第二話
「ふー、さっすが文遠ね。やっぱり侯成とは違うわ」
蓉は汗を拭いながら、笑顔で言う。
最近は忙しく徐州を走り回っていた張遼が珍しく城にいたのを蓉が発見し、さっそく武術の鍛錬に付き合わせていたのである。
「姫様、侯成とて姫様に怪我をさせないよう加減しているのですよ」
張遼は自身がいない時に蓉の鍛錬に付き合わされている侯成の為にも、そう言う。
見た目には美少女の蓉なのだが、彼女の世話役と言うのは周りが思っているほど楽な仕事でも、役得でも無い。
その理由は、蓉の性格によるところが大きい。
美男美女の両親から受け継いだ恵まれた容姿は良いのだが、柔和で温厚な両親のどこを受け継いだのか、蓉は非常に好戦的で中身だけ猛将として生まれてきてしまったらしい。
そんな生まれ方を間違った蓉は、とにかく己の武勇を高める事に価値観を見出しているらしく、他の令嬢達が興味を示す事にはまったく無関心なところが目に付く。
特に衣服に関する興味が薄く、同年代の少女達が美しい着物などに目を奪われている中、蓉は美しい武具の方に目が行っている事の方が多い。
また素直で純朴で勤勉なところは親譲りであるものの、そんな性格で武勇の鍛錬を行っているものだから、蓉の身に付けている武勇は元々の天賦の才もあって同年代の少女達と比べるとまったくの別格で、多少腕に自信がある程度の成人男性であってもまったく歯が立たないほどの武勇に育っている。
さらに困った事に、蓉は呂布の一人娘である。
いかに本人が望んだ鍛錬であると言っても、主家の一人娘に怪我をさせる訳にはいかない。
父親であり古今無双とも称される呂布や、軍内でも指折りの実力者である張遼や高順ならともかく、それ以外の武将達では手加減抜きでも苦戦を強いられるほどだった。
そんな中で成長著しい侯成が蓉から指名を受ける事が多くなっているのだが、蓉にとっては張遼のいない間の妥協枠でしかなく、侯成の方も基本的には一方的に叩きのめされる役割が多くなるので、必ずしも望んではいない。
「そうなの、侯成?」
蓉が侯成に向かって尋ねる。
愛らしく首を傾げているが、ここで下手な答え方をするととんでもない目にあいかねない。
「姫、ここにいましたか」
侯成が答えに窮しているところに、陳宮がやって来た。
「軍師殿!」
と、真っ先に答えたのは侯成だった。
単純に助けられたと思っての事で、すぐに膝を付く。
「あ?」
「いや、そこは言葉遣いには気を付けないと」
露骨に敵意をむき出しにする蓉に対し、張遼は苦笑いする。
「だって、陳宮って私に結婚しろって言うのよ?」
「え? 結婚ですか? それはおめでとうございます!」
侯成は祝福の言葉をかけたのだが、蓉から睨まれる。
「まさにその事を話に来ました」
陳宮は相変わらずの冷徹振りで言う。
感情の起伏の激しい蓉と、どんな状況でも眉一つ動かさない様な陳宮では誰に目にも水と油の様なモノであり、陳宮がどう思っているかは分からないが蓉の方が陳宮をよく思っていないのは一目瞭然である。
「何よ、また袁術のところに行けって話?」
「少し違います。姫様の輿入れ先は袁術の息子であって、袁術自身ではありません」
「あの、俺達は席を外してましょうか?」
侯成が申し訳なさそうに陳宮に言う。
「あ? お前も文遠もいて良いって」
「……姫がそうおっしゃるのであれば」
陳宮としては気に入らないみたいだが、蓉が言うので侯成も張遼もこの場に残って良い事になった。
「いや。事は軍略の話であり、機密に当たる内容。俺達は外した方が良いでしょう」
「どうせ後から陳宮が話すんでしょ? だったらココで聞いてても問題無いわ」
確かに蓉の言う通りかも知れないが、それで良い事にはならないと張遼は思う。
「だいたい軍師の言う事だから、絶対に何もかも正しいってワケじゃないでしょ? おかしいとか間違っているとかだったら、どんどん指摘してやらないと」
蓉は張遼や侯成に噛み付く様に言う。
が、その意見自体は間違っていない。
むしろその通りである。
意外、と言っては蓉に失礼かもしれないが、鋭い意見に張遼も侯成も驚かされた。
「それにさー、袁術って落ち目だし、今更同盟とか言われてもさー」
「落ち目だからこそ、ですよ姫君」
とことん縁談が気に入らないらしい蓉は文句を言い続けていたのだが、陳宮が一息入れて言う。
「今落ち目だからこそ、姫が袁家を乗っ取ってしまうのです」
「……は?」
「袁家の乗っ取り?」
陳宮の提案が予想外だったのか、蓉だけでなく張遼も驚いている。
「何を驚く事がありますか。私は最初からそのつもりで姫に縁組を勧めるつもりでした」
「しかし、軍師殿。いかに落ち目とは言え、あの袁家。姫様一人で、しかも息子の輿入れに行った程度で乗っ取りを画策出来るモノなのでしょうか?」
張遼は首を傾げているが、それは張遼だけではなく陳宮以外の全員が思った疑問だった。
「今であれば簡単に出来る」
陳宮は頷いて説明する。
現状で調べる限り、偽帝とはいえ皇帝を名乗った袁術の皇太子には正室の他にかなりの数の側室がいて、同盟目的である蓉もそのかなりの数の側室の中の一人に過ぎない。
しかし、他の妻達と蓉では決定的な違いがある。
呂布と言う、規格外の武力を誇る武将の娘と言う後ろ盾である。
袁術は先の戦いで勇将、猛将の多くを失っていた。
袁家の名を持ってすれば兵を集める事は出来るが、その兵を率いる武将がいないのであれば、それはただの烏合の衆でしかない。
現時点で徐州一州のみを抑える呂布は、落ち目とはいえ勢力の大きさで考えれば袁術とは比べ物にならないほど小さな勢力である。
とは言え、質の高い武将の揃う呂布軍の存在は袁術にとっても喉から手が出るほど手中に収めたいモノであり、権謀術数に長けると自称する後宮入りしている女達にしても単純な腕力で蓉とどうにか出来るモノではない。
さらに言えば、呂布の娘に対して何か出来る様な度胸の持ち主が袁術の近辺にいるはずもなく、蓉は輿入れした時点で本来の正妻など比べ物にならないほど強い影響力を持つ事が出来るのである。
「袁術にとっても、この徐州で曹操を撃退する事は利益になります。また、皇太子に箔をつける為にも、おそらく大兵力を動員する事でしょう。姫君はその兵力を指揮する女武将として参戦して、この徐州に戻ってこられるもよし、そのまま袁家に留まり女武将として各地を転戦するもよしです」
「……大兵力を指揮する、女武将、かぁ」
蓉の心がちょっと傾いているのは、誰の目にも明らかである。
「そこまで上手くいきますか? 袁術の息子に取り入ろうとする後宮の女達は、それは姫様と真っ向勝負出来る様な豪傑はいないでしょうが、何かしらの策を持って手を出してくるのでは?」
張遼は不安そうに言う。
「策に通じていると自負する程度の小娘共であれば、直接姫様を害した場合、自分達が呂布軍から敵としてみなされる程度の事は分かるでしょう。大人の軍師であってもその恐怖は拭えるモノではないのに、小娘共にどうにか出来る事はありますまい。策を用いると言うのであれば、姫様を害するのではなく姫様に取り入る方法に考えを巡らせる事でしょう」
陳宮はそう予想しているのだが、実はすでに近い事を蓉は経験している。
長安に住んでいた頃、貴族の息女を集めた学び舎ですでにそう言う事は行われていた。
あの時の蓉は本人の意思に関係なく、傍若無人な振る舞いをする董卓の孫娘である董白の対抗勢力とされていた。
あの時も、蓉が何か行う前に勝手に向こうから擦り寄ってきたのである。
「……本当に私が大兵力を指揮する武将になれるの?」
蓉としてはそこが気になっているらしい。
「袁術の皇太子にさしたる武勲が無い以上、袁術としては何とかして大きな武勲を立てさせたいはず。しかし、その皇太子を預けられる勇将の類がいないのだから、姫君が提案すれば呂布将軍の力を借りる事が出来ると思い、兵力と兵権を委ねられるでしょう。そして一度でも武勲を立てれば、それ以降は同様に頼られる事になります。後宮の女達も、姫君が戦場に出て行く事を望むでしょうから、それ以降は側室の一人と言うより武将として重用される事になるでしょう」
「うーん、それにはちょっと魅力があるなぁ」
腕を組んで蓉が唸る。
本当に見た目と違って、どこまでも武人である。
「でも、乗っ取りを画策しているとバレた時点でさすがに危険では無いですか?」
侯成がおずおずと尋ねる。
「乗っ取りと言っても、別に袁家を丸ごと飲み込む必要は無い。こちらは袁家の名を利用して兵力を確保して勢力を伸ばし、向こうは呂布軍の名と戦力を利用して富と権勢を得る。利害の一致と言うだけで、警戒される事は無い」
と、侯成の質問に対して陳宮は答える。
蓉が年相応の少女であれば色恋沙汰に興味を示してその分難色を示すところなのだが、彼女はどこまでも武人であり、大兵力を指揮して戦場で武勲を挙げると言う事の方に強い興味があった。
また、女の身で戦場に立つと言うのは簡単な事では無い事も、両親の助けの為にも袁術の息子との縁組も受け入れるべきと言う事も、単純に脳筋ではない聡明さも持ち合わせている蓉には分かっている事だった。
ただ、陳宮の提案と言う事が気に入らないと言う程度の引っかかりがあるだけで、それでも陳宮の言い分が間違っている訳ではない事も理解していた。
「気に入らないな」
と難色を示したのは、意外にも張遼だった。
「一見良い条件にも思えるが、どこまでも姫様を道具としてしか見ていないのでは?」
「その通り。そこに対して、私は何ら言い訳出来る状況に無い」
責める様な口調の張遼に、陳宮は驚く程あっさりと認める。
「だが、現状の呂布軍は危機的状況なのだ。今のままでは曹操の侵攻を防ぐ事は困難と言わざるを得ない。だが、そこさえ防いでしまえば、ここからはこちらから絵を書く事が出来る。その為にはどんな手でも使うのが軍師と言うものだ」
開き直りとも取れる発言ではあるが、そこまでの覚悟を持って発言している陳宮に対して代案を出す事の出来ない張遼としては、それ以上陳宮を追求する事も出来なかった。
「んー、何かちょっと興味出て来た。最初は何言ってんだと思ったけど、一応軍師は軍師なりに考えてたみたいだし」
蓉はそう言うと、陳宮の方を見る。
「仕方ないから、軍師の案に乗ってあげようじゃないの。それが父ちゃんの役に立つと言うのであれば、少しくらい役に立ってあげないと」
決め手となったのは、やはり武人として尊敬する父親の役に立てると言う事で、この時の蓉はそう決心した。
もちろん、陳宮の思惑の全てを理解して賛同した訳ではない。
それでも、父親を救う事が出来るのは自分しかいないと言われると、蓉としてもそうせざるを得ないと言うだけの事でもあった。
そこまででは無いですよ
本文中でボロクソに言ってますが、この時の袁術は全盛期から比べると見る影も無いとは言えまだまだ侮れない勢力を誇っていました。
が、やはり武将不足は否めず、新生袁術帝国の崩壊は止められないところまで来ている事も事実です。
正史や演義では袁術との同盟のタイミングが違いますので一概には言えませんが、袁術軍崩壊の兆しが見えても陳宮や呂布が袁術との同盟を破棄しようとしなかったのには、今回陳宮が語った様な思惑があったのではないか、と考えてしまいます。
もっとも、本文で陳宮が語ったほど上手く行くとは思えませんが。




