第六話
それでも動揺と混乱は、董卓軍の方が遥かに大きかった。
董卓軍の中でも勇名を馳せる華雄が、兵力に圧倒的な差があったにも関わらず戦いもせずに退却したのである。
華雄と胡軫は、本隊を率いて来た董卓にすぐさま呼び出される事になった。
「どう言う事か、聞かせてもらおうか」
今にも怒鳴り散らしそうな雰囲気の董卓が、殺気を撒き散らしながらも堪えながら言う。
董卓は、部下の失敗に対して苛烈なほどに厳しい。場合によっては失敗もしていないのに、命を奪われる事すらある。
「そ、それは華雄めの独断です。理由は華雄に聞いて下さい」
慌てふためく胡軫に対し、華雄は余裕さえ感じさせて立っている。
「勝ち目の無い戦いである事はわかっていましたので、無駄に兵を減らすのではなく、本隊と合流する事を優先させました」
華雄は堂々と答える。
「勝ち目が無かった、だと? 一万の兵でか? 丁原の率いる兵はそれほど多かったのか?」
「数の問題ではありません。大将が一騎討ちで殺されるどころか、まるで勝負にならないのだから、士気をくじかれるどころか恐怖が蔓延して戦うどころではありません」
華雄の報告に、全員が胡軫を見る。
「い、いや、それは……」
「挑んだのが胡軫将軍だったと言うだけの事。それが俺でも、この場にいる誰であっても間違いなく同じ結果になっています。あの男、呂布奉先は別格です。夢にも一騎討ちで勝とうなどとせず、呂布一人に武将十人を一度にかからせるべきでしょう。そうすれば、相討ちには持っていけるかもしれません」
華雄は冷静な口調のまま告げる。
「それが負けて逃げ帰ってきた理由になると思っているのか、華雄よ」
そう口を挟んできたのは、董卓軍四天王の一人である李傕だった。
これまでは董卓軍四天王として持ち上げられてきた李傕だが、新参だったはずの華雄の台頭を恐れている。
今回の華雄の失態は絶好の攻撃材料であり、これを見逃すはずもなかった。
「戦っていないから負けていないし、逃げたのではなく一度退いて体勢を整えているところですよ。そんな事も分からないんですかねぇ」
董卓に報告している時の将軍然とした態度から一変して、華雄は李傕を馬鹿にするように言う。
「屁理屈をこねるな、華雄」
李傕に続いて口を挟んできたのは、郭氾である。
もはや四天王と言う名で安穏としていられない事は、充分に分かっているのでその焦りのせいでもある。
「呂布の軍が退却する我々に追撃してこなかった事も、同じです。どう言うつもりかは分からないですが、向こうは戦いたくないみたいですよ。こっちから吹っかけなければ、おそらく何もして来ません」
華雄は口を挟んできた二人を無視して、李儒に向かって言った後、董卓を見る。
「呂布と戦えと命じられるのであれば、俺は戦います。ただし、呂布を討ち取る事は出来ても丁原には逃げられるでしょう。そうなると、次の敵は丁原軍だけでは済まなくなりますが、それは如何いたしましょう」
「いっその事丁原を執金吾から元の任地である荊州の太守に改めて任じては? そうすれば、丁原を荊州に閉じ込めておく事が出来ます。あるいは三公の司空に抜擢して兵権を取り上げてしまうのも良いでしょう。丁原もそれほどの厚遇であれば反対はしないはずです」
李儒はそれで穏便かつ迅速に済ませ、本来の最優先事項である今の皇帝である劉弁を廃し、陳留王である劉協を新帝に迎える事に集中したかった。
「この董卓に、丁原如きに媚びろと言うか!」
しかし李儒の献策に対し、董卓は烈火の如く怒る。
これまで溜めに溜めた怒りが、ついに爆発した。
「何も、この様な小物相手にムキにならずとも……」
李儒は呆れながらも、宥めるように言う。
「ならぬ! この董卓に大言を吐くとどうなるか、思い知らせてくれる!」
董卓はこの問題を譲るつもりはないらしく、李儒は密かに溜息をついた。
が、面子の問題になった時の董卓の決断と行動の早さは、李儒の予想を遥かに超えていた。
董卓はまず敗戦の責として、胡軫と華雄を降格処分として本隊の最後尾の守りにつかせ、自らが全軍を率いて丁原軍に当たる事を決めて、すぐさま進軍させた。
李儒以外の董卓軍の士気は上がり、特に四天王は他と差をつける好機と見て、我先にと突き進んでいく。
どうにも董卓軍の将軍は自己評価が過剰に高く、他者の評価が著しく低い傾向が強く、客観的に実力を見る事が出来る武将は華雄くらいしかいないらしい、と李儒は呆れていた。
とにかく大言が目立つものの、個人の武勇として見た場合の胡軫の実力はかなり高い事は李儒も知っている。
その武将がまるで歯が立たなかったと華雄が言っているのを、正確に理解出来ていないらしい。
いっその事少し痛い目にあった方が良いのかもしれない。
この時の李儒には、そう考えるだけの余裕があった。
彼もこの時にはまだ、呂布奉先の実力を測りきれていなかった。
董卓が本隊を率いて来たように、丁原も本隊を率いて先発していた呂布と合流していた。
両軍が向かい合った時の兵力差は、董卓軍三万に対し丁原軍三千。
募兵に出た張遼はまだ戻ってきていない上に、警護兵を総動員と言うわけにもいかないため、丁原軍はそんな数になってしまっていた。
荊州軍から一緒だった精鋭である事は間違いないが、相手も勇猛を誇る西涼軍である。
出来る事なら真正面からのぶつかり合いは避けたい、と呂布は考えていた。
「匹夫董卓! 貴様は天下にどのような功績があってその様な振る舞いをしている! 将軍と名乗るのも不届きな、火事場泥棒めが!」
そんな呂布の考えも知らず、丁原は董卓を見るなり口火を切る。
「これから骸になる死に損ないに何を言われようと、痛くも痒くもないわい! その皺首落とされても囀る事が出来れば良いがなぁ!」
「ほざけ、西涼の猪め! 奉先、蹴散らせい!」
そこはやっぱり俺なのね、と呂布は溜息をつきたい気分だったが、自身が先に率いた千名の精鋭の内五百前後の兵を率いて董卓軍三万に突撃する。
「がっはっは! 血迷いおったか、若造めが! 皆で取り囲んで嬲り殺せ!」
董卓の号令の元、四天王を始めとする董卓軍が一気に呂布に向かう。
董卓は鼻で笑いながらも、圧倒的兵力差を持って対処する事にした。
必ずしも誤りと言う用兵ではない。
相手が呂布一人であった場合、である。
「いけません、閣下! 呂布の突撃は陽動です!」
李儒はすぐさま呂布の狙いを看破したが、目の前に極上の餌を見せられた董卓軍は陣形もなく大軍で少数の軍に殺到する。
その結果、まったく不必要な密集状態の場所が生まれ、まともに武器も振る事も出来ない様な場所が発生する。
呂布はそこを見逃さず、方向転換すると正面からの突撃を避け、自身の持つ弓で密集地帯を射抜く。
通常の開けた戦場であったとしても、呂布の強弓は見てから躱せるようなものではない。無秩序な密集地帯の中では尚更だった。
呂布の常人離れした一矢は、それだけで十人近い兵士に致命的な死傷を与える。
さらに立て続けに五矢を放ち、瞬く間に大軍を恐怖に叩き落とす。
しかもそれだけではない。
呂布が真正面から突進して来た時、董卓軍は呂布にのみ集中してしまった為、大きく戦場を迂回して左側面へ移動していた丁原軍本隊に気付くのが遅れた。
呂布の強弓の脅威もあり、丁原軍本隊の突撃を許す隙を作ってしまう。
しかも、それさえもまだ二手目。
「閣下、後方へ退いて下さい。丁原軍の攻撃はまだ続きます」
「たわけ! 我が軍は敵の十倍だぞ! 数で踏み潰せい!」
董卓は李儒の言葉に耳を傾けず、怒鳴り散らす。
「ええい! 荊州の小僧は討ち取ったのかぁ!」
焦れる董卓に対し、丁原軍は次の手を打ってくる。
李儒には読めていたのだが、手を打つ事は出来なかった。
呂布がワザと目を引く様に突撃して来たのに合わせて、丁原の本隊が突撃して来た。
確かに董卓の言う通り、数で踏み潰す事は出来るだろう。
だが、呂布奉先と言うのは個人の武勇だけに頼るだけの暴れ者ではなく、戦う事の天才だと李儒は感じていた。
次の一手が、董卓軍にとって致命傷になる一撃になる。
「て、敵が、もう一隊突撃してきました!」
董卓の元に、間もなくその情報が飛び込んできた。
「な、何だと!」
董卓は馬から落ちそうになるほど驚いていたが、李儒はやはりと考えていた。
丁原軍の武将の名の中には含まれていないが、『陥陣営』と言う二つ名を持つ猛将がいる事は知っていた。
呂布が作った隙を丁原が、丁原が作った混乱をさらに別の方向からの突撃で拡大してくるのは用兵の上では当然の手だ。
これによって大軍の有利もほぼ無くなってしまう。
そして、止めの一撃が来る。
「閣下を守りながら、下がれ。華雄の部隊と合流するのだ」
李儒は董卓ではなく、董卓の周りにいる兵達に向かって言う。
「急げ!」
「董卓!」
李儒が指示を出したと同時に、その声が剣戟と怒号を貫いて響く。
これまで怒りの感情だけを振り回してきた董卓の表情が、恐怖に凍りつく。
前線で食い止められているはずの呂布の声が、はっきりと聞こえるまで近付いているのだ。
恐怖に凍りついていたのは、董卓だけではなかった。
呂布の声が聞こえた者達は、そのほとんどが恐怖に射すくめられ、硬直していた。
まるで間近で猛獣の咆哮を聞かされたかのように。
「何をしている! 閣下を守るのだ!」
その中にあって冷静さを失わなかった李儒が、董卓の周囲の兵を叱咤する。
あとひと呼吸早ければ、結果は大きく変わっていたのだが、李儒が兵権を持たない上に普段軽んじられていると言う事が、大きな問題だった。
兵士達が動こうとした時、呂布が董卓軍を突破してその姿を現したのだ。
「董卓! その首、貰い受ける」
呂布の姿を見て、その声を聞いて、董卓の周辺の兵士達は半狂乱状態で呂布に向かっていった。
勝算などあるはずもない。
もはやまともな判断が出来ていないのだ。
ただ、戦場の空気と敵を倒さなければならないと言う、不可解な闘争本能が暴走したと言うだけであり、そんな狂乱状態で呂布の相手が出来るはずもない。
呂布は無理に突き破るのではなく、その場で馬の足を止め、戟を振るう。
まるで舞うかのように美しく優雅な動きだったが、その戟が振るわれる度に董卓軍の兵達が倒れていく。
手傷を負うどころか、返り血すら浴びる事も無い、無人の荒野を行くが如き武勇は、正に武神と例えるに相応しい勇姿だった。
「ヒッ、退け、退けぇ!」
董卓は悲鳴を上げると、誰よりも先に逃げ出していく。
「うおっ! すげえ早さだ。何だ、あの馬」
凄まじい疾さで駆けていく炎の様に赤い馬を、呂布は呆然と見送るしか無かった。
呂布の乗る馬も名馬と言うに相応しいはずなのだが、董卓が乗っていた赤い馬は別格だった。
董卓が逃げ出したため、全軍の秩序が崩壊し始める。
「軍師殿、これ以上の戦いはお互いに無益でしょう。もう終わりにしましょう」
呂布は戟を肩に担いで、取り残された李儒に向かって言う。
「そうしましょう。なにしろ総大将が逃げ出したのでは、これ以上戦を継続する事も出来ませんからね。ところで呂布将軍、私の首を取ればとりあえずの手柄にはなりますよ?」
「董卓本人であればともかく、軍師殿の首はいらないかな」
呂布はそう言うと、首を傾げる。
「貴方は何故、董卓に仕えているんです? どうも貴方は雰囲気が違うし、もっと別の主君に仕えられたのでは?」
「そちらこそ、丁原如きの近視眼に扱える様な将軍では無さそうですが。何故丁原の下風に立つを良しとしているのですか?」
「それはまあ、のっぴきならない事情があると言うか……。お互いにワケあり、と言う事ですか。次にまた戦場で出会ってしまったら見逃す事も出来ないかもしれないんで、その時には上手い事逃げて下さいよ」
「そうさせてもらいます」
李儒はそう言うと全軍に退却の指示を出し、呂布も同じく兵を引かせた。
実に見事なものだ、と李儒は感心しながら去っていく呂布を見る。
まずは呂布が突撃を仕掛け、その脅威を相手に意識させ陣形に綻びを作る。そこで出来た綻びを丁原が突き、混乱を呼ぶ。そこにさらに別働隊が攻めかかり、対応に迫らせる。
その連続攻撃と、最初の攻撃の恐怖の効果によってもっとも防御力が高かったはずの正面の呂布の部隊に対する防御が一瞬だが、確実に薄くなる時が来る。
それを作るために、あえてもっとも少ない兵を呂布が率いていたのだ。
数が多い方に対し守備兵を回していくその時を見計らって、最初の陽動部隊であり止めの一撃を放つ大本命として、呂布が本陣に突撃してくる。
最初からそれを狙っての攻撃だった。
それと分かっていれば、対処も出来たかも知れない。
だが、それにしても見事な戦い方だった。
呂布の前から兵が減るように誘導すると言っても、それは極めて短時間の事であり、董卓への道が出来るのは、それこそ幾重にも重なった偶然の産物であり瞬きの瞬間程度の隙でしかない。
その針の穴を狙って切り込んできた上に、それを成功させているのだから、荊州の若き武神の名は虚構ではなかった。
しかし、退くのが早かったな、と呂布は思う。
数の上では圧倒的に董卓軍の方が多く、まだまだ戦うことは出来るはずだ。一時の混乱と考えてその場に留まってくれれば、呂布としては董卓を討つ機会もあった。
一見するとただの臆病者の行動にも見えなくはないのだが、判断としてはそう悪く無い。
「こちらも兵を引いて、立て直そう。おそらく向こうは諦めていない」
呂布は撤退していく董卓軍を見ながら、軍を引き上げる。
「追撃は?」
「やめておこう」
呂布は血気に逸る兵をなだめる。
確かに士気は高いし、能力においても精強を誇る元荊州軍の精鋭である。
しかし、相手も勇猛果敢として名を馳せる西涼軍であり、それを率いる武将達も同様に猛将揃いと聞く。
総勢において十倍の兵力差があり、追い詰めて逆撃されようものなら簡単に踏み潰される。
漢軍同士のいがみ合いなのだから、しばらく時間を稼げば仲裁役がやって来るだろう。
呂布はそう考えていた。
華雄と胡軫の微妙な関係
三国志演義では華雄は胡軫の上司で、胡軫は副将扱いなのですが、三国志正史では胡軫の方が上司で、華雄は名前くらいしかまともに出てきません。
李儒ほどでは無いかもしれませんが、華雄もかなり創作された人物のようです。
ちなみに華雄は身長が二メートル以上で、かの南蛮の人型決戦兵器 兀突骨の次に大きい事が多く(と言っても兀突骨は三メートル近くあったみたいですが)、容姿は人間離れしている事も多いです。
ちなみに背の高さで言えば、華雄の次が関羽や呂布などが続きます。
華雄、胡軫についてはまた語る機会があるかもしれません。




