第十話
もはや刀折れ、矢も尽きたと王允は思っていた。
張温、朱儁、皇甫嵩といった漢の正規軍を支えてきた武将達が去り、荀爽や楊彪らの大臣達、鄭泰や何顒といった義憤に駆られた若手達も董卓の軍師である李儒の手に落ちた。
その騒動の中で高齢だった荀爽は心臓発作に見舞われそのまま目を覚ます事は無く、何顒は獄中で憤死したと伝えられてきた。
荀攸と种輯は取り調べを受けたものの、鄭泰は即開放されたらしい。
鄭泰はそのまま都から離れてしまったが、荀攸と种輯は残っている。
もっとも荀攸は益州の劉焉の元への赴任が決まっているので、今は引き継ぎの最中である。
その人事には、王允も驚いていた。
劉焉はとかく噂に尽きない男であり、中央で董卓と言うあまりにも大き過ぎる驚異があるので目立たないが、劉焉は第二の董卓になりかねない男でもある。
李儒もそれを警戒しているとしか思えない人事であった。
王允は、この李儒と言う男を測りかねていた。
董卓の娘婿であり董卓政権において最重要の位置にいる切れ者なのだが、不思議なほど董卓に対しての忠誠心の様なモノが薄い人物である。
では董卓に対して不忠であるかと言うとそんな事も無く、李儒の政策案は董卓政権の注進として機能しているどころか、李儒抜きでは董卓政権は上手く回らないのではないかと思われるほど上手く行っている。
武の要である呂布も、同じように奇妙なところが目立つ人物であった。
圧倒的な武勇を誇り、個人としてだけでなく兵を率いても古今無双と評される猛将でありながらその武勇をひけらかす事無く、他の董卓軍の武将達はもちろん、積極性に欠けるところのある漢の武将達と比べても呂布の積極性の無さは群を抜いている。
性格も人並みどころか常識からもかけ離れた実力を持つ人物とは思えないほど、温和でお人好しなところもあり、呂布の家人が言うには時として陽のあたるところに夫婦で並んで座って一日雲を眺めている事もあるらしい。
李儒がどの様な魔術や妖術を用いて、丁原からあの呂布を裏切らせる事が出来たのか不思議でならない。
王允は半ば諦めていたところだったが、先日些細とは言え事件が起きた。
呂布が董卓に対する接待を失敗したのである。
正直なところ、王允も太師をもてなすのに蛇や蛙はどうかと思ったのだが、養女の貂蝉が言うには蛇や蛙と言うのは薬にもなるらしく、食材としてもかなり優れていると言う事だったので、董卓は激怒したが本当に董卓の事を考えての事だったようだ。
事実、その食材で董卓の母の信頼を勝ち取っているので、単純な董卓の好き嫌いだったと言う事も分かっている。
しかしそれでも董卓が激怒して呂布の妻を足蹴にし、一時的にとはいえ呂布を一兵卒に格下げすると言う暴挙に出た事も事実である。
それによって董卓の後継者争いを行っている反呂布陣営が大騒ぎしていたが、結局は董卓の母親が出てきて事態を収集させた。
この出来事は、董卓と呂布の間では溝にすらならない傷、と言うより些細な綻びでしかなかったが、それでも王允にとって一縷の望みでもあった。
董卓政権を打倒するには、もはや董卓暗殺しか手段は残されていないのだが、呂布がいたのでは必ず失敗する。
その董卓と呂布の間に、ごく僅かとはいえ不和の種が植えられたのだ。
これを芽吹かせ、董卓と呂布の間に亀裂を入れる事が出来れば董卓を打倒する事も可能になってくる。
それには今、李儒が自分の妻の出産に気が向き、もう一人の知恵袋である賈詡が郿塢城にいるこの時こそが千載一遇の好機だった。
これで手駒が揃っていれば勝負出来るのだが、王允にはその駒が残されていない。
それでも今後、この様な好機が訪れる事はないだろう。
全てを賭けて勝負する時が来た。
後日、呂布が娘の快気祝いとして王允邸に貂蝉を送るついでに、お礼の品々を持って現れた。
「王允殿、先日はありがとうございました。お陰で娘は元気過ぎるくらい元気になりました」
本当に嬉しそうに、呂布は王允に礼を言う。
良い父親なのだろう、と王允も感心する。
武将や猛将にありがちなのだが、多くの側室を持って家庭を顧みない者も多いのだが、呂布にはそう言うところは無いらしい。
「いえいえ、将軍のお役に立てたのであれば、貂蝉も喜ぶ事でしょう。せっかく将軍が訪ねてくださったのですから、先日切り上げた将軍の復帰祝いを改めて行いましょう」
王允はそう言って、呂布を自宅へ招き入れる。
これからどう言う手段に出るにしても、董卓暗殺の成否を握るのはこの呂布奉先である。
その呂布の油断を誘うにしても利用するにしても、まずは呂布との信頼関係を築く事が最優先であった。
考えてみれば、曹操が成功寸前まで行きながら失敗したにも関わらず上手く逃げおおせたのは、呂布との距離が近かった事にある。
「なあ、貂蝉。そうしようではないか」
王允は貂蝉に言うと、貂蝉も満面の笑みを浮かべる。
「それは素晴らしいですね。私、準備してきます」
と言うと、貂蝉は全力で走り去っていく。
小柄で丸みのある顔立ちで幼く見える貂蝉だが、その身体能力で言えば同年代の少女と比べても飛び抜けているところがある。
貂蝉自身が呂布の娘の様な活発さが無いので目立っていないが、いざという時には身辺警護も任せられるほどの武勇も持ち合わせていた。
これでもう少し洗練された美しさがあれば後宮入りも出来たのだが、都育ちで最高級の教養も備えながら不思議と垢抜けない、素朴さの消えない少女へと育ってしまった。
呂布は貂蝉と祝いの品を届けるとさっさと帰るつもりだったようだが、王允と貂蝉に引き止められてはすぐに帰るとも言い出せなくなったらしく、二人に促されるままに王允邸での歓待を受ける事になった。
普段並外れて質素な生活をしている呂布の家族なので、董卓が好む様な豪勢極まる贅沢な料理と言うのはあまり呂布の好みでは無い。
その事を知ってか、貂蝉は贅の限りを尽くした様な料理ではなく、軽めの食事を用意していた。
「いやぁ、これは有難い」
呂布は笑顔でそう言うと、王允に勧められて席に着く。
「この度は、本当にありがとうございました。元気が有り余っているのを見て、その何気ない幸せを噛み締めています」
「いやいや、それは貂蝉に言ってやって下さい。実際に私は何もしていませんので」
頭を下げる呂布に、王允は慌てて言う。
この腰の低さも、呂布の一風変わったところだろう。
「もし何でしたら、貂蝉を将軍の側室にどうですか? 貂蝉はあの調子ですので、このままでは貰い手が無いのではと心配しているのです」
「それなら心配無いでしょう。貂蝉殿であれば、引く手あまた。焦る必要もありますまい」
呂布は笑いながら言う。
「側室はともかく、娘の師として時々で構いませんので遊びに来ていただけると有難い。太師の私塾に通わせていただいているものの、ウチの娘は中々物覚えが悪いと言うか、覚えようとする態度が悪いと言いますか」
中々困り者な娘であるらしい事は、王允も噂で聞いている。
と言っても、董卓の孫娘である董白の様な暴君と言う事ではなく、あまりにも女らしくないと言うか、ガキ大将的な立場であると言う。
事実腕っ節の強さは同世代の少年達を上回り、五人の不良少年を相手に大立ち回りを繰り広げた揚げ句、見事打倒してしまったと言う武勇伝まであるくらいだ。
だからと言って乱暴者と言う訳ではないらしいのだが、先ほど呂布自身も言っていた様に興味の無い授業の時の態度が悪くても、董卓の義理の孫であり呂布の実の娘である蓉を注意出来る者はいないと言う。
知識や教養を深めると言う事だけを考えると、蓉や董白の様な存在は個別に教えた方が周りの為にもなるのではないかと思えてくる。
「姫様は、良い子ですよ。もうしばらくすると、女らしくもなってくるでしょうから」
貂蝉が酒を持ってやって来る。
「なってくれるかなぁ、アレが」
「それはもう、大輪の花となって天子様からもお声が掛かるかも」
「それは無いよ、さすがに。献帝陛下には董承殿の娘御が嫁がれているから。あれほど立派になられると、俺の方がどうしていいかわからなくなるよ」
貂蝉の言葉に呂布は笑っていう。
恐ろしい事を言うな、と王允は内心でヒヤヒヤしながら聞いていた。
物怖じしない性格と言えば聞こえはいいが、貂蝉には危機感が足りていない。
それは呂布にも言える事でもある。
そんな性格にもよるところでもあるだろうが、貂蝉は上手い事呂布との信頼関係を築いていた。
それはそれで有難い事なのだが、呂布にしても貂蝉にしても策略などにはまるで向いていないし、いざと言う時の機転や応用が効く性格では無いのでこれを利用するのは難しい事でもあった。
だが、それでもこれまでと違い、貂蝉を通じて呂布との繋がりを得たのは大きい。
「しかしお嬢様が回復されて良かったですな。もし伝染病などであれば、将軍も患っていたかもしれないのですから。ご自重下さいませ。将軍無くして、誰が太師をお守りすると言うのです」
「……そうか、そう言う心配もあったか。いや、まったく失念してました」
呂布は頭を掻いて言う。
「仮に俺に伝染してそれに気付かなければ、俺から太師に伝染る事もあったと言うわけだ。いや、それを考えると確かに何事も無く済んで良かった」
「若い将軍と比べ、太師は些かご高齢であらせられますので、健康には気を使っていただかないと」
「確かに、司徒殿のおっしゃる通り。太師の代わりなど、誰にも務まらないのだから」
呂布はしきりに頷いている。
その口振りからは、一時的にとはいえ一兵卒に格下げされた事への恨みなど微塵も感じない。
「呂布将軍や李儒軍師様でも、太師の代わりは務まりませんか?」
「貂蝉、滅相な事を言うものではない」
貂蝉の無邪気な質問に、王允は真っ青になる。
相手が呂布だったから良かったものの、他の董卓軍の武将達だったら反逆罪に問われかねない様な質問である。
「太師は俺と李儒軍師のそれぞれ良いところをお持ちだからね。ご多忙な太師の肩の荷を多少なりとも肩代わり出来る様に精進してはいるものの、中々上手くいかないものだよ」
呂布は貂蝉にそう答える。
実際にはそんな事は無い。
軍務に限って言えば、呂布ほど実績のある武将はいないので呂布の言葉に従わない者は少なく、末端の兵ほど呂布に対しての信仰の様なモノもあった。
また李儒も董卓ほど気まぐれではなく、政務にしても軍務にしても董卓が口を出さない方が遥かに上手く回ると言うものであるのだが、それは思っていても口に出す訳にはいかない事である。
「ですが太師も不老不死と言うわけではありませんので、そろそろ後継者を決められなければ」
「それなら牛輔殿がおられるでしょう」
王允が水を向けたのだが、呂布は事も無げに言う。
「いやいや、牛輔殿は太師の娘婿。呂布将軍は太師の息子ではありませんか。後継者には、年長の息子を立てるもの。呂布将軍こそが後継者に相応しいでしょう」
「それであれば、太師直系の男児がおられるでしょうから、その方こそが相応しいのでは?」
呂布は首を傾げて言う。
董卓は早くに息子達を亡くしているので、董卓の実の息子と言うのは現時点ではいないとされている。
もしかすると手当たり次第に夜伽をさせた女官達の中には董卓の息子を身篭っている者もいるかもしれないが、後継者と言うのであれば呂布が最有力候補であった。
が、本人がこの通りなので、ある意味では他の董卓の血縁者達が躍起になる隙となっている。
「呂布将軍は太師の後を継ぐつもりが無いのですか?」
「俺には務まりませんよ」
呂布は真面目に答える。
おそらく董卓は呂布をこそ後継者に、と考えているはずだが、少なくとも呂布は董卓本人からそれを告げられるまで一歩引いた立場を貫く事だろう。
呂布と言う武将が素晴らしい人物である事は分かったのだが、王允は呂布と言う武将の欠点を見つけていた。
呂布は他者の悪意に対して無防備過ぎる。
人並み外れた武勇を持ち、善良な性格であり、美男美女の夫婦と美しい娘と言う幸せな家庭を築いているのは本人達の努力によるところも大きいのだが、それがどれだけ他者の嫉妬心を煽るかと言う事を、呂布もその家族もまるで分かっていない。
董卓暗殺の鍵は、そこにあるのではないか。
王允は楽しげに話す呂布と貂蝉を見ながら、そう考えていた。
黒い噂の男、劉焉君郎
息子の劉璋がおっとり善良な印象が強いせいもあって、その父親である劉焉もそんなイメージを持たれていますが、実は劉焉は董卓並の野心を持った人物だったみたいです。
洛陽や長安といった中原から離れた益州の太守となってからは、本格的に漢王朝からの独立を狙っていた様で、董卓暗殺に失敗した荀攸が投獄された後劉焉の牽制も兼ねて益州に派遣されるはずだったのですが、その時にはすでに劉焉は交通の要所を封鎖していたため、荀攸は益州に入る事は出来なかったようです。
また、そう言う独立構想があったからこそ、後に劉備が入蜀する際に非常に豊かな国であったのでしょう。
もっとも三国志演義などで益州が舞台になるのは息子の劉璋の時代からであり、劉焉は黄巾の乱の時にチラッと出てくるだけですので、さほど重要な情報ではありません。
本編でも名前がちょこっと出てくるだけの人ですから。




