第八話
「呂布将軍、李粛と言う武将が将軍を訪ねてきましたよ」
丁原軍の幕舎で兵士がそう伝えてきた時、呂布は驚いた。
「李粛が? いくらなんでも酔狂が過ぎるだろう」
呂布は思わずそう言っていた。
呂布は高順ほど情報通と言う訳ではないのだが、それでも李粛が董卓軍に加わった事は知っている。
敵陣営に所属している李粛が、戦闘が終わった直後にやって来る。
これでは呂布でなくても、私は董卓軍の使者ですと宣言しているようなものだ。
もし停戦や和睦が目的の使者であれば、呂布ではなく丁原の方へ行くはずである。
取次が張遼であったなら、呂布に会わせる事もなく叩き返していただろう。
「まあ、せっかく来たんだから会ってみようか」
お人好しの呂布は幼馴染を門前払いする事に抵抗を感じ、李粛に会う事にした。
「やあ、奉先。会ってもらえないかと思ったよ」
「それはそうだろう。立場的には敵同士なのだから。追い払っても良かったんだが、せっかく来てもらったし、久し振りだったからなぁ。会ってみようと思ったんだよ」
呂布はそう言って、兵士が連れてきた李粛を幕舎へ迎え入れる。
「数年振りになるのか?」
「……ああ、そうだね」
李粛は随分と緊張しているように、頑張って返事をしている。
元々大胆と言う人物ではないのだから、単身で敵地に乗り込んできていると言う事実だけで、李粛は極度の緊張状態になっていても不思議じゃない。
「前に会ったのは、厳氏を紹介してくれた時だったよな。まあ色々とあったが、今ではこの俺が娘まで持っている。お前のお陰だよ、李粛」
「いや、僕は紹介しただけだから」
「こんな事さっさと終わらせて、家に帰りたいよ。娘は最近では高順の方を父親だと思ってるかも知れないし」
呂布は笑いながら言う。
もちろん冗談で、呂布の娘である蓉は城内を走り回るお転婆振りを発揮して、高順の手を焼かせていると言う。
その一方で張遼の事はお気に入りらしく、張遼が来ると途端にしおらしくなったり、張遼にべったりくっついて離れようとしなかったりする。
蓉が言うには、張遼は文武における師匠らしい。
二人は酒を飲みながらしばらく雑談していたが、空気がほぐれたと感じたのか李粛の方から切り出してきた。
「奉先に会うのは久し振りだけど、お父さんにはお会いしてるんだよ」
「お父さん? 父に会ったってどう言う事だ?」
呂布の父は幼い頃に死んでいる。
が、それは母親から言われた事であり、呂布が父親の死を実際に見た訳ではない。
もしかして父親は生きていて、李粛はそれを見つけたと言うのだろうか。
「実父じゃないよ。養父の方、丁原将軍さ」
「それならそう言えよ。紛らわしい」
呂布は露骨に溜息をつく。
李粛はいつも丁原を将軍付けで呼び、お父さんなどと言う呼び方をしなかったので、呂布は余計な期待をしてしまった。
「でも分からないな。どうして奉先は丁原将軍に尽くすんだい?」
「別に子が親に尽くす事は珍しい事でも不思議な事でも、悪い事でも無いだろう? 何か問題があるのか?」
「奉先はそう思っても、丁原の方はどう思ってるかなぁ。前に黄巾の乱では……」
「李粛、何が言いたいんだ?」
呂布の目付きが鋭くなる。
お人好しで温厚な呂布だが、怒らない訳ではない。
空気を読む能力に乏しい李粛であっても、荊州の若き武神呂布奉先を怒らせた場合の事を考えると顔色が変わった。
「い、いや……」
「言いたい事ははっきり言ってくれないか? 知っての通り、俺は学も無ければ心も読めないからな」
「そ、それなら言わせてもらう。奉先、君は丁原なんかのところにいるべきじゃない。もっと相応しい主君に仕えるべきだ!」
李粛は怯えながらも、勇気を振り絞って言う。
「相応しい主君?」
「ああ、宮中はもちろん、この漢全土において随一の英雄である董卓将軍だ。董卓将軍は奉先の事を天下に二人といない名将だと、まさに国士無双だと高く評価している。どうだ、奉先。董卓将軍の元へ来ないか?」
李粛はそう言うが、呂布は無言で李粛を睨んでいる。
「口だけじゃないし、嘘じゃない。董卓将軍は奉先の為にと、天下の名馬を贈りたいと言って僕に持たせたんだ」
「天下の名馬、だと?」
呂布はふと思い当たる。
先程の戦いの中で、董卓の乗っていた馬は常識を遥かに超えた速度で走り去っていった事を思い出した。
「見るか? 董卓将軍の誇る千年の名馬、赤兎馬を」
李粛の言葉に従い、呂布は李粛と共に幕舎を出ると、外には目を見張る様な名馬がいた。
全身炎に包まれたかのように赤く、雄々しさの中にも気品があり、涼しげな瞳からは深い知性を感じられる。
「これが千年の名馬、赤兎馬か」
これまで馬の世話をしてきた呂布でなくても、この馬が他の馬とは圧倒的に違う事くらい分かりそうなほどの違いである。
「この馬を董卓将軍が? 俺に?」
「そうさ、奉先。良禽は住む木を選び、賢臣は主君を選んで仕える。呂布奉先の名前を董卓将軍の元で、天下に知らしめるべきだ」
「……そうだな」
呂布は赤兎馬を見ながら呟く。
その言葉は李粛が待ち望んだ言葉であり、事は成ったと安心していたのだが、次の瞬間には李粛の眼前には呂布の剣の切っ先が向けられていた。
「ほ、奉先、これは一体? ど、どういうつもりなんだ?」
「どういうつもりってのは、こっちが聞きたいくらいだ。悪いが俺は董卓軍の密偵を黙って見逃すほど甘くない。この場で切って捨てても良いのだが、義父上に突き出して裁いていただく」
「奉先、正気か? 董卓将軍は奉先を誰よりも、丁原なんかより遥かに高く評価しているんだぞ? この名馬だけじゃない。金銀財宝に宝剣も、そうだ、厳氏や娘にも着物を贈ってもらう。それに対して丁原はどうだ? 黄巾との戦いではお前を、それどころか厳氏まで狙って殺そうとしたんだぞ? 妻子の事を考えても、丁原の元から離れて、董卓将軍の庇護を求めるべきじゃないか? なあ、奉先!」
李粛は必死に説得するが、呂布はその言葉に耳を傾けようとはしなかった。
その頃、丁原の幕舎を訪ねた客がいた。
「董卓軍の軍師が、何のご用ですかな?」
「丁原将軍の為にと思い、情報を持ってきました」
李儒はそう言うと、丁寧に頭を下げる。
それに対して丁原は李儒を睨んだまま、礼を返そうともしない。
敵対している軍の軍師が突然やって来たのだから、疑うのは無理もないと言うより当然の事である。
「情報? 情報だと? 儂の首には賞金が掛かっているとでも言うつもりか?」
「そんな事の為に、私も自分の首をかけてこんな所に来たりはしません」
脅しを掛けてきた丁原だっただが、李儒はびくともしない。
勇名を馳せる丁原であるが、李儒が仕えているのは董卓である。
何か発言する時には董卓の前と言うだけでなく、血気盛んな猛将である西涼董卓軍の武将達の前である事が多い李儒にとって、丁原の脅しなど意に介する必要も無かった。
「人目を忍んできたのは、私が丁原将軍の行動に感銘を受けたからです」
「何だと?」
「董卓が画策している少帝廃立の件、丁原将軍は誰よりも先に真っ向から董卓に反対なさった。誰もが、それこそ朱儁や皇甫嵩といった将軍達さえも董卓を恐れて口に出来ない事を、将軍は恐れず媚びる事なく正義を貫いた。誰もが胸を打たれた事でしょう」
その言葉だけで丁原が李儒に対する警戒を解いたと言う事は無いが、それでも漢の名将達の名を並べられて、それを上回るとおだてられるのは悪い気はしないようだった。
「丁原将軍が退出された後、魯植将軍も丁原将軍に賛同されていたのですよ」
「魯植将軍が?」
「ええ。ですが董卓は力で魯植将軍をねじ伏せたんです。宮中において正義を貫けるのは、もはや丁原将軍しかいないのです」
李儒の訴えに、丁原は考え込む。
李儒に対する警戒が、行動に対する疑念に変わっている事に丁原は気付いていなかったが、李儒は察知していた。
「……李儒殿。貴殿は董卓の軍師であり、董卓の娘を娶った、言わば身内であるはず。今の貴殿の行動は、義理の父親に対する裏切りでは無いのか?」
「世間で語られる事実としては、確かにそうです。ですが、私の望みは妻と共に西涼の故郷へ戻り、そのまま隠居したいと考えているのです。ですが董卓がそれを許さず、今では増長の極み。もう私の意見など聞く耳を持たず、外から力で排斥するしかないのです」
丁原は李儒の言葉の真偽を見定めようとしているのだが、残念ながら丁原ではそれを見抜く事は出来ない。
何しろ李儒は真実を喋っているのだ。
本来の目的は別のところにあるのだが、西涼へ戻って隠居したいと考えている事や、その為には董卓が邪魔な事、場合によっては外からの力で排斥する事が必要だと考えている事も事実である。
「……それで李儒殿。情報と言うのは?」
「将軍の養子、呂布奉先殿です」
李儒の言葉に、丁原の顔色が変わる。
「奉先? いや、呂布が何か?」
「呂布将軍は今の待遇に満足しておいででしょうか」
「……どういう事かな? 呂布が不満を漏らしているとでも?」
「いえ、呂布将軍がどうと言う事ではありません。今、董卓軍の中に李粛と言う武将がいるのですが、ご存知ですか?」
今度は顔色どころではなく、あからさまに表情が曇る。
「私は詳しくは知らないのですが、李粛は呂布将軍とは同郷だとか。必ず呂布将軍を董卓軍に寝返らせてみせると大言を吐き、董卓の持つ名馬、赤兎馬を手土産に呂布将軍の元を訪れているはずです」
「李粛が呂布の元に名馬を持って来た、だと?」
「ええ。ですが、丁原将軍と呂布将軍は血の繋がりは無いとはいえ親子の間柄。心配には及ばないとは思うのですが」
李儒の言葉が届いているのかわからないほど、丁原は考え込んでいる。
「しかし李粛はなかなかに弁の立ち、出世欲の強い男。ただ呂布将軍を寝返らせる事だけで良しとするかどうか」
「どう言う意味ですかな?」
「丁原将軍も勇猛と知られるお方ですが、それでも李粛一人ならともかく、若い呂布将軍との二人掛りとなると分が悪いでしょう。李粛は呂布将軍をそそのかして、丁原将軍を狙うかも知れません」
「……やりかねない、か」
丁原は腕を組む。
「私からの提案なのですが、一度荊州へ戻られてはどうですか? いかに正義であるとはいえ、今は多勢に無勢。荊州での将軍の勇名をもってすれば一軍を用意する事も容易いでしょうし、呂布将軍の真意を正す事も出来ます。董卓と事を起こすのはそれからでも遅くは無いでしょうし、反董卓の旗を掲げればそれに賛同する者も多くなると思われます」
「おお、なるほど。李儒殿、礼を言う」
李儒の提案に、丁原は大きく頷く。
「私は董卓の元へ戻り、出来る限り董卓軍の軍備増強を遅らせます。丁原将軍もくれぐれもお気を付けて。それでは、ご武運を」
李儒はそう言って丁寧に頭を下げると、今度は丁原も頭を下げて李儒を送り出す。
丁原は一人になると急激に身の危険を感じ始めていた。
丁原には徐州の一件以来、呂布に対して負い目がある。
呂布個人はいたって大人しくしているのだが、呂布の部下である張遼や高順はあからさまに丁原に対して反抗の目を向けてくる。呂布の妻である厳氏など丁原に近付こうともしないどころか、孫にあたる蓉さえも丁原に近付けようとしない。
李粛は武将としては格下もいいところで、例えるなら下の中程度。丁原にとっては恐れるべき何物も無いと言いたいところだが、あの男の舌先三寸は厄介である。
あの男が口先だけだと言う事は誰もが知っている事なのだが、不思議な事に呂布は李粛を信頼している。
さらに李粛は呂布が名馬に弱い事も、よく知っている。
李儒も言っていたではないか。
李粛はなかなかに弁が立ち、出世欲の強い男。呂布を寝返らせるだけで良しとするか、と。
呂布は単純な男なので、李粛の口車に簡単に乗せられるのではないか。
もし、そんな事になったら……。
「義父上、入ります」
李儒の言で疑心暗鬼に陥っていた丁原の元に、呂布がやって来る。
身の危険を感じ、丁原は自分の剣を掴む。
呂布は李粛を連れ、剣を抜いた状態で丁原の幕舎へと入ってきた。
これが通常の状態であれば、丁原も一目見ただけでどう言う状況か理解できていたであろう。
だが、今夜に限っては抜き身の剣を持った呂布が李粛を伴って丁原の幕舎を訪れたと言う事実だけで、過剰な反応をしてしまった。
「呂布! こんな夜中に抜き身を持って、一体何のつもりだ!」
丁原は剣を抜き放って、呂布に向かって怒鳴りつける。
いきなりの剣幕に、呂布も面食らう。
「義父上、この李粛は董卓の使いで……」
「董卓にこの儂の首でも持って行くと約束したか? 老いたりと言えどこの丁原、そうやすやすと首を落とされはせんぞ!」
丁原は問答無用で呂布に向かって斬りかかる。
「い、いや、義父上? どうされたのです?」
呂布は邪魔になる李粛を幕舎の隅へ突き飛ばすと、丁原の剣を受け止める。
「貴様らの魂胆など分かっておる! そこの李粛と共謀してこの丁原の首を取りにきたのであろうが、そうはいかんぞ!」
「は? 義父上、それは誤解です!」
呂布は丁原の剣を弾いて言うが、丁原もそれで体勢を崩したりせず、すかさず呂布に向かって斬りかかる。
「裏切り者め! 貴様の母に免じてこれまで厚遇してやったと言うに、その恩を仇で返すとは! しょせんは売女の息子か!」
「義父上! 何て事を言うんです!」
母は体が弱くても、女手一つで呂布を育ててくれた。もう長くは生きられないと悟った母は、我が身と引換に呂布を丁原に預けてくれた。
その母を侮辱する事は許せない。
呂布の心情の変化が、表情や態度に出たのだろう。
丁原の警戒の度合いも一気に高まる。
それでもまだ、この時であれば呂布も養父に対しての恩義を忘れておらず、李粛ではなく丁原の言葉を信じたはずだった。
だが、丁原が呂布の言葉を信じる事が出来なかった。
どうしようもない負い目からくる後ろめたさ。圧倒的な武勇と、部下から慕われる勇将である呂布に対する羨望と嫉妬。
それらの負の感情が李儒の言葉によって膨張し、丁原はそれを抑える事が出来ずに破裂させてしまった。
呂布の目の前で。
「何だ、その獣の目は。謀反者めが! 貴様を討ち取り、すぐに妻子も追わせてやるから安心するがいい!」
その一言が決め手になった。
「丁原! 俺は今まで父として慕い、子として報いてきたつもりだ。だが、お前は俺だけでは飽き足らず、厳氏や蓉までも手にかけようと言うのか! それならば俺は貴様を父とは思わん!」
「本性を現したか、獣め! 貴様は徐州で死ぬべきだったのだ!」
ほんの少しで良かったのだ。
丁原が冷静に対処出来ていれば、李儒の言葉に惑わされる事も無かった。
もちろん、それも李儒の計算の内だった。
李儒の調べでは呂布の側には崩すべき隙は無かったのだが、丁原には負い目があり、呂布を亡き者にしようと画策していた事が分かった。
これまでの冷遇に耐えてきた呂布であり、しかも甘んじてきたのだから呂布を裏切らせる事は難しいと李儒は判断したからこそ丁原を揺さぶり、呂布に対する脅威を知っているからこそ丁原は呂布の最大の弱点となる妻子に牙を向けた。
それは絶対にやってはいけない、武神の逆鱗に触れたのだ。
ただでさえ丁原はかつての黄巾の乱の際、厳氏に対して刺客を向けたと言う前歴がある。
この場の言葉がただの脅しであったとしても、一度行っている以上その殺意は実行される恐れがある。
荊州の武神に対する明確な敵意。
自分に対するものであれば構わなかったのだが、もっとも弱い妻子を狙ったのであれば、それは全力の報復行動を取らせる事になった。
「今すぐ剣を捨てろ、丁原! お前では俺には勝てないのだからな!」
「ほざくな、獣め!」
勝負は一瞬だった。
これまで一切攻撃をしなかった呂布だが、丁原が斬りかかってきたその瞬間に呂布の剣が一閃した。
仮に来る事が分かっていたとしても、そうそう防げるような一撃ではない。
それを予測すらしていなかった丁原は、自分の身に何が起きたか分からなかった事だろう。
一方の呂布も、我を忘れる怒りによる一撃を止める事など出来なかった。
呂布が我に返った時、丁原の首はすでに地面に落ちていた。
「は、はは、ははははは! やったな、奉先! 董卓将軍もお喜びになるぞ! 家族も都に呼んで、董卓将軍の庇護を受けられるじゃないか!」
李粛は丁原の首を拾って大喜びしていたが、呂布は呆然と立ち尽くしていた。
養父を切った。
状況で言えば、丁原の方が明確な殺意を抱いていたし襲いかかっても来た。この場を見ていた者がいれば、呂布がやむにやまれずの行動であった事は分かるはずだった。
が、この場を見ていたのは李粛のみ。
結果として呂布が義理とはいえ、父親を切り捨てたと言う事実のみが伝えられる事になった。
親殺し。
その事実から、呂布奉先の破滅が始まった。
赤兎馬
一日に千里を走ると言われる非常識なスピードと化物じみたスタミナを持つ、三国志演義における最速最強の名馬である赤兎馬ですが、実は『赤くて兎みたいに速い馬』と言う意味で、ある意味馬の種類を指すモノです。
かなり長い間現役で走っている事になっている名馬ですが、もしかするとどこかで代替わりしているのかもしれません。
が、これ以降『赤くて速い馬』が作中に出てこない為、ほとんど固有名詞と化しています。
ちなみに劉備の乗る馬『的盧』も同じで、馬の特徴を示していて馬の名前ではありません。
民間伝承ではありますが、三国志の中で名前のある馬と言えば趙雲の乗る『白龍』くらいで、それ以外の馬は大体種類を指すモノです。
恐ろしくどうでもいい情報ですが、人形劇三国志では劉備の馬が『白竜』といいます。




