第二話
散々に黄巾軍を打ち負かした荊州軍が合流したのは、黄巾軍が大幅に後退してからだった。
「将軍、怪我は無いですか?」
「俺は大丈夫だ。高順は?」
「文遠じゃないんだ。そんなヘマはしないさ」
「俺も怪我無いですけどね」
三者は無傷で戻ったが、三人だけでなく荊州軍の中にも軽傷者は数人いたとしても、重傷者や脱落者は一人もいなかった。
それに対する黄巾軍は半数近くが離散し、三万の総数から一万数千にまで減っている。
混乱に乗じたと言う事もあったが、荊州軍の圧倒的な攻撃力を見せつける結果であり、初戦は完勝と言うべき戦果を上げていた。
「それでもまだ俺達の四から五倍だ。まともに噛み合っては美味しくいただかれる事になりかねない」
「奉先がいる限り、そんな事にはならないと思うが」
「そう言えば、今日の一騎討ちに出張ってきた丸いヤツは地公将軍張宝の配下みたいな事を言ってませんでした?」
張遼が確認するが、呂布も高順も首を傾げている。
黄巾軍の中心人物の一人、地公将軍張宝こそ黄巾軍の妖術使いの中心と言われている人物である。
大賢良師とも呼ばれる天公将軍張角にも、当然ながらそう言う噂はある。
元々が薬師でもある張角は山中で薬草を探している時、南華老仙と名乗る仙人から『太平要術』と言う書物を授かったと言う。
その話が事実だったら張角こそ、正真正銘の妖術師と言う事になるはずなのだが、不思議な事に張角にはそこまで恐れられているような話は無い。
張角は天変地異を予言したり、手も触れずに怪我や病を治したりと本業の為に活用し、民のためにその術を使っていると言う話だ。
それこそ黄巾党の人気の源になっているのだが、その弟の張宝は違う。
本当にそんな事が出来るかどうかは別にすると、張宝は敵対する者に対して雷を落としたり、自軍の配下には魔獣や妖魔、さらには死者の軍勢を率いると言われている。
その張宝の配下であるというのであれば、張角やもう一人の弟張梁の配下よりそう言う妖しげな何かに気を付けなければならない。
「今日はもう動きそうに無い。俺達も戻って一休みしよう」
呂布達は近くにあった空き城であった小城を一時拠点としていたので、そこへ戻る。
荊州軍もそこで休息する事になった。
「数だけでも頭を抱えたくなる問題なんだが、誰か本当に妖術を見た事はあるか?」
城の一室で、呂布が高順と張遼に尋ねる。
「話ではよく聞きますけど、俺は実際に見た事はありません。高さんはどうですか?」
「話で聞いただけだな。荊州にはいなかったから」
「前もって情報が無いのは厳しいな。妖術相手に出たとこ勝負か」
呂布はそう言うものの、基本的に妖術と言うモノを信じていない。
そんなモノが戦況を左右するような事は有り得ない、と思っている。
そんな呂布でも、今日自分の目で見て疑念を持つようになっていた。
陣生、陣平の兄弟や李醜はそう言う力が働いてるのかも、と考えたくなってしまう。
「いや、将軍。それは短絡的ですよ」
と、張遼が言う。
張遼が言うには、秘術や秘伝の一族の場合、近親者同士の一族を形成する為に体型が似たモノが多くなる事はあると言う。
陣兄弟や李醜などがそう言う秘術系の一族である場合、それに特化した体型になっただけで特に妖術などで改造している訳でも無いと思われるらしい。
「いくら考えても答えが出ないから、今日はゆっくり休もう」
呂布の言葉に、高順と張遼は頷いた。
それからはにらみ合いが続いた。
三千の荊州軍が一万数千の黄巾軍を釘付けにしているのだから、呂布としては望んだ戦果だと言えた。
しかし、呂布が想像もしていない事が起きた。
初戦で荊州軍が完勝してから十日徐州軍が動かず、逆に黄巾軍の援軍が先に到着して一万数千だった黄巾軍が五万まで膨れ上がった。
激戦区への増援である事は間違いないだろうが、それが三千の荊州軍の前に黄色い障壁として立ちはだかった。
「こりゃ撤退だなぁ」
呂布は小城から圧倒的な大群を見ながら、腕を組んで言う。
「徐州の連中は何を考えてるんだ」
高順は怒りをこらえられない様に言う。
張遼は何も言わないが、動かない徐州軍に対して腹を立てているのは間違いない。
「大体徐州側から泣きついてきたんだろう? 俺達には命懸けで戦わせて、自分達は高みの見物か? ふざけんなよ!」
「高順、熱くなるなよ。もう俺達ではどうしようも無い数になって、相手にも出来ないからなぁ」
「二十倍近くいますからね」
張遼が呂布に言と、呂布も頷く。
「こうなるまで動かなかったと言う事は、徐州軍には徐州軍の考えがあっての事なんだろう」
とてもそうは思えないが、と言う事まで呂布は口にしなかった。
どう言う考えがあったとしても、この十日の間は敵の数が一万数千であり、そこでだったら徐州軍と荊州軍が協力すれば黄巾軍を撃退する事は出来たはずだった。
その時に手を打つべきだったのだ。
それがここまで増えてしまっては、荊州軍がどれだけ奮戦しても徐州へ流れ込むのも時間の問題である。
むしろ徐州にいる黄巾の信徒が暴徒と化して、徐州を内側から黄巾軍に差し出す恐れさえある。
「ところでこの援軍はどこから来たんだ? どう見ても妖怪の類には見えないけど」
「ここからなら、黄巾党の本拠地もそう遠くないさ。それこそ激戦区の潁川だかに行くべき援軍なんじゃねえの?」
呂布の質問に、情報通なところもある高順が適当感溢れる答えを返す。
「奉先、随分と落ち着いているな」
「もう逃げるしか無いからな。ま、こっちの方が足は早いし、逃げ切れるだろ?」
いかに勇猛を誇ると言っても、三千の手勢で五万の敵と戦って勝てると思うほど馬鹿ではない。
呂布だけでなく、高順も張遼も自分の実力はよく知っていて過信していない。
戦において撤退戦は絶望的な戦いがほとんどなのだが、荊州軍は充分な練度を誇る騎兵であるのに対し、黄巾軍は徒歩である。
攻撃力は歩兵とは思えない高さで、その速さも徒歩にしては異常な速さなのだが、それでも馬に勝てるほどではない。
なので、逃げの一手であれば荊州軍は逃げ切れると呂布は考えていた。
そう言う訳で撤退の準備を始めようとした荊州軍のところへ、一騎の使者がやって来た。
「袁紹からの使者?」
その使者はそう名乗っていると聞いて、呂布は首を傾げる。
袁紹本初の名は、今の若手の中では飛び抜けて売れている。
どれほど階位が低くても将軍位にある人物であれば、四世三公の袁家の袁紹と言う名を知らない者などいないだろう。
とは言え、呂布も名前は知っていると言っても一方的に知っているだけで、お互いに面識は無い。
「袁紹の手の者が何の用があるんだ?」
「追っ払いますか?」
張遼が確認すると、呂布は悩んだ末に首を振る。
「袁紹と言えば、今は何進大将軍直属だったはず。わざわざこんなところに使者を飛ばすくらいだから、門前払いは出来ないな」
「それもそうですね。高さん、余計な事はしないで下さいよ?」
「何かの前フリか? そう受け取っていいんだな?」
「良くないです。黙ってて下さい」
高順に対し、張遼は厳しい。
呂布は笑いながら、使者を出迎えに行く。
呂布は荊州軍の一将軍に対し、相手は袁紹の使者とはいえ本部直属なので立場で言えば向こうが上となる。
今の漢では些細な非礼無礼でさえ、職を無くす事につながりかねない。
これまでに武勲を重ね、名将の誉れ高い魯植ですら更迭されたと聞いたほどだ。
呂布だけに留まらず、丁原まで罪に問われる事になっては香を路頭に迷わせる事になってしまう。
「俺が荊州軍を率いる、呂布奉先です。袁紹殿よりの使者と伺っていますが」
「貴公が呂布奉先将軍?」
使者は呂布を見て驚いている。
「遠方よりの援軍故に宴などを催す事も出来ず、申し訳ない」
「い、いえ、こちらこそ失礼いたしました。私は伝令を務めます、審配正南と申します。漢軍の本体がこの地の黄巾軍を撃滅する為に出撃の準備を行っています。本隊の到着まで徐州を守っていただきたいとの事です」
「審配殿、そうは言われても我らは騎兵とはいえ三千。対する黄巾軍は五万。漢軍の本隊が来る事を知れば、黄巾軍も拠点を必要として徐州に雪崩込んで来る。そうなれば三千程度の騎兵で守れるはずもない」
「五日間。その期間だけで構わないのです」
審配は食い下がってくる。
「無理だろうな。一斉攻撃が来れば、一日どころか数刻もあれば我々は全滅する」
「待てよ、奉先。やってみようじゃないか」
高順が口を挟んでくる。
「審配さんよ、五日で良いんだな?」
「はい。それで充分です」
審配は大きく頷く。
しかし本隊は都である洛陽のはずだ。一個人であればともかく、本隊の数にもよるが五日でここまで来る事は出来るだろうか。
「文遠はどう思う?」
「五日、ですか。おそらく近くに別働隊がいるのでしょう。高さんに考えがあるようですし、大将軍からの命令の様なモノですから、やらないわけにはいかないでしょう」
張遼の言う事ももっともな話なので、呂布は頷く。
「それでは審配殿、袁紹殿に伝えて下さい。俺達は少数ですので五日以上は持ちこたえられないと」
「承知しました。急ぎ主君の元へ伝えます」
「審配殿、来ていただいたばかりで申し訳ないが帰りはウチの馬を使うと良い。都まで走る事も出来るはずだ。文遠、案内してやってくれ」
張遼は頷くと、審配と共に城を出る。
「いや、さすがは音に聞こえし武将、緊張したよ」
相手が少年と言う事もあり、審配は急に砕けた物言いになる。
「荊州の若き武神、呂布奉先。見た目の印象は違ったけど、さすがに雰囲気のある人物だ」
「そう言うのは誰が見てもわかるモノですか?」
張遼は審配に尋ねる。
張遼は呂布との付き合いもそこそこあるので、呂布奉先と言う人物の非常識な武勇を目の当たりにしてきたが、審配は初対面であるはずだ。
「軍師を目指すモノにとっては、人を見るのは大切な事だから」
「軍師? 審配殿は軍師を目指しているんですか? そんな人がなんでまた伝令みたいな危険な事を?」
伝令とはただ伝言するだけの役割といえ、敵に見つかった場合、まず確実に命を奪われる危険性がある。
指令や命令を正しく伝えられなくなれば、その部隊の機能を停止させる事も出来るので、集団戦においては非常に高い効果を得られるのだ。
それだけに伝令には極めて高い騎乗能力が求められるし、もし万が一見つかった場合には走って逃げるか、誤魔化すかの選択を迫られ、それに応える能力がなければならない。
内勤の印象の強い軍師が向かい合う危険性ではないと、張遼などは思ってしまった。
そんな張遼の質問に、審配は苦笑いを浮かべながらも力強く頷く。
「俺は軍師を目指してはいるが、口先だけで人を動かすような軍師にはなりたくない。主君に仕えるのなら、体を張って仕えたいと思っている」
「そう言う信念は立派だと思いますけど、周りと衝突しますよ? 気を付けて下さい」
張遼はそう言うと、審配に馬を用意する。
「それでは審配殿、よろしくお願いします」
「必ず。この馬も返しに来る」
南華老仙と太平要術書
今からはとても信じられない事ですが、後漢時代の医者と言うのは占い師より社会的地位が低く、気象予報なども妖術と思われていました。
そう考えると太平要術書と言う書物は、南華老仙を名乗る山に住むおじいちゃんの山日記的な書物だったと考えられます。
例えば鳥が低く飛ぶと雨が降るとか、ナマズが暴れると地震が起きるとかの知識でも、当時の人達が知らなかった場合天候や天変地異を予言する事が出来ますし、山にある山菜や野草の中には薬になる物もあるので、怪我や病気にも効果があったと思われます。
実際に黄巾軍は興奮剤のようなモノを使っていたと言われていますので、張角自身の薬師の知識とも合致したため、一大勢力を築く事が出来たのでしょう。
それが黄巾の妖術の正体の可能性は低くないのですが、もちろんガチの妖術かも知れません。