第九話
陳宮の懸念は、時をおかずして現実のものになった。
常に臨戦態勢を整えている呂布軍はともかく、蝗害の影響が大きく足並みの揃わない張邈と張超の軍に対し、曹操が進軍を始めたのである。
本来であればその側面を呂布が攻撃するべきだったのだが、呂布には動けない理由があった。
曹操の動きに呼応するように、袁紹の軍勢も南下する動きを見せているのだ。
兵糧の件は、陳宮は無視してもいいと言っていたものの、さすがにそう言う訳にはいかずに全て返還済みではあったが、その事もあって張邈と張超とは険悪になっているとはいえ、ここは協力して挑まなければ手の打ち様がない。
「協力したところで、打つ手は無いですよ」
書類から顔も上げず、陳宮は呂布に答える。
「いや、さすがに張邈殿と張超殿で曹操軍を相手取るのは荷が重いのでは?」
「でしょうね。まず勝目は無いでしょう」
「……軍師殿、それは張邈殿を見捨てると言う事か?」
「見捨てるも何も、この状況を招いたのは張邈自身。こちらが付き合ってやる必要は無いでしょう」
陳宮は冷たく言い放つ。
曹操の元を離れた時にはある程度張邈の事を評価していたのだが、やはり東阿攻略失敗の大きな要因になってから、陳宮の張邈に対する評価は著しく低下して、今尚下げ止まる事を知らない。
「呂布将軍、この曹操の侵攻は張邈や張超ではなく、呂布将軍を狙っての事ですよ。他人を心配している場合ではありません」
「……え? いや、確かに袁紹との連携は見て取れるが、曹操軍の狙いは張邈殿ではないのか?」
「張邈など、行きがけの駄賃みたいなものです。実際に張邈軍は程昱の一隊に良い様に弄ばれていたのですから、曹操軍の将軍と戦えるはずもない。曹操の狙いは張邈と我々の分断にあり、それを防ぐ事は困難と言う事です」
「……先生、何を言っているのかイマイチわかりません」
呂布の言葉を予想していたのか、陳宮は白紙を広げて簡単な地図を書き込み、そこに『呂布』と『張邈』の名を書いた後に『曹操』の名前と矢印を書く。
春の到来と共に呂布軍の食料事情は多少緩和されているとは言え、非情に思えるほど徹底的な蝗害対策と取ってきた呂布軍だからこそであり、対策が後手だった張邈や張超は配下の者達に略奪を命じていた為、今は治安悪化や税収の激減によって態勢の立て直しに手間取っている。
一方の曹操軍も呂布軍と同じような対策を取っていたらしく、張邈と呂布に奪われた土地を一気に取り返すつもりであるらしい。
陳宮はそれを警戒して突出した濮陽に留まっていたのだが、曹操は袁紹と協力する事によって呂布の行動を制し、張邈と張超を先に攻める事によって呂布を孤立させるつもりであると陳宮は説明する。
曹操だけであれば張邈を狙う時に呂布が側面を攻撃する事が出来たが、それをやろうとすると袁紹に背後を攻められる事になりかねない。
「おそらく袁紹は動かないでしょうが、『おそらく動かない』と言うだけの根拠で袁紹の大群に無防備を晒す事は出来ません。まして中途半端な兵力を出したところで、曹操軍の側面を突いてもあしらわれるだけ。しかもここで籠城したとしても、援軍の期待が出来ないのであれば負けるのを先延ばしにするだけ。曹操はすでに勝利した状態で兵を動かしたのです」
「野戦であれば、いかに曹操軍といえど俺たちの方が有利では?」
「有利です。おそらく百戦して百勝する事も出来るでしょう」
「であれば、曹操を撤退させる事も出来るのではないか?」
「いえ、曹操に対して百勝出来るのは曹操に野戦で勝つ必要は無く、ただ呂布将軍に出兵を繰り返させるだけで良いからです。それによってこちらの物資と体力を奪う事で、結果として我々は籠城するしか無くなるのです。そうなると秋を迎えても食料を蓄える事も出来ず、結果として我々は冬を超える事は出来ないでしょう」
そこまで理詰めで説明されては、呂布としても反論のしようがない。
「では、どうすれば良いので?」
「ここを離れる必要があります。その為には、勝つのではなく敗れなければなりません」
「……はい?」
「将軍や張遼であれば私の考えをわかっていただけるでしょうが、魏続や成廉は勝ってしまっては籠城してしのごうと考え、私の指示にも従わないでしょう。行動の自由を得るには野戦で敗れて城を捨て、曹操を城に入れれば追撃も無く我々は行動の自由を得ます」
勝利が破滅を呼び、敗れる事によって未来が開ける。
呂布にはとても理解出来ない事ではあるのだが、陳宮にはその未来が見えているようだ。
「呂布将軍。大変です」
呂布と陳宮が話しているところへ、宋憲が入ってくる。
「李封と薛蘭が曹操軍と接触したようです」
李封と薛蘭は張邈軍の武将なのだが、食糧難に窮した張邈の苦肉の策として呂布軍へ出向している状態の武将である。
その二将以外にも数名そう言う武将がいるのだが、ある意味では袁術軍に戻らず呂布と行動を共にしている郝萌も似たような立場と言える。
「今接触するのはマズイな。救出に向かう」
「間に合いませんよ」
陳宮は冷たく言う。
「その情報は、曹操が呂布将軍をおびき出す為の情報です。おそらくその二将軍はすでに討たれている事でしょう」
「そうかもしれないが、だからといって見捨てる訳にはいかんだろう」
陳宮の言葉に呂布はそう答えたが、陳宮には予想がついていたのか強く引き止めるような事はしなかった。
二将が曹操と遭遇したと知らせてきたのは鉅野と言うところであると知らせを受けたので、呂布は少数ではあったが兵を率いて向かっていたのだが、二将を救出する事は出来なかった。
鉅野で戦っていると思って城を出た呂布だったが、その時にはすでに李封と薛蘭は討ち取られ、そこには曹操軍の精鋭が待ち構えていた。
陳宮が予想した通り、曹操軍にとって呂布軍の野戦の強さはあまりに強力であり、呂布に勝つ為には呂布とは戦わないと言うのが共通の認識だった。
陳宮が恐れた策は、正に郭嘉が曹操へ進言していた策である。
驚異的な戦闘能力を持つ呂布と赤兎馬でも、篭城戦であれば大幅に制限する事が出来るのだが、意外な事に荀彧が反対した。
陳宮が恐れた篭城による包囲は一見すると絶望的な鉄壁に見えるし、郭嘉もそれを前提に策を立てたのだが、荀彧は袁紹陣営の事もよく知っている。
袁紹軍には異才揃いと言えるほどの武将、参謀がそろっているのだが袁紹がその人材を制御出来ていない節が強い。
もし戦いが長引いた場合、袁紹と曹操の個人的なよしみを無視して袁紹軍の武将かあるいは参謀が徐州の新太守となった劉備と結託して、曹操の土地を奪い取りに動きかねないと言う危険がある事を荀彧は懸念していた。
その為に、危険であったとしても短期決戦で呂布を倒す事を狙った策に切り替えてきたのである。
「呂布将軍、貴殿は罠に嵌った。今降伏するのであれば貴殿だけでなく、配下の者の命も保証しよう」
真紅の鎧を身にまとった曹操が精鋭の中から現れ、呂布に提案する。
ここで曹操を討ち取れば、この危機的状況を打開出来るのではないか。
呂布がそう思ったのが伝わったのか、曹操の前を精鋭達が遮る。
「宋憲、ここは退こう。俺が殿軍を務める」
宋憲は何か言おうとしたが、ここで有効な手立てを提案する事が出来ないと悟り、頷いて兵を引き始める。
「逃げる兵は追う必要は無い。私の標的は呂布将軍のみ!」
曹操の宣言に合わせて、一体が呂布の方へ向かってくる。
「この許褚が相手だぁ!」
「……玉?」
呂布は前に現れた者を見て、首を傾げる。
確かに『玉』だ。
それが喋っているのが、とても不思議で気になってしまう。
「いくぞぉ!」
「うお!」
物凄い勢いで『玉』が転がってくる。
呂布が方天戟を構えると、『玉』は呂布の前で大きく弾んで空から降ってくる。
「赤兎、避けろ」
方天戟で突くには勢いがありすぎると判断した呂布は、一旦『玉』の攻撃を避ける。
すると『玉』から腕が生え、その手に握られた巨大な杵が振り下ろされた。
想像を上回る破砕音が響き、地面を大きくえぐる。
「おお、よく避けたなぁ」
そう言うと『玉』から手足や頭が生え、武将になる。
「……妖術、か?」
黄巾党との戦いの時に似たような異形の者はいたが、この『玉』はその時の異形の完成度を数段高めたかのような異形である。
「よーし、次行くぞぉ!」
おっとりした掛け声ではあるが、手足を収納して『玉』になった許褚の突進力は凄まじく、大振りの杵の一撃は破壊力だけで言えば呂布を上回る威力である。
縦横無尽に転がりまわる『玉』は、体当たり込みで攻撃なので見た目ほど隙がある訳ではない。
だが、弱点はある。
凄まじい破壊力を誇る『玉』ではあるが、回転による勢いによって増幅されているため、その破壊力を連打する事はその場で独楽のように回転でもしない限り行えない。
その弱点がある為に『玉』は一打ごとに相手を大きく越えて体勢を立て直しているのだが、赤兎馬であればその回転を追いかけて体勢を整える隙を突く事が出来る。
呂布は『玉』の攻撃を避けると、すぐに追撃をかける。
転がる『玉』はすぐには体勢を整える事が出来ないらしく、十分な速度は出ているものの赤兎馬であれば追いつける速度だ。
呂布は『玉』に追いつくと、方天戟で『玉』を突く。
貫く寸前だったが、それは何者かに阻まれた。
恐ろしく筋肉質な巨漢で、両手にそれぞれ短戟を持った見るからに豪傑である。
「この典韋、助太刀する」
「おー、助かるぞぉ」
典韋の巨体の後ろで、また『玉』が回転し始める。
同じように転がって行くのを呂布は追撃しようとしたが、そこには夏侯惇が、また別のところには楽進、さらには李典が呂布の方天戟から許褚を守る為に布陣する。
それだけでも十分に厄介なのだが、その上に夏侯淵の弓まで飛来してくるとあっては、いかに呂布であってもまともに戦う事は出来ない。
……もう、十分か。
ここに曹操の他、曹操軍の主力の武将達が集まっているのだからここを突破できれば、こちらも体勢を立て直す事も出来る。
先に撤退した宋憲も逃げ切っただろう。
で、あればここを突破する事だが、それは必ずしも簡単な事ではない。
まず縦横無尽に転がる『玉』と、その援護で飛んでくる夏侯淵の矢だけでも十分面倒なのだが、包囲している典韋、夏侯惇、楽進、李典の四人もそれぞれに実力者である。
誰か一人であれば簡単に突破出来るところだが、『玉』を援護する為に十分な距離を取っている事も突破しづらい要因になっていた。
と言っても、赤兎馬の速度をもってすれば『玉』の戦い方を逆手に取る事も出来る。
速度も勢いもある『玉』は、一対一で戦えば相当強いのは間違いないが、ここまで自由な動きで動き回るとなると、連携を取り合うのは非常に困難である為に必然的にこう言う広く薄い包囲になってしまう。
呂布は赤兎馬の疾さを活かして『玉』を追うと、これまでのように『玉』を突こうとする。
それを同じように典韋が防ごうと前に出たところを見計らって、呂布はそのまま『玉』と典韋を素通りして、そのまま走り抜けた。
「はっはっは、これは一本取られましたね。無理に追う必要は無い。許褚、典韋、君らであっても一対一であの化物には勝てないでしょう」
大魚を逃したと言うのに、曹操は余裕を持って呂布を見送った。
呂布が濮陽に戻ろうとした時、陳宮や高順が呂布軍の兵と呂布の家族を護衛してやって来るのが見えた。
「軍師殿? どうしたので?」
「曹操が小細工して来たところで気付くべきでした。城の中に曹操と通じる内通者がいたのです」
「厳氏や姫が人質に取られる前に、城を捨てて逃げているところだ」
陳宮と高順が状況を説明する。
「それは助かった」
「……奉先、あいつは信じられるのか?」
高順は呂布に小声で尋ねる。
「ん? どうしたんだ?」
「あいつは内通者の事を知っていたのではないか? 逃走経路の確保も、そもそも撤退準備が全て整っていたのも気に入らないんだが」
「軍師は早くから城を捨てる策を考えていたんだから、それは不思議では無いと思うぞ?」
「まあ、奉先がそう思うのであれば良いんだが」
高順はそう言うものの、イマイチ納得していないように見えた。
許褚仲康と言う人
イメージでは農民から武将になったように思えますが、実は数百人を従える地主です。
叩き上げの典韋や楽進よりしっかりした身分の人です。
身長と胴回りが近いので本編では『玉』と言う、杵とかどこに持ってるんだよと言う物理的に有り得ない事をやってますが、もちろん正史でも演義でもこんなとんでもない事はやってません。
また、呂布と言えば虎牢関で劉備三兄弟と互角に戦ったのが有名ですが、今回の話の中に出てきた魏の六人と戦ったのは演義の中にある戦いです。
とてつもない化物です。
だって許褚一人で張飛やら馬超やらと互角なのに。
ちなみに名前だけ出てきた李封と薛蘭ですが、正史でも演義でもちゃんとした呂布軍の武将で、出向とは言うわけではありません。
それどころか、割と偉い人だったみたいです。
が、こんな感じで退場するところは史実通りに近いです。




