第十話
「成廉将軍、どうですか? 動きはありますか?」
侯成は北門の成廉のところに来て尋ねる。
北門からの定期連絡を待っていられなかった陳宮から、侯成を直接北門に向かわせて状況の確認を命じられての事である。
「侯成か。どうかしたのか?」
「いえ、軍師殿が北の状況を物凄く気にしていまして。何もたよりが無いのは何も起きていない証拠だと言ったのですが、行って確認して来いと言われまして」
「なるほど。軍師らしい細かさだな」
成廉は苦笑いしながら言う。
どちらかと言えば成廉も、女である陳宮を認めていなかった立場だったのだが、最近では陳宮の軍師としての手腕は認めている。
それもあって、以前ほど陳宮に対して批判的な態度ではなくなっていた。
「今のところ、北に動きは無いな。敵兵にはもちろん、陣に兵の出入りもほとんど無い。文字通りのにらみ合いが続いているところだ」
「軍師殿から、くれぐれも油断するなと言われてますけど、その点も大丈夫そうですね」
「小沛では痛い目にあったからなぁ。これ以上しくじる訳にはいかない」
成廉は侯成に向かってそう言う。
戦場においてにらみ合いと言うのは、兵士達はもちろん指揮を取る武将達にとっても楽な事ではない。
何より集中力が持たない。
にらみ合いになった場合、どうしても相手の出方待ちになり身動きがとれなくなってしまう。
そうすると嫌でもだらけた空気が出始め、そうなってから切れた集中力をいざと言う時に発揮させると言うのは非常に困難である。
陳宮はその点を心配していたようだが、成廉もそこはよく分かっている。
「この曹操との戦が終われば、次は袁紹との戦だと軍師は言っていたな」
成廉はそう言うと、北に目を向ける。
「そうらしいですね」
「俺は曹操より袁紹と戦いたい。魏越の事で呂布将軍を恨んだ事もあったが、何より許せないのは袁紹軍、中でも顔良だ。あいつだけは俺の手で討ち取ってやりたい。その為にもこの戦は早く終わらせて、対袁紹の軍略を聞きたいものだ」
「成廉将軍に油断はない、と軍師殿にお伝えしておきます」
「いや、それは無用だ。あの女の事だ、そんな事を聞いたら『目の前の事に集中しないと痛い目に遭うぞ』とイヤミを言われるだけだ」
「確かに、軍師殿なら言いそうですね。では、北は問題なさそうと伝えておきます」
「おう、もし何か動きがあったらその時すぐに知らせるとも言っておいてくれ」
「分かりました」
侯成が立ち去ろうとした時、顔に水滴が当たった。
「ん? 雨ですか?」
「降ってきたか」
侯成に釣られて、成廉も空を見上げる。
「これは曹操軍には堪えるだろうな。いよいよ撤退かも知れないぞ」
「最近滅法寒くなってきましたから。曹操軍には凍死者まで出ているらしいですよ」
「少しはマシとはいえ、こちらの状況も似た様なモノだから心配ばかりもしていられないが、それでもこれは天の恵みかもしれないな」
ただでさえ決め手に欠ける曹操軍にとって、この雨はたまったものではないだろう。
例年より低い気温だけでも十分なのだが、雨にまで濡れてはより体力を奪われるが、それだけではない。
雨に濡れるとそれだけ攻城兵器の重量も増し、運搬に支障が出る。
さらに視界も悪くなる為、守る側から放たれる矢を視認しづらくなるなど、攻め手の曹操軍にとって雨は何の益もない天災とも言えるだろう。
「ところで、宋憲将軍は?」
「今は休憩中だ。さすがに交代でなければやっていけないからな」
そう答えたあと、成廉はふと気になった事を思い出した。
「そう言えば、西門の高順はどうだんな? 他のところは二人ずつだから交代で休む事が出来るだろうが、西門は高順一人じゃないか?」
「それは軍師殿や呂布将軍が、場合によっては俺が様子を見てます。もちろん、俺の場合には何かあった時にはすぐに呼ぶと言う事になってますが」
「そうか。それなら良い。高順は呂布軍の武の柱だからな。呼び止めて済まなかった」
成廉にそう言われ、侯成は会釈して本来の持ち場である南門の方へ戻っていく。
八健将と並び称されてはいるが、高順は誰もがその地位に就くべき人物だと認めている。
ただ本人がその地位を嫌がり、自身の兵権を魏続に与えてまでその地位につかず、今は呂布直属の武将と言う扱いになっていた。
その武勇だけではなく、侠客からの出自と言う事もあって兵士や荒くれ者たちにも顔が利き、呂布への忠義も厚く家族からも信頼されている。
呂布軍において柱となる人物だと言う事は、成廉でなくても知っている事だった。
が、叩き上げの成廉ならともかく、呂布の親族であると言う事を後ろ盾にしている魏続や、名家の生まれで袁術軍では将軍位にあった郝萌などはそんな高順を煙たく思っているところもある。
もっとも実力勝負では高順が上手である事は間違いない事なので、魏続などは不満を愚痴る程度の事しか出来ないのだが。
何にしても、急造である呂布軍には内部に抱える問題も多い。
今でも女性軍師である陳宮に対する不満は燻っているし、そもそも対外的に喧伝する為に無理矢理作った八健将自体が、有名無実な単なる呼称でしかない。
呂布軍でも武の要である張遼と、呂布の親族と言う以外で立場を語れない魏続が同列と言う時点で有り得ない。
曹操と言う目の前の脅威に対抗する為のものだったので、この戦いが終わったら色々と見直しがされる事だろう。
曹性が討たれた為に八健将も一席空位になっているので、今度は高順も逃げる事は出来ないはずだと成廉は思った。
しかし、それもこれも全てはこの戦いが終わったら、の話である。
陳宮の卓越した軍略と呂布の非常識な戦闘能力によって、かろうじて膠着状態に持ち込んだだけの呂布軍だったが、ここへ来て寒波と豪雨と言う二つの天意によってようやく曹操軍に対して優位に立てそうな気配が出てきた。
守備側の呂布軍もそうだが、攻め手の曹操軍にも体力や士気、さらに時間的問題もあってもはや余裕は一切ない。
むしろすでに手遅れではないかと、成廉は思う。
曹操軍にどれほどの異才鬼才、豪傑が揃っていても今すぐに雨を止ませ寒さを和らげ、呂布軍を無力化して城を落とす事など出来るはずもない。
それでも陳宮はまだ何か曹操軍に逆転の手があると疑っているらしい。
こういう辺りが武将である成廉にとって、軍師と言う生き物を理解出来ないところではあるのだが、それでも陳宮が警戒している以上は成廉も警戒しなければならない。
小沛での戦いでは、必ずしも成廉だけの落ち度では無かったとはいえ、敗戦の責任を問われる事無く許されたと言う恩義がある。
少なくともその借りを返すまでは、陳宮に対して強く反論する事が成廉には出来なかった。
袁術軍から賊軍と見られていた成廉だが、魏越と共に長く袁術軍と戦ってこられたのはそう言う義理堅さを兵士たちも知っているので、離反者が少なかったと言う事も大きい。
「成廉将軍」
「ん? ああ、宋憲か。どうした? まだ休んでいていいぞ?」
予定よりかなり早くやってきた宋憲に、成廉は不思議そうに言う。
「今そこで侯成君に会ったのですが、彼は何故北門に?」
「軍師殿のお使いだそうだ。軍師殿はまだ何か動きがある事を警戒しているらしい。何かあったらすぐに知らせると言っておいた。宋憲、何か気付いた事でも」
成廉が宋憲の方を振り返ろうとした時、宋憲の手にした剣が成廉の胸を貫いた。
あまりにも一瞬で予想外の事だったので、成廉自身が自分の身に起きた事を瞬時に理解する事が出来なかった。
「な、何を……?」
驚きのあまり、成廉としては痛みなどより強い困惑が口から出てきた。
「もう、貴方達の夢物語には付き合っていられないのですよ」
宋憲はそう言うと、剣を引き抜く。
甲冑ごと貫かれた胸から、驚く程大量の血液が溢れ出す。
「夢物語、だと?」
反射的に左手で胸を押さえ、右手で剣を抜きながら成廉は宋憲を睨む。
「百歩譲って曹操軍を追い払う事が出来たとしましょう。ですが、この程度の曹操軍を相手に勝てるかどうかも分からない苦戦を強いられておきながら、次は袁紹軍と戦う? 無知とはいえ、あまりにも現実が見えていないと言わざるを得ません」
宋憲は成廉を見下して言う。
「貴様、袁紹から見限られて呂布将軍に拾ってもらった事を忘れたか」
「忘れてはいません。ですが、袁紹軍と戦ったところで勝目はないと言う事も分からないのですか?」
成廉は剣を抜いたのだが斬りかかる事も出来ず、剣を杖がわりにして立っている事がやっとの状態だった。
「呂布将軍は強いですよ。おそらく袁紹軍の中の誰であっても、呂布将軍には勝てないでしょう。ですが、楚の覇王項羽と同じですよ。項羽も戦場では無敵の強さを誇っていましたが、結局項羽以外が敗れていき、最後は四面楚歌に陥る事になりました。我々呂布軍とて袁紹軍と戦ったら同じ事になるのが目に見えているのがわかりませんか?」
「そうならないよう、軍師が手を打つはずだ」
「あの女がもっとも信用出来ないでしょう。あの女こそ、勝利に酔って貪欲に次の勝利、大きな武功を得る事に取りつかれているのです。だからこそ、曹操軍に降って外交で袁紹を抑えるしか無いのです」
宋憲はそう言うと剣を振り上げる。
「同じように勝利に取り憑かれた貴方には分からない事でしょう、成廉将軍」
成廉が何か言うより先に、宋憲の剣が振り下ろされ成廉は首を落とされた。
「北門の兵よ」
宋憲は城楼の上から兵士に向かって言う。
「急ぎ、赤い旗を持って大きく振るのだ! 北門の兵は未だ士気高く、曹操軍を恐れていない事を見せつけてやるが良い!」
成廉を切り殺した事は反逆以外の何者でもないのだが、それでも城楼で行われた事は兵士の目には入っていない。
まして宋憲も北門を守る武将と言う事もあって、兵士達は上官の命令に従う形でそれぞれに赤い旗を持って大きく左右に振る。
それに呼応する様に、于禁率いる曹操軍の北の部隊も動く。
北門の正面に一本残された橋を、曹操軍の方から切り落としたのである。
「はっはっは! 見ろ、曹操軍め。我々の士気の高さを見て恐れおののいておるわ!」
宋憲は兵士に向かって大きく笑いながら言う。
実際にはそうではない事は、宋憲もよく分かっている。
橋を落としたと言う事は、曹操軍も最後の仕上げにかかったと言う事だ。
この反逆も、宋憲が思い付きで行った事ではなく曹操軍から打診があった郝萌からの申し出だった。
宋憲は成廉も言っていた通り、呂布には恩義すら感じている。
だが、今のまま陳宮を重宝していては呂布軍の全員が破滅する未来しか見えない。
それであればせめて生き延びる事を考えるべきだ、と言う郝萌の意見に傾いてしまった。
宋憲は他の誰よりも、袁紹軍の強大さを知っている。
曹操軍はたかだか五万前後の兵を動員してきているが、それで呂布軍はこの小城を頼りに籠城での綱渡りを強いられているが、これが袁紹軍であれば少なくとも兵力は十倍以上を動員する事が出来る。
それは奇策でどうにか出来る兵力差ではなく、しかも武将や軍師の質や量も曹操軍とは比較にならないほど袁紹軍には多才な才能の持ち主が多く存在している。
本気で『次』の事を考えるのであれば、少しでも早くこの戦を終わらせて曹操軍の被害を最小限に抑える必要があると宋憲は判断した。
本来であれば成廉も説得するべきところだったかも知れないが、賊将だった割に義理堅く忠義にも厚く、呂布に対して大きな不満を持っている訳でもない。
説得には時間がかかるだけでなく、陳宮に露見する恐れがあった為に成廉を切り捨てたのだ。
しかも侯成が報告に行った直後だった事も、この時点での宋憲は幸運だと感じていた。
これによって南門にこの凶事が伝わる事も無くなった。
この事が、この戦に関わった全ての者の運命を大きく変えたのである。
成廉について
正史でも演義でもこの戦のこの時点では、成廉は生きています。
が、これ以降名前が出てこず、結局どうなったのか消息不明になったみたいです。
そんなワケでここで退場となってしまいました。
ちなみに宋憲も、正史や演義で成廉を切ったりしていません。
ですがやっぱり宋憲も正史ではこの戦以降、消息不明になっています。
演義ではこのあとちょこっと出番があると言えますけど、演義設定の八健将なのですが、本当に張遼と臧覇以外の扱いが雑です。
……まぁ、ここでもワリと雑な扱いを受けていますけど。




