第十一話
呂布邸での事が懲りたと思われていた董卓の部下の自宅回りが再開される事となり、それには王允が選ばれた。
正直なところ、迷惑な話である。
出来る事なら、他の武将のところを回って溝を深め合ってからの方が非常に都合は良いのだが、董卓の指名を断る事の方が大きな問題になるのでやむを得ない。
この前の呂布邸の時は、董卓の他、王允や李儒も同行していたのだが、今回は董卓一人である。
下手に気を使わなくてもいい反面、何かあった時に助けてくれる者もいないと言う事でもあった。
そういう意味では呂布がいてくれると助かるのだが、それだと董卓と呂布の間に溝を深めさせると言う当初の目的が極まで、困難になってしまう。
「お義父様、何かお悩みですか?」
深刻な表情で溜息を何度もついている王允に、貂蝉が心配そうに尋ねる。
「うむ、まあ」
王允は言葉を濁して貂蝉を見るが、貂蝉は首を傾げて王允を見ている。
仮にこの貂蝉が李儒並の切れ者であれば策や計といったモノも使いようはあるのだが、残念ながら貂蝉は致命的にそういう事に向いていない。
決して頭が悪い訳ではなく、むしろ頭の回転は早くよく気が付くところは良いのだが、とにかく騙し合いや隠し事にまったく向かないのだ。
そんな性格のもあって同種の呂布と気が合ったのかも知れないが、今は困りものでしかない。
そんな娘に今憂慮している事を相談した場合、確実にどこかに漏れて全てを失う事になってしまうのだ。
「董太師は、喜んでくれるかと心配になってなぁ」
「大丈夫ですよ、お義父様。お心は必ず伝わるはずです」
貂蝉は請け負ってくれるが、世の中そんなに甘くない。
こちらがどれほど相手の事を考えていたとしても、それが相手に正しく伝わらなければそれはただの自己満足でしかないのだ。
いっそ今日のこの場で毒殺してはどうだろうか。
そう言う考えもよぎったが、董卓は豪胆かつ慎重な男である。
先の呂布邸でも、激怒した最初の理由として上げたのが食べ物の善し悪しではなく、自身の毒殺を疑っての事だった。
それに、下手に毒を盛ろうとしても、こちらには嘘が下手過ぎる貂蝉がいるのだから明らかにバレる。
貂蝉を隠すと言う方法も無くはないが、どんな理由であれ女性を董卓から隠すと言う行為が、後にどんな難癖に発展するかわからないのでそれも得策とはいえない。
それよりもやはり李儒や呂布がそばにいないと言う特殊な状況を活かすべきだと、王允は考える。
董卓自身が並外れた豪傑であり相当な切れ者ではあるのだが、それでも呂布や李儒と比べると双方共にわずかながら劣っているところがある。
ならばやはり情報操作で攻めるべきだ。
「貂蝉、料理の手配は整っているな?」
「はい、お義父様。きっと太師にも喜んでもらえるはずです」
心の底から董卓を喜ばせようとしている貂蝉は、自信を持って答えた。
この純粋さを王允は羨ましく思うが、しかし善良で純粋なだけでは国家の重責は担えない。
すでにただの名誉職となり、役職そのものの廃止を勧められている三公ではあるが、それでも王允は他と比べて実権と責任のある立場である。
だとしたら、例えその手を血に染めたとしても国家の為に尽くす事。
それこそが『王佐の才』と言われた王允の役割でもあった。
異常な緊張感に包まれた王允邸に、太師董卓が現れる。
董卓の馬車には、皇帝だけが使う事を許されている青い傘が掛けられていた。
これの使用については蔡邕からの猛反対を受け、一度は董卓も使用を見送ったのだが、結局蔡邕と取っ組み合いの喧嘩にまで発展しかけたほど揉めに揉めたが、最終的には董卓は力で押し切って使用している。
董卓は皇帝が使っていないのだからと暴論を振りかざしていたが、皇帝である献帝劉協の行動の自由を董卓が許していないのだから、使いようがない。
「本日はお越しいただきまして」
王允が代表して、董卓の前に出て頭を下げる。
その後ろには、王允邸で働く家人達全員が並んで頭を下げている。
この日の為に訓練してきたのだが、全員命懸けである事のだから真剣にやって来た。
董卓の気に触れば、裁判や取り調べ無しにその場で即刻死罪と判断されて切り捨てられる事は誰もが知っている。
こう言う噂は広がるのが早く、董卓の弟である董旻邸や娘婿の牛輔邸では実際に切り殺された家人もいたらしい。
普段そう言う暴挙に出そうな場合には、呂布が止めてくれる事が多いのだが、今日はそうではない。
それでも半数はここで董卓を邸の中に入れ込めれば、それ以降は料理やら何やらで董卓と顔を合わせないで済むのだから、今この瞬間だけ集中していれば済むと言い聞かせて集中している。
「うむ。今日は期待しているぞ、王允。まさかお前まで蛇や蛙などを出すつもりではあるまいな」
董卓は笑いながら皮肉を言う。
今日は相当機嫌が良いらしい。
機嫌が良い時でないとこう言うお宅拝見の様な事はやらないのでそれは有難いのだが、董卓の機嫌は山の天気など比ではないほどに変わりやすい。
「それでは太師、こちらへ」
「うむ」
王允が董卓を迎え、董卓が馬車を降りると、王允が急遽揃えた美人どころの女官達がすぐに董卓の元に集まって介助する。
董卓を建物の中に入れると、王允は家人達を裏口から入らせる。
ここからは、時間の勝負でもあった。
当面の命の危険は免れたのだが、彼らにとってはこれからが本番でもある。
ここで董卓の機嫌を損ねる事があれば、董卓は厨房にまで乗り込んでくる事は充分に考えられるのだがら、まだまだ油断は出来ない。
それどころか、待たせる様な事になればその時点で終わりになりかねないのだ。
しかし優秀な裏方達の戦場での戦いも、どれほど優勢であったとしても瞬きの瞬間に料理を用意する事は出来ない。
まず第一戦は美女と美酒による接待で、董卓を飽きさせない事である。
そこでも董卓は普段我が物顔で後宮を出入りしている上に、常日頃から贅沢三昧とある意味では百戦錬磨の強者である以上、一切の油断を許さない。
気に入らなければ切り捨てられるのは、男女の差別なく行われる事であり、場合によっては女性の方が酷い目に合う。
「ん? 何だ、料理は何も用意しておらんのか?」
宴席に案内された董卓は、上座に腰を降ろすと何も乗っていないのを見て王允に尋ねる。
「太師に食べていただく料理、せっかくですので出来立てを頂いて欲しく思い、また冷ましてしまっては返って失礼かと存じ、今急ぎで用意させております。まずは酒でも堪能下さい」
「ほう、さすが王允。もてなしというモノを分かっておるのう」
どうやら正解だったらしく、董卓は気をよくしたのを確認するとすぐさま女官達に酌をさせ、董卓の機嫌を損ねないようにする。
それでも予想外な事と言うのは起きるものである。
出来上がった料理を運んでいる人物の中に、大皿を抱えてすり足で慎重に運ぶ小柄な少女を見つけた時、王允は思わず頭を抱えて溜息が出そうになった。
今日は、今日だけは余計な事はしてくれるなと強く念を押していたのだが、真面目で養父想いの貂蝉にとって、その養父の為に手伝う事は余計な事とは考えなかったらしい。
王允としては、今日は自室に閉じこもって出てくるなと言ったつもりだったのだが、正しく伝わらなかったようだ。
誰がどう見ても異物であり、董卓の接待をしていた美女達にも緊張が走る。
もしここで貂蝉が躓いたりして董卓に料理をぶちまけようものなら、自分達にも被害が及ぶ。
しかし、ここまで来たら下手に声をかける方が危険だった。
董卓は元々機微を読む能力に長けているところがあり、王允達に妙な緊張感が走った事に気付いたものの、これも余興と思ったのか興味深そうに見守っている。
そんな注目を集めているとも知らず、貂蝉は神妙な表情のまますり足で董卓のところへ大皿の料理を運ぶ。
皆が心配する中、貂蝉は無事に料理の大皿を董卓の前に運び切ると、安堵の息をつく。
が、それは貂蝉だけではなく、この場にいた董卓を含む全員のものだった。
「娘、よく運んだのぅ」
董卓は上機嫌に貂蝉に声をかける。
「え? あ、ありがとうございます!」
貂蝉はそう言ってその場で平伏しようとしたが、その際に思い切り董卓の前の膳を組み合わせた卓の一つに頭をぶつけ、酒の盃をひっくり返して自ら被ると言う、もう一度やれと言われても絶対出来ない様な奇跡的な失敗をする。
「た、たたたたたた、大変な失礼を!」
貂蝉は盃を被ったまま、頭を上げずに董卓に詫びる。
「はっはっは! よいよい、わざわざ儂を楽しませようと、そういう体の張り方をした女はこれまでおらんかったからのぅ」
極めて上機嫌かつほろ酔い気味だったらしい董卓は、貂蝉の奇跡的な失敗を宴の一発芸か何かだと思ったらしい。
普段の董卓であれば機嫌を悪くしたかもしれないし、機嫌が悪い時であれば殺されていてもおかしくない、
そういう意味では、運が良かったと言うべきだろう。
「今日の料理も、手が込んでいて気に入った。王允、よくやったのぅ」
「は、ありがたき幸せにございます」
董卓に褒められ、王允も接待役の女官達も安堵する。
そこからはかなり空気も和らぎ、酒や料理、また音曲や舞なども滞りなく進み、董卓を楽しませる。
中でも貂蝉を気に入ったらしく、侍らせていた女官達を下がらせて貂蝉を横に座らせている。
確かに愛らしい顔立ちではあるものの、董卓好みの妖艶な洗練された美女と比べるとまったく物足りないはずだが、それが逆に珍しいのかもしれない。
董卓が気に入ったと言う理由で、貂蝉はまだ盃を被ったままでもある。
その貂蝉が董卓に酌をしているのだが、董卓は貂蝉の注ぐ酒の量が減っている事に気付いた。
「ん? どうした、酒が無くなったのか?」
董卓が貂蝉に尋ねる。
「いえ、ですが太師にはお体を大切にしていただかないと。ご自愛の為にも、今日のところの酒量はこの辺りで控えられた方がよろしいのでは?」
貂蝉は董卓を恐れる素振りも見せず、董卓に向かって言う。
「ほう、この儂を諭すか」
「太師、大変失礼を」
王允が慌てて間に入ろうとすると、董卓は王允を止める。
「いや、構わん。むしろこの様な諫言、久しく聞いておらんかったからのぅ。それをこの様な娘が口にするとは。いやはや、王允殿はどの様な子育てをされておるのやら」
董卓は笑いながら言うが、王允としては生きた心地がしない。
「呂布将軍も心配されていましたよ。太師の代わりはいらっしゃらないのですから、と」
「呂布が?」
董卓が一瞬眉を寄せる。
「はい。太師はご多忙ですから、将軍と李儒軍師で太師の仕事を肩代わり出来る様にとおっしゃられてました」
貂蝉が笑顔で答える。
「ほう、呂布がそんな事を言っておったか」
「さすがは天下の名将。すでに閣下の後継者を自負しておられるのでしょうなぁ」
王允が畳み掛ける様に言う。
その言葉に董卓はあからさまに表情を曇らせ、貂蝉は不思議そうに首を傾げる。
「なるほど、呂布はその様に思っておるのか。それで儂の荷を肩代わりなどと言っておるとは、面白い奴よのぅ」
笑ってはいるものの、董卓から獣の様な獰猛さが見える。
「さて、今日は実に美味い酒であった。すっかり長居してしまったわい」
そう言って董卓は立ち上がろうとしたが、軽くよろめく。
すぐに貂蝉が董卓を支えて踏みとどまるが、巨漢の董卓を支えられるほど貂蝉の身体能力は高い。
「はっはっは、すっかり酔ってしまったか。若い頃であれば、一晩中飲んでいられたものを。ここはそなたの申す通り、引き上げ時と言う事か」
董卓は貂蝉に向かって笑いながら言う。
「貂蝉、太師をお送りしなさい」
「はい、義父上」
貂蝉は笑顔で言うと、董卓を助けながら表の馬車まで付き添う。
「貂蝉と申すか。うむ、気に入ったぞ。王允、この娘、儂が召抱えてやろう」
「は、それは有り難き事なれど、その娘はすでに呂布将軍より自宅へと望まれておるのですが」
「構わん。それならば儂が吉日を選んで送ってやろう」
董卓はそう言うと、有無を言わさず貂蝉を馬車に乗せて帰っていく。
まるで予想もしなかった形ではあったが、結果として董卓と呂布に対して鎖をかける事には成功した。
しかし、それが貂蝉と言う事には不安が多いのだが、それでも王允の頭の中には、董卓を破滅させる方法が思い浮かんでいた。
連環の計
三国志の中には二種類の連環の計が出てきます。
一つは本編でも語られている呂布と董卓を仲違いさせるための策であり、『美女連環の計』とされています。
もう一つは演義と正史で発案者が違う、赤壁の戦いで船を鎖で繋ぐ『連環の計』です。
美女連環の計はある意味では精神的な鎖、赤壁での連環の計は物理的な鎖で繋ぐ計略です。
もっと極端に言えば、美女連環の計と言えば何やら難しい高尚な策略にも聞こえますが、ぶっちゃけ美人局です。
演義では特に董卓も呂布も女好きですので効果抜群ですが、演義に限って言えば張飛や周瑜などにもかなり効果的な策だったのではないでしょうか。
正史での周瑜には効果無さそうですけど。
 




