第四話
呂布軍は郿塢城の仮宿舎で休養を取ったあと、郿塢城建設を脅かす正体不明の軍が出没すると言う場所へ向かう。
理想で言えば、こちらだけ敵の位置を把握して敵にはこちらの接近を気付かれたくないものだが、さすがに上手くいかない事はある。
そこで賈詡は敢えてこちらから呂布が援軍に来たと言う情報を流し、敵軍に自分達が有利だと思わせるところに布陣させて居場所を突き止めると言う、情報操作による情報戦を仕掛けた。
それによって、敵軍の規模は二万前後で郿塢城近くの小高くなった丘に布陣していると言う事を突き止めた。
ここまでは見事と言うほか無いところだが、それでも数の多い敵軍に高所を抑えられたのは戦術面で言えば上首尾とは言い難い。
「まったく、文官は分かっていないんだ! そうでしょ、将軍?」
「いや、そうとは限らないだろ?」
皇甫酈は憤っていたが、呂布は不思議そうに首を傾げる。
確かに戦場において高所に布陣する事は有利とされているが、刻一刻と変化する状況で常に高所が有利であると言う保証は無い。
万全の迎撃態勢を整えた敵軍だが、それは柔軟な機動力を捨てたと言える。
そして、待ちに入った事によって戦場の主導権は呂布軍が握る事になった。
実際に目の当たりにしていない者では、呂布とその騎馬隊が通常の騎馬隊の常識が通用しないと言う事は、人に話で聞いていたとしても対応出来るものではない。
それを敵軍の武将は分かっていなかった。
賈詡の考えた策と言うのも、その事が前提となっている。
呂布は敵陣を確認してから、おもむろに手持ちの大弓を構える。
「将軍? いくら何でも遠過ぎるのでは?」
「ま、威嚇だから当たらなくても良いんだよ」
呂布は皇甫酈の質問にそう答えると、弓矢を敵陣の方に向けて放つ。
その矢は独特の高い音を響かせながら飛び、敵陣の上をさらに飛び越えていく。
「……鏑矢?」
「だから、威嚇だって」
首を傾げる皇甫酈に、呂布は笑いながら立て続けに矢を放つ。
まるでその返答だと言わんばかりに敵陣から矢が射掛けられるが、呂布達のところまでは届いていない。
「あの辺りが射程距離みたいだ。結構飛ぶなぁ」
「矢の本数も少なくないですよ。全体数は二万から三万、と言ったところでしょうか」
張遼が言うと、呂布も頷く。
「ただ、よほど慌てていると見える。守りに入ったこの状況では、副軍師殿の策も上手くハメられないかも知れないな」
「だとしたら、陣に閉じこもっていてもジリ貧になる事を教えてやれば良いですよ。そうすればあの程度の威嚇に恐れを示す連中ですから、暴発気味に打って出てくるんじゃないですか」
張遼は敵陣を見ながら言う。
高所に陣を敷く事の利点は、守るに有利と言うところが大きい。
上から下を見下ろすのと、下から上を見上げるのでは視界の広がり方が違うので下の者の動きを把握しやすく、また弓矢を射る場合でも飛距離を延ばす事が出来ると言う大きな利点がある。
だが、高所さえ維持していれば戦に勝てると言うものではない。
呂布の弓は高所に布陣している敵の弓より飛距離も貫通力もあり、高所を維持し続けようと陣を固めていると、遠方から容赦無く弓を射掛けられると言う事を思い知らせれば良いのだ。
「と言う訳で将軍、どこでも良いから命中させて下さい」
「……簡単に言うねぇ」
「将軍なら簡単でしょ? 別に相手の柵に当てても良いわけですから」
張遼は本当に簡単そうに言う。
敵陣は見えているものの、敵の矢が届かないところまで離れているので狙うべき標的を目視する事も難しい。
「アレなんか良くないですか?」
張遼が指差したのは、陣の中に点在する天幕の一つだった。
「出来れば旗を狙いたいですね」
「無茶言うなよ」
呂布は笑いながら狙いをつける。
「……呂布将軍、アレを狙うんですか?」
皇甫酈は信じられないと言う様子だった。
普通に考えれば、弓矢で狙える距離ではない。
「百歩までなら大丈夫なんだけど、アレは遠過ぎるから当たらないかもしれないけど、そこはご愛嬌って事で」
呂布は皇甫酈と張遼が見守る中、敵陣の天幕に向けて矢を射る。
それは弓矢と言うより圧倒的な力の塊が光となって疾った様に、敵陣の天幕に飾られた指揮官旗をへし折る。
「当たった? いやー、当たるモンだなぁ」
呂布はそんな事を呑気に言ったが、張遼も皇甫酈も目を丸くして言葉を失っていた。
旗を狙うと言い出したのは張遼だったが、ここからでは天幕の上に旗がある事がかろうじて目視出来ると言うところであり、狙ったところでそこまで届かせる事が至難の技である。
しかも弓なりに矢が落下して、その結果当たったのではなく、勢いが衰える事無く射抜くと言うのはもはや人間技ではない。
「……文遠、もし僕だったらあんな事されたら陣に引きこもって出てこないと思うんだけど、それについてはどう思う?」
「奇遇ですね。俺もそう思っていたところです」
皇甫酈の質問に、張遼は表情を引きつらせて言う。
張遼の考えでは、呂布の矢で威嚇して苛立たせ、痺れを切らせてた敵軍は数の差に物を言わせて攻めかかってくるはずだった。
その為、当たるはずが無いと思って指揮官旗を狙おうと言ったのだが、まさかそれを射抜いてしまうとは思いもしなかった。
これでは皇甫酈の言う様に敵軍の士気は地に落ち、戦わずに逃げ散ってしまう恐れがある。
その場限りの話をすればそれで呂布は仕事をこなした事になるが、敵に損害を与えていない以上、また集まって同じことを繰り返す事になりかねない。
「呂布将軍、ちょっとやり過ぎたんじゃないですか?」
「いやいや、文遠の案だったと思うんだが? 当てたらダメだった?」
「良いとか悪いとか、そんな次元の話じゃ無いでしょう」
張遼と呂布の会話に、皇甫酈が割って入る。
「それよりどうするんですか? 敵に引き篭られたら、ずっと居座られる事になりますよ?」
「要は引き篭らせなければいいわけだから、相手が引き篭るようだったらこっちは鏑矢を射ちまくって嫌がらせすれば良いんじゃないか?」
呂布はそう言うと、さっそく鏑矢を射ようとする。
「まあ、言葉は選んだ方が良いとは思いますけど、確かにそれだったら相手も痺れを切らせて陣から出てくるでしょうね」
張遼はそんな事を言っていたが、すぐに様子が変わった事に気付いた。
「あれ? 引き篭るつもりは無いみたいですよ?」
「ええ? 正気か?」
皇甫酈も驚いて敵陣の方を見ると、確かに敵陣に動きがありこちらへ攻め込んでくる様に見える。
「勇敢だなぁ」
「いや、この場合無謀でしょう。って言うか将軍、感心してないで全軍の指揮を取ってくださいよ」
攻めるはずの呂布軍だったが、向こうが攻めてきたのでさっそく動き始める。
どこからそう言う判断に至ったのかは分からないが、敵軍は呂布の騎馬隊に向かって全軍突撃を仕掛けてきた。
おそらく閉じ篭っていてはあの強弓に射抜かれる、と言う恐怖に耐えられなかったのだろう。
それに対し呂布はどっしりと真正面から迎え撃つ様な陣ではなく、こちらも同じく真正面からの突撃を仕掛ける。
呂布は軍を三つに分け、第一陣の最前線を呂布が、第二陣に張遼、第三陣に皇甫酈と言う陣容で突撃した。
敵軍はよほど慌てているのか、自分達の戦術に自信があるのか、全軍突撃を仕掛けながら歩兵は弓矢を放ってくる。
通常であれば騎馬の接近を阻むと言う意味でも、敵軍に対する打撃を与えると言う意味でも、弓矢による攻撃と言うのは非常に有効であると言える。
しかし、双方共に突撃状態にあり、しかも並みの練度ではない上に駿馬揃いの呂布の騎馬隊に対し弓と言うのはあまり得策とは言えなかった。
普通弓兵は山なりに矢を放つのだが、それは水平に飛ばすより飛距離を稼ぐ事が出来るので、より遠くに矢を飛ばす事が出来る。
当然命中率は落ちるので、それを補う為に数を揃えて放つ。
それが一般的な弓兵であり、よほど特殊な訓練をしていない限り弓兵は走りながらではなく立ち止まって放つものである。
その結果、敵軍は本隊と歩兵の弓兵の間に隙が出来る。
しかも放った弓矢が落下するところには呂布軍はすでにいなかった為、完全に無駄打ちになっていた。
呂布は突撃しながら、第二陣の張遼を右翼に、第三陣の皇甫酈を左翼に広げていたので弓矢の落下点を抜ける事は難しくなかったのだ。
これはあくまでも呂布軍にとって難しくないと言える行動なのだが、この用兵が出来るのは董卓軍の中でも呂布軍くらいしかない。
そしてこれが、賈詡の考えた敵軍撃退の策の第一段階でもあった。
これまで敵軍が撃退してきた董卓軍に対する戦い方は、正に今敵軍が行っている事の繰り返しだった。
まず弓兵で敵に打撃と混乱を与え、間髪入れずに本隊である騎馬隊による突撃。
基本戦術であり単純極まりない戦い方ではあるのだが、守勢に脆い董卓軍に対しては極めて有効な戦術でもあり、数において勝る軍が行うので効果も高い。
徐栄であればあるいはそれを躱す事も出来たかもしれないが、用兵の柔軟さにおいて劣る李傕や郭汜では、つい正面からぶつかってしまい、そのまま飲み込まれてしまったのだろう。
今の状況で全軍突撃に出て、今まで通りの戦い方を展開している敵軍からすると、いかに呂布奉先といえどその全体数は少なく、これまでの勇猛果敢な董卓軍の武将達でさえ手も足も出なかったのだから大丈夫だ、という経験則によるものだったのだろうが、相手が悪過ぎた。
第一陣の呂布がぶつかり合う前に、一矢放つ。
人間離れした貫通力を持つ矢は先頭の騎馬兵を貫いたに留まらず、さらに後続数人をも貫き、次々と落馬を誘う。
それによって呂布の正面には奇妙な道筋が現れ、そこへ戟に持ち替えた呂布が走り込む。
当たるを幸いに呂布は戟を振るい、敵陣を切り裂いていく。
瞬く間に敵軍の突撃の勢いが無くなり、中央で暴威を振るう呂布に対する様に敵軍は中央の呂布に殺到しようとするが、そこへ第二陣である右翼の張遼が突撃を仕掛ける。
分断されまいと中央に意識を向けられていた敵軍は、形としては背後から突撃を受けたようになり、不必要な混乱を広げる事になった。
呂布と張遼から蹂躙された敵軍は追い立てられるように左翼側へ逃げるしかなくなったのだが、そこにはもっとも厚く兵を配した第三陣の皇甫酈が待ち構えていた。
この展開こそ、賈詡が提案した敵軍との戦い方の策である。
これまで叔父の皇甫嵩の元でしか参戦した事のなかった皇甫酈は今回初めて自ら兵を指揮する立場で参戦したのだが、これはもはや戦と呼べるものではなかった。
皇甫酈の指揮する第三陣の前に現れる敵軍はすでに戦力としては機能していない状態で、闇雲に武器を振り回す恐慌状態か、戦意を失って逃げ惑う者達である。
皇甫酈は武器を振るう者達は打ち倒し、逃げ惑う者は逃げるに任せ、数多くの敵兵を討ち取り、また捕虜を多数捕らえるという武勲を挙げた。
敵軍としては全軍三万の内、一万をなすすべなく討ち取られはしたものの、まだ二万は残っている。
数だけで言えば呂布軍の四倍の数なのだが、討たれた一万は敵軍主力の騎馬隊であり、残る二万は歩兵である。
しかも、主力の惨敗ぶりを目の前で見せられた歩兵なのだから、その士気は著しく低下して戦う気力を維持している兵などいなかった。
一通り敵軍を敗走させた呂布は、戟から弓に持ち帰ると敵歩兵に向かって鏑矢を放つ。
独特の音を放ちながら頭上を飛ぶ鏑矢に恐れをなしたのか、歩兵達は弓や武具を投げ捨てて蜘蛛の子を散らす様に逃げ散っていく。
「見事な勝利でしたね、将軍!」
皇甫酈が興奮気味に言う。
賈詡の策が見事にハマったと言う事もあるが、賈詡がこの策を用いる様に勧めたのは、まさに皇甫酈に手柄を立てさせる為でもあった。
漢の宿将である皇甫嵩は今後長く軍に留まる事は難しく、しかも董卓政権が確立した後には皇甫嵩には居場所が無くなる。
それでもその名は大きく無視出来ないと考えた賈詡は、その甥である皇甫酈を董卓派に引き入れる事で皇甫嵩の名前さえもこちら側に引き入れようと考えたのだ。
わざわざこんな小細工をしなくても呂布や張遼であれば敵軍に対する勝利は簡単だったかもしれないが、まったく実戦経験の無いに等しい皇甫酈に手柄を立てさせながら勝利するとなると中々難しいものである。
それを賈詡は策によってやってみせた。
皇甫酈は文官と侮っていたが、そんな皇甫酈さえも手の平の上で踊らせたのだから、賈詡と言う人物もただものではないと、呂布や張遼は感じていた。
この前後に起きている、密かな大事件
実際には陽人の戦いから長安遷都位の時期と思われますが、董卓の命令を受けた李傕が、とある土地を襲撃しています。
その襲撃を予見して、いち早く難を逃れた人物がいました。
漢の重臣である荀爽の甥っ子であり、当代の『王佐の才』と評される天才軍師、荀彧文若です。
当初荀彧は韓馥の元に身を寄せようとしたのですが、とある『のっぴきならない事情』があり、袁紹の元の客として迎え入れられる事になります。
とある『のっぴきならない事情』に関しては、詳しくではないものの、いずれ本編でもチラッと触れる事になりますので、しばらくお待ち下さい。
と、引っ張る様な事でもないんですけどね。
 




