大地を血に染めて 第一話
第二話 大地を血に染めて
曹操軍出陣の報を受け、徐州も慌ただしく動き始める。
曹操軍は先鋒だけで五万、それを率いるのは大将が夏侯惇、副将が夏侯淵と本気が伺える布陣である。
「小沛の城は守るに適しているとは言え、成廉達であったとしても小沛だけで防ぎきれる様な事はありません。むしろ小沛に篭っては向こうの思うツボ。ここは我々も出陣して援軍に向かうべきです」
「有効な策はあるのか?」
呂布の質問に陳宮は頷く。
陳宮の予想では、小沛に置いた成廉達は小沛に篭って曹操軍を迎え撃つ様な事はせず、野戦にて曹操軍に遅滞戦を挑むと言う事だった。
もちろんその戦い方では成廉達の兵力だけで曹操軍を抑える事は出来ないので、急ぎ援軍に向かう必要がある。
援軍には呂布軍の武将のほとんどを動員する事になり、兵力も徐州軍の大半を出撃させる事になった。
留守は魏続に任せ、副将に侯成と兵力を五千ほど残す。
「侯成、お前にも策を授けておく」
陳宮が侯成を呼び出す。
「……俺ですか? 魏続将軍じゃなくて?」
「お前だ。秘中の秘であるが故に、誰にも明かしてはならぬ。魏続や徐州の臣下はもちろん、奥方にも姫君にも明かす事は許さぬ」
「……分かりました」
陳宮のただならぬ迫力に、侯成は息を呑む。
先行して出撃する張遼は最短距離で小沛の援軍に向かうと言うのではなく、泰山経由で臧覇と共に曹操軍の側面を狙う事になっている。
「大回り? それで大丈夫なのですか?」
張遼はさすがに不安になる。
「いかに文遠でも、真正面から曹操軍にあたっては飲み込まれるだろう。お前の速度があれば曹操軍の正面からより、側面から攻撃する方が効果的だ」
「分かりました」
「臧覇と連携を取れば、十分な戦いが出来るだろう。だが、無理はするなよ」
呂布の言葉に張遼は頷く。
「……は?」
「詳しくは聞くな。それに空振りになる恐れもある。もちろん空振るに越した事は無いのだが、最悪の場合に備えての事。頼んだぞ、侯成」
「……俺で大丈夫でしょうか?」
「お前しかいないのだ。頼むぞ」
陳宮はそう言うと、呂布と共に出陣していく。
先行した張遼のあと、呂布や陳宮の他、宋憲や郝萌もそれぞれに出兵して、徐州城には徐州の臣下の他には魏続と侯成、呂布の家族が残るだけとなった。
「侯成は行かなくてよかったの?」
練習用の木槍を振り回しながら、蓉が侯成に尋ねる。
「留守番です。さすがに誰も残らない訳にはいかないでしょうから」
「私がいるのに」
「いやいや、姫様にそれを任せるワケにはいかないでしょう。嫁入り前なんですから」
「あ、そうだった。私、嫁に行くんだった。すっかり忘れてた」
きょとんとした表情から、蓉は本当にその事を忘れていたらしい。
「でも、今の状況でソレって上手く行くのかなぁ?」
「今の状況だからこそ、姫様には上手くやってもらわなければ困ります」
「んー、まぁ多分戦えば私の方が侯成とか魏続より強いだろうけどね」
「ははは」
侯成は苦笑いする。
蓉はその容姿に似合わず、父親譲りの戦闘能力と戦術眼を持っている。
これに関しては蓉が自意識過剰と言う訳ではなく、侯成自身も少なからずそう思っているところでもあった。
しかし、さすがに蓉を戦場に立たせるワケにはいかない。
「でも、本当に大丈夫? 魏続のヤツは最近オヤッさんのところによく出入りしてるみたいよ?」
「オヤッさんのところに?」
侯成は驚きを隠せずに尋ねる。
陳珪は徐州の臣下の中では重鎮の中の重鎮であり、他の誰よりも影響力を持つ人物でもある。
見るからに好々爺で温和な人物に見えるのだが、その実陶謙の参謀として辣腕を振るってきた人物でもあった。
その人物と会っていると言うのも、ただそれだけであればさほど気にする事でもない。
それに今の留守を預かっている立場であれば、その留守の為の相談として連絡を取り合っているとしても不思議な事ではない。
が、それを副将である侯成が知らないと言うのは問題があるのではないか。
「姫様、それは誰から聞いたんですか?」
「んー? 女官達の間ではわりとよく聞く話よ? ほら、独身で出世枠だし」
「……ああ、なるほど」
呂布軍の独身で出世枠の筆頭は張遼なのだが、多忙な張遼はほとんど徐州城に留まる事無く徐州を走り回っている。
そんなワケで次点の魏続が候補に上がっているらしい。
ちなみに侯成も時々声をかけられたりするのだが、やはり呂布の親族と言う肩書きが強いのか、魏続ほど噂になる事はなかった。
「オヤッさんと魏続さんが、何話してるんでしょうか」
「さぁねぇ。魏続ってどうにも胡散臭いからさぁ」
蓉の率直極まる感想だが、最近では侯成もそう思わないでもない。
侯成としては袁術の領内でくすぶっていたところ、魏続のツテで呂布軍に入る事が出来たので恩があるのだが、最近ではどうにも魏続の事を色々と疑ってしまう自分がいた。
まだ少年だった頃からそう言うところはあったのだが、呂布の親族と言う後ろ盾は大きかったものの、今となってはそれが大きくなり過ぎて魏続自身がその事に押し潰されそうになっている。
侯成は一応徐州の留守を任されている副将と言う立場なのだが、実際には徐州の留守と言うより呂布の家族を警護する事が最優先の任となっている。
これは特に誰に言われた事でもなかったが、これまで呂布軍最古参でもっとも武勇に優れた人物の一人である高順がその地位を捨ててでも守っていた事もあり、誰もが知る天下無双の猛将呂布の弱点でもある。
それを守る事こそ、呂布が戦場で全力を出せると言うものである。
それは侯成も自覚しているのだが、それだけに他の事より呂布の家族を守る事を優先しているからこそ、情報の入りも遅くなってしまう。
もし陳宮であれば両立出来るのかもしれないが、侯成にそこまで器用な事は出来なかった。
そして、呂布達が出撃して数日後、事態は大きく動く事になった。
「侯成、少し良いか?」
相変わらず呂布の家族の警護を最優先していた侯成のところに、袁術のところへ使者として出向いていた孫観がやって来たのである。
「孫観殿、戻られたのですか? 数日前に呂布将軍は……」
「話は後でゆっくりやろう。だが、今はどこか人目の無いところで話せないか?」
「人目のないところ?」
基本的に呂布の家族のところには女官などが出入りしているので、完全に人目の無いところと言うとここを離れなければならない。
「出来るだけ時間は取らせない。お前の耳には入れておこうと思ってな」
「俺に?」
「陳宮軍師から出発前に言われていてな。徐州の留守中で家族を守らせるのは侯成だから、自分達がいなければ侯成に報告しろと」
それはそれで凄い重圧でもある。
しかもその緊迫した表情から、あまり良い話では無い事もわかる。
と言うより、良い話であれば人目を避ける必要が無い。
「悪い話、ですか」
「最悪だ。袁術は陳宮軍師が想像していた以上の腰抜けの愚者だ」
孫観は袁術のところに出向き、呂布の娘と袁術の息子の婚姻を呂布が承諾した事を伝えに出向いた。
袁術軍の参謀達は大喜びしていたのだが、そこに曹操が徐州へ侵攻した事と言う知らせが入って来た。
浮き足立つ袁術軍にあって孫観一人が冷静であり、出陣した曹操軍が五万を数えると言うのであれば呂布の娘を迎える為に兵を出し、曹操軍の側面から大打撃を与える事で花嫁への贈り物としましょうと提案した。
猛将呂布の気を引くのであれば、それがもっとも効果的だと言ったのだが、袁術軍の混乱ぶりはそれどころではなかった。
兵はいても率いる武将がいないと言う事だったので、孫観は袁術の息子に兵を持たせればいいと言った。
曹操軍は精強とは言え側面を突けば誰が率いていたとしても、ただ兵を突撃させるだけで充分過ぎる武勲を挙げる事が出来ると孫観は言ったのだが、袁術軍の参謀は聞く耳を持たなかった。
何しろ呂布と戦う為に出した軍である。
例え側面を突いたとしても、すぐに対応するだけでなく反撃に来る。その場合、皇太子に何かあったらどうするのだ、と大騒ぎになった。
なれば、兵を挙げて曹操の拠点であり漢の皇帝がいる許昌を狙うのはどうか、と提案する。
徐州にほとんどの兵を出しているのであれば、許昌の守備兵は極小数。
もし袁術がまだ仲王朝を名乗っているのであれば、漢の皇帝をそのままにしておくわけにはいかず、曹操としても拠点を狙われては兵を引かざるを得なくなる。
そうすれば曹操の後背を呂布軍が攻めかかる事となり、曹操軍は大敗する。袁術軍はただ兵を出して許昌に向かうだけでいい。そうすれば呂布に対してこれ以上ない恩を売る事が出来る、と。
だが、それでも袁術軍は腰を上げなかった。
曹操は許昌に向かったと言っても、留守を任されているのは曹操軍きっての知将である曹仁であり、どの様な奇策を用いてくるか分からないと騒ぎ立てる。
また、奇策に優れた曹操の事。徐州を攻めると見せかけて、こちらが兵を出したらそれに合わせてこちらに攻め込んでくるつもりかも知れないと騒ぎ、孫観の主張を跳ね除けてきた。
最終的に袁術軍の言い分は、こちらから兵を出して欲しければ、まずは呂布軍から娘を差し出せと言う事だった。
「何を馬鹿な! 姫様を袁術軍に送るにも曹操との戦を終わらせてからになるでしょうし、それより何より、孫観殿の言う通りに兵を出せば勝機は充分過ぎるほどあるでしょう! 何故そんな事が分からないのです?」
「袁術軍の参謀と立派な肩書きがあっても、所詮生まれが良いだけで結果論だけで善し悪しを我が物顔で喋る事しか出来ない程度の連中だ。侯成、お前でも仲王朝だったら大将軍も目指せそうだぞ」
「ご冗談を。それより、袁術の援軍は期待出来ない、と?」
「そう言う事だ。それを知られたら、徐州軍からも離反者が出るぞ。気をつけろ。いや、もしかするともう離反の準備も進めているかもしれない。陳宮軍師はそんな馬鹿な企みには参加しないだろうと踏んで、侯成に将軍の家族を預けたんだろう。逆に言えば、お前以外は寝返る恐れがある事を陳宮軍師は警戒しているはずだ」
孫観の言葉に、侯成は息を呑む。
陳宮は確かにそれを恐れていた。
そして、それが既に動き出している事も予見していた。
故に、侯成に秘中の秘として伝えている。
「孫観殿はこれからどうするのです? ここで呂布将軍のお帰りを一緒に待っていただけると心強いのですけど」
「何を子供じみた事を。お前も『あの』陳宮軍師から見込まれた一人だぞ?」
気弱な事を言う侯成に、苦笑いしながら孫観は言う。
「俺は臧覇のところに戻る。俺からの伝令は、確かに侯成に伝えたぞ。呂布将軍と陳宮軍師に間違いなく伝えてくれ」
「……わかりました」
仕方なくとは言え、侯成は頷く。
「ここが正念場だな。あの陳宮軍師が袁術の援軍に全てを頼りきっているとは思えないから、まだまだ何か手はあるはずだ」
孫観は侯成を励ます様に言う。
「その事ですが、軍師から秘中の秘として指示を受けています。陳宮軍師は……」
「待て、侯成。秘中の秘であるのならば、俺にも話してはいけないだろう」
話そうとする侯成を、孫観は遮る。
「俺とて何に目がくらむか分からない。もし売れる情報を手に入れた場合、魔が差すと言う事は十分にありえる事だ。だが、知らなければ売りようがない。そうだろう?」
「そうでした」
「まだまだ波乱はありそうだ。気を引き締めておけよ」
孫観はそう言うと、徐州城を去っていく。
侯成は孫観を見送ると、蓉や厳氏の元へ行く。
「侯成、どうしたの?」
「実は、お願いしておきたい事がありまして。もしかしたら無駄になるかも知れませんが、早いうちから準備しておこうかと」
きょとんとする呂布の家族に対して、侯成はそう切り出した。
この時代の婚活事情
詳しい事は史実にも記載が無いと思うのですが、徐州時代には張遼も侯成も結婚して妻子持ちだったと思われます。
日本の戦国時代もそうなのですが、この頃の結婚適齢期はおおよそ十代中頃辺りで張遼や侯成は生まれも武家の生まれなので、既に複数人の妻を持っていても何ら不思議ではありません。
またココでは張遼も侯成も若手として書いていますが、実際には張遼は関羽よりちょっと年下くらい、侯成も同年代だったと思われます。
関羽が徐州時代に関平や関興と言う息子を持っていた事を考えても、作中で言っている様に張遼や侯成が独身だったとは考えにくいところがあります。
こんな事になるのも、この時代は想像を絶するレベルで男尊女卑ですので、よほどの何かが無い限り武将の妻の側が歴史に名を残す事が極めて稀だったので、張遼や侯成だけでなく後に神格化する関羽や趙雲などの奥さんも謎に包まれていて、趙雲などは後に創作されるレベルで何も残っていないみたいです。
そんな女性に基本的人権が無い様な、今のフェミニストが当時にタイムスリップしたら発狂して血管ブチギレそうな扱いを受けていた時代の婚活は、文字通り死活問題でした。
少なくとも今の様に年収がいくらで、育児を手伝ってくれてなどの条件をつける事は不可能だったでしょう。
中には李傕や郭汜の妻の様に、旦那をアゴで使っていた様な人物もいた様ですが、そんな恐妻家な方々のところでさえ歴史に残る名前は○○氏というみたいに姓のみしか残って無い状態です。




