表が少なく人を騙す事に向いていないと言う事だ。
「じゃ、姉ちゃんには会えないんだ」
素直に喜ぶ厳氏とは対照的に、呂蓉は落胆しているのが一目で分かる。
「じゃ、もう帰ろう」
と、呂蓉は極端極まりない事を言い出す。
「お嬢様も太師の孫に当たる方。太師のところに顔を出せば貂蝉にも会えるのでは?」
「やだ」
王允は呂布に提案したつもりだったが、呂蓉が即答する。
「それだったら、大婆ちゃんのとこに行く」
呂蓉はそんな事を言って、両親を苦笑いさせていた。
董卓嫌い、か。これは上手く利用出来るか?
王允は手探り状態だったが、それでも呂布家族から何かしら利用出来る手がかりを探していた。
董卓と王允の関係性
この二人の関係、ちょっと妙なところがあります。
当初はお互いの利害の一致から協力体勢をとり、都での影響力が強い王允が地方から出て来た董卓の後ろ盾になってます。
ですが、洛陽入りを果たした直後くらいから王允は董卓の事を煙たく思っていた節があり、事あるごとに董卓失脚やら暗殺やらを画策していた様子が伺えます。
その一方で意外な事に董卓の方は王允を煙たく思っている様子は無く、事実上三公を廃止した後にも王允は董卓政権のブレーンとしてその席を確保し続けていたみたいです。
猜疑心が強かったはずの董卓ですが、何故か王允の事を手放しで信頼していたのは董卓にとってそれだけ影響力を持っていたのか、あるいは王允が天才的に上手く誤魔化していたかだと思います。
さすが王佐の才と評された王允とも言えますが、董卓の人を見る目の無さも伺える話です。




