第五話
李儒が十人ほど連れて永安宮へ来ると、随分と想像していたよりも雰囲気が変わっていたので眉を寄せた。
李儒を見た何太后はあからさまに怯え、金切り声を上げて視線を泳がせている。
唐妃は李儒に対して頭を下げて、敬うように出迎える。
もっとも奇妙だったのは劉弁だった。
「ああ、董卓の軍師か。今日は何か用か?」
劉弁は李儒に向かって椅子から立ち上がる事もなく、悠々と声をかけてくる。
誰だ、この男は。と李儒は目を疑った。
劉弁と言えば、李儒に限らず無能の代名詞とでも言う様な、十代も後半になりつつある年齢の割に異様に幼く、まだ十代にもなっていない劉協と比べて誰の目にも優っているところが無い様な男だったはずだ。
それがこの永安宮での生活で何か覚醒したのか、英雄然とした雰囲気を醸し出している。
劉弁は李儒を見た後、李儒が連れている衛兵に目を向ける。
「なるほど。今日が朕の命日と言う訳か」
劉弁は薄く笑うと、そう呟く。
劉弁が皇帝であったのは半年程であり、その期間には皇帝の一人称である『朕』と言う名乗りも、李儒の記憶ではしていなかったと思う。
「はっはっは。皇帝でも無い者が『朕』などと口にするのは、それだけで不遜であると言いたげだな」
「何かあったのですか?」
李儒は劉弁に尋ねる。
「何か? それはもう、色々あったぞ。まず皇帝では無くなった。住まいも後宮からこの永安宮へと変わった。従う者達も、母上も随分と変わってしまった。どれから説明すれば良いものか」
劉弁は笑いながら言う。
ああ、なるほど。これがこの男の壊れ方なのか、と李儒は理解した。
無能でおどおどしていた劉弁は、この永安宮での生活の中でその重圧に耐えられなくなったのか、恐怖が麻痺してしまったらしい。
その結果、この英雄然とした雰囲気となったのは皮肉としか言い様が無い。
もし、と言いだしたらキリがないのだが、それでももし董卓がこの都ややって来た時に保護したのがこの劉弁であれば、もしかしたら劉弁は未だに皇帝であり、何太后も董卓の寵愛を受けていたかもしれない。
元々董卓は何太后と董太后の確執には詳しくなかったし、つい最近まで何太后に対して下心丸出しの目を向けていたのだ。
今更言っても仕方の無い事でもある。
この中で変わっていないとすれば、名門の生まれであるのに謙虚で慎ましい唐妃くらいなものだった。
「それで、朕の罪状は何になるのだ?」
「連座の罪です」
「ほう、何に対する連座だ?」
「董大皇太后、王美人の毒殺。董重元帥自殺の原因を作った何太后の罪です」
「なるほど、母上の罪か。それなら仕方が無いな」
劉弁は涼しげに言う。
あまりの変貌振りに、李儒は警戒する。
コレは劉弁に似た影武者で、こちらに対して牙を剥いて来たのではないかとさえ思う。
一応李儒も剣は持っているし、最低限の武芸は身につけている。
十中八九、丸腰の劉弁に対して遅れを取るような事はないと思うのだが、相手が劉弁の姿をした別人であればその限りではない。
李儒がいなくても董卓軍の攻撃力はほぼ変わらないのであまり意味は無いのだが、意志を示す事は出来る。
「李儒、頼みがあるのだが聞いてもらえるか?」
「聞く分には、問題無く」
李儒は警戒しながら答える。
「そこの女だが……」
劉弁は唐妃の方を見る。
「そこの女には唐妃を演じてもらっていたが、別人だ。唐妃は心を病んでいてな。朕が寂しがってはと、自身の死に際して替え玉を用意してくれていたのだ。さすがに死罪まで唐妃の代わりに受けさせるのは忍びない」
劉弁の言葉に、唐妃は目を丸くして驚いている。
そんなはずが無い事は、李儒にも分かっていた。
今では何の権限も無い弘農王となった劉弁だが、それでも先帝である。その劉弁の監視を怠るはずもなく、皇后の死を誰にも気付かれないように隠し通す事など出来るはずもない。
劉弁は唐妃を助けようとしているのだ。
これはとんだ計算違いだ。この男は壊れてなどいない。おそらくコレが、劉弁の真の姿なのだろう。と、李儒は思う。
無能のそしりを受ける何進だが仮にも大将軍まで登り詰めた男であり、美貌だけを武器にのし上がったと言われているが宮廷闘争に勝ち残り、数々の敵を闇に葬ってきた何太后を排出した一族。
そして、幼いながらも王の資質を見せる劉協と同じ霊帝を父に持つ。
母親の過剰な愛情がその能力の開花を取り返しがつかないほど遅らせて来たのか、環境の激変によって潜在能力が爆発的に伸びてきたのかは分からないが、劉弁にはこれだけの能力が眠っていたのだ。
眠っていたのだが、もうその能力を発揮する機会は無い。
劉弁もその事を分かっているからこそ、唐妃を逃がそうとしている。
「陛下、私は……」
「陛下? 朕とは言っているが、残念ながらもはやこの劉弁は少帝では無く弘農王である。そなたも唐妃のフリは必要無いのだぞ」
劉弁は柔らかくではあるが、取り縋ろうとする唐妃を突き放す。
「端女よ、身の程をわきまえよ。これまでは唐妃として扱ってきたが、それはお前が唐妃の代わりだったからだ。その役割を終えた以上、お前は皇后ではなくただの端女である事を忘れるな」
泣き崩れる唐妃に対し、劉弁は言う。
言葉は冷たいが、劉弁は唐妃の方を向こうとせずに言葉を重ねる。
劉弁は表情を見せないようにしている。
「弁、何を言っているの! その女を人質にして交渉すれば……」
「母上、董卓は交渉などするつもりはありません。我々は負けたのですよ。これ以上の犠牲は、皇族として恥の上塗りを続けるようなモノです」
劉弁と違った意味で、変わり果てた何太后が狂人を思わせる血走った目で劉弁を睨んで金切り声を上げているが、劉弁はそれを恐れた様子も煩わしく思う素振りも見せずに母親を諌めるように言う。
それに劉弁の言う通り、董卓との交渉の場を持つ事は出来ないし、なにより唐妃では人質としての価値も無い。
これが董大皇太后の一族である董承の娘であれば、場合によっては交渉の場くらいは持てたかもしれないが、それだけで延命や助命など出来るはずもない。
意外過ぎる事に、劉弁はその事に気付いていた。
「そちらの女性の名は? まさか名前が一緒だから影武者にした、と言う事は無いでしょう?」
李儒は劉弁に尋ねる。
この場にいるのが李儒だけであればすぐにでも保護出来るのだが、この場には李儒が連れてきた十人ほどの衛兵もいる。
この者達にも、彼女が別人であると証明しなければならない。
幸い、と言うべきかは分からないが、この衛兵達は永安宮を監視していた者達とは別人なので、この話が本当かどうかを調べる術を持ち合わせていない者達である。
つまり、この場で唐妃である事を否定すれば、それを信じるしかないのだ。
「名? 確か姓は尹だったと思うが、端女の名など朕は知らぬ。唐妃は知っていただろうが、朕にとってはその端女は『唐妃』として以外の価値は無いのだから、名など興味は無い」
劉弁は李儒の質問に対して、はっきりと答える。
見事と言うしか無い。
下手に詳しく話そうとするとすぐにおかしな点が出てくるし、皇帝であった者が寵姫の身代わりにやたら詳しいと言うのも、疑念を抱かせるきっかけになる。
あくまでも妻の代わりの一人であり、それ以上は知らないと言うのは実に現実的であり、その非道な言い分によって印象は劉弁の方に移り、結果としてこの場にいる唐妃が別人であるとの印象を残す事が出来る。
最初から劉弁が言っている事が嘘だと思っていても、ひょっとすると本当に影武者の、ただの女なのかもしれないと思わせる事すら出来たほどだ。
「なあ、李儒よ。端女一人の助命を乞う事くらい、貴殿の器量で許してもらえるだろう」
劉弁は李儒に向かって言う。
「……御意に。おい、我が家に連れて行け。妻である董氏に預けてくると良い」
李儒は衛兵の一人に向かって命じる。
唐妃は食い下がろうとする気配を見せたが、劉弁が唐妃の方を見ると軽く首を振る。
ここで彼女が粘ってしまっては、全てが台無しになってしまう。
謙虚で控えめではあっても、聡明な女性である唐妃なので、ここで何もかも説明しなくても劉弁が何を狙い、何を望んでいるかは分かるはずだ。
「陛下、お達者で」
泣き崩れながら、唐妃は劉弁に言う。
「……これまで妻の代役、ご苦労だった。だが、もはやその必要もない。分をわきまえよ」
言葉は冷たいが、その言葉を絞り出す為の一瞬の間が劉弁の逡巡を物語っていた。
劉弁も唐妃を愛しているのだ。
そうでもなければ、こんな嘘までついて彼女を逃がそうとはしないだろう。
「目障りだ、連れて行ってくれ」
李儒ではなく劉弁が衛兵に向かって言う。
衛兵の一人が遠慮がちにだが、泣き崩れる唐妃を助け起こす。
「軍師殿、こちらのご婦人は軍師殿の私邸でよろしいのですね」
「ああ、妻に預けてくれ。処遇はその後に決める」
李儒の意見に、衛兵の一人は頷くと唐妃を連れて永安宮を出る。
「董相国からの賜り物です」
李儒は唐妃が永安宮から出たのを確認すると、劉弁に杯を渡す。
「ほう、良い物だ。朕の墓に入れてくれ」
劉弁は杯を受け取ると、しげしげと眺めながら言う。
「では、注いでくれ」
劉弁は李儒に向かって言う。
「御意に」
李儒は衛兵に持たせていた酒瓶の中身を、劉弁の杯に注ぐ。
その中身について、劉弁は質問しなかった。
それが酒ではない事を知っているからである。
李儒が衛兵を連れてきた時、自分の運命を悟った劉弁なので、董卓が珍しい酒を振る舞いに来たとは考えられなかったのだろう。
「ま、待ちなさい! そなたが毒見しなさい!」
何太后が、慌てて叫ぶ。
「母上、その必要はありません」
「何を言うのです! これは董卓の企みです! おのれ、董卓め!」
「太后、皇族が血を求めてはなりません」
李儒が何太后を諌めようとすると、血走った狂人の目で何太后は睨みつけてくる。
「下がれ、下郎! 皇帝たる者の毒見である! 光栄であろう!」
何太后は喚き散らし、とても会話が成立させられない。
李儒は首を振ると、劉弁の方を見る。
「軍師よ。朕は皇帝として埋葬されるのか?」
「……いえ。原則として、皇帝のまま身罷られた方は皇帝として埋葬されますが、殿下は弘農王となられましたので、王族ではあっても皇帝としては埋葬されません」
「うむ。それで良い」
劉弁は大きく頷く。
「朕と違い、協は優秀である。この出来の悪い兄の代わりではなく、新帝に対して忠誠を誓ってくれ」
「御意に」
李儒は頷く。
何太后はまだ喚いて暴れまわっているので、衛兵に取り押さえさせた。
「この世に無道を行いながらも天寿を全うした者はいない訳ではないが、悪逆の限りを尽くして罰せられなかった者はおらぬ。今、我の身に起きている事、いずれ相国に、ひいては軍師たる貴殿にも降りかからぬとは限らぬ。その事、忘れぬ事だ」
劉弁は李儒の目を見て言う。
胸を抉られるような言葉である。
確かに劉弁は本人ではなく何太后の罪によって死罪を言い渡されている。
李儒も、自分には一切罪は無かったとしても董卓の軍師である以上、董卓の悪逆非道は李儒にも連座して然るべきである。
むしろ軍師であるのだから、その董卓の行動を進めたのは李儒だと言われても仕方が無いのだ。
「はっ。その言葉、常にこの李儒の胸に刻みつけておきます」
「うむ。では、母上。お先に行ってお待ちしています」
劉弁はそう言うと、杯の中身を自ら飲み干す。
その中身が何であるかを知った上で、一気に喉に流し込んだ。
どれほどの覚悟を決め、自らの運命を受け入れていたとしても猛毒を飲んだのであれば、体は拒絶反応を起こす。
劉弁は倒れ、喉を掻き毟りながら呻き、悶え、体を痙攣させながら血反吐を吐く。
あまりにも惨たらしい姿だった。
李儒自身も目を背けたくなる程の惨状だったが、李儒が選んだ衛兵達も苦しみながら絶命する劉弁から目を離さなかった。
彼らは李儒が選んだ、国に忠義を示す者達である。
こののち彼らには現皇帝である、献帝劉協の親衛隊になってもらう予定で、それぞれが武芸の達人でもあった。
彼らも生まれが裕福であれば、また有力者に縁があればこんな所で衛兵などではなく、漢の武将として名を馳せていたかもしれない者達だ。
「我が兄、何進の軽挙によって偶然天下を手中に転がってきたと言うだけのゴロツキめ! この賊徒共、呪われろ! 呪われろ、呪われろ、呪われろ! 貴様ら全てに、我が子、少帝の苦しみを万倍にして味あわせてくれる!」
目を血走らせ、髪を振り乱し、唾を飛ばしながら何太后は李儒に掴みかかってくる。
あまりの形相と勢いに李儒怯み、それを躱す。
そのまま何太后は勢い余って、永安宮の楼から転落していった。
その断末魔の叫びは、いつまでも李儒の耳から離れなかった。
李儒は事を終えると、執務室ではなく私邸の方へ戻る。
衛兵が一人ついているとはいえ、妻の董氏はあの董卓の娘だとは思えないほど武芸に向かず、万が一にも唐妃が錯乱していた場合には危険が及ぶ恐れがあった為だ。
可能性は低かったのだが、私邸に戻って妻の様子を見た時にはやはり安心する。
董氏は、放心状態の唐妃の世話をしていた。
「李儒様、お帰りなさい」
李儒に気付くと、董氏はそう言って迎え衛兵も一礼するのだが、唐妃は虚空を見つめて何の反応も示さない。
正直に言うと、死の直前はともかく普段の劉弁は、まったくもって取るに足りない男だったと李儒は思う。
それでもこの女性は愛していたのだろうと言う事は、今の唐妃の状態を見れば必要のない事だとわかっていても考えてしまう。
「李儒様、唐妃……、尹氏をどの様にされるおつもりですか?」
衛兵が下がるのを確認した後、董氏は李儒に尋ねる。
「僕としてはこれ以上の血を流す必要は無いと思っているから、信頼出来る呂布将軍に預けようかと考えているんだが、何か良い案があるかい?」
「……良い、かどうかは私には分かりませんが、呂布将軍はあの外見とは裏腹に浮いた噂の一切無いお方。家庭も円満とお聞きします。そこに突然女性が増えると言うのはあらぬ注目を集めないでしょうか?」
董氏は心配そうに言う。
その言い分はもっともだと、李儒は頷く。
呂布は見栄えのする美男子で飛ぶ鳥を落とす出世を果たした名将であるにも関わらず、驚く程女性と縁が無い。
と言うより妻一筋で、それ以外の女性に興味を持っていないと言う印象である。
そんな事もあり、呂布は身持ちの固い武将との評判だった。
「君は誰が適任だと思うかい?」
「……曹操様はいかがでしょうか? あの方は十代の時には七人の愛妾を持ち、非常に女性を大切にされるとお聞きしています」
「木を隠すには森、と言う訳か。さっそく手配しよう」
曹操であれば、女性を目的に戦いを始めるとしても、女性を戦の口実として矢面に立たせる事は無いだろうと言うのは、李儒も賛成であった。
そんなわけないじゃん
いくつかありますが、まず劉弁は無能だったと思います。
三国志演義で『THE・無能』と言えば劉備の息子で蜀の二代目皇帝である劉禅公嗣が代表ですが、劉禅は三国志正史の中で特別無能だったと言う表記は無いそうです。(色んな人からダメ出しはされてたみたいですが)
正史の著者である陳寿の劉禅評は『良くも悪くも染まりやすい人』との事。
具体的に言うと、孔明先生がいた頃はそこそこ名君主、ダメ人間黄皓が側近になったらダメ君主と言う具合です。
それに対し劉弁は正史の中でも『劉協と比べてとっても残念』と言う内容の記述があります。
死の間際に英雄に目覚める、と言う事もありません。
もう一つは唐妃の事です。
当然の事ながら唐妃は本来、劉弁や何太后と運命を共にしています。
魏滅亡間際の重臣何晏は何進の孫であり、その母尹氏は曹操の寵姫となっていますが、何晏は劉弁の子ではありません。
当然尹氏も唐妃とは別人です。
本編であんな事を書いてますが、私の勝手な創作ですので信じないで下さい。
ちなみに今回の話が正史の中で李儒の名前がちょこっと出てくる唯一のシーンです。
正史ではガチでモブな李儒ですが、演義同様に今後も大活躍です。




