第十四話(前編)
これまで事務方の仕事が多かった宋憲だが、それはそう言う仕事もこなせるほどの教養があったからであって、彼は文官ではないどころか競争率の高い袁紹軍において実力で将軍位を勝ち取った人物でもある。
強がってはみたものの、陳宮としても今の一撃で魏続を討ち取れなかったのは痛いと思っていた。
だが、それを悟らせる訳にはいかない。
幸いと言えば幸いな事に、口にした宋憲も揺さぶりをかけるために出た言葉だったらしく、陳宮にはまだ奥の手があると疑っている為積極的に攻撃に来なかった。
本調子であればいかに宋憲であっても陳宮の前には恐るべき相手にはなり得なかったのだが、今の陳宮は意識を保っているのがやっとで立っている事も辛い。
それを悟られては宋憲と魏続に付け入られる。
鋭い目で宋憲を睨みながら牽制し、陳宮はこの状況を打破する方法を考えていた。
今のままでは厳しい。誰か来ない事には、状況を好転出来ないか。
そう思っていたところ、望んではいたものの陳宮にとって予想外な人物がやって来た。
「……この状況は?」
事態をまったく把握出来ず、侯成はきょとんとしている。
「侯成か?」
「侯成! 謀反よ! こいつらは謀反を起こした罪人! 遠慮はいらないわ!」
魏続と違って、蓉は侯成に向かって叫ぶ様に言う。
極めてお人好しで温厚な性格であるものの、呂布は恐ろしく鋭い天性の戦術眼を持っている。
両親のどちらに似たのか好戦的な性格の蓉ではあるが、戦の勘所の見極めと言う意味では父親譲りの天性を持ち合わせていたらしい。
状況を完全に把握したと言う訳では無さそうだが、それでも侯成は魏続と宋憲が陳宮と蓉に対して害そうとしている事が分かっただけで十分だった。
すぐに剣を抜き、宋憲と魏続を睨む。
「どう言うつもりですか、魏続さん。今は大変な時で、今すぐ陳宮軍師や皆の力が必要な時に、こんな事をしている場合ではないでしょう。宋憲将軍もです! すぐに東門の兵の指揮を取って下さい!」
「もうそんな話ではないぞ、侯成。この者らは呂布将軍を裏切っただけでなく、奥方や姫君を人質にして自らの安全を買おうとした者達だ。切り捨てる他無し。遠慮はいらん。全責任は私が持つ」
陳宮が侯成に言うと、侯成もこれ以上何も言おうとせずに頷く。
侯成にとって魏続は呂布軍に入るきっかけを与えてもらった恩人とも言える存在であり、宋憲も八健将として幅広い仕事をこなす姿を規範と出来る人物だと思っていた。
だが、主君である呂布とその家族とは比べるべくもない。
侯成がそう判断する事は、陳宮でなくても予想出来る。
宋憲は陳宮を視界に収めながら、侯成にも備える。
これで互角以上に戦える。
陳宮がそう思った時、侯成以上に予想外の人物が見えた。
「侯成! 伏せろ!」
陳宮が叫ぶと同時に、手にしていた剣を侯成の方に向かって投げつける。
侯成に対して剣を投げて渡したと言うわけでなく、明らかに攻撃の意志と殺気を含んだ投擲である。
と言っても、侯成に向かって攻撃した訳ではない。
侯成の後ろから、曹操軍の武将である李典が来ていたのである。
変わり種の武将が多い曹操軍の中でも、李典は相当特殊な武将と言えた。
他の武将と比べて劣るところのない武才を持ちながら、その性格は慎重で細心。夏侯淵ほどの強弓は引けないものの、その弓の腕前は中々のものであるにも関わらず文官を志望している稀有な人物である。
その人物がこの場に姿を現した事は、陳宮に二つの情報を与えた。
一つはこの場に猛将である夏侯兄弟などではなく李典が来たと言う事は、曹操軍の狙いも呂布の最大の弱点である妻と娘を押さえるのが狙いである事。
もう一つ。
これは郭嘉、荀彧の策ではない事。
その二人の天才軍師も勝利の為であればいかに汚い手でも使ってくる事は陳宮も知っているが、今回の戦いは曹操軍が呂布に勝利する事が最大の目的だったはずだ。
呂布を降すのであれば人質は極めて有効な手段であり、郭嘉と荀彧であれば当然思い当たっているだろうが、それでは曹操軍の強さの証明にはならない。
誰かいるのだ。
陳宮の知らない、郭嘉や荀彧に匹敵する策士が曹操陣営の中にいる。
城内に内通者を作るのも常道と言えるが、それも郭嘉や荀彧らしく感じない策だった。
思い込みから来る固定観念は軍師にとってもっとも危険な事である。
私の落ち度、か。
陳宮は一瞬そう思ったが、今はそこに思い悩む暇は無い。
陳宮の投げた剣を李典は防いだが、それは李典を討つと言うより侯成に気付かせる事が目的であり、それは上手くいった。
侯成はすぐに李典に対して身構え、不意打ちを防ぐ。
しかし、剣を投げた陳宮を宋憲が見逃すはずもない。
身支度もそこそこな陳宮が唯一の武器である剣を投げてしまった以上、陳宮は丸腰になった。
宋憲はすかさず切り込んだが、それこそ陳宮の狙ったところだった。
膝をつく陳宮のすぐ横には槍を持つ蓉が控えているが、その蓉は魏続に向かい合っているので陳宮を援護する事は難しい。
宋憲も万全の陳宮であればここまで大胆な事はしなかったかもしれないが、今の陳宮は見るからに体調不良で万全ではない事に気付いている。
が、それこそが陳宮の罠だと言う事は気付いていなかった。
宋憲も元来慎重な男であり、李典の様に文官志望と言う事は無いものの文官の仕事も出来るほどの教養を持つ男であり、兵書の知識も豊富と言えた。
だが、主君と裏切っていると言う後ろめたさと功を立てようと焦る気持ちが、本来の慎重さや視野の広さを失っていたのである。
剣を掲げて斬りかかる宋憲だったが、剣を持っていないはずの陳宮の手にはひと振りの宝剣が握られていた。
何故、と言う考えが宋憲の脳裏に浮かんだが、その答えが出るより早く陳宮の剣が振られた。
答えは極めて単純である。
陳宮の手にある宝剣は陳宮の持っていた剣ではなく、蓉の腰に下げられていた剣であった。
蓉は陳宮の傍らに控え、その前に陳宮が片膝をついて脇構えに構えていた時、すでに陳宮は蓉の剣を抜いていたのだが、それを宋憲の前から隠していたのである。
言ってしまえば小細工なのだが、この程度の小細工であっても使い方次第では十分な効果を生む。
勝利を確信した瞬間の心の隙は、まさに致命的なものになる。
宋憲はその答えに至る寸前に、陳宮から喉を切り裂かれる。
はずだった。
自称文官の李典
数々の武勲を上げ、色んな武将の副将も努めた武将である李典ですが、本人は勉強好きな文官希望だったみたいです。
元は書記官と言う文官だった楽進は武将になりましたが、李典はその逆パターンを希望していたみたいです。
文官が武官の仕事をこなす事は珍しくなく、例えば孔明先生や司馬懿、陸遜などはそう言う流れで軍権を握っていた事があります。
ですが、逆パターンは相当偉くならないと難しく、一時的にとは言え三公の司空と言うポジションにあった曹操などは将軍位の武官から文官になった例としてあげられるでしょう。
一応丞相も文官の位で、董卓もそうだと言えなくもないのですが、この場合丞相まで来ると武官も文官も関係ないくらいになってしまいますので微妙です。
で、実際に李典は文官になれたかと言うと、結局最期まで将軍位であったみたいです。




