第三話
呂布をはじめ、張遼や陳登など徐州城の備えをほぼ全て出し切った後、陳宮は郝萌を呼ぶ。
「お呼びですか、軍師殿」
相変わらず人間味を感じさせない無表情と無感情な口調で、郝萌が陳宮に尋ねる。
「呼ばれた理由は分かっているな」
「さて、何の事でしょうか」
陳宮の言葉に、郝萌は淡々と答える。
「今更とぼけるな。私はそちらの望む通りに動いてやったはずだが?」
「何を言っているのか、分かりませんが」
「そう言うのはもういい。袁術はどう考えているんだ?」
「軍師殿、一体何の話ですか?」
陳宮は一瞬書類から郝萌の方へ視線を向けたが、すぐに書類に目を戻す。
「そうか。私はお前の事を袁術からある程度実力を評価されている武将だと思っていたのだが、私の思い違いだったらしい。もう用はない。下がれ」
完全に興味を失った陳宮の冷たい言葉と態度に、珍しく郝萌は表情を曇らせる。
「口の利き方には気を使った方が良いのでは?」
「まだいたのか? 下がれと言ったはずだが」
食い下がろうとする郝萌だったが、陳宮は全く興味を持たないどころか、文字通り取り付く島も無い。
「……軍師だからと言って、調子に乗るなよ。女の分際で」
いつも無感情で無機質な口調の郝萌だが、この時は我慢も限界を迎えたらしく低音の凄みを利かせた声で陳宮を脅す様に言う。
「この程度の挑発に乗るのでは、武将としての器も知れると言うものだ。袁術から呂布を監視する様に遣わされたと思っていたが、案外単純に使い道が無かったと言う事か」
しかし、その程度の脅しを恐れる様な陳宮ではなく、郝萌の方も見ずに言う。
一瞬で頭に血が昇った郝萌は剣に手をかけるが、それを抜く前に動きを止めた。
止められた、の方が正しいかもしれない。
今まで書類に目を向けていたはずの陳宮が、郝萌より先に剣を抜いて郝萌に突き付けていたからである。
「どうした? 何か言いたい事があるのなら聞いてやらないでもないが」
「……どこまで知っているのだ?」
「袁術の企みか、その参謀達が考えているのかはわからないが、何がやりたいのか、何をやろうとしているのかはおそらく全て察しがついている。ここで袁術が大挙して兵を起こしたと言う事は、劉備と我々を共に倒して徐州を乗っ取るつもりだろう。しかし、呂布の強さは袁術も知っている。劉備と小沛は力で落とせても、徐州城と呂布は簡単ではない。そこで、徐州城を攻める時にお前が混乱を引き起こし、それに乗じるつもりだったのだろう?」
陳宮は剣を郝萌に向けたまま言う。
「だが、お前達は呂布軍を甘く見すぎている。呂布個人にしても一騎当千どころの話ではない武勇の持ち主の上に、高順、張遼も袁術軍の有象無象が束になっても敵わない猛将であり忠義の士でもある。忠誠心において二人に及ばないまでも、成廉や宋憲も武将としての能力の高さは袁術軍に入れば最上位の武将になっていただろう。お前が起こす混乱など、何ら障害にはならない」
「では、どうすると言うのだ?」
郝萌は、陳宮の剣の届かないところまで下がって尋ねる。
陳宮と郝萌の間には机があり、その上には山の様な書類があるのですぐには陳宮も襲ってこられないだろうと言う判断らしい。
「それを私に聞いている時点でどうかとは思うのだが、もしこれが成功した場合、私には袁術はどの様な役職を与えてくれるのだろうな」
陳宮は下がった郝萌を追う訳でもなく、剣を収めて郝萌に尋ねる。
「何?」
「当然だろう。まさかお前の手柄だとでも言うつもりか?」
その要求を聞いて、郝萌は僅かに表情を緩める。
「そう言う事か。それならば、俺の妻に迎えてやろうではないか」
「……は?」
あまりにも予想外の答えに、陳宮の方が言葉を失っている。
「どうだ? 悪い話ではあるまい」
「……むしろその条件のどこに魅力を感じれば良いのか、説明して欲しいくらいなのだが」
自信満々に言う郝萌に対し、陳宮は頑張って言葉を絞り出した。
この時は陳宮自身が、よくここで会話を打ち切らなかったものだと感心するほどでもあった。
「お前にだけは特別に教えておいてやろう。袁術様は近々天子の位に就かれる。もし今回の事が成功したら、俺はその功績によって徐州太守と三公の一つである太尉を約束されている」
「……はぁ?」
陳宮の返事は、劇的なほど気が抜けていた。
と言うより、頭脳明晰な陳宮であっても郝萌が何を言っているのか理解出来ない、と言った方が正しいかもしれない。
「袁術が天子? お前が三公だと? 酔っているのか、寝言なのか。あるいは何らかの病か?」
「話が大きすぎてついてこれないか?」
いや、馬鹿馬鹿しすぎて引いているところだ、と口から出そうになったがそれは飲み込む事が出来た。
「袁術様こそ、天に選ばれし者。その証拠に、今、天子の証である玉璽が袁術様の手元にあるのだ!」
「玉璽?」
陳宮は眉を寄せる。
確かに玉璽とは皇帝のみが使う事を許された印である事くらい、陳宮も知っている。
しかし、玉璽は董卓の遷都の際に紛失したと言われていた。
人伝ての噂では焼け落ちた洛陽の復興を担当した孫堅が玉璽を発見し、それを持ち帰ったとも言われている。
孫堅文台ともあろう武将がその様な真似とするとは思えないのだが、陳宮は孫堅と直接会った事は無いものの、曹操が言うには天下を取れる器を持った名将であるらしいので、敢えて玉璽を入手して何かを狙っていたのかもしれない。
陳宮には袁術がどの様にして玉璽を手に入れたのかはわからないが、いつ手に入れたのかは簡単に予想出来た。
それはあの反董卓連合の際などではなく、つい最近の出来事のはずだ。
もし早い段階で手に入れていたのであれば、袁術が皇帝を名乗るのはもっと早かったと陳宮は予想する。
玉璽とは皇帝に使う事が許されている印である事は間違いないが、ではそれを手元に持って使う事が出来る者が皇帝であるかといえば、もちろんそんな事は無い。
家の鍵を拾い、その家に自由に出入り出来るからと言って、それで家主になった訳ではない事くらい分かりそうなものではないか。
陳宮はそう思ったのだが、そう諭す者や諌める者が袁術の周りにはいなかったらしい。
「……太尉とは文官が就くものなのだが、まぁ、地位の件は一旦置いておこう。袁術が天子になったとして、大将軍には誰を据えるのだ? 袁紹には話がついているのか?」
「袁紹? あの男は妾の子でありながら宗家の後継者気取り。袁家の食わせ者でしか無い」
郝萌は吐き捨てる様に言う。
そう言えば、その事で袁術と袁紹は不仲だと言う事は陳宮も聞き覚えがあった。
「それに大将軍には橋蕤将軍と張勲将軍が内定している。お二方とも武勇、見識に優れ、袁紹などより遥かに適任である」
「この際、袁術が天子となったと仮定したとして、今の漢の人材の中で大将軍を担える者など袁紹ただ一人だ。曹操も治世の能臣と言われていたが、治世の世にあれば袁紹ほどの者は他にない」
曹操陣営でも袁紹の評価はさほど高く無かったが、陳宮は袁紹を過小評価していない。
よく郭嘉と荀彧は袁紹と曹操を比べて曹操の方が優れていると語っていたが、そもそも袁紹と曹操を比べる事など、剣と盾のどちらが優れているかと言うくらい間違っている事だと陳宮は二人に言った事があった。
荀彧の目には袁紹は優柔不断に見えたらしいが、曹操の即断即決はこの乱世であるからこそ貴重であり、治世においては袁紹の様に広く意見を求める方が重要なのである。
また曹操は類稀な軍略家であり戦術、用兵、武勇に至るまで並外れた武将である事は知っているが、陳宮は曹操を活かすのであれば武官ではなく文官であると思っていた。
もし袁術が天子を名乗り、袁紹が大将軍としてその軍権を握って差配するのであれば黄巾の乱や反董卓連合の時より大きな戦となって漢を二分し、場合によっては勝利する事も出来るかもしれない。
が、袁術に袁紹を迎え入れるつもりがなく、大将軍の地位にどこの馬の骨とも分からない様な者を据える事が決まっているとなれば、この無謀な計画はただただ無謀なだけの暴走でしか無かった。
「どうだ、陳宮よ。女の身でありながらその卓見した軍略と知略、さらには武勇も認めてやってもいい。いささか年増ではあるが、その美貌も悪くない」
郝萌は褒めているつもりなのだろうが、陳宮の表情は険しくなる。
「俺が袁術様に引き合わせてやってもいいのだぞ?」
「……尋ねたのは私の方なのだが、そこまで話した以上、私が断ったら切るつもりなのだろう? だが、一対一でお前程度の者が私を切れるはずもない。数人の部下は用意しているはずだな。呼んではどうだ?」
「そうか、お前も古き漢から離れられない人間であったか。それは残念だ」
郝萌が合図すると、陳宮の執務室に剣を持った兵士が五人入ってくる。
「この者達は袁術様の側近も兼ねる、精鋭の中の精鋭。いかに武勇自慢のお前といえど、この者達の手にかかればその美しい顔も切り刻まれよう。素直に降伏し、我が足元に縋り付けば考え……」
勝ち誇った郝萌がまだ喋っている途中だったが、陳宮の動きは早かった。
全く興味も無い様子だったが、郝萌の襲撃を予想していた陳宮がなんら対策をしていないはずもない。
机の上に山の様に積まれた書類の間などに忍ばせておいた飛刀を刺客である兵士達に投げると同時に、陳宮は剣を抜いて机の上を飛び越えて刺客達に斬りかかる。
五人の刺客の内二人は陳宮の放った飛刀によって喉を刺されて絶命し、さらに二人は虚を衝かれたまま陳宮に切り捨てられる。
我に返った一人が剣を構えようとしたのだが、その時にはすでに陳宮によって首を切られていた。
「……なんだ、この程度だったか。虎豹騎くらいの強さはあると想定していたのだが、これは私とした事が失敗だったな」
瞬く間に五人を切り伏せた陳宮は、氷の様な目で郝萌を見る。
「ひぃっ」
「そう恐るな。お前にはまだ使い道があるから、今この場で切り捨てる様な事はしない。それより剣を抜け。お前自身の身を守る為だ」
陳宮はそう言うと、恐れるあまり腰を抜かした郝萌の剣を抜いて無理矢理握らせる。
「後は私の話に合わせろ。そうすれば生かしておいてやる、いいな」
陳宮の脅しに、郝萌は何度も頷く。
そこへ高順とその部下達が剣を抜いた状態でやって来た。
「陳宮! 謀反とはどう言う事……」
高順は陳宮の謀反を聞きつけてやって来たのだが、状況が想像と違ったせいもあって足を止める。
「高順、援軍有難い。だが、見ての通り、私と郝萌で処理する事が出来た」
陳宮は切り捨てた刺客達を見て、高順に説明する。
この事を予想していた陳宮は部下に郝萌の動向を見張らせ、郝萌が動き出したと言う知らせを受けた時に高順に情報を流す様に手配していた。
この執務室には些細とはいえ様々な仕掛けを隠しているので籠城して高順が来るのを待つ予定だったのだが、陳宮が想定していた以上に刺客達が弱かった為、高順が来るより早く終わってしまったのである。
「お前と郝萌が謀反と聞いたのだが、これはどう言う事だ?」
「どうやら袁術の策略らしい。我々に友好的だと思わせておいて、実は内部の混乱を狙っていたようだ。幸い郝萌がこちらに協力してくれたので、事なきを得たと言う事だ」
陳宮の説明に、高順は納得したようには見えない。
「何故お前の名を語っての謀反だったのだ? 本当に謀反を企んでいたのではないか?」
「軍師である私が謀反を起こしたとなっては、呂布軍の混乱も大きいと踏んでの事だろう。実際に私は呂布軍の古参武将ではなく曹操からの投降者だ。高順や張遼と違い、私であればそうする事も考えられると言う事だろう」
「では、本当に謀反では無いのだな?」
「今私が呂布将軍に背いて、何ら得られる物は無い。袁術軍の放った密偵による誤報でこちらを混乱させる事が狙いだ。おそらくは大丈夫だと思うが、念の為にも高順には呂布将軍のご家族の護衛を頼みたい」
「言われるまでもない」
高順はそう言うと部下達を下がらせる。
「……陳宮、貴様、まさか奉先を誑かすつもりではあるまいな」
「誑かす? ああ、なるほど。私が将軍の第二夫人になって、あのお美しい奥方様やご息女に何か危害を加えるかと疑っている訳か」
「どうなんだ?」
「高祖の妻であった呂后の様に、私が権力を握り、奥方を人豚に貶めようとしているとでも? それに関しては何ら心配いらない。私は呂布将軍の軍師である事に誇りを持ち、それで満足している。高順がそれを心配して私に疑念を持っていると言うのなら、それは誤解だと言っておこう」
「言葉では何とでも言えるが、今はそれで納得しておこう」
高順はそう言うと、陳宮に背中を向ける。
「では、私が女として呂布将軍に近づく様な事があれば、その時は私を切り捨てる許可を高順に与えよう。それならば良いか?」
陳宮は背を向けた高順に尋ねる。
高順はそれに答えず、剣を持ったまま座り込んでいる郝萌の方に目を向けると、そのまま無言で部屋を去っていった。
陳宮と郝萌の謀反未遂事件
これは正史のみであり、演義には無い事件です。
物凄く要約すると、呂布が劉備と紀霊の間に入って弓の腕前を披露している時、袁術の企みで陳宮と郝萌が徐州城で謀反を起こそうとしたのですが、高順によって食い止められたと言うものです。
正史では郝萌はここで切られ、陳宮は助かっています。
しかし、何故か陳宮は相変わらず呂布からある程度信頼されたままで、高順の方が煙たがられる様になり、高順と陳宮の仲は最悪になると言う困った状況になりました。
ちなみに、そもそも何故この時陳宮が袁術の企みに乗ったのかは、正史でもわからず、また陳宮もその事を口にしていないようなので不明なままです。
また、正史では些細なミスも許さないところが見られる呂布ですが、何故この時の陳宮が許されたのかも不明です。
正史によると高順は寡黙な人だったらしいので、上手く状況を説明出来ず逆に信用を落としてしまったのかもしれません。
本編中でチラッと陳宮が口にした呂后ですが、この人の事を事細かに説明しようとするとまず間違いなく運営からお叱りを受けるくらい、エログロ一直線です。
中国の歴史上の人物の中でも三大悪女に数えられるくらいの怖すぎる人で、高祖亡き後この人が実権を握って何故漢が滅びなかったんだろうと言うくらい、とんでもない事をやりまくった人です。
この人がやらかしたから、三国志の時代でも女性が政治に口出しする事はタブーとされたくらいです。
もし興味がある場合は調べてみるのも良いかもしれませんが、『人豚』などは本当に胸糞悪くなるものなので気を付けて下さい。




