第十三話
「始まったか」
外の騒ぎが城の中まで響き、郝萌は後続に言う。
後続の宋憲と魏続も、それに頷く。
すでに成廉を切り、曹操軍に内通した今となっては引き返す事も出来ない。
だが、郝萌は曹操軍を手引きしただけでは内通者として不十分だと二人に言った。
基本的に城攻めの時に内通した者は、その時の功績によって手厚く迎えられる事が常であるが、ただ城門を開けたと言うだけでは扱いが軽くなる。
そこで文句の付けようのない武勲を立てる必要がある、と二人を説得したのである。
郝萌、宋憲、魏続の三人は呂布が直接戦っているところを見る機会がさほど多くは無かったが、それでも呂布の非常識な戦闘能力の高さは知っていた。
実際に戦った事もあるので曹操軍の強さは三人とも分かっているし、武将達の質の高さもよく知っているが、その武将達をもってしても呂布にかすり傷一つつける事が出来なかった事も知っている。
いかに城攻めの策が上手くいったところで、呂布であればそれさえも覆してしまえるほどの戦闘能力があるのではないか、と言うのが三人にとって大きな不安要素だった。
だが、呂布には非常に分かりやすい弱点もある。
それが美しい夫人と一人娘である事は、呂布軍の武将でなくても知っている事だ。
実際に戦って呂布に勝つ事は不可能と言えるほどに困難であるが、呂布がいないところで夫人と娘を捕らえる事は容易である。
呂布は激怒するだろうが、夫人と娘を人質に取りさえすれば呂布に打つ手は無く、あのお人好しで家族思いの呂布が人質を無視して襲いかかってくるとも考えにくい。
そこで郝萌達は曹操軍に呂布と呂布軍を任せ、その隙に夫人と娘を捕らえて人質に取り呂布を降伏させる事を企んだのである。
呂布軍には呂布の他にも高順や張遼といった猛将もいるが、張遼は未だ泰山から戻れず、高順も西門防衛の激戦によって左腕を負傷していると言う。
普段の高順であれば手を焼く事になるだろうが、元は袁術軍や袁紹軍で将軍位にあった郝萌と宋憲である。
片腕を負傷していると言うのであれば、こちらには数の利もあるので討つ事は難しくないと思われた。
もっとも、高順にしても曹操軍が攻めてきたのであれば持ち場を離れる事は出来ないはずで、この瞬間は呂布にとって最大の弱点が最も無防備になっているはずだった。
郝萌ら三人は足音を立てない様にして厳氏らの部屋に近付く。
今は一人でも多く守備兵が必要な状況のせいか、本来立っているはずの見張りの兵の姿も無い。
「まさに好機だな。魏続、夫人達を捕らえてこい」
「……は?」
郝萌の言葉に、魏続は耳を疑う。
「俺が? 何で俺がそんな事を?」
「手柄を立てさせてやると言っているのだ。お前には目立った武勲も無く、呂布将軍の身内と言う事だけのお情けで将軍位をさせてもらっているのだぞ。せめて夫人と娘を捕らえたと言う手柄くらいなければ、曹操軍での地位など望めないだろう?」
郝萌の言う事ももっともな話だったが、魏続は気が引けた。
「お、俺は将軍達より十歳は若いから、今後いくらでも出世の機会も武勲を立てる機会もある。それを言えば郝萌将軍は袁術軍の武将だった事もあり、際立った武勲でも無ければ落ち目の扱いを受けるのでは?」
「ここで口論していても始まりません。郝萌将軍、曹操軍から内通の文を受け取ったのは貴将であるからには、魏続が言う様に何らかの手柄を立てておく事が今後有利になるのではありませんか」
宋憲は焦れている訳ではなさそうだが、郝萌を説得する。
魏続の言葉ならともかく、元袁紹軍の将軍だった宋憲の言葉には郝萌も耳を傾ける。
郝萌には袁術の元を離れて呂布軍に寝返ったと言う経緯があり、宋憲が言う様に曹操軍にも無視されないほどの際立った武勲が必要だった。
それが無ければただ主を二度変えた武将としか見られないのではないか、という懸念は確かに郝萌にもあった事は否めない。
「良いだろう。後からとやかく言っても遅いのは分かっているな」
郝萌は剣を抜いて、夫人の部屋の扉の前に立ち魏続と宋憲もその後に続く。
「奥方様、敵襲です。ここも危険ですので、避難致します。どうぞ、準備のほどを」
郝萌のいつも通りの人間味の薄い事務的な口調で、部屋に向かっていう。
「その必要はありません」
扉を開く事無く、部屋の中から厳氏の声が聞こえてくる。
これで中に夫人がいる事が確認出来た、と郝萌はほくそ笑む。
素直に出てくれば楽に済んだのだが、すでに別のところに逃げていると言う事がもっとも厄介になるのだったが、それが無ければそれで良しである。
見張りの兵も無く、まさか夫人の部屋に男の護衛がいると言う事も無い。
美しい夫人に言い寄ろうとする男もいない訳ではなかったが、この場合争う相手が呂布と言う事もあって誰もが恐れて手を出そうとしなかった。
もし護衛がいるとすれば、武将気取りの一人娘だけだろう。
蓉も同年代の少女達と比べると比較にならないほどに破格の武勇の持ち主ではあるのだが、さすがに遅れをとる相手ではないと郝萌は踏んでいた。
「奥方様、一刻の猶予もありません。お急ぎを」
「呂布将軍のお守りする城より安全なところが、漢のどこにあると言うのです。ここで私に構う暇があるのならば、将軍の元で敵兵と戦いなさい」
厳氏が冷たい口調で言う。
普段はのほほんとした呑気な性格の厳氏だが、その外見は冷気すら発しているのではないかと思えるほど、近寄りがたい美女である。
またおっとりしている様に見えて、実はかなり芯の強い女性である事も呂布軍であれば誰もが知っている。
いざと言う時にはこれくらいの覚悟を決める事は、郝萌にも予想出来ていた。
であれば、強硬手段に出る事もやむを得ない。
そう判断してからの郝萌の行動は早かった。
力任せに扉を蹴破ったのである。
「きゃあっ!」
中から厳氏の悲鳴が上がる。
これが徐州城であればそう簡単に扉を蹴破る事は出来なかっただろうが、この小城では作りも甘かった。
「何をするか、無礼者め!」
恐れる母を庇う様に、部屋の奥では槍を構えた蓉が郝萌を睨んで言う。
「わがままを言うからです。さあ、姫君共々来てもらいますぞ」
郝萌はそう言うと剣を抜いたまま、部屋に入ってくる。
「どこへ行くと言うのだ?」
部屋に入った郝萌の真横から、突然冷たい声が聞こえてきた。
そちらに目を向けた瞬間、郝萌の喉には剣が突き立てられていた。
「もっとも、答えられそうには無いが」
部屋の壁に添って立っていた陳宮が郝萌に言うと、陳宮は郝萌を蹴って部屋から叩き出して剣を振る。
部屋の外にいた魏続と宋憲は、突然の惨劇に目を丸くしていた。
「ほう、他にも間抜けがいたか」
郝萌の喉を切り裂き鮮血の中に沈めた陳宮は、冷然とした目を二人に向ける。
「夫人の部屋を血で汚す訳にはいかん。貴様らの謀反は失敗だ。今すぐ戦場に戻り、敵の首を取ってくるがいい。武将の首ならば良し、兵の首なら百を取れば今回の罪には問わぬ。さあ、行って手柄を立てて来い」
陳宮の言葉に魏続は逃げ出そうとするが、宋憲は剣を抜いて陳宮と向かい合う。
「さすがは陳軍師。はったりで切り抜けようとするか」
宋憲は郝萌の死体に目を向けず、陳宮を見て言う。
外套こそまとっているものの、陳宮は甲冑も身につけず、それどころか平服すら身につけておらず、薄い肌着に最低限の防寒のために外套を纏って剣を持っただけの姿である。
休んでいるところ、よほど急いで剣だけを手に夫人の部屋に駆け込んできたと言うのが一目瞭然であった。
いかにも襲撃を予想していた様な口振りだったが、それも今の苦境を誤魔化す為の手段だったのである。
「魏続、恐るな! この女狐は私が相手をする。娘と夫人を捕えよ」
宋憲に言われて魏続は動こうとしたが、陳宮にひと睨みされただけで動けなくなる。
呂布軍には豪傑は多いが、基本的に温厚な呂布や極めて真面目な張遼、思いのほか気さくな高順など、その武勇の割に粗忽者は少ない。
そのせいもあってか、露骨なまでに殺気を放ってくる陳宮の様な人物に慣れていない魏続としては、身の危険を感じるのも無理からぬ事である。
「何を恐れる! たかが女一人ではないか!」
宋憲はそう言うものの、魏続だけでなく剣を構える陳宮を前には宋憲もまともに動く事が出来ずにいた。
勇猛さではもちろん、武勇でも陳宮が呂布を上回る事は無いのは宋憲にも魏続にも分かっている。
だが、陳宮の方が呂布より危険なところはある。
陳宮は相手の命を奪う事に躊躇いが無い。
圧倒的武勇を誇る呂布だが、その実力があまりにも高い為か相手の命を奪う事を目的とせずに相手を負かす事が出来ていたが、陳宮はそこまで相手の事を考えていない。
実際に郝萌は奇襲の一撃で命を奪われた。
陳宮も女性とは思えない武勇を身につけているが、その冷徹さは呂布軍の中でほかの追従を許さないほどである。
しばらく睨み合いになったが、宋憲は陳宮の異変に気付いた。
休んでいたところを大急ぎで来たと言うだけではない。
元々色白な陳宮だが、今の顔色はただ肌の色が白いと言うにはあまりにも血の気の引いた様な青白さであり、妙に呼吸も浅く随分と消耗している様に見える。
陳宮はただ休んでいたのではなく、戦場に出る事も出来ない様な状態なのではないか。
呂布の夫人である厳氏も過労で倒れたが、陳宮の多忙さは厳氏の比ではない事はこき使われてきた宋憲はよく知っている。
その目には恐ろしく冷たく、十分な力がある。
しかし、健康状態には大きな問題を抱えていると見えた。
だとすると時間をかけて陳宮の消耗を待つか、一気に勝負をかけるか。
安全策で行くのであれば、睨み合いを続けて陳宮の消耗を待つ方が良い。
その場合の問題は、曹操軍がやってきて手柄を奪われる恐れがある事と、呂布軍の援軍がやって来る恐れがある事。
前者ならまだしも、後者なら致命的である。
危険ではあるが、今なら相手は陳宮一人。宋憲と魏続の二人でも万全の陳宮であれば手に余るところもあるが、今の陳宮であれば二人でかかれば勝機はある。
宋憲がそう判断した時、陳宮がわずかにふらつく。
一瞬目が泳ぎ、表情も険しくなる。
よほど余裕が無いのだろう。
魏続もそれに気付いたのか、僅かに前進する。
「……二人であれば勝てるとでも思っているのか?」
陳宮は宋憲と魏続を睨んで言う。
「無理に強がるな。降伏すると言うのであれば、これ以上の戦いは必要無いだろう」
「誰が降伏などするか。お前らこそ、死にたくなければ戦場に戻れ。そこのソレと同じ目にあいたくはないだろう」
陳宮は切り捨てた郝萌を差して、二人に警告する。
が、今度はさほど効果が無かった。
宋憲にしても魏続にしても、陳宮が限界近い事に気付いているからである。
「魏続、ここで決めるぞ」
「おう!」
魏続が答えたと同時に、陳宮が動いた。
鋭い剣撃で宋憲を狙ったが、宋憲はかろうじて陳宮の剣を受ける。
それが陳宮にとって限界だったのか、陳宮は倒れそうになって片膝をつく。
それを見て魏続が陳宮に斬りかかる。
もし魏続がもう少し勇猛であれば、彼の命運も変わっていた。
僅かに腰が引けていた事もあり、一歩出遅れた事がこの時は幸運だったと言える。
部屋の中で母親を守っていたはずの蓉がいつの間にか陳宮の後ろにいて、片膝をついた陳宮の上から槍を突き出して来たのである。
「うわっ!」
魏続は胸を槍で貫かれる直前でひっくり返り、奇跡的にその一撃を躱す結果になった。
「ちっ、失敗したか」
蓉はそう言うと、陳宮の後ろに控えて槍を構える。
一方の陳宮も片膝をついているものの、剣を脇構えに構えて宋憲を睨みつけている。
「今の一撃で魏続を討てなかったのは、失敗だったな陳宮殿」
「さぁて、それはどうかな?」
陳宮は立ち上がろうとはしないものの、まったく気を緩める事なく宋憲を睨みつけていた。
新たな退場者 郝萌
正史ではもっと早くに退場しています。
具体的には呂布が矛を射た辺りで、徐州で陳宮と謀反を起こした時に部下である曹性に見限られ、高順から切られています。
良い具合にダメ上司です。
演義での扱いはもう少しひどく、下邳城攻防戦で袁術に援軍を願いに行った帰りに張飛に見つかって捕まり、自分が使者の任を受けた事を白状した上にその場で処刑されています。
驚く程良いとこ無しです。
成廉といい郝萌といい、八健将と大層なポジションまで作られているのに扱いが雑です。
ここまで結果の出せないスパイも珍しいのではないか、と言う郝萌でした。
ここでもイイトコ無かったし。




