第八話
董卓は洛陽にいた頃から後宮で女官漁りに精を出していたが、それは長安でも行われている。
そこで気に入った女官がいれば郿塢城に連れて行く事もあった。
最近では他者の妻や娘などでも気に入ったら問答無用で連れて行かれると言われ、郿塢城建設も終わって長安に戻っている張済などは戦々恐々としていた。
方向性は違うとはいえ、それはもてなし下手な呂布家もそうだった。
「まもなく太師がご到着の予定なのですが、奥方や娘様がいらっしゃらないようですが」
身重でありながら心配だったのか、李儒の妻の董氏が呂布邸に訪ねてきていた。
今日董卓が呂布邸にやって来る事を知り、李儒から補佐として夫人を送り込んできたと言うわけだが、呂布としては大助かりだった。
しかし、董卓をもてなすと張り切っていた呂布の妻である厳氏は、今朝早くから娘の蓉を連れてどこかへ行ってしまっている。
念のための護衛として高順もついて行っているので問題は無いはずだが、呂布や董氏、料理などを用意する家人達はそわそわして落ち着かない状況だった。
「ただいまー!」
元気な声と共に、娘の蓉が戻ってくる。
「あ、董氏だ。こんにちは」
董氏と厳氏の仲が良く、厳氏が妊娠によって体調が悪かった董氏の面倒を見たり頻繁に見舞いに行ったりしていたので、董氏も事あるごとに呂布の家にやって来るようになっていた。
董卓の一族とは思えないほど謙虚で控えめな董氏には、蓉も良く懐いている。
「見て見て! 立派な蛙!」
蓉は嬉しそうに、両手で抱えた大きなウシガエルを見せびらかす。
蓉の頭より大きそうな蛙だった。
「まあ、凄いわね。どこで捕まえてきたの?」
「ちょっと行ったとこの沼。お母さんも大物捕まえてた」
「ただいま戻りました」
上品な声と共に厳氏も戻ってくる。
が、その服装は蓉と同じく泥だらけで、とても将軍の妻ではなくその辺りの町民か、あるいは使用人にしか見えない。
もちろん問題は服装だけではなく、厳氏より大きいのではないかと思うほどの大蛇を肩にかけていた。
「ほら、見て! でっかい蛇!」
蓉は大はしゃぎで言う。
「これは凄いですね。これはご自身で捕まえたのですか?」
「ええ、私、こう言うの慣れてますから。高順には迷惑かけたみたいですけど」
「本当に勘弁して下さい」
大きなカゴを背負った高順は、疲れきった声で言う。
「高順、蛇怖いもんね」
「黙れ、小娘。お、奉先。お前も嫁と娘の教育に力入れた方が良いぞ」
高順は蓉の頭を掴もうとするが、蓉は素早くそれを躱す。
そんな事をしているところに、董卓達が現れる。
董卓だけではなく、李儒や王允なども動向していた。
「お待ちしていました、太師。妻共々、今日は精一杯のもてなしをさせていただきます」
呂布がそう言って畏まると、董卓は満足そうに頷いて馬車を降りる。
本人は馬車の傘を皇帝のみが使うことを許されている青にしたかったらしいのだが、蔡邕から強く反対されて見送っている。
董卓は呂布と李儒、王允を引き連れて歩いていたところ、呂布の妻の前で足を止める。
「何だ、この端女はぁ!」
唐突に怒声を上げると、董卓は呂布の妻である厳氏を足蹴にする。
「きゃぁっ」
厳氏は悲鳴を上げて倒れ、キョトンとして董卓の方を見るが、董卓はそれでは気がすまずに七星剣を抜く。
「太師、妻が何かいたしましたか?」
呂布は慌てて董卓と厳氏の間に割って入り、董卓を抑える。
「奉先、お前は今日、この儂に何を食わせる気でいたのだ?」
「それは」
呂布は倒れる厳氏とその前に立ちふさがって董卓を睨む娘の蓉を見て、董卓の方を向く。
「太師の為に妻と娘が捕まえてきた新鮮な食材の料理を振る舞うつもりでしたが」
「蛇や蛙をか!」
董卓は激怒して怒鳴る。
「蛇は生命力の源として体にも良いですし、蛙も同様に幸運をもたらすとされています。さらに山菜や、珍しい茸など太師の体に良いものを……」
「ふざけるな! この儂を誰だと思っている! そんなモノが食えるか! この儂を毒殺でもするつもりか!」
董卓は切りかかろうとしてくるのを、呂布は董卓の手首を掴んで止める。
「ええい、離せ!」
喚き散らす董卓だったが命令とあらば従う必要があるので、呂布は董卓の手を離す。
「本来であれば切って捨てるところだが、今日は奉先に免じて死罪はゆるして許してやる! 奉先、貴様も一兵卒に降格だ!」
「太師、それはいけません! 呂布将軍は古今の名将! それを一時の感情で一兵卒に格下げなど、他の者の反発にもつながります」
「ええい、黙れぃ! 王允、貴様も同じか!」
李儒が慌てて止めようとするが、董卓は聞こうともしない。
「少なくとも呂布将軍は、他の武将と比べて人望、実績共に申し分無い武将である事は太師にもお分かりのはず。この件は、ここで結論を急がずに一時保留といたしては?」
「ええい、面倒な! それではこれから裁定を決める為に戻るぞ!」
散々喚き散らすと、董卓は李儒や王允を伴って帰っていく。
厳氏はまだ何が起きたか把握できていないらしく、驚いた表情で固まったまま、ボロボロと涙だけが流れ出している。
「太師、嫌いだったのかな」
呂布は厳氏を抱き寄せると、その場に残った董氏に向かって呟く。
「私達家族は子供の頃は貧しくて、故郷では時々こういったモノも食べていましたし、むしろご馳走の類でした。父も特に嫌いだったと言う事は無かったと思うのですが、貧しかった時の事を思い出すのが嫌だったのかも知れません。申し訳ございません、将軍。こう言う事にならないように、私が呼ばれたはずだったのですが、お力になれなくて」
「いや、董氏のせいではありません。俺もてっきり喜んでもらえるとばかり思っていましたから」
呂布は泣きじゃくる厳氏の頭を撫でながら、そう呟く。
蛇や蛙は見た目に上品な食材とは言えないところもあるが、それでも調理のやり方次第ではとても美味である。
また、董卓に説明したように体にも良いと言われている。
「しかし、弱ったな。太師、物凄く怒っていたみたいだが」
「高順!」
高順の言葉に腹が立ったのか、蓉が高順に蹴りを入れる。
「いてっ。なんだよ、蓉。俺に当たるなよ。本当の事だろ?」
「だからって、今言うな! 蛇で締めるぞ、この野郎! 空気読め!」
「お、何だ、小娘、やる気か?」
高順なりに気を逸らそうとしているらしく、蓉と喧嘩している。
「あそこまで怒っていると、俺の方から何か言っても逆効果になりそうだな。ここは大人しくしているか」
「ごめんなさい。将軍、ごめんなさい」
厳氏は泣きじゃくりながら、何度も呂布に対して謝罪の言葉を繰り返す。
「……お婆様に頼んでみますか?」
董氏が遠慮がちに尋ねる。
「お父様も、お婆様のお言葉であれば多少は聞いてもらえるかも知れませんから」
董氏は呂布に提案する。
董卓政権において呂布の存在は大きい事は、当事者である呂布以外は誰もが知っている事である。
そんな呂布が一兵卒に降格など、反董卓派の勢力に格好の材料を提供する事になるので、董氏としても呂布には復職してもらわなければならない。
「そうだな、せっかく新鮮な食材も手に入れた訳だし」
当初呂布邸に董卓の母を呼ぼうかと話していたが、齢九十になる董卓の母に近くとはいえ移動させるのはどうかと言う事になり、こちらから尋ねる事にした。
とはいえ大人数でゾロゾロと押しかける事も失礼に当たりそうだったので、呂布と妻の厳氏と娘の蓉、李儒の妻の董氏で尋ねる事にする。
高順は留守番で、事の次第を知った張遼が暴走する恐れがあるのでそれを抑える役も兼ねていた。
董卓の母親も都の中に住んでいるのだが、一風変わった人物として知られ、特に人の好き嫌いが激しいと評判の人物でもある。
それは身内の董一族や西涼時代からの董卓軍に対して、一際強い傾向であった。
唯一の例外が李儒夫妻であり、李儒夫人である董氏の懐妊を大喜びしていた。
前もって武人嫌いを伝えられていた事もあって、呂布達はまだ董卓の母親には会った事が無かったので、これはいい機会でもあった。
呂布と厳氏は赤兎に乗り、蓉と董氏は馬車で移動する。
さほど時間もかからずに董卓の母親の済む家の敷地に入ったのだが、董卓の母親が都でもあえて郊外に居を構えている理由が分かった。
広い畑があるのだ。
「お婆様」
畑で作業をしている数人のうち、一際目立つ老婆に董氏が声をかける。
「ありゃま、どうしたんだい、こんなとこまで来て。家で大人しゅうしとかな」
その老婆は、董氏に対して笑顔で言う。
何故この老婆が他の者達と比べて一際目立つかと言うと、単純に体の大きさが違うからである。
董卓も相当大柄ではあるのだが、その大きな体格は母親譲りらしい。
「今日は何? 他の奴らみたいに、小遣いせびりに来たんか?」
笑顔ではあるが、いきなりの先制攻撃に董氏の表情も綻ぶ。
「今日はお婆様に……」
「ありゃー、可愛い子がおるねー」
董氏が説明する前に、老婆は蓉に気付いて手招きする。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。あんた、どこの子だね? ウチの子に似らんで良かったねー」
老婆は満面の笑顔で言うと、蓉をヒョイと抱き上げる。
蓉も歳の割には大きい方なのだが、この老婆は長身の呂布と比べても見劣りしない上に、中々に横幅もある。
「お婆様、そちらの子はお父様の養子である呂布将軍のお嬢様です。お婆様の曾孫に当たりますよ」
「ありゃま、じゃウチの血の子じゃなかったんだねー。道理で可愛らしいはずだ」
老婆はそう言うと、蓉を肩の上に乗せる。
「名前はなんて言うんだね?」
「蓉だよ。婆ちゃんは?」
「婆ちゃんは、悦ってんだが、婆ちゃんでいいやね。ほんじゃ、そこの男前が呂布さんかい」
老婆はそう言うと、呂布の方を見る。
「初めまして。挨拶に伺うのが遅くなりまして。私が……」
「あー、いいやねいいやね。そう言う面倒な挨拶はいいやね。わたしゃそう言う面倒なのは好かんし、これまで避けてたのはこの婆の方だからねぇ」
悦は蓉を肩に乗せたまま、呂布の手を握る。
「あんたは、他の武人とは違うねぇ。わたしゃ、あんたの事を恐れとったんよ。だけど、人の噂ってぇのはアテにならないもんだねぇ。今後共、ウチの悪ガキを助けてやって下さいね」
「……俺、あ、いや、私に出来る事でしたら」
「はっはっは、天下一の将軍様がこんなただの婆に畏まらんでもいいやね。どれ、何か食べようかい。嬢ちゃん、芋は好きか? いっぱい干したのがあるで」
「うん、婆ちゃんは蛙好き?」
蓉が肩の上で悦に尋ねる。
「蛙か。ありゃ美味いからの。何じゃ、嬢ちゃん、蛙好きか」
「うん、蛇も食べれるよ?」
「ほー、そりゃ良いやね。都会っ子にしちゃ珍しいこった。どれ、婆ちゃんが捕まえてやろうかの」
「持ってきたよ! 婆ちゃんにお土産!」
「ほー、婆ちゃんにお土産か。どれどれ」
蓉は大喜びで言うと、悦の肩から飛び降りて馬車の方に向かう。
「ほら、婆ちゃん。私が捕まえた蛙」
蓉は持っていくと言って聞かなかった食材の籠から、自分が獲ってきた蛙を取り出す。
「はー、こりゃ大物だ。嬢ちゃんが捕まえたんか?」
「うん! 他にも山とか沼とかでいっぱい採ってきたよ」
そう言うと蓉は少女が持つには少々重いであろうはずの籠も、ひょいと持ち上げて悦に見せる。
「ほー、見事な蛇じゃのー。蛙も蛇も大物で、しかも毒の無いモンを獲ってきとるのー。しかも冬虫夏草に、山亀までおるか。こりゃー、豪勢じゃのー。どれ、婆ちゃんが食わせてやるかの」
「ほんと? 婆ちゃん、嫌いじゃない?」
「いやいや、婆ちゃん、嫌いな者はおっても嫌いな食べ物は無いよ?」
悦はそう言うと、呂布と董氏を見た後、厳氏の方を見る。
「ああ、今日将軍達がこの婆のところに来た理由も分かったよ。仲穎の阿呆に何や、やいのやいの言われたんやろ? ご迷惑おかけしますなぁ」
「あ、いえ、とんでもございません」
突然悦に頭を下げられ、厳氏も慌てて頭を下げる。
「でもなぁ、それでもあんたはしっかりせんといかん」
頭を上げた悦は、きっぱりと厳氏に言う。
「あんたにはあんな良い娘がおる。あんたがしっかりせんと、あの娘も将軍も守れんからの。将軍は国を守っておるが、あんたが娘と将軍を守ってるんから、そりゃー立派な事だ」
「……私が?」
「そうだ」
悦が大きな手で、厳氏の細い肩を掴む。
そのまま握りつぶされるのではないかと呂布は心配になるが、悦は真っ直ぐに厳氏の方を見ている。
「何があっても、あんたが将軍を支えてやるんだよ」
「……はい、ありがとうございます」
厳氏が答えると、悦は満足そうに笑顔を浮かべる。
「それで良いやね」
「婆ちゃん、早く」
蓉が食材の籠を背負って、悦を急かす。
「はっはっは、元気で良いやね」
豪快に笑いながら、悦は年齢を感じさせない足取りで蓉の方へ行く。
体付きなどを見てもいかにも董卓の母親と言う感じだが、異様な鋭さや言いたい事を遠慮しないところ、押しの強さ、そして人を惹き付ける何かなども母親譲りなのだろう。
「子の罪が親に及ぶのは育て方が悪かったと言われても仕方がないにしても、親の罪が子に及ぶなんてバカな話は無いからの」
誰に言うでもなく呟いた悦の言葉だったが、妙に呂布の胸に刺さる言葉だった。
董卓の母
正史にも演義にもチラッと登場するのですが、『董卓の母』と言う一言でしかありませんので、名前も外見も性格もわかりません。
もちろん言葉遣いも、あんなどこの出身かもわからないような訛りだったわけでもありません。
なので『悦』と言う名前は、本編のみの創作物です。
ちなみに私の中の董卓の母のイメージである市原○子からとってます。
身長2メートル、体重120キロくらいの異様にデカい市○悦子だと思ってください。
作中で出て来た蛇や蛙は、私は食べたことはありませんが本当に美味しいらしいですよ。
蛙などはあの料理漫画の金字塔、究極対至高の中でも出て来たことのある食材ですから。
とは言え、ちゃんと知識が無いと大変なことになりそうですので、その辺で捕まえて食べてみるのは控えて下さい。




