第三話
だが、董卓や呂布は騙せたとしても李儒を騙し通す事など出来ず、曹操はすぐに追手を差し向けられる事になった。
また、袁紹の時とは違いその首に賞金までかけられる事になったのは、袁紹と比べ曹操の方が遥かに警戒されているからであった。
そんな風に思いたかったのだが、さすがにそうではない事くらい曹操にも分かっている。
袁紹と曹操では、問題になった時に動員できる兵力が違い過ぎる。
曹家も名門であり富豪と言えるのだが、袁家と比べるとまるで違う。
有事の際に動員できる兵力で袁家を超える事が出来るとすれば、それは皇帝の威光に頼るか、今なら董卓軍くらいしかないほどである。
そこがあったからこそ、李儒も袁紹に対して無理に追手を差し向けたりせずに懐柔策を取ったのだが、曹操が用意出来る兵数と言えば最大でも三千前後が限界なので脅威にならないのだ。
その為に、遠慮も配慮も必要とせずに追手を差し向けているのである。
都では絶大な影響力を持つ董卓ではあるが、それでも新興勢力であり広い国土に対して同じだけの影響力は持たない。
曹操の故郷である譙郡にまで帰る事が出来れば、ひとまず董卓の追手を振り切ったと言える。
呂布の選んだ名馬を走らせ、途中の中牟県で休養を取る事にした。
これ以上馬に無理をさせると馬を潰す事になり、そうなると逃げる事も出来なくなってしまう。
長距離を逃げるのだから、馬を失う訳にはいかないのである。
曹操本人も疲弊していたので、馬から降りて何食わぬ顔で中牟県の門衛に会釈して入り込もうとした。
「待て!」
いくらなんでも大胆過ぎる曹操の行動に、門衛が呼び止める。
既に曹操の人相書きが出回っていたらしく、探されていたのだ。
「何でしょうか?」
「貴様、曹操だな」
「いえ?」
曹操はごく自然に否定して、首を傾げる。
通常であればどれほど精緻な人相書きが出回っていたとしても、曹操は極めて没個性的な顔立ちなので、曹操似の男など山ほどいる。
この方法で突破出来る事が常だった。
「詳しくは県尉殿に調べていただく」
だが、ここの門衛はそれで良しとはしなかった。
余程暇なのか、身の危険を感じるほど評価が低いため中央に売り込みたいのか、本当に有能なのか。
「私は行商人で、荷物の受け取りがありますので急いでおります。これで見逃していただけませんか?」
曹操は賄賂として門衛に金を渡そうとする。
「お前が曹操でなけれがすぐに済む。何か後ろめたい事でもあるのか?」
実にもっともでまともな意見ではあるのだが、曹操としては意外な答えだった。
こんな末端の門衛まで秩序を持って行動するなど、董卓軍では考えられない。今の軍で末端までここまで秩序を守っているのは、呂布軍くらいなモノだろう。
ここの県尉は、指導力や統率能力の高さは呂布並と言う事かも知れない。
そんな人物がこんなところで燻っているのかと思うと人材の無駄遣いなのだが、今この状況ではいかにも末端の、中央の目が届かない事を良い事に小悪事に精を出すような人物が県尉であって欲しかった。
曹操はあえて抵抗せず、門衛に伴われて県尉のところへ連行される事にした。
堂々と『私は別人です』と言う態度を取る曹操なので、門衛も連行しているうちに自信が無くなってきている様に見える。
曹操の予想通り、既に何人かの曹操候補が県尉との接見を済ませているらしく、庁舎から兵に連れられて出て行く人物がいた。
名馬を飛ばしてきたにも関わらず、既に曹操包囲網が完成しつつあると言うのは恐ろしい事である。
情報伝達に鳥でも使っているのか、と曹操は考えていた。
「県尉、曹操と思われる者を連れてまいりました」
「どうぞ」
その声に、曹操は眉を寄せる。
女の声だった。
声に促されて、門衛は曹操を連れて県尉の前に行く。
そこに居たのは女だった。
美しいが冷たい印象の女で、呂布の妻である厳氏と並べても遜色無いほどだと曹操には見えた。
だが、厳氏と比べると眼光があまりにも鋭く、その眼力だけで飛ぶ鳥でさえ射抜く事が出来るのではないかと思えるほど、強く威圧感がある。
自分が女である事を隠そうとしていないのも、その圧倒的な眼力で周りを威圧して反対意見を封殺していると思われる。
そうでもないと、女が県尉と言う地位に就けるはずもない。
「私が県尉の陳宮だ。ご機嫌いかがかな、曹操殿」
陳宮は曹操を睨むように見て言う。
「誤解です。私は皇甫と言う行商人で、譙郡へ商品を取りに行くところでした」
曹操はごく自然な口調で答える。
「なるほど」
陳宮は頷いて手を握り合わせ、曹操を見る。
「何か証明出来る物はありませんか? 曹操ではないと証明する何かを」
陳宮は奇妙な言い回しで、曹操に尋ねる。
どこかで見た事がある、と曹操は陳宮を見ながら思う。
驚く程美しい上に、これほど目力の強い女である。出会っていれば思い出せそうなくらい印象強いはずだ。
そう考えていると、ふと思い出した。
宮廷で見た事がある。
女官にしては目つきが鋭く、歩き方に隙がなく、どこか不自然なくらい荒事慣れしていそうな貴婦人然とした女を見かけた事があった。
今にして思えば、あれがこの県尉だったのかもしれない。
「あいにくと今は身を立てる物を持っていません。ですが譙郡へ行けば私の身を証明してもらえる者達も多くいます。なにとぞ……」
「それでは、それを調べる。今夜は申し訳ないが、牢で一晩過ごしてもらう。罪人として入れる訳ではないので、食事の用意もこちらで用意しよう。よろしいか」
曹操はダメ元で賄賂を送ろうとしたのだが、陳宮はそれを遮る。
一応の同意を求める言葉ではあるものの、それは断定的でとても相手の返事を待っていない、有無を言わさぬ雰囲気である。
「御意のままに。ですが私は曹操ではありません」
「証明されれば、無事に解放しよう。ただで宿泊出来ると考えるが良い。丁重にもてなす事は約束する」
陳宮は、今度は曹操の返事を待たずに門衛に牢へ連れて行くように指示する。
話を合わせてくれてはいるが、あの女は自分の事を知っていると曹操は確信した。
だが、その割には曹操だと断定するような事は言わず、あくまでも『曹操に似ているが確認が取れない人物』として扱っている事は気になった。
自信があるのなら捕らえて中央に送れば、恩賞にありつけるだろう。
その相手が董卓であればその美貌から後宮入りも出来そうだし、李儒であればこんな所の県尉ではなく、その能力に応じた地位に取り立ててもらえるかも知れない。
どうにも陳宮の考えが読めない。
分かりやすく出世の為の道具として曹操を中央へ送ると言うのなら、門衛の見ている前でこいつは曹操だ、と言えば済む。
そうでは無いようだが、では何故曹操を牢へ入れて足止めする必要があるかと言われると、答えが出ない。
少なくとも陳宮に、曹操を黙って見逃す意志が無い事だけはわかる。
陳宮が言った通り、食事などは運ばれてきた。
特別上等と言う訳ではなかったが、文句を付けたくなるほど酷い物でもなく、ごく一般的な食事だった。
曹操は疲れてもいたので、食事をとって休んでいると牢の看守から呼ばれた。
「県尉がお呼びだ」
「今? 明日でなくて?」
「お前の疑いが晴れたのかもな。ほら、行けよ」
看守はそう言うと、牢を開ける。
彼は曹操の事を疑っていないのだろう。
看守と共に陳宮の所へ行くと、そこには陳宮一人であり、看守もそこから退散する。
女一人で相手にするとは大胆過ぎる気もするが、陳宮は剣を腰に下げている。
もちろん曹操も持っているのだが、陳宮はよほど武芸に自信があると思われる。
「こんばんは、曹操殿」
陳宮はそう言うと、立ち上がって頭を下げる。
「いえ、私は行商人の皇甫と申します」
「これ以上の誤魔化しは必要ありません。私は貴方を都でお見かけして知っています。お会いした事を覚えていませんか?」
やはりそうだったか、と曹操は思う。
だが、一回しか会っていないはずの曹操の顔を覚えられるとは、中々大したものだ。
曹操の顔は個性が無い分覚えにくく、呂布や董卓などは服や鎧で覚えているので顔だけで曹操を見つける事は出来ないかも知れないと言うのに。
「どうします? まだ惚けますか? 貴方は自分を曹操ではないと証明する事は出来ないでしょうが、私は貴方を曹操だと証明する事は出来ますが」
「いえ、もう十分です。私が曹操ですが、何か御用でしょうか」
誤魔化そうかと思ったのだが、この場で陳宮を騙す事は出来そうにない事は曹操にも分かる。
下手に機嫌を損ねると、本当に罪人として董卓の元へ送られる事になりかねない。
この場の支配権は現在陳宮の手にある。場の流れを読み、流れが変わった瞬間を見逃さない様にする。場合によっては流れを変える事が出来るかも知れない。
曹操はそこに注力する。
この陳宮と言う女は、一筋縄ではいかない。
いざとなれば陳宮は力尽くでどうにかなるかも知れないが、その場合だとここの県兵全体を敵に回すので、そうなると曹操に勝目は薄い。
「何故董相国を裏切ったのですか? 貴公であれば出世も間違い無しだったでしょう。それを捨ててまで相国に牙を剥いた理由が知りたい」
「それを知ってどうするのです? 私のやった事に変わりはなく、貴女は私を董卓に売ってその恩賞を受け取ればいい。董卓の情婦になれば、それは贅沢な暮らしが出来るでしょう」
曹操はあえて陳宮を挑発する。
今の冷静沈着な陳宮では、流れを変えるどころか彼女の考えをまるで読めない。
「貴公の目には、私はその様に映っている、と言う事ですか。これはまるで見込み違いだったようです。私の目が節穴だったらしい」
陳宮は溜息をついて首を振る。
「この状況で警戒しない訳にはいかないでしょう。私がそうだった様に、貴女も今の栄誉を捨てると言うつもりですか?」
曹操は陳宮に向かって言う。
彼女の方から状況を動かしに来たのだから、それに乗る事にする。
「先手を取られて気に入らないのはわかります。ですが、貴公の行動が天下を休んじるための義心からの行いなのか、最高位まで登り詰めた男を殺す事で得られる名声が望みなのか。同じ行動であったとしても、行動理念が異なるのであれば罪を問う事も出来ない」
陳宮は氷の矢を射るかのような、冷たく鋭い目を曹操に向ける。
「それこそ、『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』です。貴女のような俗吏であれば、私を売った賞金を手に贅沢するのがお似合いですよ」
「なるほど、貴公の目にはとことん私は女にしか見えないらしい。曹操孟徳と言う人物には期待していたのですが、私の勘違いだったのが分かりました。牢に戻します。明日、董卓の元へ送り、貴公の言う賞金をいただくことにしましょう」
陳宮はそう言うと、曹操に向かって手錠をかけようとする。
曹操はその手錠を奪おうとしたが、陳宮はその動きを読んでいたのか、素早く後ろに下がると流れるような動きで剣を抜いて曹操に突きつける。
見事な動きに惚れ惚れするくらいだ。
「そろそろ本音を聞かせてもらえますか、曹操殿」
「貴女も国を憂う一人、と言う事ですか」
「何故董卓に牙を剥いたのですか? 約束された将来を棒に振ってまで」
陳宮の質問に、曹操は首を傾げる。
「それは少し考えればわかるでしょう?」
「董卓の世が気に入らなかった?」
「ご名答」
曹操は隠さずに話す事にした。
許劭が自身を評した『治世の能臣、乱世の姦雄』と言う評判は、曹操は気に入っている。
だからと言う訳ではなく、今の董卓の世を支持していては国が滅ぶ。
それを誰かが行わなければその結果は火を見るより明らかなのだが、皆が董卓を恐れて行動出来ずにいた。
曹操なりに国の行く末を考えての行動だった。
当初曹操が董卓に協力していたのにも理由がある。
漢王朝の腐敗は外戚と宦官による私物化である事は誰もが知っている事だったが、それでも皇族やその近辺の宦官に対し効果的な手を打てる人物などそう多くない。
そんな中で地方の一太守でしか無かった董卓は、曹操としても都合の良い存在だった。
董卓は曹操が見込んだ通り、中央のしがらみなど一切関係ないと言わんばかりに宦官や外戚を排除してくれた。
その上で、董卓が相国になる事も曹操は反対ではなかった。
乗っ取りを考えるのなら、面倒事は全て董卓に行ってもらった方が良い。
全てが整ったところで頭をすげ替える。
「その頭に貴公がなるつもりだったのですか?」
「そんな訳がないでしょう。私がその勢いで相国になってしまっては、まとまるものもまとまらない。袁隗殿辺りにお任せして、軍事は呂布に、人事は王允に任せれば万事収まりがつく。私や袁紹はその次の人事で任命されればよく、そうすれば漢王朝も……、いや、失敗した今、ただの妄想でしかないのですが」
今回の暗殺が失敗してしまった以上、今後董卓に対する暗殺が上手く行く事は有り得ないだろう。
董卓は身内から信頼も厚いので、その身内から裏切り者が出るとは考えにくい。それであれば成功の可能性もあるだろうとは思うが、よほどの大義が無ければそれも難しい。
「残された手段は、外部からの強制排除。大連合ですか」
陳宮の言葉に、曹操は頷く。
「その為にも、まずは故郷の譙へ行く必要があるのです」
陳宮公台について
男性です。
まごう事なき男性で、母と娘が一人いるみたいなのですが妻の情報はありません。
正史でもかなり謎に包まれた人物でもありますが、男性だった事は疑いありません。
この物語では女性ですが、ちゃんと理由があります。
女っ気の無さから苦し紛れに女性化させたわけではありません。




