第五話
前日に望みうる限りの戦果を上げた臧覇軍だったからこそ、翌日の曹操軍の動きが信じられなかった。
曹操軍は完全に泰山の兵力を無視するつもりなのか、前日の被害など考慮に及ばないのか、何ら対策を打ってこず前日と同様の布陣と兵力で下邳攻めを継続しようとしているのである。
「どういうつもりだ? あの連中、昨日の事など気にもしていないって事か?」
孫観が不思議そうに言う。
だが、この曹操軍の動きの真意を見抜く事は臧覇や張遼ですら不可能だった。
「罠、ですよね?」
「だと思うんだが、確信が持てない。彼に聞いてみるしかないだろうな」
「もう来てますよ」
張遼と臧覇のところに、軍師役を担っている少年が現れる。
「どうだい? 君の目には曹操軍の狙いが分かるかい?」
臧覇は少年に尋ねる。
張遼としては部外者で得体の知れない少年に頼るのはどうかと思うのだが、それでも少年の非凡な才能は認めざるを得ない。
出来る事ならすぐにでもこの場から離れる事を勧めるところなのだが、彼の才能は惜しいと思うところもあり、どう接するべきなのかを悩んでいた。
「さすが、曹操軍の軍師ですね。これは厳しい事になりました」
少年は眉を寄せて言う。
「曹操軍の狙いはあくまでも呂布将軍で、こちらではないと言う事を全軍に知らしめています。昨日の被害もさほど大きく無かったと言う事もあり、あえてこちらを無視する様に指示している様に見えます。が、それこそが罠。こちらから打って出れば、おそらく反撃にあうでしょう」
「では、ここは守りに徹するのか?」
張遼の質問に、少年は首を振る。
「その場合、曹操軍のほぼ全軍が下邳城攻めを行い、こちらはこの山からそれを眺めているだけと言う事になってしまうのです」
「つまり、罠と分かっていても飛び込まないといけないと言う事か」
「すみません。私が及ばないばかりに」
少年は申し訳なさそうに言うが、張遼は首を振る。
「曹操軍の軍師はあの『王佐の才』と言われる荀彧と、千里眼を持つと言われる郭嘉だ。それに対して一本取った事は大きい。それに、まだ罠と確定した訳でもない。もしかすると、曹操軍の慢心故の布陣かも知れないのだから」
張遼はそう言うものの、それは無いだろうと思っていた。
それは張遼だけではなく、臧覇や少年も同じ様に思っていたはずだが、それでも全員が不思議なくらい確証を得られないでいたのである。
普通、罠と言うものは相手に分からない様に仕掛けるものである。
しかし、あまりにあからさまな場合にも逆に効果的な事もある。
例えばこちらが追手から逃げている時に、逃走経路の途中で二股の道が現れたとする。
そこに『右の道には罠がありますので、左の道を通って下さい』と言う立札があったとすれば、確実にそこで足を止める事になる。
いつまで考えても答えの出ない情報を与えられ、急いで逃げなければならないのにその足を止められてしまう。
こう言う罠の仕掛け方もある、と言うのを魅せられている気分だった。
「ん? 南側に動きがあるな」
あえて張遼や臧覇との会話に入ってこなかった孫観が、南から下邳を攻める部隊の旗に変化がある事に気付いた。
南側は初日から『夏侯』の旗が掲げられ、指揮していたのは夏侯淵だった。
そこに劉備の旗が加わっているのである。
「予備兵力も投入してきた、と言うワケですね」
孫観と同じく、将軍達の指示が出るまで待っていた尹礼が続いた。
「これは下邳攻めに本腰を入れてきた、と言う事ではないか?」
「そう、見えます」
張遼の言葉にも、少年は自信無さそうに答える。
「いずれにしても、下邳城が陥落しては支城であるこちらの戦いも終わる。ならば俺達のやるべき事はおのずと決まってくるのではないか?」
臧覇の言葉に、全員が頷く。
役割は昨日と同じで、孫観は小沛への牽制。
臧覇は曹操軍南側部隊への増援の後方、あるいは側面の手薄なところを攻撃。
張遼は曹操軍西側部隊への攻撃。
尹礼と少年は泰山にて予備兵力として待機となった。
これはそれぞれに適任であるのだが、他に人材がいない以上替えようがないとも言えた。
だが一つ前日と違うところがあった。
前日は策の成功のみを目指して行動したのだが、今日は敵の罠を警戒していつでも撤退出来るようにと言う消極的な動きになっていた。
元々泰山の部隊は兵力においても少数なので、基本的な戦い方は敵の隙を突いて攻撃した後に泰山の地の利を活かして防衛戦をするしかない。
曹操軍の攻略目標が下邳であるからこそ出来る事であり、下邳を守るのが天下無双の猛将呂布とその参謀である陳宮と言う、曹操軍に轟く武名によって支えられている綱渡りである事に何ら変わりは無かった。
実際に泰山の張遼や臧覇は下邳との連絡は取れず、連携の取りようもない。
それでもあの陳宮であれば察してくれると言うか細い理と、曹操軍も同じようにその事を警戒しているという事が前提の策だった。
あるいは今日のこの曹操軍の動きは、下邳との連携は取れていない事を看破して、泰山には泰山向けの防衛で良しとして、下邳攻めに集中しているのかもしれないと張遼は思った。
しかし、いくら相手の事を考えてみたところでこちらから出来る事は限られている。
張遼だけでなく、臧覇も孫観も同じように考えながら、それでも出撃していった。
そしていざ戦いが始まってみると、彼らがまったく予想していなかった事が起きた。
曹操軍が昨日と同様か、それ以上に脆いのである。
口火を切ったのは昨日と同じく臧覇による奇襲からだったのだが、泰山方面からの攻撃が来る事をまったく想定していなかったかの様な狼狽ぶりだった。
この方面を守る武将は、昨日と同じであれば夏侯恩である。
夏侯淵や夏侯惇と比べると多少能力は劣るかもしれないが、それでも決して無能な男ではない。
実際に昨日は奇襲を成功させた臧覇だったが、立て直しは早かった。
そのはずなのだが、今日の混乱振りは昨日より遥かに大きい。
陣の敷き方にしてもそうだった。
今日は下邳攻めに集中すると言う命令でも出ていたのか、泰山方面からの攻撃が来るとはまったく想定もしていないかの様に隙だらけの布陣だった。
これはこれで罠ではないかと臧覇は思ったのだが、小沛からも援軍が来る気配は無い。
昨日と同じく西側から大慌てで援軍を送ろうとしているところを、張遼がその側面に攻撃を仕掛ける。
これもやはり曹操軍にとって想定外だったらしく、激しく狼狽していた。
もしかして、と言う考えが張遼の頭をよぎる。
曹操軍は本当に泰山からの攻撃が来る事を想定していなかったのではないか。
泰山側から出来る事と言えば、曹操軍の意識をこちらに向けての篭城戦くらいしか出来る事が無い事は、曹操軍の軍師であれば読み切る事が出来るだろう。
読み切ったからこそ、今日は露骨に罠の気配を漂わせる事で泰山の兵力を閉じ込める事が出来ると踏んだのではないか。
実際に張遼や臧覇達は罠である事を警戒していたし、今でも罠である事を疑っている。
それでも部隊全員が芝居の達人と言う事は無いだろうし、混乱し狼狽する姿はとても仕込みとは思えなかった。
これは、曹操軍の読み違えではないか。
曹操軍の軍師の能力は極めて高い。
だからこそ、泰山の兵力では昨日の戦果以上の事は期待出来ないし、何より少ない兵力で無理に曹操軍の大軍にけしかける事の危険は見返りに釣り合わないと考えたのかもしれない。
それはその通りで、いかにも文官らしい考え方でもある。
そうは言っても軍事を司る軍師である以上、その考え方が間違っているとまもなく気付く。
それまでが勝ち時だ、と張遼は判断した。
まったく別の戦場で、臧覇も同じ考えに行き着いた。
張遼は豪胆ではあるものの、必ずしも攻める事のみを考える武将ではない。
また臧覇にしても慎重な性格であり、本来であればこの様な判断には行き着かなかっただろう。
自分達だけでなく、本城の呂布軍自体が極めて劣勢な状況下にあって奇跡的に起きた好機であり、ここで勝たなければ次の好機は訪れないと言う焦りもあった。
この判断こそ郭嘉の仕掛けた罠である事を、見抜く事が出来なかったのである。
その事に遅ればせながら気付いたのは、僅かな差ではあるものの張遼だった。
張遼が戦っている相手は楽進で、楽進は下邳攻めの西側を任される程の武将であり、昨日の奇襲を受けた際にも無理な応戦をして被害を出す事を良しとせず、勇気ある撤退と言う判断を迅速に下せる能力の高さを見せた。
しかし。今日の敵にはそれがない。
例え今日は泰山方面から敵が来る事は無いから下邳攻めにのみ集中せよ、と軍師から命令されていたとしても戦場では何が起こるか分からない事くらい、楽進であれば知っているはずだった。
今戦っているのは、もっと経験の浅い別の武将だ。
それに気付いた時、張遼は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。
「全軍、追撃を止めよ! 急ぎ南下して臧覇軍と合流する!」
勝ち時と見ての攻勢から真逆の判断だったが、張遼が率いているのは徐州兵による呂布軍ではなく生え抜きの精鋭である。
二十代の張遼は武将としてはまだ若い部類に含まれるが、それでも呂布と共に絶望的な戦場へ出向いて生き残ってきただけの能力と実績があり、年上の兵士であっても指揮官としての判断を疑う様な事は無い。
目の前の勝利を捨ててでも転進する張遼軍の背後から、曹操軍の別働隊が現れた。
「どこへ逃げる、呂布軍の片割れよ!」
「夏侯……惇だと?」
張遼は自分の目を疑った。
「曹性に目を射抜かれたのでは無かったのか!」
「片目程度でこの夏侯惇を討ったなどと思われては困る。晏明よ、まだお前の手に負える相手では無かったな。もう少し子廉の元で修行してこい」
夏侯惇の別働隊は数も多く、その士気も高いと見た張遼は戦おうとせずに南下する事にした。
出来る事なら泰山方面に逃げ込むべきなのだが、それだと夏侯惇の部隊から側面に突撃される事を嫌ったのである。
「戦わずして逃げるか、臆病者め!」
夏侯惇は逃げの一手の張遼に叫ぶ。
戦おうと思えば、夏侯惇とは戦える。
しかし、それは意味がない事を張遼は知っていた。
ここで夏侯惇と戦った場合、先に戦っていた晏明と言う無名の武将はともかく次は本当に楽進がやってきて取り囲まれる事は目に見えている。
また夏侯惇の騎馬術も悪くないにしても、速度や練度で言えば張遼の方が上であり、全力で逃げられた場合に追えない為に少しでも足止めしたかったのだ。
一方、臧覇も遅ればせながら罠に気付いた。
張遼と同じく、あまりにも敵が脆すぎる事に強烈な違和感を覚えたせいである。
「しまった、罠だ! すぐに泰山に戻る!」
臧覇がそう命じた時、混乱し狼狽する敵陣の中から明らかに別格の風格を備えた軍が自陣を切り裂く様に臧覇の前に現れた。
その武将の事なら、臧覇もよく知っている。
「夏侯淵将軍? ここは夏侯恩将軍の持ち場では?」
「昨日いいようにやられてしまったので、今日は監督も込で俺が来たと言うわけだ。お手柔らかに頼むよ」
夏侯淵はそう言うが、兵力が十分あるならともかく少数の奇襲部隊で曹操軍きっての勇将夏侯淵の部隊と戦うのは、勇敢ではなくただただ無謀なだけである。
「しかし、傑には早すぎたな。やはり恩くらいでないと相手も務まらないか」
夏侯淵はそういうと、さっそく弓を構える。
どうやら今まで戦っていたのは夏侯恩ですらなく、別の夏侯傑と言う若手武将だったらしい。
種明かしされれば道理でと思うのだが、それを今更知ったところで無意味である。
臧覇はすぐに泰山方面へ撤退しようとしたが、そちらには別の曹操軍の部隊が迫っていた。
小沛を釘付けにする為に出ていた孫観の部隊だったが、すでに小沛の外に出て兵を伏せていた満寵の部隊に打ち破られ、孫観の部隊は泰山に退いたが満寵の方は孫観を追わずに臧覇の退路を遮断しにかかったのである。
泰山に退けないのであれば、ここは張遼と合流するしか生き延びる手段は無い。
そう判断した臧覇はすぐに行動に移る。
この場で夏侯淵と戦う事はせず、張遼のいるであろう方向に兵を走らせたのである。
同じ判断をしていた張遼の軍はすぐに見えてきたが、二人は話し合うでもなく一計を案じた。
このまま合流したところでこちらの兵力以上に敵の兵力が集中するだけで、勝てる見込みは少ない。
それであれば別のやり方で泰山に撤退するしかない。
そこで張遼は臧覇と合流せずにすれ違い、逆に追撃してくる夏侯淵の部隊の先陣に横槍を入れる様に突撃したのである。
思わぬところからの攻撃に夏侯淵は部隊の足を止めると、張遼はそのまま夏侯淵の部隊をやり過ごし、臧覇の退路を遮断しようとしていた満寵の部隊に襲いかかる。
この隊は最初から孫観の囮部隊を蹴散らし、臧覇の退路を遮断する動きを見せる為の部隊だったので数が少なかった。
張遼はそこまで見越していた訳では無かったが、結果として満寵を退けて泰山へ撤退する事に成功した。
一方の臧覇は張遼とすれ違い、迫ってくる夏侯惇の軍に向かう動きをする。
完全にイチかバチかの賭けだったが、臧覇や張遼が考えた様に泰山にいる尹礼と少年も同じ狙いが見えていたらしい。
南下する夏侯惇軍の側面に、尹礼が率いる少数の泰山の部隊が攻めかかったのである。
数は少ないといっても横合いから攻められるのは良くないと思った夏侯惇は、無理に攻めるのではなく泰山方面の伏兵に備えた。
その瞬間を見計らって、臧覇はすぐに泰山方面へ逃げ込み、尹礼も迎撃の備えを見せる夏侯惇に執着する事なく泰山方面へ退く。
こうして泰山方面の兵力は壊滅こそ免れたものの、惨敗を喫する結果となった。
張遼達が死力を尽くして戦って稼いだ時間は、僅か二日。
しかしこの二日の遅れが、曹操軍にとって想定外の事態を招く事になったのである。
今回のゲスト 夏侯傑と晏明について
今回ダメダメ武将として特別出演して頂きました。
二人とも演義で一瞬だけ出てくる武将で、この物語の中の架空の人物ではありません。
まあ、演義内の架空の人物ではありますが。
どちらも長坂の戦いで一瞬出てくる武将で、晏明は逃亡中に宝剣を強奪した趙雲から試し斬りされる武将として、夏侯傑は橋の上で張飛が怒鳴った際にびっくりして落馬した武将として『だけ』出てきています。
夏侯傑に関しては夏侯覇と同一人物説があるみたいですが、それは無いでしょう。
この話の中では夏侯傑と夏侯覇は別人です。
と言うより夏侯覇出てこないし。
夏侯覇が活躍する時代まで書いていたら、呂布とか何歳だよって話になってしまいますので。




