第八話
この時の蝗害の規模は極めて広く、その被害は甚大と言えた。
あと一歩と言うところまで曹操を追い詰めていた呂布だったが、戦を継続するどころか、自らの軍を維持する事さえままならない状態となり、濮陽へ撤退するしか無かった。
それは呂布だけでなく、張邈や張超、曹操でさえこれ以上戦う事は出来ずに本拠地へそれぞれ戻って体勢を整える事が急務となり、一時休戦となる。
「……これは当初軍師殿が思っていた結果に近いのでは?」
「とんでもない。大失敗です」
撤退の道すがら、呂布は陳宮に尋ねたが、陳宮は苦々しい表情で首を振る。
「ですが、徐州から曹操は兵を退かせる事には成功しましたよ? 聡明な曹操殿であれば、この苦境から得るモノは大きいはずです」
張遼も話に加わるが、陳宮はやはり表情は険しいまま首を振っている。
「確かに曹操は聡明であろう。その聡明さで言えば、天下に五人といない英傑と言うのは、私も認めるところではある。だが、あの男はその才覚に自覚もある。私は曹操の考え方を変える為に苦境に陥れるのではなく、徹底的な挫折を味合わせるつもりだった。それくらいでなければ、曹操の考えは変わらない。だが、その挫折を味合わせれば曹操の事。考えを改め、その後は能臣として働くはずだったのだが」
こう言う人達の目には、どんな風に見えているんだろう?
呂布は思い悩む陳宮を見て、不思議に思う。
もちろん陳宮だけに限った話ではない。
例えば李儒は戦場に出ずに戦を動かし、董卓の傍にいながら天下を動かそうとしていた。
賈詡は何もない荒野だった長安に堅城を建設しながら洛陽の状態を察し、また長安の外から長安内部を察する事が出来た。
董卓軍の諸将は己が武勇のみを頼る傾向が非常に強かったが、唯一と言ってもいい例外であった華雄は、李儒の知略によって古参の四天王などさえ上回る圧倒的な武功を挙げていた。
戦場における兵の指揮や戦術での勝負であれば、呂布もそれらの知恵者と比べてもさほど大きく劣る事は無いと思っている。
だが、軍師と言う種の者達の思考は、そこでとどまらない。
さらなる高みから、さらに遠方へその思考を走らせる。
それは何も戦場だけの事ではないと、呂布は濮陽に戻ってから思い知らされた。
蝗害のせいで、城の内外を問わず食料不足となったのだが、それはどこも同じ状態であるので、他の誰にも頼りようがない。
そこで陳宮が食料の分配量を算出し、それを規則として遵守させる事とした。
ここまでは今までと変わり無い事なのだが、その量に問題があった。
これまでの量と比べて半分以下なのである。
もちろん不満は噴出したが、陳宮はその不満から真っ向から反発した。
どれだけ文句をつけても、食べ物が無いのだからそれ以上消費させる訳にはいかない。嫌なら出て行け、とまで言ったのである。
現状の物資では、賄える兵数は限られてくる。
その為の口減らしは止むを得ないところではなるのだが、陳宮はそれを隠そうともせずに、むしろはっきりと口にした。
当然その反発は大きく、それは兵士達だけではなく呂布軍の武将達にも深い溝を刻む事になった。
張遼、宋憲、曹性などは口調に問題はあるとは言え、陳宮の方針は正しいとして支持する立場にしているが、高順、魏続、成廉などは真っ向から反対している。
呂布との付き合いの長い重臣である張遼と高順が正反対の立場となっている事が、呂布軍の事態を深刻なものにしていた。
しかし、陳宮はその事も意に介さず、食事制限を断行する。
「何をどう言ったところで、食料が無いのだから仕方が無いだろう」
呂布はそう言って、武将や兵を宥めて回った。
食料事情と言うものは、兵の反乱を招く原因として極めて深刻なものである。
その上、軍師の戦略に対して在籍している武将の意見が真っ二つに分かれているとあっては、むしろ暴動が起きない方が不思議なくらいの不安定さだった。
その状況下にあって兵の反乱が起きないのは、圧倒的な実力を見せつけてきた呂布の武勇と人望によるところが大きかった。
それともう一つ。
「皆さん、お疲れ様です」
炊き出しに出ているのは、呂布の妻と娘も参加している。
もっとも贅沢を望みそうな人物達が、率先して粗食に耐えているのだから、兵士達も不平を言いづらいと言う事もあった。
いかにも贅沢を好みそうな雰囲気の厳氏と天真爛漫そうな蓉だが、その見た目の割に純朴でむしろ贅沢に慣れていないと言う側面もある。
善意によってかろうじて崩壊を免れている濮陽だったが、冬を越えて春を迎えた時にさらなる問題が出てきた。
張邈と張超から、それぞれに呂布に対して兵糧を要求してきたのである。
「いやいやいや、こっちも食物無いし」
「とはいえ無下には出来ないだろう。実際に借りはあるわけだから」
高順は反対したが、だからといって無視出来ない弱みが呂布にはあった。
東阿攻略の際に糧道を絶たれた呂布軍は、物資の援助を受けている。
それを返せと言ってきているのだから、必ずしも理不尽とは言えないところがあるのだ。
「無視してもいいでしょう」
と言ったのは、意外な事に陳宮だった。
「自軍の管理も出来ない様な奴らであれば、我らが借りた分以上の物を要求してくるでしょう。今の我らは対曹操の最前線。その我らの戦力が低下しては……」
言いかけたところで、陳宮は何かに思い当たったらしく言葉を区切る。
「軍師殿?」
張遼は不思議に思って尋ねるが、それは尋ねたのが張遼だったと言うだけで全員が気になっていたところである。
「いや、これはまずいな。曹操がそれを見逃すはずもない」
「何一人で納得してるんだよ。どうかしたか?」
高順はそう言うが、陳宮の表情は険しい。
「だが軍師殿、我らの兵力は十分なくらい残っているだろう?」
成廉が言うように、呂布軍の兵力はさほど減っていない。
口減らしの為の政策を陳宮は打ちたて、一時的に離脱者は出た。
しかし城を出たところで、蝗害の被害は広範囲に及んでいるのだから食べるものなど無い。
それどころか城にはわずかながらでも食料はあったが、城から出るとそれさえも得られず、酷いところになると人が人を喰らうような有様だった。
それでも僅かな食料を狙って略奪しようものなら、それを罰しに来るのは当代最強武将の呂布とその精鋭である。
呂布とその精鋭達は想像以上に質素な生活と粗食に耐える事が出来る為、並みの空きっ腹を抱えた者達ではまったく歯が立たない。
そう言う事もあって、離脱した者達のほとんどはバツが悪そうに出戻ってきて、その甲斐あって兵力はさほど減少していない。
むしろ濮陽からの志願兵で増えているくらいである。
これによって領地は濮陽のみなのだが、現状の張邈や張超より強力な兵を持っていた。
「いえ、曹操の相手は務まりません。同じように蝗害を受けたとは言え、その回復力に差があります。この濮陽は捨てる事になりそうですね」
「……はぁ?」
突然の事に、高順だけでなくほとんどの者が陳宮の言葉に耳を疑った。
今回短くてすみません。




