最終話
それに対し、曹操軍に残らない者もいた。
「侯成、どうしても去るのか?」
曹操軍に降る事を決めた張遼をはじめとする八健将の面々だったのだが、唯一侯成だけが曹操の元に降る事を拒否し、野に下る事を決めた。
「もう、俺に出来る事はありません」
侯成は沈んだ表情で言う。
「呂布軍で最年少の……」
張遼はまだ引きとめようとしたのだが、臧覇にそれを止められる。
「ここを去ると決めるのは、並大抵の覚悟では無かったはず。そこにそれ以上の言葉を重ねるのは、侯成を苦しめるだけだよ」
「ありがとうございます」
臧覇の言葉に、侯成は頭を下げる。
「ただ、抱えている鬱憤を少しでも吐き出していかないか? ソレは抱え込んでいると今以上に重くなり、人なんて簡単に押しつぶしてしまうよ」
「多分、どうしようもなかったんだと、自分でも思っているんです。それでも、いやでも考えてしまうんですよ。もし俺がもっと強かったら、もし俺に張遼将軍や高順将軍くらいの強さがあれば、結果は違ったものになったんじゃないかって」
侯成は悔しさを隠しきれず、言葉を絞り出すように言う。
侯成自身が言っていたように、あの状況で侯成の武勇が張遼や高順に匹敵するものだったとしても、おそらく結果は変わらなかっただろう。
もし武勇でのみ解決させるのであれば、侯成の武勇が関羽を討ち取れるくらいでなければならなかった。
と、言われたからといって気が楽になる訳でもない。
張遼や臧覇と違い、侯成はその場に立ち会っていた。
多少なりとも善戦した張遼や臧覇達と違い、侯成は圧倒的な無力感を味合わされたのである。
その上で、共に戦った呂布と高順はすでにこの世に無い。
口だけでの慰めに、何の意味も無い事は臧覇にはわかっていた。
臧覇もまた、無力な者だったからこそ侯成の気持ちが分かったのである。
だが、侯成と臧覇ではその順序が違った。
弱者であった臧覇は、同じ境遇だった孫観と尹礼と出会い臧覇を支え、同じ境遇の者が集まって来て臧覇を支えた。
侯成は呂布と言う強者によって支えられていたが、自身が強者になる前にその支えを失った。
侯成には強者になれる素質は十分にあった。
もう少し呂布に支えられていれば、張遼と同様の成長を遂げたかも知れない。
そんな時、目の前で自身の力不足のせいで夫人と姫を人質にされた事。
さらに張遼が曹操に降る際に、夫人と姫が号泣する姿を見せられ侯成の心は二度と立ち直れないくらい、完全に折られてしまった。
もしその時にいたのが自分だったら、と張遼も考えてしまう。
張遼がその場にいても、今の結果と何ら変わらなかっただろう。
今の侯成と同じ苦しみを与えられた時、張遼は今と同じように自分の足で立てるだろうか。
おそらく無理だ。
そう考えたら、曹操軍を去り野に下ると言う決断も納得のいく答えだった。
「俺は宋憲を恨み、魏続を憎み、臧覇将軍を妬み、張遼将軍を羨む事で何とかやっていけると思います。これまで、お世話になりました」
侯成はそう言うと、張遼と臧覇の二人に頭を下げる。
呂布を捕らえると言う武勲を上げたにも関わらず、正史、演義共にこれ以降侯成の記述は無く、生死も所在も不明となり二度と表舞台に出る事は無かった。
その数日後、陳宮が意識を取り戻した。
ただでさえ激務続きだった陳宮はさらに風邪を悪化させ、そこに過労がたたって意識を失ったと言う事もあって、徐州の医師達も頭を抱えていたほどの重症だった。
それでも陳宮はこれまで戦場を駆け回っていただけの体力があり、一般人であれば命に関わるほどだったのだが、陳宮は自力で治したのである。
その陳宮の周りには、曹操とその軍師達が揃っていた。
当然荀彧と郭嘉の事は知っているが、一人見覚えの無い人物がいた。
おっとりとした柔和な雰囲気の人物だったが、それでも陳宮は人目で理解出来た。
そうか、私はこの男に敗れたのか。
荀彧や郭嘉に、戦略や戦術の事で割って入れる時点で群を抜いた実力の軍師である事は分かるが、この男はその外見からそれを思わせる事は無い。
そう言うところは呂布と同じ雰囲気と言えなくもないが、武将と軍師では求められている事が異なるので、それが良い事なのか悪い事なのかは分からない。
「それで、私の処遇はどうなっている?」
目を覚まし、上半身を起こしながら陳宮は曹操に尋ねる。
「開口一番がそれですか。まぁ、らしいと言えばらしいですね」
「姐さん、もう十分じゃないッスか。これまでみたいに、俺らと一緒にやっていきましょうや」
苦笑いする曹操に続いて、郭嘉が陳宮に言う。
「何を馬鹿げた事を」
「いや、必ずしも馬鹿げた事とは言えません」
鼻で笑う陳宮だったが、荀彧も郭嘉に同調する。
「陳宮殿は密偵として数々の難敵を内部から崩壊させて来ました。弟の張超と言う不安要素を抱えた張邈、偽帝袁術、徐州を乗っ取った劉備、そして古今無双の豪勇の名将呂布。それらは陳宮殿の内部工作無しには降す事は難しかったでしょう」
「なるほど、そう言う解釈も出来ると言う事か」
荀彧の説明に、陳宮は腕を組んで頷く。
張邈と曹操はお互いの両親の面倒を見ようと約束するほどの信頼関係を築いていたが、弟の張超はそう思っておらず曹操に対して強い不信感を持っていた。
そんな不安要素を後方に抱えた状態で遠征など出来ず、いずれは平定する必要があった。
自ら皇帝を名乗るほどの勢いのあった袁術は、曹操のみの勢力で打倒する事は難しく、呂布や劉備、孫策といった面々の協力無くして袁術討伐に成功の見込みは無かった。
徐州を巡る戦いでは呂布と劉備の同士打ちがあったからこそ、互いに弱体化する事になって完全な徐州平定に繋がった。
それらの差配は全て陳宮によるものだ、と言うのが荀彧の主張である。
言うまでもない事ではあるが、もちろん陳宮にそのつもりは無かった。
結果的にそうなったと言うだけなのだが、荀彧にそう言うふうに言われると実は陳宮にはそう言う役割があったのではないか、と本人でさえ思ってしまうほどの説得力を持っていた。
「だが、もしそうであれば、その策が完成するにはもう一つ私には役割が残っているだろう」
「恩賞を受け取って、我が軍に復帰する事でしょ?」
「お前の頭の中は花畑らしい。お前のそう言うところは、正直羨ましくすらあるな」
郭嘉の答えに呆れながら陳宮が言う。
「いやー、姐さんにそんな褒められたら照れるじゃないかぁ」
「誰も褒めてなどいない。むしろ今のを褒め言葉に受け取れるのは、人並み外れた才能と言うしかないな」
陳宮はそう言うと、郭嘉の事は放っておいて見覚えのない男に目を向ける。
「この場にいると言う事は、お前も軍師なのだろう? この私を負かしたほどの男だ。お前ならば分かるのではないか?」
「いえいえ、滅相もない。私如き、ここにおられる戦術の天才郭嘉殿や王佐の才と称される叔父上に比べたら、足元にも及びませんから。ええ、そりゃもう、及びませんとも」
「叔父上? なるほど、お前が荀攸か。以前噂だけは聞いていたが、なるほど、納得した」
陳宮は数回頷いて言う。
陳宮も期間は短かったとは言え都勤めの経験もあり、また中央の情報にも多少なりとも精通していた事もあり、当時の実力者であった荀爽の一族であり荀彧より先に士官していた荀攸の事は知っていた。
「董卓暗殺を企てた一人で蜀に左遷されたと聞いていたが」
「いやー、アレやコレやが色々あって無職になったところを叔父上から声をかけられ、こうやって曹操殿の元で仕事をもらっております」
「荀彧、郭嘉の策であれば見抜く事も出来たのだが、まさかこれほど弱者を上手く使う者がいるとは誤算だった」
陳宮は素直に荀攸を認める。
曹操軍の軍師は今もなお荀彧と郭嘉であり、他の者達と比べるとその能力の高さは明らかに差があると言えるほどに高い。
だが、それ故に抱える問題もあった。
特に郭嘉や陳宮には顕著に見られる傾向なのだが、自分が描いた棋譜の通りに進む、あるいは進めている戦場において程度の低い介入を非常に嫌うところがある。
今回の宋憲や魏続の裏切りも、必死になって戦えば呂布軍は敗れずに済んだかもしれないのだが、今寝返れば助けてやるぞと言う逃げ道を与えられた場合、そちらになびく事は十分に考えられた事だった。
もちろん陳宮も警戒はしていたのだが、自身の計画通りに事が運んでいると実感している時は、むしろ下手に動いて欲しくないと思う事も多い。
宋憲や魏続の寝返りに気付く事が遅れたのは、陳宮の体調が優れなかったと言う事もあるにはあったが、展開で言えば他者の介入を好まない展開になってきたと感じてもいた。
もし軍師に荀攸がいなければ、あれほど強引な水計や川下りといった賭けには出ていなかっただろう。
少なくとも荀彧や郭嘉が好む策では無かった。
と、いったところで後の祭りなのだが。
「その弱者を扱う事の上手い荀攸であれば、その立場から私に残ったもう一つの役割の事も分かるだろう?」
「……罰則、ですか」
答えたのは荀彧だった。
「どんな形であれ手柄を立てさえすれば許される、と言う前例は作るべきではない。さらに言えば、こちらから調略して寝返らせたのならともかく、手柄欲しさに主を売る事を良しとする様な事は許さないと示す為にも、私は功労者ではなく主に裏切りをそそのかした小悪党として裁くべきだ。それによってこそ規律は保たれる。それに」
陳宮は鋭い目で曹操を見る。
「どこかの誰かが女に弱いと言うのは、すでに広く知れ渡っているところ。少し前にもそれで後継と豪傑と言う得難い者を失ったのでは無かったか? それ印象を払拭する為にも、私を功労者として迎えるのではなく罪人として極刑に処すべきだ。それによって、この策は完遂する事が出来ると言うもの。違うか?」
「……仰る通りですね」
苦しげにでも賛同したのは荀攸だったが、荀彧や曹操も致し方なしといった雰囲気だった。
「姐さんはそれで良いんスか? 姐さんの実力があれば、これまで以上に軍師としての名声を後世に残せるんスよ? それに興味が無いんスか?」
郭嘉だけは陳宮に食い下がった。
「後世の名声、か」
ふと寂しげに陳宮が呟く。
「呂布将軍はおそらく後世には、自らの欲の為に義父を切り、裏切りを繰り返し、世に混乱以外の何も与えずに敗れ去った者として語られる事だろう。それは全て、私が呂布将軍を勝たせる事が出来なかったからにほかならない。であれば、私が後世に残す名は欲にまみれた主をそそのかした小悪党であるべきだ。呂布将軍ほどの武勇の持ち主に仕えながら勝たせる事の出来なかった軍師には、分相応といったところだろう」
「ですが、姐さん」
「それに、私は敗れたのだ」
郭嘉の言葉を遮って、陳宮は言う。
「これ以上は無いくらい、私は私を出し切って戦い、そして敗れた。これ以上、ここにいても私では役に立てそうもない。ここでの私の役目は終わり、残された役割は今後の曹操軍の為の礎となる事だろう」
これ以上会話を続けても説得出来そうに無いと判断したのか、郭嘉はそれ以上は何も言わなかった。
「……節はどうするのですか?」
曹操が尋ねる。
「貴女の娘ですよ?」
「……お前の娘だ。私の知った事ではない」
陳宮は一瞬だが間を開けたものの、冷たい口調で答えた。
陳宮と曹操は旗揚げ前からの付き合いがあり、二人の間に子供がいるのではと曹操軍内で広く噂されていた。
その事を陳宮に確認出来る勇者がいなかった事と、もし尋ねても本当の事を答えるとは限らない事もあって、真実は誰も知らなかった。
「それに貴女の母君の事も。よろしいのですか?」
「好きにするがいい」
陳宮はそう答えると、寝台から起き上がる。
「さて、刑場に行くにしても寝巻きのままと言う訳にはいかないだろう。最低限とはいえ身支度をすませなければ、先に行った高順辺りから何を言われるか分からない」
陳宮は恐れる様子すら見せず、身支度を整えると自ら刑場へと向かった。
こうして徐州の大乱は一先ずの落着となった。
呂布と言う武星は墜ちたとはいえ、乱世は今尚続いている。
「劉備殿。今の漢で英雄とは誰と思いますか?」
徐州から本拠地である許昌に戻ってしばらくして、曹操は劉備を酒の席に呼んでそう尋ねた。
「そりゃ袁紹でしょ? 顔良、文醜ってな豪傑に、張郃とか高覧とかの勇将、田豊やら沮授やら参謀も豊富。兵力も十分過ぎるくらいいるし、何より四世三公は伊達じゃないっしょ?」
「まあ、一般的にはそう言う評価ですが、袁紹は気位ばかりが高く、人の意見を広く集めると言うより決断を他人の意見に任せる傾向が強いのです。その割に決断が遅く、とても英雄と呼べる人物ではありません」
「んー、じゃ袁術? 自分から皇帝を名乗る気概は中々持てるもんじゃないでしょ?」
「袁術に往年の勢いは無く、もはや風前の灯。アレは英雄と呼ぶには値しませんよ」
「えー、じゃ江南の孫策は? 小覇王と呼ばれてるくらいの戦上手で、あの呂布将軍でさえ一目置いていたくらいよ?」
「父親の孫堅将軍であればいざ知らず、孫策にはまだまだ経験が足りません。若い事が悪いとは言いませんが、何をやるにも性急過ぎる孫策には英雄と呼ぶには経験と忍耐が足りませんね」
「じゃアレだ、劉表殿。皇族の一員だし、荊州って豊かな地盤もあるし。忍耐力もあるんじゃない?」
「せいぜい番犬程度で、とても英雄とは呼べませんね」
「もー、じゃ誰なのよー。どーせアレでしょ? 劉璋とか馬騰とか言っても否定するんでしょー」
劉備はあからさまに飽きたと言わんばかりである。
「今の漢に英雄がいるとしたら二人だけ。私と貴女ですよ、劉備殿」
晴天に轟く雷鳴。
直後には厚い雲が空を覆い、急激に周囲を闇に染めていく。
乱世の混迷はまだ深まるばかりであった。
呂布について
まず、私自身は三国志に登場する呂布がこの物語で書いてきた様な人物だったとは、まったく思っていません。
やはり世間一般の人が思っている様な、腕白脳筋で欲望に忠実な裏切り者だった(一部誇張アリ)のではなかったかと思っています。
ただ、呂布が家族想いだった事は正史でも読み取る事は出来ますので、そこには疑いが無かったと思い、この物語の呂布はそこを主軸として書いてきました。
ですが、その弱点がある以上は呂布が最終的に敗北する事を変える事は出来ませんでした。
武勇では曹操、劉備を上回っていた呂布ですが、人としての強さと言う点ではやはり曹操や劉備を上回れる様な人物では無く、そこまで修正してしまうと、それはもう呂布ではないとも思い、結果は正史や演義の通りとなりました。
もし呂布が勝つ展開があったとすれば、やはり張邈と曹操に反乱した際にイナゴが発生しなかった場合の展開だったでしょう。
攻めている時に敗れた赤壁の戦いと違い、あの時の曹操は本拠地を守る戦で敗れる事になり、そのダメージは赤壁の比では無かったはずで、おそらく曹操軍は滅亡していたはずです。
とはいえ、その後も陳宮との関係を良好に保つ必要はありますし、袁術の皇帝宣言を阻止するにも曹操軍はいなくなっているわけで、そうすると袁術と袁紹の同盟軍も無くはなかったと考えると中々呂布が勝つと言うのも難しかったのではないでしょうか。
ちなみに最後に曹操の娘の曹節の名前が出てきましたが、言うまでもなく曹操の娘で陳宮の娘ではありません。
と言うより、曹節自体は陳宮に会った事もないかもしれないくらいに関係ありません。
非常に聡明だった様でしたので、この陳宮と曹操の間に生まれた娘だったらこんなだったのかな、などと妄想して名前を出しました。
ここまでのご愛読、誠にありがとうございました。




