第二話
呂布が荊州に戻ると、まるで幽霊でも見るかのような目で迎えられた。
いかに荊州の若き武神といえど、黄巾の圧倒的兵力差を前に生きて帰っては来れないというのが、大半の予想だったのだろう。
荊州城に戻ると、相変わらず部外者であるにも関わらず自然な感じで待っていた高順と、いつもは動きにくいと嫌がる礼服を身にまとった香が呂布を迎えた。
「おかえりなさいませ、呂布将軍」
そう言って頭を下げた後、香が呂布に抱きついてくる。
「お、おい?」
「よく、よくご無事で……」
そう呟くと、香は呂布の腕の中で泣き出してしまう。
これほど怯えているのは、彼女が初めて荊州へやって来た夜、高順の悪質な悪戯の時と同じかそれ以上である。
少なくとも、今では香は高順にも慣れているので、同じ悪戯をされたとしてもここまで怯える事は無いだろう。
「奉先、少し話したい事がある。おっとりした香ちゃんが、ここまで怯えなけばならなかった理由だ」
「ああ、俺の部屋に行こう。もう大丈夫だ。俺は帰ってきたんだから」
呂布は優しく声をかけるが、香は激しく首を振って呂布から離れようとしない。
いつもなら冷やかしてくる高順なのだが、今は険しい表情のまま口を挟んでこなかった。
呂布は香の肩を抱き、高順と共に荊州城の自室へ行く。
さすがに荊州城では呂布は恐れられてはいないものの、特定の人物達以外は近寄りがたいと思っているのか、あまり人が寄り付かない。
呂布自身があまり城を好まないので、部屋にいない事が多いせいかもしれないが、こう言う時には役に立つ。
もっとも、秘密の話をするのであれば荊州城の自室より、高順の隠れ家の方が良いのだが、今は香を落ち着かせる必要もあった。
部屋に入ると、いつもだったら働きたがる香がてきぱきと飲み物の、場合によっては酒と肴の準備などで忙しく動いて回るところだが、今日は怯えきって呂布から離れようとしない。
「さっそくだが、奉先。荊州に帰ってきての違和感はどうだった?」
いつもはいい加減な事ばかり言って、頼まれてもいないのに盛り上げ屋を買って出る高順なのだが、今は真剣な表情で誤魔化しを許そうとしない。
「違和感と言うと?」
「下手な惚け方するなよ。俺でさえ妙な目を向けられたんだ。標的の大本命だったお前が、違和感も何も無かったはずはないだろう。死んでいるはずだったんだよ、俺達は」
高順の言葉に、香が肩を震わせる。
「それは確かな証拠があっての事なんだろうな、高順」
「そこまで趣味の悪い冗談は俺も好きじゃない。奉先でもその事は分かっているはずだ」
高順の冗談の趣味の悪さと程度のわきまえなさはよく知っているので、むしろそれを期待していたのだが、それは無いらしい。
「俺が一足先に戻って来たから、香ちゃんも守る事は出来たし大事にはならずに済んだ」
「どう言う事だ? 俺達が死人と思われていたと言うのは、あの戦闘の激しさからわかるが、香は関係無いだろう」
「全てが仕組まれていたんだ。俺達が少数で徐州に援軍に向かった事も、そこに黄巾の大軍が待ち構えていた事も、徐州の連中が兵を出さなかった事も、全て仕組まれていた事だったんだ」
徐州で陳登が話そうとしていた真実であったが、呂布はその時には上手く回避したつもりだったが、それが荊州で待ち構えているとは思っていなかった。
「高順、話してくれ」
「ああ、時々香ちゃんの意見も入れたいんだが、大丈夫かい?」
高順に言われ、ようやく落ち着きを取り戻した香は涙を拭うと呂布から離れる。
「私、飲み物を用意しますね」
元が身分も低い一般家庭生まれの香なので、本来は女官を使う立場なのだが、それにはまだ慣れていない事もあり、身の回りの事などは自分でやっている。
また、呂布の身の回りの事も彼女が行いたがるので、女官達は苦笑いしながらも香に色々と教えていた。
見た目には氷のような美貌であり、他者を見下し自らの美貌を誇る事が似合いそうな香ではあるのだが、純真素朴で勉強熱心で人に対し偉そうな態度をとらない事から女官達とも仲が良い。
時々純朴さから来る奇行もあるが、今のところは苦笑いで済んでいる。
それだけに、香が狙われる理由は呂布には思い浮かばなかった。
そんな香が高級品と言うわけにはいかないが、それでも飲み物の用意を済ませると高順が話し始める。
高順は今でもまだ荊州軍の将軍ではないので、荊州軍の将軍位にある者のほとんどから煙たがられているが、下の者からの信望は呂布と同等か、あるいは呂布よりもある。
それだけに彼の性格はともかく、情報を集めやすい立場であった。
そんな高順であっても誰が発案し、その首謀者を突き止める事は出来なかった。
高順が集めた情報では、荊州軍と徐州軍、さらに黄巾軍の全軍とは言わないが、そのごく一部が結託して、荊州の若き武神呂布奉先を亡き者にしようとしていたのは確かだった。
三者三様に、呂布奉先を恐れての事である。
黄巾軍にさえ名を轟かせる若き武神を、曹豹の娘を手元に置くものの徐州との縁を好転させようとしない当代一の猛将を、そして……。
……そして?
「ここで最もお前を恐れているのは誰か、分かっているだろう?」
高順は考え込んでいる呂布に尋ねる。
「誰だ?」
「丁原様です」
首を傾げる呂布に代わって、香が答えを出す。
「義父上か」
呂布は溜息混じりに言う。
最初から計画の一環だったのか、その場の勢いや思い付きだったのかは分からないが、人畜無害であるはずの香も狙われた。
おそらく呂布を悪者に仕立て上げる為の行為と思われるが、その直前に高順と荊州兵の二千名近くが戻って来たのである。
荊州軍にとって二千の荊州軍騎兵は数の上ではさほど多くはないのだが、数万の黄巾軍と戦って生き延びた勇猛果敢な荊州兵と、率いているであろう呂布奉先を相手に立ちふさがる事は出来なかった為、香の身は無事だった。
それでも呂布死亡の報は香の元に届いていたし、しかも反逆者として疑いをかけられ、それが香にも連座しての事と噂されていたと言う。
実際に高順が間に合ったと言うよりは、香に対し好意的な者達の手によって守られていた事もあり、荊州兵が戻ってくるまでの時間を稼ぐ事が出来たと言う方が正しい。
「丁原様は呂布様を恐れています。いつか将軍が自分に対して牙を剥くと」
そう言う事には疎そうな香がそう思うのだから、周りからは周知の事実なのだろう。
「ところが奉先はこの通りのお人好しで、牙を剥くどころかその牙も爪も見せようともしない。それにシビレを切らして自分から牙を向けてきたってわけだ。あのオッサンは何を考えているんだか」
今にも飛び出していきそうな、高順を呂布は手で制する。
「よせよ、今さら何を言っても証拠は無いんだから。いくらなんでも生きて帰ってきたって理由だけで、武勲を立てた俺達を処分する事など出来ないんだ。黄巾との戦いも終わって、義父上もバカな事をしたと反省する時間を持てる事だろう」
「だと良いんだが」
高順はそう言うが、そうは思っていないみたいだ。
「一応、俺の方でも下手な事は出来ない様に、打つべき手があるからな」
「奉先が? 文遠ならともかく、お前が?」
「失礼な事を言うな。今の状況で考えれば、この上なく良い手だぞ」
呂布はそう言うと、香をまっすぐに見る。
「待たせてすまない。徐州で新太守となる陶謙殿にも伝えて来た。君を妻に迎えると。香、俺の妻になってくれるか?」
丁原について
三国志演義においてはいきなり出てきて色々やらかす丁原ですが、三国志正史の方では無骨な武将としてだけではなく、策謀家の一面も持っていたようです。
と言ってもザ・脳筋と言わんばかりの張飛でさえ色んな策を巡らせたりしているので、丁原ほどの武将であれば武勇だけではなく、知略に優れていてもおかしくも不自然でも無いでしょう。
そもそも荊州にいなかった丁原ですので、それくらいのキャラ変更があっても、三国志では珍しくは無い事です。




