第九話
翌日、戦場は大きく動いた。
陳宮がどう言う連絡手段を使ったのかは分からないが、朝から徐州城で反乱が起きたと言う報告が入り、昼前には下邳の東に布陣する李典の部隊と徐州城から脱出してきた徐州兵とが戦闘状態に入った。
李典の部隊は下邳包囲の部隊の中では数も少ないが、それでも曹操軍の精鋭である事に違いはなく、陳宮の策によって乗せられたとはいえ激情に駆られた徐州兵の集団では実力に差があるどころの話ではない。
呂布は急ぎ三百騎を率いて城から出て、李典の部隊に突撃する。
数で言えば、三百と言う騎兵は決して多い数ではない。
もし勇猛果敢な武将であれば、呂布を討つ好機と見たかもしれないが李典は曹操軍の武将の中では極めて慎重な男である。
例え三百であったとしても、呂布が直接指揮する騎兵は恐ろしく強い。
下手に呂布を討とうと欲を出した場合、逆に討ち取られる事も十分に有り得る。
そうなると下邳の包囲網は崩れ、これからそれを立て直す時間的余裕は厳しいと言わざるを得ない。
李典はそこまで判断して呂布との交戦を避け、徐州兵と呂布の騎兵をやり過ごして部隊を一時的に大きく南よりに後退させる。
包囲網を破る事には失敗したが、呂布もその李典軍を深追いするほど自惚れてはいない。
どれほど精強を誇ったとしても、呂布が率いているのは三百でしかなく、即席で徐州兵を率いたとしても、それこそ曹操軍の大軍に包囲されては為す術なく打ち減らされる事になる。
無理な戦いは控え、呂布は徐州城から流れてきた兵と率いた三百の騎兵と共に下邳城へ戻っていく。
東門付近の戦いは終わってみれば小競り合い程度の接触で、昼前から始まった戦いも昼頃にはすでに呂布と徐州兵は城内に入っていた。
徐州兵達は東門の守備に当たっている郝萌と魏続に任せ、呂布は南門の城楼へ戻る。
そこでは小沛でも住民による騒動が起きている、と言う報告が待っていた。
徐州城の様な反乱まがいのモノではないようだが、小沛に住む一部の住民が戦に巻き込まれたくないとか、荊州に避難しようとしていたところ足止めを食らっているなどと騒いでいるらしい。
「これも軍師殿の仕込みなのか?」
呂布があまりの手際の良さに尋ねると、陳宮は苦笑いしながら首を振る。
「小沛のは違います。おそらく臧覇の手の者でしょう。以前泰山に行った時にはそう言う者がいるようには見えませんでしたが、この者は相当な手練だと言うべきでしょう。おそらく、私や郭嘉にも劣らない軍師です」
「ほう」
と呂布は短く言ったが、陳宮がここまで手放しで人を褒める事は珍しい。
別に陳宮は不平不満ばかりを並べたり人の事を否定するのが大好きと言う事は無いのだが、人に対する興味が薄いのか一定の距離感を持って人と接すると言うべきか、否定も肯定もしないと言う事が多かった。
「扇動の具合から見ても、この者が小沛に入り込んで動いているのでしょう。戦いに巻き込まれた住人と言うのも、ひょっとすると臧覇の手の者と言う訳ではなく、本当にそう言う理由で曹操軍ではなく臧覇の方に手を貸した人物で、荊州に避難しようとしているのかもしれませんね」
「……だが、圧倒的に優勢の曹操軍ではなく劣勢の俺達に加勢してくれるものか?」
呂布はそこを不思議に思う。
徐州民に限った事ではなく、このご時世であれば勝ちに乗じた方が得だと言う事は言うまでもなく、その為に勝者側について敗者を追い落とすと言うのはごく当たり前の処世術と言える。
陳宮の言葉では、その人物はその当たり前の処世術を放棄してまで呂布に加勢してくれた事になる。
「将軍、いかに曹操軍が優勢であり優れた執政官であると言っても、徐州の民を虐殺した事実は変わりません。多くの者が曹操軍に親兄弟親族を殺されているのです。どれほど頭では曹操軍につく方が良いと分かっていても、踏ん切りがつかない者もいるでしょう」
「なるほど、言われてみればその通りだ」
「むしろ、曹操軍に降ると言う判断をした陳親子の方が徐州の民としては特殊な割り切り方でしょう。だからこそ、徐州城を掌握できずにいるのです」
陳宮はそう言う風に見ていた。
陳登の父親であり徐州城乗っ取りの首謀者と思われる陳珪も、おそらくは私利私欲による行動ではなく、例え虐殺者であったとしても呂布より曹操に降った方が徐州の為だと思っての行動なのだろう。
呂布も陳親子の事を、多少は知っている。
陶謙の頃から徐州を守る為に様々な画策をしてきた人物であり、突然降って沸いた様に徐州の太守となった呂布と違い、心から徐州の事を心配しての行動だったに違いない。
が、それでもやはり徐州の民の心をつかむには至らず、徐州兵から多くの逃亡者を出した上に小沛で騒動まで起きている。
これに関しては徐州の民の思いもさる事ながら、やはり陳宮の優れた手腕であると言わざるを得ない。
「ただ、ちょっと気になるところもあります」
陳宮はそういうと目を南門に向ける。
徐州城と小沛で問題があったからといって、曹操軍が攻撃の手を緩めていると言うわけでもなく、南門での攻防はまだ続いている。
さすがに二ヶ所の問題を完全に捨て置いて総攻撃と言う訳にはいかないらしく、多くの兵を動員しての攻撃ではないものの、こちらを休ませるつもりはないのも分かる。
この下邳城の規模は大きく無いが、この城に入った時の呂布軍はこの規模の城を守るにも不安な兵力しか持っていなかった。
どれほど膠着状態だと言っても、呂布軍はほとんど不眠不休で戦っている状態である。
曹操軍にも犠牲は出るが、それでも攻め続け消耗させる事によって先に疲弊するのは数が少ない呂布軍である事は、向こうの軍師も知っている。
華麗さとは無縁の、泥仕合とも言うべき消耗戦なのだがそれがもっとも効果的である事を曹操軍の軍師は知り、自らの評価など気にする事もなくその手を打ってきているのだ。
これはこれで恐ろしい判断だ。
かつて反董卓連合で孫堅が、今回の様に無理矢理に大軍による消耗戦じみた総攻撃を仕掛けようとした事もあったが、あの時は成功しなかった。
それは連合軍であると言う弱点があったせいでもあるが、今回はその弱点も無い。
いかにも曹操らしい辛辣な手だと呂布は思うのだが、荀彧や郭嘉より先に曹操に仕えて軍師を勤めていた陳宮は違う感覚を持っているらしい。
「気になる?」
「郭嘉は戦術と言う点において、おそらく現状の漢ではもっとも優れた軍師の一人と言っても良いでしょう。それにしては後手過ぎるのです。いや、もちろんあの男に先手を取られては苦戦どころの話ではないので私も色々と手は尽くしているのですが、少々らしくなさを感じてしまい……」
確信では無いようだが、陳宮はどこか違和感を覚えているらしい。
「我々軍師にとって予想外の事態と言うものは死活問題になります。当然戦場ではこちらの予想や注文通りに事が運ぶと言う事ばかりではありませんが、それでもあらゆる事を想定して、実際戦場に立つ将軍達に焦る必要はないと伝える事が我ら軍師の勤めとも言えます。実際、臧覇達の奮戦によって曹操軍は多少の被害を出しましたが、それでも翌日にはそれに対応して逆に臧覇に打撃を与えています」
「そうは言っても、徐州には騒乱の火種が残っているわけだし、さすがの曹操と言ってもそれら全てに対処して徐州攻めを行うと言うのでは、いつになるか分からないと言う事だっただろう?」
「ええ、そう思っていたのですし、実際そうやって攻めて来ているワケです。そして、現状で手を焼いているのも、私の画策通りなのですが」
上手く行っているのだが、その事にも陳宮には何か不安や不満があるように見える。
「郭嘉らしくもあり、郭嘉らしくもない。それに軍略家である荀彧がこの凡戦をただ静観していると言うのも気になります。曹操軍の繁栄より漢の復興にこそ大義を見出す荀彧としては、ここで凡戦を行って漢の権威を失墜させる事はなんとしても避けたいはず。それなのに、荀彧らしい動きも無い」
呂布としては陳宮が何を思って言っているのかまったく理解出来ないのだが、ただ言い知れない不安を感じていると言うのは分かる。
「将軍は何か気になる点はありませんか? どんな些細な事でも構わないのですが」
「そう言われても、軍師殿に分からない事が俺に分かる事も無いと思うんだが」
「将軍が個人的に思った事で構いません。それがきっかけで何か分かるかもしれませんので」
「うーん、気になった事、か」
呂布は首を傾げる。
そう言われても、呂布自身が考えを巡らせるほどの余裕のある戦いを行っていない。
兵士だけでなく呂布もほぼ不眠不休で戦場を駆け回っている状態で、とても細部にまで気が回らないと言うのが本音である。
「侯成はどうだ?」
「え? お、俺?」
突然話を振られて、少し離れたところに立っていた侯成は驚く。
本来であれば呂布の副将は張遼なのだが、その張遼は泰山の臧覇と合流して戦ってはいるものの、今は曹操軍に包囲されて身動きが取れずに呂布と合流出来ないでいる。
よって副将は急遽ではあるが侯成が勤めていた。
「お、俺なんかが口を挟むのはとても……」
「構わない。どんな事でもいいから、思った事や気になった事を言ってみろ」
「え、えーと、そうですね……」
呂布からそう言われただけでなく、陳宮からも目を向けられて侯成は何とかして心当たりや気になる事を絞り出そうとする。
「そう言えば、昨日のあの張飛の態度はどうかと思います。そりゃ劉備殿はあんな人ですけど前任の太守ですし、関羽殿はいかにも将軍と言う感じなのですが、張飛は腕っ節の強さはわかりますけど三兄弟の二人と比べると見劣りしますよね」
頑張って絞り出したんだなぁ、と呂布でも分かる事を侯成はしどろもどろで言う。
個人の感想に近いもので直接戦の話ではなかったが、侯成の言っている事もわからなくはない。
実際に侯成自身が気づいているかは分からないが、劉備や関羽には『殿』を付けていたのに、張飛は呼び捨てだった辺りにも侯成の中での張飛に対する敬意の払えなさが伺われるところでもある。
「す、すいません。何か戦に関係ない話で」
侯成はそう言うが、陳宮は眉を寄せて険しい表情になっている。
「軍師殿、そんな怒る様な話ではなかったと思うのだが」
「いや、怒っている訳ではなく考えているのです」
どう見ても侯成が関係ない話をしたので怒っているとしか思えない表情だったので呂布がそう言ったのだが、どうやら陳宮は本当に怒っている訳では無さそうだった。
「劉備が曹操軍でさほど信用されていないのは当然としても、わざわざ無駄飯を食わせているのはおかしいと思いまして」
「とはいえ、率いる兵も無いのでは戦場にも出られないだろう?」
「率いる兵が無い? 本当にそうでしょうか」
陳宮は首を傾げる。
「確かに劉備は自分達だけでさっさと逃げ出しましたが、その時の城は小沛でした。徐州城に我々に賛同してくれた兵がいた様に、小沛には劉備に賛同する徐州兵が少なからずいたはずなのです。その者達にすれば、劉備が曹操軍に降ったと言っても戻ってきているのだから合流したいと考えるはず。であれば、劉備が率いる兵には困らないのでは?」
「だが、曹操軍から信用されていないと言うのであれば、それこそ劉備に兵を与える事を警戒されているのでは? あの三兄弟が兵を持って突然敵側に寝返ったなんて事は悪夢以外の何者でもないからなぁ」
「そう、その通りなのですが」
陳宮もそう思ってはいるみたいだが、そこのどこかで腑に落ちないところがあるらしい。
「曹操軍は、もうすでに動いているのではないか? 北から、成廉からは何も言ってこないのか?」
「今のところは、何も」
副将と言っても実戦経験の少ない侯成に出来る事ほとんどないので、主な役割は各門からの情報伝達係になっている。
実際に各門の責任者達も、呂布に直接言いづらい事でも侯成にだったら色々と言いやすい様なので、結果として適任と言えた。
「私の取り越し苦労であればそれで良いのだが……」
陳宮も成廉の能力の高さは買っているところがある。
それでも、漠然とした不安は拭えるものではないらしい。
呂布も何かしら手を貸したいところだったが、軍師の役割の中で呂布が手助け出来る分野の事は少なく、呂布に出来る事があるとすればそれは軍師の立てた計画通りに行動する事くらいだった。
参戦してない劉備
曹操個人は劉備の事をさほど悪く思っていなかったみたいですが、曹操軍の軍師からは嫌われていたみたいなところがあります。
演義では曹操が劉備をどうするか悩んで三人の軍師に相談すると、
荀彧「今すぐ殺した方が良い」
郭嘉「生かして使った方が良い」
程昱「使えるだけ使って殺した方が良い」
と言う風に答えるシーンがあります。
素晴らしい人格者として書かれている荀彧が、いきなり劉備は殺すべきとまで言わせるのですから、よほど信用が無かったのでしょう。
正史や演義以外の作品で荀彧は劉備に対して好意的である事が多い事から、荀彧はこの時すでに劉備を最大の敵とみなしていたのかもしれません。
ただ、この徐州での戦いに際しては、呂布にボッコボコにされた直後なので、曹操軍にいても劉備には参戦する兵力が無かった事は間違いありません。




