混沌の都 第一話
第三話 混沌の都
呂布は護衛兵の五十騎を率いて、徐州軍の一万と合流する。
「呂布将軍!」
戦場に出ていたにしてはまったく傷も汚れも無い、新品同様の鎧を身にまとった曹豹が呂布に気付いてやって来る。
「曹豹殿、お久しぶりです。ところで徐州軍の指揮官はどちらですか?」
「あちらにいらっしゃいます、陳登将軍です」
呂布は曹豹の案内で、徐州軍の総大将らしい陳登と言う人物に会いに行く。
その人物は徐州軍の撤収準備で忙しそうだったが、それでもすぐにこちらに気付く。
「おや、曹豹殿、どうされました? そちらの方は?」
「荊州より援軍を率いて来られました、呂布奉先将軍です」
「呂……! こ、これは失礼いたしました」
そう言って、その人物は馬上の呂布に向かって頭を下げる。
荊州兵は全てが騎馬だったのに対し、徐州兵は全てが歩兵である。
よほど急いで整えたのか、装備品も急ごしらえなのが見て取れた。
「私が今回徐州軍に指揮をいたしました、陳登元龍と申します。この度の援軍、まことに有難うございます。お陰様をもちまして、徐州は事なきを得ました」
そういう陳登はまだ若く、荊州軍の最年少の将軍である張遼や援軍として現れた張郃と同い年くらいの、まだ少年と呼べるような年と思われる。
利発的な雰囲気は一目見て分かるが、張遼や張郃のように勇猛な雰囲気は無く、逆にこんな少年に全軍の指揮を取らせようとする徐州の大人に問題があると言わざるを得ない。
もしこの陳登が太守などであれば、全軍の指揮官と言う事も当然ではあるのだが、いくらなんでも若過ぎるだろう。
世の中には張遼や張郃以外にも、十代の時には海賊狩りとして名を馳せた孫堅の例もあるのだが、陳登は武芸より知略で勝負する方が合っているように見える。
そう言う意味では、指揮官として最前線に出るのではなく全軍を統括する方が向いているかもしれない。
実際、年若い陳登だが、曹豹などより堂々としている。
「ところで、徐州軍は陳登殿と曹豹殿の二人で率いているのですか?」
「いえ、糜芳と言う将軍がいます」
糜芳と言うのは徐州の富豪の次男で、徐州では珍しく腕自慢らしいのだが、年の頃は陳登とあまり変わらないと言う。
「その中の誰かが徐州太守なのですか?」
「いえ、太守は先日着任されたばかりの陶謙将軍がいらっしゃいますが、何分まだ着任されたばかり。ですので今回は徐州に住む者達の、いわば義勇兵が出て来たと言う事です」
陳登が言うには、陳登も曹豹も糜芳も徐州ではそれなりに有力な家柄らしく、黄巾の乱によって一時的に太守不在の空白地になった徐州を守ってきたと言う。
「太守にどの様なご要件で?」
「直接お伝えする事にするが、そんなに重要な事でも危ない話でも無い事は約束するよ」
呂布は不安がる陳登に向かってそう言った。
陳登としてはその言葉を信じる信じないに関わらず、呂布を太守の元へ連れて行かないわけにはいかず、徐州城の陶謙の元へと案内した。
徐州城では異常なほど緊張している文武官達と、中央の椅子に座る中年男性も一目見て分かるくらいに緊張していた。
もっとも堂々としているように見えるのは、ここに並ぶ中では最年長に見える初老の文官だった。
「お初にお目にかかります。荊州太守丁原の子、呂布奉先です。義父上の命により援軍に参りました。挨拶が遅れましたる事、ご容赦下さい」
呂布はそう言って頭を下げるが、それでも周りの緊張は解けない。
それはここまで案内して来た陳登も同じである。
「これはご丁寧に。しかし荊州からの援軍の総大将ともあろうお方が、そのような挨拶だけの為にわざわざお越しになられたのですか?」
この場で呂布以外に口を開けそうな唯一の存在である、初老の文官が尋ねてくる。
「貴殿は?」
「これは失礼いたしました。私、陳珪と申します」
「陳珪?」
呂布は陳登の方を見る。
「私の父です」
かなり歳は離れているように見えるが、それ自体はそれほど不思議な事でもない。
それに政治的空白地になった徐州で地元の有力者であり、そこの長男であるとすれば陳登が徐州義勇軍を自称する一軍の総大将になった事も頷ける。
この中において発言力を持ち、しかも呂布の噂を知りながらも恐れないだけの胆力を持っている高官の息子となれば、誰も反対しなかった事だろう。
逆に言えば、これだけ腐敗した世の中であるにも関わらず、その程度の事が大問題になる程度しか戦う必要が無かったと言える。
考えられるのは二通り。
一つには豪族の力が極めて強く、太守を必要としないくらいの統治を豪族達、しかも陳家が中心となって行っていると言う事。
もう一つは、都の実力者の中でも帝に次ぐ、場合によっては帝さえも上回る権力を持つ十常侍と呼ばれる宦官とのつてがあり、そこへ充分な賄賂を渡して優先的に守備兵を回してもらえるように根回ししているか、と言う事である。
おそらくは後者、と言うより両方だろうと呂布は思う。
「ここへ来た理由は挨拶の他、二つあります。一つは先延ばしにしてきた事にはっきりとした答えを出そうと思っての事です」
呂布がそう言うと、緊張して怯える文武官達はもちろん、陳親子も首を傾げている。
「半年も待たせる事になりましたが、ようやく答えを出せました。曹豹殿の養女である香姫を正式に妻に迎えたいと思い、その事を伝えようとやってまいりました。聞けば、香姫の婚儀は曹豹殿だけではなく徐州の皆様が薦めた事なのだとか。ですので、このような場の方が相応しいかと思いまして」
呂布のその言葉に、徐州城の面々は唖然とした表情で硬直している。
何しろ徐州へ行く目的を説明した際に、呂布をよく知る高順や張遼、並外れた胆力を持つ張郃ですら同じような表情をしていたのだ。
素手で熊を殺すなどと言われ、しかもそれを信じている徐州城内の人物達にとっては、その三人の驚きの比ではないだろう。
「そ、それは、おめでたい事で。お祝い申し上げます」
かろうじて陳珪が答えると、呂布は笑顔で頷く。
「ありがとうございます。もう少し喜んでいただけるかと思っていたのですが、曹豹殿は反対でしたか?」
「いっ! いえ! ととと、とんでもない!」
曹豹は飛び上がらんばかりに驚き、裏返った声で言う。
しばらく間が空き、それからようやく周りから声が上がる。
曹豹の小者感溢れる反応に周りも緊張が解れたようで、徐州の面々は安堵の声を漏らし取り繕うような笑顔を浮かべて美辞麗句を並べ立てる。
高順や張遼なら、この態度を目の当たりにした方が腹を立てそうだな、と呂布は思う。
表情を緩めていないのは陳登くらいで、陳珪も笑顔ではいるものの緊張感を切らしてはいない。
呂布が本命の話の前に、まったく関係の無い話をした事に気付いているのだ。
「もう一つが、今回の徐州軍の出兵が遅かった理由を教えていただきたい」
呂布は何気無い口調ではあったのだが、徐州の面々を凍りつかせるには充分だった。
「それに関しては、大変申し訳なく思っています」
その質問を予期していた陳珪は、すぐに呂布に謝罪する。
「この度徐州はたくさんの問題を抱えていた時期でしたので、援軍を要請しておきながら兵を出す事が遅れました。言い訳になる事は重々承知ではあるのですが、見ての通り、年輩者と若輩者ばかりなもので」
陳珪は答えを用意していただけに、聞いている呂布もなるほどと思わなくもない。
今回の黄巾の乱に加わったのは働き盛りの年齢が多く、必然的に各州の軍兵は高齢者と年少者が多くなってしまう。
精鋭を誇る荊州軍でさえその傾向はあったのだから、周りから恐れられる猛将不在であり、黄巾軍の本拠地も近い徐州にあっては尚の事その傾向も強くなるだろう。
だが、これは陳珪自身が言っていた通り、言い訳に過ぎず正当な理由にはならない。
「また、太守不在であり全軍の指揮官の選出にも時間がかかってしまいました」
陳登が父を援護する為に、呂布に向かって説明する。
それも分からない話ではない。
実は徐州に限らず、黄巾の信徒として乱に加わった太守などもいたため、政治的空白地と言うのは数箇所存在していた。
そんな太守不在地では、荊州における呂布や高順、張遼などのような猛将武将などがいないのであれば、武力で押さえつける事も引っ張る事も出来ない。
そんな中では確かに陳登は適任者だと言えなくもないが、全責任を押し付けるにはいくらなんでも若過ぎる。
荊州軍では能力は充分であっても、張遼ですら若過ぎると言う理由で一隊であればともかく一軍の指揮を任される事は無いのだ。
頭のキレはともかく、軍才や武勇において陳登が張遼を上回るとも思えないのだが、それでも今回の総大将に担ぎ上げられる事になるには、いかに緊急時だったとはいえ即断即決満場一致で決まるはずもない。
それらで全ての理由が出揃ったとも思えないのだが、これ以上粘ったとしても、もう話してもらえそうに無いだろう。
「分かりました。私も荊州に戻って妻に故郷は無事だと伝える事が出来ます。ところで援軍を要請のために出した私の部下は?」
「城内でお休みいただいております。たった二人で戦場に戻すと言う訳にはいきませんので」
陳珪が笑顔で答える。
何も考えずに聞けば、それはどうも気を使っていただいてと言いたくもなるが、少し考えればとんでもない事を言っている事が分かる。
なにしろ伝令を帰さないと言う事は情報をそこで止めていると言う事であり、それは戦況を悪くする事はあっても良くする事は無い。
場合によっては死罪に値する背信行為と言ってもいい。
が、いまさら言っても仕方が無い。
百歩譲れば、陳珪の善意からの行動と思い込む事も出来るのだ。
呂布と護衛は一日徐州城で休ませてもらう事にして、翌日荊州へ部下達と一緒に帰る事にした。
「呂布将軍は、真実を知ろうとは思わないのですか?」
城内を案内する役を命ぜられた陳登が、呂布に向かって尋ねる。
「真実?」
「徐州軍が戦場に出てこなかった、本当の理由です」
「知ってどうなると言うものでも無いからなぁ」
「ですが、呂布将軍にも危険が及んでいるのですよ?」
「戦場に出れば嫌でも危険が及ぶものだし、下手な事を知ってしまったら香が悲しむ事になりそうだ」
「香?」
「曹豹殿の養女だよ。徐州の身内の事だけど、知らないか?」
「ああ、曹豹殿の娘御ですね」
ようやく陳登は思い当たったようだ。
曹豹自身が目立たない上に、地元豪族の力が強い徐州において大した力のある家柄でも無い。
香は一目見れば忘れる事の無い美少女であるはずだったが、身分が低い為かあまり目立っていなかったのだろう。
また、泥塗れになる事も厭わない香なので、木に登ったり蛙を捕まえたりしているのがあれほどの美少女と言う事も、あまり知られていなかった原因でもある。
年の頃で言えば近いはずの陳登だが、陳登は徐州豪族の中でも相当強い力のある家柄なので、知らないのも無理ない事だった。
もし面識があったり繋がりがあれば、曹豹は呂布ではなく陳登に娘を差し出していたはずだ。
「曹豹殿の娘御は、まだ生存されているのですね?」
「死人を嫁に貰うつもりはないよ。それとも、とっくの昔に俺が食ってしまったと思われてるのかな?」
「いえ、まさか。まあ、そう言う噂も無いわけではありませんが……」
陳登は口を滑らせたと思って心配そうに呂布を見るが、呂布は笑いながら肩を竦める。
「何でだろうな。俺ってそんなに、人を食うくらい凶暴そうに見えるのかな?」
「いえ、そう言う事ではありません。呂布将軍はまだそんなにお若いのに数々の武勲を立てられました。今回も、手勢わずか三千で数万の、死者の軍勢なども含めると十万近い黄巾軍と戦って負けなかったどころか、勝利まで収めています。奇妙に聞こえるかもしれませんが、将軍は武勲を立て過ぎているのです。それに見合う為にも、呂布将軍には人ではなく化物であって貰った方が、我々凡人にとっては都合が良いのです」
「都合が? 何で?」
「自分達とは違う、と思う為ですよ。私達がどんなに努力しても、呂布将軍には及ばない。それは呂布将軍が人をも喰らう化物だから、と思った方が気が楽なんです」
「ふむ、なるほど。俺には理解し難いが、納得出来ない話ではないな」
呂布奉先と言う人間がこう言う人物だと言う事は、目の前で話している陳登でさえ信じられない。
徐州では鬼か魔物かと言うように伝えられている呂布奉先が、実際には長身痩躯の美男子で、その武勇に驕る事の無い慎重な性格でしかも大した野心も持っていない若者だと言う事は、誰も想像すらしていない。
それだけに陳登は、自分の知っている真実が信じられなくもあった。
圧倒的武勲を立ててきている呂布奉先ではあるが、陳登の目には自分から目先の利益だけを見て、人を裏切る様な人物には見えない。
しかし、呂布の周りにはどうしようもない悪意が渦巻いている。
それはまったく無意味に呂布を追い詰めようとしているだけなのだが、今のところ本人もそれを煽る側もその事に気付いていないみたいだった。
陳登は呂布を部屋に案内した後、すぐに父である陳珪の元へ行く。
「父上、何故呂布将軍はこれほどまでに恐れられているのでしょうか?」
突然の質問に陳珪は驚いたが、すぐに笑顔を見せる。
「誰であっても、あの武勇を恐れない者などいないよ」
「ですが、あの人にはそう言うモノは……」
「呂布将軍だけが問題なのではない。呂布将軍を信じきれない者達が、一方的に彼を恐るのだよ」
陳珪はそう言うと、首を振る。
「儂とて、あの将軍の武勲と人柄には驚き戸惑っている。そして、恐れているのだ。あれほどの武将が謙虚で無欲なはずはなく、何か腹の中に隠しているのではないか、と。その疑念が一度でも湧き出してしまったら、あの武勇は信用出来るモノではない。呂布将軍の事をまったく知らない儂ですら、その事を恐れておるのだ。呂布将軍をよく知る上で信じることが出来ないとなると、他の誰よりも危険な存在に見えるのだよ。丁原殿には特にな」
陳登について
物凄く文官のイメージが強い陳登なのですが、実は若い時から兵を率いて武勲を立てていた将軍と言う側面もあるみたいです。
と言っても呂布や張飛などのような腕白ではなく、指揮官としてのようですが、それでも武将としての一面はあったみたいです。
そうは言っても、黄巾賊との戦いの時に総大将を務めたと言う事実はありませんし、さすがにそんな事は無かったでしょう。
ちなみに麋竺は徐州の富豪の生まれとして有名ですが、陳登・陳珪親子の方が遥かに有力者だったみたいです。




