第五話
その掛け声に一番驚いていたのは、呂布だった。
何しろそれは、自分の発した号令ではなかったからである。
しかし、呂布の号令だと思い込んだ全軍が一気に崖下の連合軍に突撃を始めてしまった。
馬の質がよく、さらに訓練を重ねた騎手であれば崖を馬で下る事は出来たとしても、その逆はまず不可能である。
まして、今の号令は自分ではないからもう一回やり直しと言っても、それには相手の都合もある。
「今の声は、李粛か?」
号令が呂布の声ではない事に気付いた高順が、呂布のところへやって来て尋ねる。
「……多分、そうじゃないかとは思う」
「あのクソ野郎は野放しにしておくべきではないぞ、奉先。今回の一件だけでも首を刎ねるには十分だ。何なら乱戦に紛れて俺が首を取ってこようか?」
「その冗談は洒落になってないって。戦場では特に」
呂布は苦笑いしながら答える。
出遅れた呂布とその直属の一団は、今から無理に後追いで突撃する事は味方の混乱を招く恐れがあると判断し、また急な突撃命令に反応して暴発気味に戦闘に入った為に包囲網にムラがあるのを見越して、包囲の薄いところへ移動を始める。
「随分と妙なところで突撃命令を出したんですね」
途中で合流した張遼は、呂布に向かって言う。
突然の突撃命令が異様に焦ったものだと感じた張遼は、あえて周りに流される事をせずにその場に留まったらしい。
「いや、あれは奉先じゃなくて李粛が勝手にやった事だ」
「……あの人は百害あって一利無しじゃないですか? 今回の一件でもその首で責任を取らせて然るべきでしょう。将軍の許しがあれば、この乱戦の中で俺がその首を落としてきても良いのですが」
張遼が高順と同じ内容の事を、言葉を変えて呂布に向かって言う。
この二人はとことん李粛が嫌いなんだなぁ、と呂布は感じていた。
荊州にいた時からそれは感じていたが、まさかこれほどに殺意を感じているほどとは思わなかった。
高順だけなら質の悪い冗談だ、と聞き流す事も出来たが生真面目な張遼までも同じ事を言っているのであれば、それは無視出来ない。
この戦いが終わってお互いに生きて帰る事が出来れば、董卓か李儒に何かしらの手を打ってもらおうと考えながら、呂布は岩壁の上を移動する。
高所から見て分かるのは、曹操率いる連合の追撃軍の混乱は予想以上に小さいと言う事だった。
連合からの追撃軍が出たと言う事は、すぐに董卓や呂布、李儒の元にもたらされた。
「連合より追撃隊が出たとの事。その数は二万前後、率いているのは曹操です!」
その報は、李儒の予想より遥かに早かった。
しかも曹操自らが率いているとなると、これまでの様な対応策では逆にこちらが痛手を被る事になりかねない。
「曹操が、二万?」
予想を大きく上回る疾さの追撃隊と言うのは李儒にとっても死活問題のはずなのだが、李儒に焦った様子は見られない。
「追撃隊には曹操の旗のみだったのですか?」
「いえ、率いる将は曹操ですが、連合軍からそれぞれ兵を出したらしく、旗は統一されていませんでした」
「なるほど、分かりました」
李儒はそう言って、伝令を休ませる。
「董相国、一大事です」
「うむ、聞こえておったわ。して、対応策は?」
声に緊張感がないので一大事の会話とは思えないのだが、呂布からすると何故これほど余裕なのかが分からない。
追撃してくるのが他の誰かならともかく、曹操であるならその危険度は跳ね上がる。
しかも二万もの兵力であれば、何かとんでもない奇策を使ってくるかも知れないのだ。
「まずは状況を整理しましょう。いくら曹操が早かろうと、瞬きの瞬間に移動出来ると言うものでもないのですから」
李儒は冷静に言う。
この落ち着き方に事態の深刻さがわかっているのかと不安にもなる反面、いたって李儒らしい態度でもあるので妙な安心感もあるのは確かである。
「まず、追っ手を率いているのが曹操と言う事ですが、曹操は慎重でありながら勝利を目指す時には大胆であり、また兵法にも深く通じている為、下手な小細工など簡単に見抜いてしまうでしょう。また、他の諸将の様に気位ばかり高く、口はよく動いても手が伴わないと言う事も無く、自ら陣頭に立つ事も厭わない為に兵もよくついてくる、現時点で連合における最強の武将の一人と言っても過言では無いでしょう」
「して、耳障りに曹操を褒める以外に何かないのか?」
不機嫌になる董卓に対し、李儒は苦笑いする。
「ただいま申し上げました曹操評は、私個人の感想と言う訳ではなく、おそらく連合内でも同様の評価を得ている事でしょう。ですが、先の汜水関の戦いにて連合は孫堅さえも持て余し、自ら孫堅を敗北させると言う愚を犯しました。曹操だけが自由自在に動く事など、まず有り得ないと言えるでしょう」
「うむ。それで?」
「追っ手は二万と言う事でしたが、地位も無く私兵を集めて参戦したと思われる曹操にそれほどの兵力が無い以上、その兵は連合の諸将から借り受けた兵と言う事。曹操の卓越した指揮能力をもってしても、それは烏合の衆と言えるでしょう。また、古い付き合いのある袁紹はともかく、他の諸将から見ても格下であるはずの曹操が権勢を振るう事は面白く無いはず。針の一刺しで追撃隊は崩壊いたします」
李儒の言葉に董卓は大きく頷く。
「よくぞ申した。それでこそ我が軍師よ!」
「そこで策なのですが、一時運搬中の財宝をお借りできないでしょうか」
李儒の申し出に、董卓は一瞬眉を寄せる。
「何?」
「烏合の衆を釣る餌として、見せてやろうと思います。もちろん、全て奪い返しますし、さらに敵兵の首や武具、馬なども合わせて献上いたしましょう」
そこでようやく董卓の許可も下りて、李儒の策に移った。
と言っても、さほど大掛かりな仕掛けでは無い。
李儒の予想を大きく上回る疾さで追撃に来た曹操だったが、それはこちらに考えたり大掛かりな仕掛けをさせない為に曹操が打ってきた手だ、と李儒は見抜いていた。
その疾さこそが曹操の勝機なのだから、足を止めてやれば良い。
そこで洛陽から運搬中の財宝をばら撒いて見せれば、兵士の足を止めるには十分な効果がある。
どれほど精鋭を集めたとしても、二万もの兵士がいて誰一人として財宝に興味を示さないなど有り得ない。
誰か一人でも宝に目を奪われ、それを拾い始めればそこから続々と兵は崩れていく。
それを高所から眺め、頃合を見て突撃すれば曹操といえどもなす術無し、と言うのが李儒の策だった。
この策は相手が連合軍だからこそ、大きな効果が得られる。
単一勢力であった場合、財宝の回収組と追撃組に分かれて分担作業が出来てしまうのだが、連合の場合は指揮系統が入り乱れているのでその分担作業を速やかに行う事が困難なのである。
問題があるとすれば、激発した李粛が勝手に突撃の号令をかけてしまった為に、包囲網が完成していないと言う事くらいだ。
連合の追撃隊と董卓の迎撃隊がすでに入り乱れての乱戦となってしまったので、ここから敵武将を見分ける事は難しくなっている。
それに、仕掛けるのが早すぎて敵の混乱が広まっていない。
本来であれば財宝に目が眩んだ兵士達が武器を捨てて宝を拾い始め、それを他の隊と取り合うような動きを見せてから突撃するべきだったのだ。
と、今更嘆いても仕方が無い。
「あの部隊、包囲網の薄いところを見つけたみたいだぞ。中々良い目をしているヤツがいるな」
高順が一隊奇妙な動きを見せている事に気付く。
「曹操の部隊か?」
「……いや、旗を見る限りでは徐州の陶謙軍のようだ」
呂布はそういうと、弓矢を構える。
「ちょっと脅かして、ここは退路じゃないと思わせよう」
そう言って呂布は、矢を放つ。
呂布の放った矢は、陶謙の旗の旗竿に命中して旗をへし折る。
徐州軍の実力についてはある程度知っている呂布達だったので、それで十分だと考えたのだ。
現時点で董卓軍の突撃に対し、真っ先に逃げ出そうとしていたのだからこれで脅しをかければ十分に混乱し、他の部隊への連携を悪くしてくれる存在になるはずだった。
が、徐州軍は呂布の予想を大きく裏切る行動に出る。
徐州軍は陣形を大きく崩して逃げ惑うと思っていたのだが、予想外に統率された動きを崩さず、そのまま進路を大きく変えて連合軍との戦いでもっとも苦戦を強いられている李粛の軍に、側面から突撃をかける。
徐州軍の戦力ではそれほど大きな戦果は得られないものの、李粛軍との混戦となってしまった為に弓で援護は非常に難しくなった。
しかも李粛はさらに苦戦を強いられる事になり、そこから包囲網を切り崩されかねない。
「なるほど、これは一本取られたな」
「勇敢な手ではないものの、上手い手だ。徐州の連中、あんなヤツを隠していたのか?」
呂布が呟いた後、高順が言う。
「最初に逃げようとしたのも、自分達さえ助かれば良いと言う訳ではなく、後方に回って包囲網の一角を圧迫しようとしたみたいですね」
張遼も上から見て、感心した様に言っていた。
徐州軍の数はそれほど多くなく、さらに後方に位置していた事もあったのだが、その分混乱は少なく統一されていたと言えなくもない。
呂布はかつて黄巾の戦いで徐州へ行った時に出会った、若き武将を思い出していた。
陳登元龍と言う青年。
武や暴の気配はまったく無かったものの、どこか油断ならない印象を受けた事を覚えている。
何しろ呂布とまともに会話出来たのは、あの時は陳登とその父親である陳珪の二人くらいしかいなかった。
「このままでは李粛のところから崩れるな。援軍を出そう」
「アレは見捨てて、改めて包囲網を組んだらどうだ?」
「その方が強固になりそうですけど」
呂布の提案に対し、高順も張遼も乗り気ではない。
「はっはっは、確かにアレはどうしようもないな」
呂布達のところに、徐栄がやって来る。
集団戦に強く攻撃力に特化しているこの男であれば、李粛の号令の際に真っ先に突撃して行きそうだったのだが、意外な事にまだ突撃していなかったらしい。
今回の迎撃軍は、呂布や李粛の他、徐栄や李傕、郭汜と言った董卓軍の主だった武将が参加している。
手薄になりそうな董卓の本陣には、牛輔や董旻、李儒と言った呂布を除く董卓の親族が固めている。
「徐栄将軍も出遅れですか?」
「その言われようは不本意だな、呂布将軍。俺ほどになると、あの掛け声は機を逸していると言うのも分かると言うものだ」
徐栄は得意気に言う。
まあ、確かにあそこで突撃と言うのは無い。
それが分かったからこそ、高順も張遼もあの掛け声が呂布のモノではないと気付いたのだ。
徐栄くらい機を見るに敏であれば、確かに気付いてもおかしくなかった。
「それに、さっさと混戦を作ってしまったら大魚を逃す事になるだろう?」
「大魚?」
「俺が狙っているのは、あいつだよ」
徐栄が槍の穂先を向ける。
その先には、真紅の鎧を身にまとい、混乱の中にありながら周囲に的確な指示を飛ばす曹操の姿があった。
「ああ、確かに大魚ではあるが、そこへの道は目に見えるより遠く険しい。別のところを狙うべきじゃないか?」
高順がそう言うのを、徐栄は鼻で笑う。
「ふん、呂布将軍の近くにいる事で、自分もいっぱしの武将のつもりか? この徐栄と口をきこうとは、恐れ知らずも甚だしいと言うもの。呂布将軍、そういう事で俺は独自に動くがその許可はもらえるのだろうな?」
「それはもちろん。ご武運を」
呂布がそう言うと、徐栄は勝ち誇った様に自軍を率いて移動していく。
「良いのか、奉先?」
「良くはないけど、言っても聞きそうにないからなぁ。それにもし俺だったら、狙うのはやはり李粛の軍だ。徐栄は今見えている退路を塞ぎに行ったみたいだが、そうやって兵を分断するのが曹操の狙いで、本命の退路はおそらく敵中突破。それが狙いやすいのはやはり李粛のところだ」
そう言うと、呂布は弓を鞍に収めると戟を手にする。
「そんな訳で、嫌でも李粛の加勢に行く事になるんだけど、高順と文遠はどうする?」
「どうするもなにも、俺は将軍にお供しますよ。高さんは?」
「仕方ない、か」
呂布の判断に、張遼も高順も渋々ではあるが賛同する。
「それじゃ、行くとしますか」
陳登と言う武将
物凄く文官の印象の強い武将である人物なのですが、この人はそこそこ武官な人です。
蜀で例えれば鄧芝みたいな人ですね。
この物語の中では出てこない上に三国志の中でも語られる事は無いのですが、この人、なんと徐州から南下して孫策と戦ったりしてます。
残念ながら勝利する事は出来なかったみたいですが、赤壁の戦いの前に呉軍と戦っている人で、攻めた時には敗れているものの徐州を孫策から守った人でもあります。




