第二話
「集まったか?」
高順は部屋に入るなり、顔ぶれを確認しながら尋ねる。
「侯成がまだだ」
「侯成なら、軍師に呼ばれていたぞ」
魏続が答えたのだが、成廉が付け加える。
「殺されるな、あいつ。余計な事を言ったから」
魏続は鼻で笑う様に言ったが、それについては誰も何も言おうとはしなかった。
確かに侯成の言葉で呂布は厳氏の元へ走り、しかもその厳氏は倒れて現在医者に診てもらっている。
しかし、帝都であった長安や百歩譲って徐州城であればともかく、小城である下邳城では名医など期待できるはずもなかった。
それでも北の防衛拠点となる予定だった城なので医者自体はいた事だけは、幸運と言えただろう。
この時代の医者は占い師より身分や扱いが低い為、よほど大きな城や街でもない限り医師と言うものがいないと言う事はさほど珍しい事でも無いのである。
名医とまでは言えないにしても、下邳城にいた医師の腕は確かなものだった。
その医師が言うには過労から来る心身の衰弱と言う事だったので、充分な休養を取れば元気になるだろうと言う事だったが、並の弱り方ではないので絶対安静にする様にと念を押されたほどである。
「しかし、陳宮の言い草ではないが、いかに奥方とは言えこの一大事に女一人にかまけている場合では無いだろう。猛将呂布ともあろうものが情けない」
郝萌が淡々と呟く。
「奥方様を悪く言うものではない」
これまで共同歩調が目立っていた宋憲だが、ここは諌める様な口調で郝萌に言う。
「あのお方がいたからこそ、我々は徐州に入り込む事が出来たのだ」
「だが、女一人である事にかわりはあるまい。今は曹操軍十万から攻め込まれようとしているのだぞ? いかに陳宮が言う様に地の利があろうと、この様な小城で数十倍もの敵を相手に守りきれるはずも無いだろう」
郝萌は口調こそ事務的なものの、強く否定してくる。
実数こそ定かではないが、入ってきた情報では曹操軍は総数十万もの大軍でこの下邳城に攻めかかってくると言う。
それに対して城の中の兵の総数は五千前後。
もしその大軍全てが押し寄せてきたら二十倍もの兵力である。
一般的に攻城戦では攻める側は守る側の三倍の兵力を必要とすると言われているが、三倍どころか十倍くらいは簡単に動員出来そうな兵力差があり、郝萌でなくとも絶望的な気持ちになる。
「もはや勝敗は決したのではないか? それであれば無用な戦いに命を捨てる事無く降伏するべき時だと思うのだが」
「なるほど、袁術軍の武将らしい意見だな」
成廉が嘲笑する様に、郝萌に向かって言う。
成廉と郝萌は呂布軍でこそ同じ八健将に数えられているが、その仲は高順と陳宮など比較にならないほどに険悪である。
それは元々が敵同士であり、そのわだかまりを解消出来ていない事にも原因があるのだが、成廉にしても郝萌にしてもその解消に尽力する様な事はしていない。
その一方で成廉の相棒だった魏越が殺された原因となった袁紹軍に所属していた宋憲とは、さほど険悪と言う訳ではない。
郝萌と違って宋憲はさほど高圧的と言うわけでもなく、また宋憲も袁紹軍の策謀によって立場を追われた被害者である事を、成廉も知っているからだった。
「仲間同士でやりあっても無益でしょう。ですが、郝萌の言う事にも残念ながら一理ある。決断するべき時なのかも知れないのは事実です」
宋憲は厳しい表情で言う。
これまで事務職を無理矢理やらされていた宋憲だからこそ、この絶望的状況を客観的に捉える事が出来ていた。
いつか最前線になる恐れのある城なので、武具類は豊富に揃えてある。
中でも弓矢は十分すぎる程にあるので、それによる防衛力は低くない。
しかし、そもそも守るべき北側でなく南側からの侵攻を想定されていない事もあり、陳宮は南にも西にも万全の備えがある様に言っていたが、宋憲にはとてもそうは思えなかった。
また、兵力も守りきるには不足している。
呂布は自ら率いていた徐州兵達も、同郷の者とは戦えないだろうとして解散させていた。
さらに今や呂布軍と徐州軍が別組織となっている以上、守備要員として配置されていた下邳城の兵士も無理に留める様な事はせず、徐州兵と戦える者だけを残している。
いかにも呂布らしい温情だと言えなくもないのだが、お人好しも度が過ぎると言わざるを得ない。
これに対して陳宮が反対しなかった事が、宋憲には信じられなかった。
本来であれば呂布軍の率いている兵は二万を下回る事は無かったはずが、五千にまで減っているのを良しとしている現状にこそ最大の問題がある。
そう言う意味では郝萌の発言も、宋憲の中では有り得ない提案では無い。
「最古参の高順はどう思っているんだ?」
成廉が高順に尋ねる。
「降伏、か」
高順はそう呟くと、小さく笑う。
「これから力を合わせてどう戦うかを話し合おうと思っていたんだが、まさかそんな事を考えていたとは。いや、少しお前達を侮っていたのかもなぁ」
高順は呆れ気味に言う。
「いや、そう言う事だから奥方様も過労で倒れられたのか。俺達が心配だったのかもな」
「あの方はお優しい方だからな。自分は何も出来ない事を悔いていらっしゃるから、何かしたいと思って無理されていたのだろう」
高順と同じく徹底抗戦の構えを見せる成廉も、高順に賛同する様に言う。
「主張としては分かる。奥方様に心配をかけた事も詫びるつもりもある。しかし、現実的に考えて勝てる見込みはあるのか? 無為無謀な戦いに兵士達の無数の命を賭ける事が正しい事なのか?」
降伏に対して積極的に賛成と言うつもりは無いかもしれないが、それでも宋憲は高順と成廉に向かって尋ねる。
「戦うからには勝つ、あるいは勝てる見込みがあるんだろうな?」
降伏を主張する郝萌は、強気に押してくる。
「面白そうな話をしているな。私も参加させてもらおう」
そう言って部屋に入ってきたのは、陳宮と侯成だった。
「侯成、生きていたのか?」
「はい?」
驚く魏続の言葉に、侯成も驚かされる。
「てっきり陳宮から切られたとばかり……」
「何故私が侯成を切らねばならない。侯成には情報の確認が必要だったから詳しく話を聞いていたところだ」
陳宮はそう言うと、郝萌と高順を見る。
「話の内容の確認をさせてもらうと、郝萌は降伏を、高順は抗戦を望んでいると言う事で間違いないな?」
「ああ、軍師の考えはどうなんだ?」
高順は挑む様な目を陳宮に向ける。
「ふむ、私の考えか」
陳宮はそれに恐れる様子も無く、軽く腕を組んで考える。
「私の考えの前に、現状で分かっている限りの情報をここで提供しよう。その上で全員の意見を聞きたい。それで良いか?」
陳宮はそう言うと周囲を見回す。
声には出さないものの、全員が頷く。
「降伏を主張する者には朗報かもしれないが、援軍で来るはずだった袁術は動かない。これによって南から曹操軍に圧力をかけ兵を分散させる事は出来なくなった。張遼は臧覇と合流したらしいが、泰山にて曹操軍の兵に包囲されこちらに来る事は困難だろう」
陳宮の報告に、高順は苛立ちを募らせながら、しかしそれでも口を挟まずに黙って聞いている。
「さらに私の必勝を呼び込むはずだった策も、呂布将軍が出られないと言う事で水泡に帰する結果となった。これによって、我々の勝利は無くなったと言っていいだろう」
「……耳障りな事を長々と話していたが、結局のところ軍師も降伏を主張するわけだな?」
「いや? そんな事は微塵も考えていない」
怒りを押さえるのが困難になってきた高順に対し、陳宮は不思議そうに首を傾げる。
「今、我々の負けだと言ったではないか!」
高順ではなく魏続が、陳宮に向かって吠える。
これまでの会話には特に参加したり発言したりが少なかった魏続だが、何故か陳宮に向かっては強気に出る。
「私は負けだなどとは一言も言っていないはずだが?」
「今言ったではないか!」
「勝ちは無くなったとは言ったが、それがすなわち敗北だと決め付けるのは短慮が過ぎるな」
陳宮は呆れながら、魏続に向かって言う。
「どう言う事かな、軍師殿。浅学な我々にも分かるように説明していただきたいのだが」
今にも斬りかかりそうな高順を抑え、それでも不快そうに成廉が陳宮に向かって言う。
「分かりやすく勝つ、と言うのはつまり敵を打ち破る事であり、それによって周囲にも我々呂布軍が曹操軍に勝利したと認識させる事にもなる。しかし、残念ながらそれは望めなくなった。だが、我々は勝てなくなったと言うだけで、負けない事は出来る。これまで何度も言って来た事ではあるが、我々は窮地に立たされている事は間違いないにしても、曹操軍にも悠長に攻略するだけの時間が無い事には変わりないのだ。これから一月とせずに本格的な冬に入る。曹操軍には冬を越える準備は無く、冬が来る前にこの城を落とす事ができなければ撤退せざるを得ない。そこは分かっているな?」
陳宮は鋭い目を周囲に向ける。
年齢を感じさせない美貌の持ち主である陳宮だが、その迫力はこれまで実戦を重ねてきた高順と比べてもなんら遜色が無い。
陳宮に対して怒りの熱を上げていた武将達も、一気に冷めて冷静さを取り戻す程である。
「私の見たところ、現状ではまだ互角と言える。確かに数の上では絶望的に曹操軍の方が上ではあるが、我々には地の利と天の時が味方している。勝つ事は無理にしても、負けない事ならば十分に可能だ。その上で降伏か抗戦かを話し合う必要があるだろう?」
「軍師、呂布将軍が無理だと言うのであれば俺が伏兵に出ても良い。それでも充分な戦果を見込めるのではないか?」
高順が提案するが、それに対して陳宮は首を振る。
「心意気は買うが、この策を必勝とするのは呂布将軍の人智を超えた武勇と赤兎馬と言う千年の駿馬、さらに圧倒的武名による敵兵の萎縮が噛み合ってこそ成功するもの。高順の武勇が呂布将軍に匹敵するものだったとしても、赤兎の様な駿馬でもない限り敵中から切り抜ける事は至難であり、陥陣営と飛将軍では敵の萎縮の度合いも違う。これは高順だからと言う訳ではなく、呂布将軍以外では成功し得ない策だ。それに、高順には別の仕事をしてもらう必要がある」
「ほう、それは?」
「西の守りだ」
陳宮は城の絵図を机の上に広げる。
「敵の攻撃は南と西に集中するが、だからと言って北と東を空ける訳にもいかない。私なりに守る為の戦の配置を考えているのだが、降伏すると言う事で話がまとまっているのであれば、時間の無駄になる。どうするつもりだ?」
「それは軍師の策次第では? 荒唐無稽な机上の空論であれば、従う事は出来ないでしょう」
さすがに徐州城で共に事務職をこなしていた宋憲なので、かなり言難い事まで言う。
「それもそうだ。では説明するが、まず西門の守りには高順を備える。先ほども言ったが、西にも攻撃が集中する事が予想される。その為にも武勇に優れた者が必要なのだがそれ以上に西側には張遼と臧覇がいる。あの二人が素直に泰山に篭っているとは考えにくい。何かしらの動きを見せるはずなので、高順はいかにもそれと連携している様に動いてもらいたい。それが出来るのは、張遼と臧覇の二人をよく知る高順だけだろう」
陳宮が言うと、高順は反対する事はせずに頷く。
「北には成廉と宋憲を」
「何? その様な閑職に回すのか?」
成廉はそう言ったが、陳宮は首を振る。
「主戦場は南と西になるだろうが、曹操軍は奇策を用いる。その場合、必ず北側から何かしらの手を打ってくる。それにいち早く気付く事が出来るのは、これまで劣勢の戦いを強いられる事の多かった成廉と、袁紹軍で十分な軍略を身につけてきた宋憲が適任なのだ」
そう言う風に言われると、成廉も口を出し難い。
「東は魏続と郝萌。もし徐州軍が参戦してくる場合、東から来る事は十分に考えられる。それに徐州軍も一枚岩では無い。もし徐州軍が分裂してこちらに協力したいと言う兵が来る場合にも東から来る事が予想される。その見極めは、一時的にとはいえ徐州城の留守を任せた魏続と袁術軍で兵を見てきた目を持つ郝萌にこそ相応しいと私は判断しているのだが、どうだ?」
「高く評価していただいているようだが、軍師殿はどこを守るおつもりで?」
郝萌が陳宮に尋ねる。
「私は南門を受け持つ。侯成は伝令として、私の指示を各門に届ける為に走り回ってもらうつもりだ」
「女がその様な重責を担うと?」
郝萌の言葉に、陳宮は鼻で笑う。
「この際、男も女も関係ない。曹操軍の奇策に対して対抗出来るのは、呂布軍では私だけだろう。何か仕掛けるとしたら北からだろうが、それを指揮する軍師達は必ず南にいる。奴らから目を離すわけには行かないと私は思っているのだが、責任を持てると言うのであれば郝萌将軍にお任せしようか」
そう言われては、郝萌も言葉を飲み込むしかない。
「呂布将軍が前線に戻られない以上、これが私が打てる最高の布陣だと自負している。しかし、それでも互角であると言うのが私の予想だが、まだ降伏の意志がある者は申し出て私を納得出来る説明をして欲しい」
陳宮の言葉に、降伏を主張していた郝萌やそれもやむなしと理解を示していた宋憲も、何も言えずに押し黙る。
「陳宮、お前にはまだまだ色々と納得がいかないところもあるし、言いたい事も山ほどある」
高順は陳宮を睨みながら言う。
「だが、全てはこの一戦を終えてからだ。それまでは軍師の差配に従い全ての指示に従おう。存分に使ってくれ」
そう言って、高順は陳宮に頭を下げて礼をとる。
陳宮に対してもっとも敵対意識を表に出していた高順が真っ先に陳宮に対して頭を下げたので、他の八健将の面々も同じように従う。
陳宮は高順の肩を叩き、その耳元に口を寄せる。
「呉越同舟か。さすがだな」
「やるからには負けるつもりはないぞ」
小声で囁く陳宮に、高順もそう返した。
軍師は大変
以前武将と軍師が結構噛み合わずにやり合っている事が多いと言う事をちょっとだけ触れましたが、実際には君主とやり合っている事の方が多いです。
と言うより君主とやり合っていない軍師と言うのが、在任期間が短かった孫策と周瑜くらいで『水魚の交わり』とまで言われた劉備と孔明もやり合う事が多かったようです。
と言うのも、軍師には強行型の人が多く
「いいから、俺の言う通りにしろぉ!」
と、まるでジャック・バ○ワーみたいな押しで献策するものだから、そりゃ揉めますよ。
演義では特に顕著で、周瑜や田豊などは軍師と言うより激烈短気なブラック企業のワンマン社長級です。
演義での例外と言えるのは魯粛と諸葛瑾くらいで、あとの人達は謙虚そうな荀彧や孔明でさえ結構こんな感じですから。
が、もちろん軍師と言うのはそう言う人種に務まる役職ではありません。
それくらいの強さは必要だったでしょうが、正史での印象では周瑜はもちろん孔明や司馬懿ですら謙虚に振舞っていたみたいです。
今回の陳宮の様に相手を褒めて誘導すると言う事の方が、基本的には多かったのではないでしょうか。




