第六話
「陳宮! この毒婦め! 孟徳を裏切るか!」
東阿攻略の為に移動している時に気が付いた夏侯惇は、真っ先に視界に入った陳宮を罵り始める。
「まあ、そうなりますかな」
それに対する陳宮の態度は冷淡そのものであり、まともに相手をしようなどとは考えていないのが一目で分かる。
「呂布よ。これ以上戦っても勝ち目がない事くらい、戦に長ける者であればわかるであろう」
取り付く島もない陳宮では相手が悪いと思ったのか、夏侯惇はすぐに標的を呂布に変える。
若干短絡的ではあるが、現在の戦況だけを見ると追い詰められているのは曹操軍であり、このままいけば勝ち目がないのは曹操軍の方ではないだろうか。
と、呂布は思ったのだが、今の夏侯惇にそれを言っても納得する事は無いだろうと考えて、あえて何も答えなかった。
「軍師殿、この首を落とした方が相手の戦意を挫く事になるのでは?」
「ならない」
魏続が提案するが、陳宮は即答する。
「むしろ相手に決死の覚悟を持たせるだけで、こちらにとって利する事は何もない」
「そうですか? 万軍求め易くとも一将求めがたしと言うではないですか。武将の損失と言うのは、そう簡単に埋められるものではない事を考えても、生かしておく意味は無いでしょう」
「その損失が大きければ、それを埋める為の戦意をこちらに向けてくるのが分からないか? 我々は濮陽を押さえ、これから張邈、張超軍と合流するまでは曹操軍に対して絶対に勝てると言い切れるほど有利な訳ではない。徐州から急遽引き返してくる曹操軍本隊は、それだけで疲労に悩まされている事だろう。そこに夏侯惇討ち死にと言う疲労を吹き飛ばすほどの劇薬を与えるのは、こちらの不利益どころか全軍崩壊を招きかねない。故に夏侯惇には生きて役に立ってもらうのだ」
陳宮は夏侯惇に対してだけではなく、魏続に対しても同じように冷淡な口調ではあったが、それでも丁寧に説明する。
もっとも、魏続の表情を見る限りでは丁寧に説明されていると言うより、呆れられて馬鹿にされていると思っているようで、かなり不満げな表情である。
魏続としてはせっかくの呂布軍としての初陣だったので目覚しい武功を挙げたかったようだが、彼に与えられた役割はわざと敗れて呼び込む事だった。
非常に重要な役割である事は間違いないのだが、若い魏続としてはもっと分かりやすい形での武功を望んでいた。
例えば、敵将の首。
現時点の勝利において、夏侯惇の呼び込みに成功した魏続と侯成の功績は大きい。
しかし、実際に奪った輜重と言う分かりやすい武功の証拠がある高順や、副将との分断によって多数の曹操兵を討った曹性、退路を絞る為に副将の韓浩を蹴散らした張遼などと比べると目に見える武功の証拠が無い。
そう言う焦りのようなものが、夏侯惇の首を求めているのだ。
また、一つの首を魏続と侯成の二人で分ける訳にはいかず、そうなった場合には立場の強い魏続がその武功を独占する事も出来ると考えての事でもあった。
が、もし夏侯惇の首を落としたとしてもそれは捕らえた呂布の武功であり、その武功が魏続の手柄になる事は無い事を、魏続は思い至っていない。
陳宮はその底の浅さを見抜いているようだったが、それでも態度の悪さはともかく丁寧に説明しているのは、呂布の親族と言う事もありはするのだがそれだけではなく、一部隊としての呂布軍と見ると層の厚さはあっても一勢力としてはまだまだ人材不足である。
そう言う事情もあって陳宮は呆れながらも魏続に対し、態度は悪いながらも懇切丁寧に説明しているのだが、魏続はその陳宮の態度の悪さだけではなく、文官の、しかも女性から指図される事も気に入らないらしい。
従軍軍師ともなると文官では無いのだが、呂布や張遼、袁紹軍で将軍位にあった宋憲などはともかく、成廉や魏続などは軍師や参謀はまとめて文官扱いであり、実際に槍合わせする様な度胸も腕も無いと思い込んでいる。
実力で言えば陳宮は並の武将をはるかに上回る武芸を身につけているのだが、その実力を見せようとしないのは何かしらの見返りを見越して黙っているのか、単純に説明するのが面倒なのかは分からない。
イマイチ噛み合っていないのを呂布は感じていたが、新参の陳宮が指示を出している事が呂布軍の武将達は気に入らないようだった。
それでも東阿攻略は陳宮が中心となって進めている。
この東阿攻略は武力のぶつかり合いではなく、夏侯惇と言う人質を使った交渉なので呂布達の出る幕が無いと言う方が正しい。
呂布軍の大半が東阿攻略に参加しているとはいえ、これまで落としてきた小城と違って東阿は最終防衛線の一角であり、いかに勇猛果敢な呂布軍とはいえ力技で落とすのは簡単な城ではない。
「東阿の守備兵に言う! 夏侯惇は捕らえた! 夏侯惇解放の条件として、城を明け渡せ! 入城と共に夏侯惇とその兵を解放する事を約束する!」
陳宮がよく通る声で、東阿の城に向かって言う。
「軍師殿、単独で近付き過ぎです」
一人で城に向かって行った陳宮を、呂布は急いで追いかける。
いくら新参で呂布軍の武将達と意志の疎通が上手くいっていないからといって、敵将の守る城に向かって単独で向かっていくのは、大胆にも程がある。
「こちらに夏侯惇がいる以上、向こうに下手な手を打つ事は出来ませんよ」
陳宮は呂布に向かって言う。
「それでも念の為、俺が護衛しましょう」
「将軍に護衛していただけるのであれば、これほど心強い事はありません」
呂布に護衛され、陳宮は東阿の城門に近付いて行く。
「そこで止まられよ」
城門の上から、夏侯惇の副将だった韓浩が姿を現す。
「そちらは夏侯惇将軍を捕らえたと言っているが、夏侯惇将軍御本人の姿を見せないのは何故か。実は捕り逃していながら捕らえたフリをしているだけではないのか」
「ふむ。踏みとどまるには悪く無い言い分だ」
陳宮は感心しながら頷く。
「だが、すがりつくにはあまりに脆い望みだ。将軍、お客人をお見せしましょう」
陳宮に言われて、呂布は後続の部隊に合図を送る。
侯成が暴れない様に縛られた夏侯惇を連れ、呂布の元へやって来る。
「あれ? 魏続じゃないのか?」
「はい。お前行ってこいと言われて」
「魏続、拗ねてるのかな?」
「みたいですよ」
侯成は苦笑いしながら言う。
よほど自分の功績に納得出来ていないらしく、魏続は自分より歳も位も低い侯成にすべて押し付けているらしい。
こう言う事で自分の評価を下げるのは感心しないのだが、他人に言われるより自分で気付かなければ簡単に治るものでもない。
「まあ、後で一言言っておこう」
「よろしくお願いします。魏続さんも悪い人では無いんですけどね」
侯成はそう言うと、一歩下がる。
「ふん、呂布軍と言っても所詮は寄せ集め。足並みの揃わない事はなはだしいな」
「まったくです」
夏侯惇の言葉に、呂布は素直に頷く。
事実現状の呂布軍は寄せ集め以外の何者でもないのだから呂布は頷いたのだが、夏侯惇としてはかなり意外な答えだったようで驚いている。
「さて、それでは仕事をしてもらいましょう」
陳宮は呂布と夏侯惇の会話を打ち切って、夏侯惇を連れて城門の前に行く。
「守備兵よ、見ての通りだ! 城を明け渡すと言うのであれば、夏侯惇の返還はもちろん、こちらから追撃をかける事も無く、無事に故郷へ帰る事が出来る事も約束しよう。もし拒むと言うのであれば、人中の呂布と戦う事になるだけでなく、従兄弟を見殺しにしたとして、曹操から叱責を受ける事になるぞ!」
陳宮はよく通る声で、守将である韓浩だけでなく守備兵にも呼びかける。
「韓浩! 俺の事は……」
「夏侯将軍。この韓浩の能力の低さを許して下さい!」
夏侯惇が呼びかけるとほぼ同時に、韓浩が城門の上から叫ぶ。
「私には呂布軍を打ち負かし、夏侯将軍をお救いするほどの能力はありません。ここは曹操軍にとっても要の防衛拠点。私の一存で放棄する事は出来ません。私と夏侯将軍の二人の命で呂布の足を止める事が出来るのです。どうか、将軍を見殺しにするこの韓浩を恨み、呪い殺して下さい」
韓浩は涙に声を震わせながら、それでも夏侯惇と陳宮の足元に矢を射掛ける。
「よくぞ言った! それで良いぞ、韓浩! この夏侯惇、死など恐れはせん! 孟徳に伝えるがいい。夏侯惇は自ら死を望んだので、決して見殺してはいないと! 守備兵達は自らの役職に従ったのみで、責任に問われる様な事は無いと!」
夏侯惇は城兵に向かって叫んだ後、陳宮や呂布の方を振り返って高笑いする。
「はっはっは! アテが外れたな! 所詮は女の浅知恵よ!」
「確かに、アテが外れたな。まさか確約を取る前に、主君の身内を見捨てられる決断が出来る武将がいるとは思わなかった。いや、案外人望が無かったのか?」
陳宮は夏侯惇に疑いの目を向ける。
「ふん、何とでも言うがいい! これで攻略の足がかりが無くなった事に変わりはないのだからな」
「いや、別にそう言う事は無い」
勝ち誇る夏侯惇に、陳宮は特に慌てた様子も無く言う。
「元々こちらは全軍合流の後に総攻撃を仕掛けるつもりで、そちらもそれに対する有効な手立てが無いからこの様な小細工に走ったのだろう? こちらも人質が手に入ったのであればそれで楽が出来ると思ったのだが、それが通用しないと言うのであれば元の戦略に戻すのみ。事態は特に何も変わっていないと言う事だ」
「……軍師殿、人質の効果が無いと言う事は、これ以上夏侯惇将軍を捕らえておく事に意味が無いと言う事か?」
呂布は陳宮に尋ねる。
「そう言う事になります。ですが……」
「では、ここで解放してはどうか?」
「……は?」
呂布の提案に陳宮だけでなく、侯成も、囚われている夏侯惇ですら耳を疑っていた。
「いや、要請しているとは言え、現状の俺達は物資不足である事に変わりはないわけだし、たとえ数人であったとしてもその分の食料は減っていく訳で。これ以上の交渉に進展が無いと言うのであれば、そこに無駄な消費を発生させずに済むと思うのだが、どうだろう?」
「実に賢明な判断です。私もそれを進言しようとしていましたが、さすがです」
「待って下さい! いくら何でもそれは甘すぎませんか?」
抗議したのは侯成である。
「夏侯惇と言えば音に聞こえた名将の一人。呂布将軍ならともかく、今後こう言う機会は無いでしょう。このまま解放するより、人質としての価値が無いと言うのであれば討ち取った方が良いのでは?」
「言いたい事はわかるが、それは短絡的過ぎる」
侯成に向かって、陳宮は言う。
「たしかにここで夏侯惇を討ち取ったら、曹操軍には計り知れない損失を与える事になるが、そうすると守備兵達は死をも恐れぬ修羅となって我々に襲いかかってくる事になる。今の呂布軍と守備兵の数で言えばほぼ差がないとはいえ、その状態になっては呂布将軍以外には手も足も出なくなるぞ」
「そこの若造の言い分にも一理あるぞ」
陳宮は説明していたのだが、そこに夏侯惇が口を挟んでくる。
「この俺を討つ機会は、そう多くはないだろう。今、この機会を逃したら後悔するぞ。あの時に討ち取っておけば、こんな事にはならなかったと嘆く時が必ず来る。そうならない為にも、ここで俺を討ち取っておくべきではないか?」
「その手には乗らん」
夏侯惇は侯成を焚きつける様に言っていたが、陳宮は即座に却下する。
「侯成、と言ったな。先程も言った通り、曹操軍にはこちらの総攻撃を止める有効な手立てが無い。夏侯惇は我々に討たせる事で、守備兵達に我々が仇であるという分かりやすい目標を持たせ、その士気を高めようとしているのだ。呂布将軍であれば問題無いかもしれないが、数千の血に飢えた兵を相手に我々が互角に戦う事が出来るか? 戦いが終わった後、戦場には敵味方合わせても呂布将軍一人しか生き残っていないという事にもなりかねないのが分からないか?」
「……ですが、だからといって……」
「気持ちは分からないではないが、ここは呂布将軍が提案した通り、捕らえた夏侯惇とその部下をまとめて解放するのが最善の一手なのだ」
「侯成、ここは軍師殿の言い分の方が正しい。それに、元々俺はそうするつもりだったんだ。ここは従ってくれないか?」
言っているのが陳宮だけであれば徹底抗戦の構えも出来るが、呂布にそう言われては侯成としても従わざるを得ない。
結局夏侯惇とその部下達の全員をこの場で解放する事になり、夏侯惇は部下達を先に帰し、自らが殿軍として最後まで呂布軍に残る。
「……よほど信用が無いんだなぁ」
「当たり前だ。特にそこの陳宮など、我らを裏切ってこの場にいるのだ。解放すると言っておきながら後ろから襲いかかる程度の裏切りも、十分に考えられるではないか」
夏侯惇は陳宮を睨みながら言うが、陳宮は眉一つ動かさない。
「それほど浅い事を軍師殿がするとは思えないけど」
「とにかく、だ。私人として、礼節を持って接し、人道に則って解放してくれた事には感謝もするし、恩義も感じる。しかし、公人として戦場であいまみえた時には一切の加減も容赦も無い事は、武人として理解いただきたい」
「それはもちろん」
呂布が頷くと、夏侯惇はこれまでの横柄な態度とは打って変わって、礼節を重んじる高潔な武人としての態度で呂布に頭を下げる。
「……揉めるかなぁ?」
悠然と東阿に引き返していく夏侯惇を見送りながら、呂布は呟く。
「揉めるでしょうねぇ」
そう答えたのは、陳宮ではなく侯成だった。
曹操軍崩壊を救った男、韓浩元嗣
そもそも今回の話は演義での扱いが小さく、韓浩に関しても演義では同姓同名の別人の様な扱いなのですが、曹操個人の生死の危機は何度もありますが、曹操軍の勢力で考えた場合、数少ない完全崩壊の危機でもあったところです。
本編でも少し触れた通り、曹操の父親が殺された事で徐州の民百万人が殺される事になったのは曹操軍であれば全員が知っているはずですが、その上で韓浩は拠点防衛の為に見殺しにするという暴挙とも言える決断。
例えるなら、社運を賭けた一大プロジェクトから社長の従兄弟を外すくらいの大胆過ぎる行動です。
それが成功したとしても、その決断を下した韓浩はそれ以降窓際に追いやられてもおかしくないくらいの行動ですが、それが無ければ呂布によって最終防衛ラインを破られていた可能性が高く、そうなると曹操の本拠地である許昌ですら守り通す事は出来なかったでしょう。
また、政治家としても非常に優れた人材でもあったのですが、何故か演義では対した活躍も無く、しかも韓玄の弟と言う謎設定というか死亡フラグまでついて来てしまっています。
たぶん、同姓同名の別人なのでしょう。
ちなみに夏侯惇ほどの人物でさえ人質として価値がないとされたので、これ以降曹操軍に対して人質を取って脅迫するという方法は取られなくなったとか。
今後活躍の場が与えられるかは未定ですが、実は相当優秀な人物なのです。




