第十八話
呂布が刑場へ姿を消した後、曹操の元に呼ばれたのは高順だった。
「陥陣営、高順か。黄巾党の面々からもその名を聞くほどだったにも関わらず、よくここまで正体を隠してきたものですね」
曹操は高順に言うが、高順は特に反応を示さない。
高順の知名度はその実績からすると低く、知る人ぞ知ると言った程度なのだがその実力の高さは、少なくとも呂布軍や高順を知る者であれば疑うところは無い。
しかし、その実力や実績に対して将軍としての階位は低く、見る者によっては呂布から冷遇されている様にしか見えないだろう。
「隻腕となっても、その指揮能力の高さを私は買っています。私に仕えませんか?」
曹操は下手に言葉を飾らず、直接的な言葉で高順に言う。
「曹操殿、どうか命だけは」
高順は頭を地に付けて言う。
「もちろん、そのつもりです。私に仕えるのであれば」
「俺ではなく、他の者達に寛大な処置を。隻腕の俺では、お役に立てないでしょう」
「そんな事は」
「もう一つ、提案があります」
高順は曹操の言葉を遮って言う。
「何でしょう?」
「もし帰順を望むのであれば、呂布将軍の家族をこの場に置く事を提案します。奥方と姫君は呂布軍の良心。中でも特に忠誠心に厚い張遼などは、奥方や姫君の説得があれば曹操殿に帰順する事でしょう」
高順の言葉に、郭嘉などは頷いている。
呂布の時と違い、高順に対しては曹操軍の油断が見て取れた。
まず呂布と高順では危険度が違いすぎると言う事もあるのだが、豪傑であった高順も関羽によって片腕を切り落とされたので本来の実力より格段落ちている。
さらに念のために縛られているので、大した抵抗は出来ないと見ていたのだ。
油断とさえ言えない様な、ごく僅かな心の隙。
高順は地面に頭をつけながら、それを敏感に感じ取っていた。
「では、呂布の妻子をここに」
曹操が指示を出し、その時高順の横に立つ兵士の視線も曹操に釣られて、そちらの方に向くのを高順は感じた。
その瞬間、高順は頭を地面につけたまま、そこを支点にするように回転して兵士の足を払う。
体を縛られていたはずだったが、それもどうやったのか一部戒めが解かれて腕が自由になり、足を払った兵士から剣を奪って曹操に飛びかかる。
だが、そこまでだった。
いくら曹操や兵士が視線を外したからと言って、武将達の全員が高順から目を離すと言う事などない。
曹操に斬りかかる高順だったが、その前に関羽が立ちはだかり袈裟斬りに青龍刀によって切られる事となった。
「……関羽、文遠を頼む」
高順は関羽に言うと、すでに致命傷を負いながらもさらに数歩曹操の元へ進む。
許褚や夏侯惇が曹操の前に立とうとするが、曹操はそれを止めて高順を正面から迎え受ける。
「何か主張したいみたいですね」
「……死体は、このままに……」
高順はそう言うと、そのまま力尽きて倒れる。
「何がしたかったんだ、こいつは」
張飛が無駄死にした高順を見下ろして首を傾げる。
「分からない?」
劉備が同じように力尽きた高順を見下ろすが、その表情は張飛とは違って重苦しい。
「お前には分かるのか?」
尋ねたのは夏侯惇だったが、張飛や楽進なども同じように劉備を見る。
「次からのためよ」
劉備は短く答え、それ以上は答えようとしなかった。
大半は分かっていなかった様だが、曹操には分かっているのか次を呼ぶ。
やって来たのは張遼と臧覇だった。
呂布や高順の様に敗れて捕らえられた訳ではなく、自分達の意志で山を降りたのだが同じように虜囚として扱われている。
張遼の武勇には警戒の必要有りと判断されたのだろう。
二人が曹操の前にやって来た時、切り倒された高順が目に入った。
「無意味な問答は必要無いと思いますが、私の暗殺を企んでいるのであれば、この通り無駄ですよ」
曹操は殺された高順を見て言う。
「問答が必要無いのであれば、これ以上ここにいる意味も無い。殺せ。俺の意志は変わらない」
張遼は堂々と言う。
戦いに敗れ、山を降りた時から張遼はそのつもりだった。
もし呂布が生きて曹操に降っていたのであれば、もちろん張遼も喜んで曹操に仕えていたが、呂布亡き今となってはこれ以上生きる理由も目的も無い。
「そちらはどうですか?」
曹操は臧覇に尋ねる。
「俺は呂布軍では新参者で、正直呂布将軍とも接点が薄かったんで呂布将軍に殉じるつもりは無いんですが、この張遼は良いヤツでね。張遼が死ぬと言うのであれば、俺も付き合いますよ」
「臧覇、何を言い出すんだ?」
張遼は臧覇の言葉に驚く。
山を降りた時、臧覇は陳宮に殉じると言っていた。
もし陳宮が曹操軍に降ると言うのであればそれに付き合い、死ぬと言うのであれば一緒に死ぬと言う話だったのだが、今はそれを張遼で言っている。
イマイチ何を考えているのか分からないところのある臧覇だが、軽薄で場当たり的な印象はあるものの、実際には彼なりの勝算を見出しての行動である事は張遼も知っていた。
もっとも陳宮に対してはまったく効果が無いので、一概には言えないのだが。
「どうですか、曹操殿。張遼将軍を殺すと言うのであれば、俺もそれに付き合います。もし張遼将軍を旗下に加えると言うのであれば、俺も士官します。その上で、問答は無用ですかね?」
「臧覇、何を言われても俺の気持ちは変わらないぞ」
張遼はまったく揺れる事なく言う。
頑固な性格には呂布や高順でさえ手を焼いたほどであり、付き合いの短い臧覇にどうこう出来る程度のものではない。
「と、言う事です。曹操殿、短い付き合いでしたね」
臧覇も簡単に言う。
とても自分の命がかかっているとは思えないほど、気楽な答えだった。
「では、もう少し問答を続けるとしましょう」
曹操はそう言うと、別の方向を見る。
「……文遠?」
一度言いだしたらそう簡単に考え方を買えない頑固者の張遼だったが、そんな彼の考え方を揺るがす事の出来る数少ない人物の一人、蓉が厳氏と衛兵と共にこの場へやって来た。
「ぶ、文遠……」
蓉は張遼を見ると、大きな瞳に大粒の涙を浮かべる。
「うわあああああああ! ぶんえええええええええええん!」
周りを憚る事無く号泣する蓉は、周りが止めようとするより早く張遼の元へ駆け寄り、縋り付いてさらに声を上げて泣き叫んだ。
いつも明るく陽気で、愛らしく美しい外見の割に負けず嫌いな蓉は自分の弱みを純粋に表に出す事があまり無かったのだが、この時は違った。
これほど無防備な蓉を見るのはいつ以来だろう、と張遼でさえ記憶に無いくらいだった。
「わ、私が、私がもっと、もっと……」
言葉を詰まらせながら、蓉な必死に張遼に伝えようとする。
言いたい事は分かる気がした。
蓉には武将としての矜持がある。
おそらく同年代の少女達で競った場合、蓉は群を抜いた武勇を持ち、そこであれば最強の武力を有している可能性は非常に高い。
だからと言ってそれが実戦で役に立つかと言うと、さすがにそれは厳しいと言えた。
実際に宋憲や魏続が相手であれば蓉でも撃退する事が出来たが、相手が関羽や許褚などだった場合には、蓉はもちろん張遼であっても敗れていただろう。
蓉は十分過ぎるほどに戦ってくれた。
「文遠、ごめんなさい」
号泣する蓉と違い、厳氏はその場で泣き崩れていた。
「全て、全て私が悪いのです。私がもっとしっかりしていれば……」
事の経緯は張遼も知っている。
臧覇や一時的に泰山で軍師を勤めた荊州へ避難した少年が言っていた、陳宮であれば高台を攻めるはずだったのに動かなかった理由は、厳氏が過労で倒れて呂布が城を動かなかった事にあったと言う。
しかし、その事で厳氏を責めるのはあまりにも酷だろう。
元々争い事には向かない善良で柔和な女性であり、献身的な性格は夫である呂布だけに限った事ではなく、呂布軍の一兵士に至るまで色々と気を遣う女性だった。
とても極限状態に長く耐えられる女性では無かった事は誰もが知っていたところだが、それだけに本来であれば彼女が過労で倒れる前に誰かが彼女に気を遣って十分に休ませるべきだったのだ。
そんな余裕が無かったにしても、同じ条件でありながら他の者に気を遣っていた厳氏に甘えていたのはむしろ呂布を含む、呂布軍の全員である。
泣き崩れる厳氏や号泣する蓉を見て、張遼は曹操を睨む。
「曹操殿、奥方や姫君を利用するやり方、卑怯とは思わないのか?」
「……利用?」
曹操は張遼を見る。
地味で目立たない外見の曹操だったが、その一言から全身から殺気を溢れさせる。
「奥方や姫君の言葉が、この曹操を利する為に言っている言葉だと?」
「違うのか」
曹操の殺気に負けないように、張遼は言う。
「もしその言葉が本心であるのならば、私の興味は失せました。殺す価値も無い賊将程度であるのならば、もう用はありません。今すぐこの場から消え失せろ」
「曹操殿、お待ちを」
間に割って入ったのは関羽だった。
「文遠よ、ここで呂布将軍に殉じるのであれば、それはお前個人の忠義を示す事にはなるだろうが、大局を見ろ。呂布将軍の心残りは何か。何故高順はあえて犬死し、その死体を晒す事としたのか。お前であれば、その答えは分かるだろう。文遠よ」
関羽は張遼に言う。
「お前が忠義に殉じるのは良い。だが、残る奥方や姫君はどうなる? 宋憲や魏続に委ねるのか?」
その言葉に、張遼は胸をえぐられる思いだった。
呂布が何より気にかけていたのは、家族だった事は張遼もよく知っている。
丁原や董卓を切った事も、家族に危険が及んだからであった。
高順がここで死んだ事も、下手な抵抗や暗殺は失敗すると言う事を身を持って知らせてきたのだと言う事も、張遼は気付いていた。
「ではどうすれば良いと言うのですか! 俺に出来る事は、呂布将軍に殉じるのみ!」
「違う!」
関羽は強く張遼を否定する。
「一時の恥辱や不名誉に流されるな! 本当に呂布将軍に殉じると言うのであれば、生きて奥方と姫君を守る事こそ、将軍の真意に殉じ忠義を示す事である! お前なら飲み込む事が出来るだろう。いや、飲み込め。それが呂布将軍に対する忠義の証であり、高順の意志を引き継ぐ事にもなるのだ」
関羽の言葉に、張遼は唇を噛む。
そこに護衛達の反対を押しのけて、曹操が自ら張遼と臧覇の元へやって来る。
二人が見守っているところ、曹操は剣を抜き放ち、二人を縛る縄を自ら切って解放する。
「改めて聞きましょう。私に降ると言うのであれば行動の自由を約束します。それが嫌だと言うのであれば、先ほども言った通り、どこにでも好きなところに消えて二度と私の前に現れないで下さい。どうされますか?」
曹操の言葉に、臧覇も張遼に向かって頷いてみせる。
「……分かりました。曹操殿。姫君と奥方様への厚遇を約束してくださると言う条件を守ってくださるのであれば、この張遼、曹操殿に忠誠を誓う事を約束しましょう」
「受け入れました。呂布将軍との約束でもありますから」
こうして張遼と臧覇は、曹操に降る事になった。
後に二人は対呉の指揮官となり、張遼は魏の五虎将軍筆頭となるほどの武勲を立てる事になるのだった。
張遼と関羽のやり取り
演義では曹操に降るのを渋る張遼に、降る事を勧める関羽と言うシーンがありますが、ちょっと後には今度は張遼が関羽を説得すると言うシーンがあります。
せっかくなので、セリフもその時張遼が関羽に言う様な事を関羽が張遼に言ってみました。
ただ、演義では関羽の説得のセリフのヒントは程昱が張遼に教えた事になってますが。
この時、臧覇と共に曹操に降った張遼なのですが、この二人はこれ以降かなり長い事一緒に行動する事になります。
人付き合いが必ずしも上手いと言えない張遼なのですが、臧覇との連携は悪くなかったみたいです。
が、さほど綿密に連絡を取り合っていなかった様で、二人の能力の高さと微妙な関係を伺えます。
あと言うまでもないでしょうが、曹操と呂布軍のやり取りの間に呂布の妻子は関わっていません。
そりゃそうだろう、と思いましたが念のため。




