第三話
その大事件は、当然 張邈の元にも届いてきた。
その報を受けた時、張邈は烈火の如く怒り、自ら軍を率いて曹操と共に徐州へ攻め込むと言い出したくらいである。
さすがにそれは張超と呂布が引き止めたが、張邈の怒りは収まらなかった。
「これは怒りを表に出すところだろう! 陶謙は自ら護衛を買って出たんだぞ? それにも関わらずオヤジ殿の命を奪っただけでなく、一族の命と金品まで奪ったと言うではないか!」
「陶謙殿と言えば、恩徳に優れ、慈愛をもって徐州を治めていると評判のお方。何かの手違いなのでは?」
呂布は落ち着かせようとして言ったのだが、それは逆効果だったのか張邈は呂布を睨む。
「温情だけの男に太守が務まるか! 部下の統率も出来ていない無能だと証明しただけだ!」
「ですが、兄上が軍を出す理由にはなりません! 落ち着いて下さい」
「孟徳のオヤジ殿は、俺のオヤジも同じ! それを殺されたとなって、黙っていられるか!」
熱過ぎる張邈は譲ろうとしなかったが、曹操から出兵の要請も無い以上、張邈が勝手に援軍を出すのは周囲に無用の誤解を招く事になる。
「そんな誤解など、些細な事! 俺が黙らせてやる!」
張邈は呂布や張超の言葉も聞かずに出ようとしたが、そこへ遠慮がちに呂布の妻である厳氏が呂布を探してやって来た。
「あ、将軍、お話中でしたか」
「どうした?」
「いえ、曹操様が徐州の民を殺すと聞いたもので……」
困り顔の厳氏を見て、切れ散らかしていた張邈も不思議そうに厳氏を見る。
「ああ、徐州は妻の故郷で」
「え? 将軍の妻と言う事で、すっかり都の人かと」
呂布本人以上に、妻の厳氏は政治や権力と言うモノに興味も執着も無いため、まったく本人も意図していないところで謎に包まれた人物になってしまっている。
実際には謎でも何でもない、ただただ善良で穏やかな女性なのだが、その冷たく美しすぎる外見と呂布の妻と言うだけで、身分の高い女性達とは話しが合わず、身分の低い女性達からは敬遠されてしまい、その結果誰も彼女の正体を知らないと言う、謎の女が出来上がってしまった。
「あの、私個人の意見で申し訳ないのですが、心配になってしまって……」
普段あまりこう言う事に口出しする様な事の無い厳氏なので、よほど心配になったのだろうと呂布は思う。
「申し訳ございません、張邈様。大事な話し合いのお邪魔をしてしまって……」
「い、いや、とんでもない」
「それについては張邈将軍と話しをするから、部屋で大人しくしているんだ」
「はい、よろしくお願いします」
厳氏はそう言って頭を下げると、借り受けている自室へ戻っていく。
張超と呂布があれだけ必死に説得した時には耳を貸さなかった張邈だったが、厳氏が一声かけただけで、その意気は砕かれてしまった。
厳氏が美しいと言うだけでなく、より民衆に近い声だった事も影響している。
「兄上、ここは慎重さを要するところです。軽々に軍を動かすべきでは無いでしょう」
張超は、厳氏が退出した後に張邈に向かって言う。
「……いや、でもなぁ。オヤジ殿の事で何も行動しないのは、さすがにどうだろうと思うんだが」
先ほどとは打って変わって発言に力強さは無くなったものの、張邈は出兵の考えを改めようとはしていない。
「張邈将軍、曹操様よりの使者と言うお方がお見えになられていますが」
そこへ曹操からの使者が来訪したと言う報告が入り、一時話を中断して使者を迎える事になった。
「お久しぶりです。ご無沙汰しております」
「おお、これは陳宮殿ではないか」
突然の来訪者である陳宮を、張邈は快く迎える。
陳宮と言えば曹操軍の身内を除くと最古参の一人であり、曹操軍の中心人物の一人として名の挙がる人物でもある。
その陳宮が来訪したとあっては、もてなさない訳にはいかない。
「もてなしは無用。急ぎの用があって参りました。ところで、こちらの方は?」
陳宮はさっそく本題を切り出そうとするが、面識の無い呂布の存在に目を向けてきた。
「こちらの将軍こそ、当代きっての名将であり『馬中の赤兎、人中の呂布』と謳われる呂布奉先将軍その人だ」
張邈は我が事のように誇るが、陳宮の表情はさほど変わらない。
呂布の妻の厳氏も外見は冷たい雰囲気を感じるが、この陳宮は並外れて美しいが冷徹そのものといった印象が極めて強い。
あの曹操の参謀を務めるだけはあり、ただ美しいだけの女性では無さそうだった。
「これは、お初にお目にかかります。陳宮公台と申します」
「どうも、呂布奉先です」
二人はお互いに名乗り合うと、陳宮はすぐに張邈の方を向く。
「張邈将軍は、徐州での変事は聞いていますか?」
「無論。陶謙許すまじ、と息巻いていたところ。孟徳にすぐに援軍を送ると、陳宮殿からもお伝えいただきたい」
曹操の腹心である陳宮がやって来た事によって張邈の強気は復活したが、張邈の予想と違って陳宮は首を振る。
「その事ではありません。既に曹操殿は『報仇雪恨』を掲げて徐州に攻め入り、ただ徐州に住むと言うだけで罪と断じ、徐州の民を数十万人に及んで虐殺しているのです」
「……何?」
「今曹操軍に援軍を送ると言う事は、その大量虐殺に加担すると言う事。私は曹操殿と旧知である張邈将軍に、その蛮行をやめさせるために協力していただけないかと思い、やってまいりました」
陳宮はそう言うが、その情報を処理するのに張邈だけでなく、呂布も時間がかかっていた。
呂布が最近『人中の呂布』と言われているように、曹操にも『治世の能臣』と言う有名な異名がある。
それは曹操が極めて有能な政治家である事を示し、そんな曹操であれば領地に住む住民の重要性も十分理解しているはずだった。
そんな人物が無差別虐殺を行っていると言う事が、例え曹操の腹心である陳宮からの言葉であっても、なかなか信じる事が出来なかったのである。
「……何かの間違いでは?」
「何かの間違いで、私は張邈将軍の手を煩わせる様な事は致しません。すでに徐州では死体によって川はせき止められ、上流では水害が、下流では田畑が干上がりそれを手入れする者も全て殺され荒れ果てている次第。今の曹操軍の行動には何も戦略意図は無く、ただ殺していると言う、絶対にあってはならない状態なのです」
「孟徳が? いや、さすがに孟徳でもそこまでは……」
「兄上、陳宮殿は曹操陣営の中でも腹心中の腹心。その方が何の根拠も無しに主君を貶める様な事は言わないでしょう。徐州の大虐殺、事実であると考えて早急に手を打つべきです」
陳宮だけでなく、弟の張超も言う。
呂布はそもそも陳宮との面識が無いので口を挟みにくいのだが、曹操と言う人物の事を考えた場合、どちらかと言えば張邈が悩んでいる様に非戦闘員である住民を虐殺していると言うのは、にわかに信じられない。
そう思う反面、曹操と言う冷徹な戦略家であれば何らかの見返りを計算出来るのであれば、悪評であれ汚れ役であれ意に介する事無くやってのけるのではないかとも思う。
「実はもう一つ、張邈将軍にとって面白くない話があるのです」
陳宮がそう切り出すと、張邈兄弟だけでなく呂布も耳を傾ける。
もう十分な凶報を受け取ったのだが、さらにと言われると何がと言う気になってしまう。
「先日より、殿の元へ袁紹よりの使者がまいっておりまして。袁紹は殿へ、張邈将軍討伐を強要しております。袁紹にとって戦上手で人望の厚い張邈将軍は脅威なのです。その将軍の元へ、稀代の名将である呂布将軍まで加わったとなっては一大事。なんとしても取り除かねば、と策を弄しています」
「はっ、笑止千万よ! 袁紹如きが小細工を弄したところで、俺と孟徳の絆は切れはせぬ!」
「果たしてそうでしょうか」
自信満々な張邈にそう言ったのは、陳宮ではなく弟の張超だった。
「あ? 何が言いたい? 俺と孟徳はお互いに何かあった時には残された両親の面倒を見ると約束したほどの間柄。袁紹如きの言葉に揺ぎはせぬ」
「兄上、その約束ですが、大きな問題があります」
張超が険しい表情で言う。
「我らの両親は健在なれど、曹操は両親と直系の一族を失いました。言わば我らだけが人質を取られている様なモノ。すでにこちらが守ると約束した曹家の親がいない以上、曹操にとっての関心事は我らと袁紹、どちらに付くのが自分にとって利があるかと言う事」
「孟徳はそんな男ではない!」
「私もそう思っておりました」
陳宮がそう言うのを、張邈が睨む。
「女が口を挟むな!」
「私は張邈将軍ほどでは無いにしても、それなりの期間を曹操殿と共に歩み、その勢力を拡大する事に微力を尽くしてきたと自負しております。ですが、今回の一件で変わられてしまった。……変わられてしまったのです」
陳宮の言葉は重く、熱しやすい性格の張邈でさえ一瞬で冷やす効果があった。
曹操が変わった、と言われてしまっては今回の徐州攻めによる住民の大量虐殺も見え方が変わってくる。
これまでの曹操はこの様な愚行を犯すようには思えないが、それでも決行した場合にはそれに応じた見返りがあるゆえだ、と考える事も出来た。
しかし、ただ父親の仇と称して八つ当たりの延長としての大量虐殺であった場合には、そこに戦略はなくただ感情に従っただけの行動であり、それを最優先にとして行動したと言う事を見せたのである。
それであれば張邈との情による口約束より、袁紹との実利を伴う繋がりを優先する事も十分過ぎるほど考えられるのだ。
「陳宮殿、ここへ来られたと言う事は何か有効な手立てがあっての事だと思うのだが、それは期待して良いのか?」
まだ悩んでいる張邈と違い、張超は次の一手を陳宮に尋ねる。
それが無ければ陳宮は、ただ凶報を伝えに来ただけと言う事になるのだ。
「ここに至っては、言葉は無力。もはや力しかありません」
「と、言うと?」
「今の曹操陣営の大半は徐州攻めへ出て、本拠地は手薄。張邈将軍が軍を率いて攻め込まれれば、曹操殿とていつまでも虐殺をしている場合ではないとわかるはず。さらにその勢力を削いでおけば、袁紹とて曹操殿を利用しようとは考えぬはず。その後、張邈将軍が占拠された本拠地を曹操殿にお返しして事を説明すれば、かつての曹操殿が戻ってこられるはず」
「なるほど、それは妙案」
張超は大きく頷くが、張邈は険しい表情のまま陳宮を睨む。
「貴様、この俺に孟徳に背けと勧めるか」
「背く?」
張邈の脅し文句に、陳宮は不思議そうに首を傾げる。
「そもそも張邈将軍と曹操殿とは同格同列であり、そこに上下は無いでしょう。悪逆無道を諌めるに、まるで主従が如き振る舞いは必要ありますまい。それとも何か引け目でも?」
「ふざけるな! 俺が孟徳と主従だと? 俺が孟徳に対して引け目など感じる事は無い! 筋道の話をしているのだ!」
「つまり己の評判が第一であり、今まさに血を流している民の事など知ったことではないと? 張邈将軍、本気でその様な事を?」
陳宮の言葉に、張邈ははっきりと怒りを表に出す。
「この俺を侮るか、女の分際で! 孟徳の重臣でなければ叩き切っているぞ!」
「なるほど、張邈将軍は話の内容ではなく話をしている者によって態度を変えると。実に嘆かわしい限り。私の目も曇っておりました。今日の話、忘れて下さい」
陳宮はそんな張邈をまったく恐れる様子も無く、呆れた表情で言う。
「兄上、陳宮殿もその辺りで」
「失礼。言葉が過ぎました」
張超が間に入る事で、陳宮はすぐに折れて頭を下げる。
「しかし、今なお徐州の民が虐殺されている事は事実であり、このままでは徐州の民は一人残らず殺されるか、あるいは最期の一人となるまで戦い続ける事になりましょう。それを止める事が出来るのは、たとえ泥を被り、消せぬ悪名を背負う事になったとしても、それは張邈将軍にしかできぬ事」
陳宮はそう言うと、呂布の方を見る。
「そこに控える呂布将軍は、天下に親殺しとして後ろ指を指される事となっても、天下万民のために大逆の徒である董卓をお討ちになられた当代の英雄。そこを知っているからこそ、張邈将軍も呂布将軍を天下の名将としてお迎えしたのでしょう?」
陳宮の言葉につられて、張邈と張超は呂布の方を見る。
「……いや、俺はそんな……」
「確かに、呂布将軍は悪名を恐れる事無く董卓を討ち取られた。孟徳が進言に耳を傾ける事無く民を虐殺していると言うのであれば、それを止めるのは俺の役目か。そして、孟徳に兵を引かせるには、俺が兵を率いて打って出るしかないと言う事だな」
「それによって張邈将軍は悪名を被る事になりましょうが、その真意は曹操や袁紹ではなく天下万民がきっとわかってくれるはず」
心を動かされた張邈に賛同する様に、張超が言う。
「呂布将軍、力を貸してくれるか?」
「俺は世話になっている身。もちろん、尽力しましょう」
こうして張邈は兵を率いて、曹操の領地へ攻め込む決意を固めた。
張邈の謀反
と言われますが、これは張邈の意志と言うより弟の張超と陳宮の説得が大きかった様です。
また、演義では一瞬で曹操の元を離れる陳宮ではありますが、正史ではこのタイミングまで曹操と行動を共にしています。
本編でも語っている通り、夏侯兄弟や曹仁達の様な身内を除くと最古参の一人で、荀彧などより曹操軍に長く在籍していた事になります。
曹操軍に数多くいる軍師の中でも、おそらく曹操軍で最初の軍師だったのではないでしょうか。
そんな陳宮と曹操の事が大嫌いな弟の張超が説得したとあって、張邈は曹操の背後を襲う事を決めたみたいですが、袁紹との関係悪化もやはり大きな要因だったみたいです。
袁紹と曹操は幼少の頃からの付き合いだった事も伝わっていますが、張邈ともかなり長い付き合いがあったはずなのですが、反董卓連合以前から袁紹と張邈の関係はあまりよく無かったのではないでしょうか。
『さほど仲が良くない友達の友達』と言うのが、袁紹と張邈でその間の曹操はこの時期板挟みだったと思われます。
ただ、この決断は張邈の熟慮の末と言うより時流に流されたところを感じます。
ここから張邈と張超の兄弟の運勢が大きく変わっていきます。




