第四話
董卓は弘農王劉弁とその妃である唐妃、劉弁の母何太后を永安宮に閉じ込め、人の往来を制限した。
永安宮と名付けられているが、宮殿の隅に用意された監禁部屋の様なものであり、場合によっては着るにも食べるにも困る有様だった。
これまで贅沢三昧だった何太后はここでの生活には順応出来ず、董卓に対する恐怖より今の生活に対する不満が勝るようになっていた。
同じような生活をしていたはずの唐妃は、元が慎ましやかな性格と言う事もあってか、劉弁や何太后の為に甲斐甲斐しく動いている。
妃の立場から下女の様な扱いを受ける立場になった唐妃だが、その健気さと失われない気品の為、董卓の密偵も兼ねた最低限の世話役達からも同情を集めていた。
それだけに唐妃と違い、己の不遇だけを呪い悲嘆に暮れる何太后に対する不快さへと変わっていく事にもなった。
そんなある日、劉弁は永安宮から外を眺めている時、二羽の燕が飛んでいるのを見て唄を吟じたと言う報告が李儒の元へ届いた。
それは董卓に対する反逆の意志の現れであり、李儒の元へ知らされる前に董卓へ報告されたと言う事も伝えられた。
「どのような内容なのだ?」
李儒は報告を受けながら、その使者に尋ねる。
「内容?」
「弘農王が相国に対して反逆の意志を示した詩だったのだろう? おおよそで構わない。どのような内容だったのだ?」
李儒の質問に対し、使者は答えようとしない。
答えられない事はともかく、その理由が問題である。
劉弁の吟じた唄と言うモノがかなりの長さで、要約すると董卓への反逆の意志を唄ったモノだと言うのであれば、内容を正確に説明出来なかったとしても仕方が無いところもある。
だが、使者が董卓に対する点数稼ぎの為に捏造したと言うのであれば大問題だ。
捏造と密告がまかり通るのであれば、それは十常侍の時と何ら改善されていない。董卓には武力があるのだから、場合によってはより悪化していると言える。
「董相国に確認に行く。余計な事を言いふらして混乱を招くようであれば、その罪を問う事は忘れるな」
李儒は使者に対してそう釘を刺す。
軍の方は董卓子飼いの西涼軍は勇猛果敢であるのだが、呂布が率いる旧丁原軍のような規律は無く、董卓軍の骨子であるので改善を急がなければならない。
李儒が目指すところは平穏無事な生活であり、自身の栄達に関しては優先順位が著しく低い。
それに対し十常侍の専横を生き延びた中央の政務官達は、姑息なくらい生き延びる術に長けている。
こういう奴らはタチが悪い。
媚びる事に長け、相手が望む答えを見つけるのが早く、気に入られる為の努力を怠らない。
今回の密告など、その最たる例と言える恐れがあるのだ。
帝では無くなったとは言え、王位である事には違いない。それを一人の佞臣の讒言で処罰する事など、分かりやすい崩壊の兆しを見逃す訳にはいかない。
李儒はそう思うと、董卓の元へ急ぐ。
李儒から見ると不必要なところでの行動力に富む董卓なので、場合によっては既に劉弁達は殺されているかもしれないのだ。
いずれ不要になる駒ではあっても、今は良くない。
董卓政権は軍事力のみに支えられたモノであり、基盤は脆弱そのものである。
讒言による先帝殺しなど、分かりやすい口実を与えるべきではない。
李儒が急いだ甲斐もあって、董卓が使者を放つ直前に間に合った。
「おお、李儒か。何用だ?」
「相国、この者は?」
李儒は傍らにいる者に目を向ける。
「小童が、この儂が生かしてやった恩も忘れて、儂への反逆の詩を詠んだと言うのでな。天に二日無く、国に二帝無しだ。我らが帝は、劉協陛下のみ。他に忠誠の対象がいる事は示しがつかぬ。まして恭順ではなく反逆の意志を示すとあらば、是非もない」
怒ってる? と李儒は眉を寄せる。
冷静沈着を装って会話しているが、むしろそこが気持ち悪い。
董卓は激情家で、気に入らない事があれば子供のように喚き散らす事が常であり、李儒などはその度に呆れていたのだが、今日は様子が違う。
激情を押しとどめて会話しようとしているのが、どうにもいつもの董卓らしくない。
怒りの度合いが深い場合、こう言う態度を取る。
「天に二日無しと言われる事はごもっとも。ですが、劉弁は既に少帝ではなく弘農王となっております。また反逆の意志と言われても、それは詩の内容を吟味する必要があり、確認を要する事でしょう」
「李儒、それは軍師としての意見か?」
空気が張り詰めていくのが分かるが、理由が分からない。
このやり取りの中に失言が入る余地も無さそうだが、何か董卓の気に食わない事が含まれていたのだろうかと、李儒は眉を寄せる。
「確認が必要です。それを怠れば、この先、讒言による足の引っ張り合いによって有用な人材を失う事になります。それでは相国の評価が十常侍と同等まで下がる恐れがあります」
「……なるほど。その意見は聞いておこう」
これは余計な事は言わない方が良さそうだな、と李儒は警戒する。
李儒が来る前に何かあったのかもしれない。
だが、このままでは暴発しかねないので、何に怒りを感じているのかを確認しておいた方が良さそうでもある。
「閣下はいかにお考えですか?」
「今すぐ切って捨てる」
董卓は即答する。
物騒な事を即答するものだ。
「あやつらに生きる資格は無い! 今すぐに切り捨てる!」
「あやつら?」
「何一族は根絶やしにする。儂への反逆罪であれば、それは妥当であろう」
相国に対する反逆が事実であれば、無しとは言えない。
だが、あくまでも事実であればの話であり、皇族を根絶やしと言うのは暴挙とさえ言える。
確かに劉弁は皇帝では無くなったが、何太后は亡き霊帝の妻であった事は事実であり、皇族の一員である。
「閣下。まずは劉弁に反逆の意志があったのかをご確認される事が、なにより肝要ではありませんか?」
「ならん!」
董卓は火を吐くような勢いで、言葉を叩きつける。
どう考えても反逆の疑いのある詩を詠んだと言う次元の怒り方では無く、明らかに何か別の理由がある事が分かる。
「閣下、処断の理由が何かおありなのですか?」
李儒は直接董卓に尋ねる。
「貴様はあの一族が何をしてきたか知らんのか?」
董卓が激怒する様な事をしたのだろうか。
李儒は都の事には疎く、特にこれといって思い当たる事は無い。
それについ最近まで董卓は何太后に対して、露骨に獣欲を剥き出しにした視線を送っていたはずだ。
「あの一族は、董太后を毒殺し、董重元帥を自殺に追い込んだのだ! この罪を問わずして、道理が立つか!」
それがどうしたのだ? と李儒は首を傾げるが、少し考えて思い至った。
どう考えても地方の一太守でしかなかった董卓が、皇族との接点などあるはずもないのだが、同じ『董』と言う姓である同族と言えなくもない。
何皇后と董大皇太后の政争は李儒も知っている。その結果も知っているが、まさかそれが董卓の逆鱗に触れる事とは思わなかった。
と言うより董卓に、そんな義理堅さがあるとは夢にも思わなかったので考えもしなかった、と言う方が正しい。
「……それで?」
「大皇太后を毒殺し、元帥を自殺に追い込み、さらにその息子は儂への反逆の意志を示しておる。根絶やしにする他にあるか!」
董卓は机を殴りつける。
今でも人間離れした膂力を誇る董卓は、その拳の一撃で机を真っ二つに破壊する。
だが、まったくの暴論であるとは言えない。
こちらが新たに擁立した新帝劉協の母親である王美人、さらに霊帝の母親である董太后を毒殺したとなれば、それは新帝の親を毒殺した大罪人である。
董卓が自身の正当性を主張するのであれば、逆に何太后の罪は問わなければならず、当然帝位では無くなった劉弁にも連座する事になる。
むしろ筋が通っていると言えなくもない。
が、それはあくまでもこちらの言い分であって、大義として通るのかと言うと帝位の交代が強引極まりなかったモノなので、反感を買う事になるだろう。
しかし、新帝を擁立する立場から考えれば、ここは董卓の言い分の方が正しい。
そこを蔑ろにしている事の方が董卓政権にとって致命的になるのは間違い無いのは、李儒にも分かる。
それに劉弁と言う廃物を効果的に利用出来るのも、ここで処断してしまう事でもある。
「李儒、それでもまだ反論があるか?」
「いえ、そのようにお考えであれば、僕もこれ以上の意見はありません」
としか言い様がない。
あくまでも劉弁の反逆の意志の確認にこだわると、確実に李儒の方に矛先を向けられてしまう事は疑いない。
自分の身を守る為にも、董卓の、ひいては新帝劉協の正当性を主張する為にも、ここで何一族を処断するしかない。
「ではその役目、この李儒にお任せいただけませんか」
「何?」
董卓は眉を寄せて言う。
これは汚れ役であり、争いを好まないところが目立つ李儒らしからぬ言い分と感じたのだろう。
李儒にしても出来る事なら別の誰かにやってほしいと思うのだが、董卓軍の誰かに任せてしまうと、明らかに余計な事を引き起こしてくれそうな心配があるのだ。
呂布であれば適任と言えなくもないが、さすがに呂布にそれを任せる訳にもいかず、天下の名将に対して負わせる汚名では無い。
そう考えると、ここは李儒以外の適任者がいないのである。
「閣下のおっしゃる通り、親の仇を討たずして孝の道を正す事にはなりません。幼いとはいえ皇帝陛下がそれを示す事こそ漢王朝の在り方と言う事を、僕もようやく至りました」
「正にその通り! さすが、我が軍師よ。儂の考えを正確に理解したようだのぅ」
董卓は怒りの波が去ったように笑うと、大きく頷く。
「ならば李儒、全て貴様に任せる。儂の期待に応えよ」
「御意に」
李儒は頭を下げると、人員の手配を始める。
西涼董卓軍は武と武のぶつかり合いには滅法強いし、呂布軍はより広く器用に動ける精鋭軍ではあるが、どちらも謀略には向かない。
ここで使うのは、より暗躍に向いた中央の刑吏である。
出来る事なら出世や権力欲が強い者では無く、より忠誠心と儒教精神の強い者の方が良いのだが、中々難しいだろう。
適任者は曹操辺りかとも思うのだが、李儒は曹操の底知れなさに警戒していた。
何しろ曹操と言えば、人物評で有名な許劭をして『治世の能臣、乱世の姦雄』とまで言わせた人物である。
袁紹などと比べて一筋縄ではいかない。
そうすると王允辺りを頼る事になる。
王允としても、元々劉協派であり何一族の専横をよく思っていなかったので、ひとまずの利害は一致するだろう。
もっとも、だからといって董卓の専横を容認する訳ではないのだが。
李儒はそんな事に頭を悩ませながら、衛兵代わりの刑吏を十人ほど集めて永安宮へと向かった。
董卓の新帝擁立
董卓が劉弁と劉協を比べて、劉協の方が勝っていたと感じたと言うのは三国志正史にもある話です。
だから劉協を皇帝にと思ったようですが、本編中にもあったように董卓は何一族に対して敵意を抱いていたようです。
内容もおおよそ本編で語った通り、同姓である董大皇太后とその一族を何太后や何進が死に追いやったと言う事が原因らしいです。
暴虐の限りを尽くした董卓ですが、身内に甘いと言う一面もあり、この董大皇太后一族の仇討ちも、ある意味では非常に董卓らしい行動だったと言えそうです。
ただ、やり過ぎるところも董卓らしい問題点だと思います。




