屠龍篇
◇
その日、朝酒を飲んでいびきを掻いていたスサノオは、突然、二度寝の楽しみを打ち切って、目を覚ました。
表へ飛び出して、額に手をかざし、空を見上げる。
「どうなさいましたの」
小屋の隣で洗濯物を干していたクシナダが、振り返って言った。
「ヒメよ、どうやら奴が来たぞ。オロチが」
「えっ」
クシナダは、スサノオの見ている方向の空を、同じように見た。しかし何も見えない。
「どこです」
クシナダが訊くと、スサノオは
「ばかだな、まだ見えるわけがないよ」
と答えた。確かに見えていたらもう手遅れだ。
「でしたら、なぜ来たと分かるんですの」
「それは……」
スサノオは言葉に詰まった。こういう感覚を当たり前に持って、独りで生きてきたスサノオだから、それを他人に説明するということがこれまでにない。
「強いて言うならば勘、のようなものだ」
「まぁ」
クシナダは笑った。
「そんな不確かなことでは困ります。いないかもしれませんわ」
「そのときは、引き返せばいいじゃないか」
「ですけど、お酒だってタダではありませんのよ。それに勘だなんて……。あぁおかしい」
「うるさいな、笑わば笑え。わしは大昔から、そうやって獲物を取ってきたのだ。文句があるか」
「ありませんとも」
そのとき、このあいだの馬主の男が、馬を曳いて通りかかった。
「へーぇ。だんなたち、仲がおよろしいですねぇ。もしかして夫婦ですかい」
「いや、まだだ」
とスサノオが言うより早く、クシナダが
「そうですわ」
と言ってしまった。
「こら、不躾な」
スサノオは叱ったが、不躾の見本のような彼がそう言ったところで、何の説得力もない。
◇
ともあれスサノオは、この日も自らの勘に忠実だった。アメノハバキリの後席にクシナダを乗せた彼は、急ぎ草原を飛び立つ。
先日の四発給油機は、既にアシナヅチとテナヅチが操って、アメノハバキリに先行している。
そのオロチに給油する燃料槽には、スサノオが小便を満たしておいた。
「うまくゆきますかしら」
無線機の数字盤を動かしながら、クシナダが言った。
「うまくいかなければ、それまでだ」
あのときに見た飛行雲がオロチだとすれば、あんな高さまではアメノハバキリは到底届かない。
まともに張り合うには噴進機か前翼型が必要だが、それはまだ高天原でも数機の試作機があるのみで、その高天原の応援も期待できない以上、搦め手で何とかするしかなかった。
「ミコト様は、心配ではありませんの?」
「心配か。心配はそなたに任せてある。それよりアシナヅチとテナヅチから何か連絡はないか」
クシナダは、またゴリゴリ数字盤を動かした。
「いえ、まだ何も。……あ、ミコト様、待ってください。どうやら無事オロチと接触したそうです」
「そうか。よし、アシナヅチに相手はどんなやつか訊いてみろ」
すると、クシナダは口を尖らして言った。
「いけません。こちらが発した声はオロチにも聞こえるのですよ。オロチを倒そうという私たちが、給油機と話しているなんて、おかしいじゃありませんか」
「ふむ、そうか。それもそうだな」
図らずも、クシナダと生死を共にすることによって、スサノオの熱い勇に、クシナダの冷静な智が備わる形となっている。
アシナヅチとテナヅチも、そういう事情を心得ており、何気ない給油作業の様子をさかんに電波に乗せて、クシナダに克明に伝えてくる。
「大丈夫、順調に進んでいるようですわ。不審がられている様子もございません」
「よし、どうやらうまくいったか」
やがて、オロチが給油機を離れた旨の通信が入った。スサノオは高度を上げ、村の手前50里の空域で敵を待ち伏せた。
◇
スサノオは暫くその場を大きく旋回していたが、30分もすると、とうとう逆探が敵の電探波を感知した。
「ミコト様。逆探に反応」
「来たな。その敵の電探はこっちを追尾しているか?」
「いえ、まだ入感が周期的です。……あ、いま捕捉されました」
「方向探知機の針はどうだ」
電波の照射元を特定する機械である。これと逆探を組み合わせることで、敵の位置を知ることが出来る。
「動いていますわ。指針は午」
「真南か。よし」
スサノオは操縦桿を傾けて、ゆるやかに南へ旋回した。
「ヒメ、敵の電探波を撹乱してみろ。位置を欺瞞するんだ」
「無駄です。出力が桁違いですもの」
クシナダの掌は、じっとり汗ばんでいる。想像を絶する強烈な電探照射だ。使い方によっては焼き豚でも何でも作れるだろう。
「どうやらミコト様のお勘は、当たりを引いたようですわ」
スサノオとクシナダは、上下左右を隈なく見張った。方向探知機は敵の方角は教えてくれるが、その位置や高度は分からない。最終的な接敵は目視に頼らざるを得ないのだ。
――どこだ、お前はどこにいる。天下のスサノオが、はるばるお前のためにやって来たのだぞ。もう一度、俺の前に姿を現してくれ……。
「あっ!」
そのとき、双眼鏡を手にしたクシナダが、腕を伸ばして上空をまっすぐ指差した。
「見つけた! 左上空に飛行雲!」
スサノオも、それを見た。
◇
目指す獲物はあの時と同じように、蒼穹の中に白い雲を一本、長く伸ばして、ゆっくり飛行していた。
「高いですね……。あんなところまで上るのは骨ですわ」
相手がただ飛ぶだけの物体ならば、それは幻想的な光景だった。だがその正体は、自らにまつろわぬ者を炎によって焼き滅ぼす、不遜の龍である。幻ではない。
「だが、かなり高度が落ちている」
スサノオはオロチを見上げながら言った。あの時はそれが曳く白線しか見えなかったが、今日はおぼろげながら、そのシルエットも見える。アメノハバキリの飛べる限界高度ぎりぎりといったところか。
「ヒメ、」
スサノオは身をよじって、後席のクシナダを見た。クシナダも、スサノオを見ている。
「わしと一緒に命を賭けてくれ」
するとクシナダは唇を引き結び、そして大きく頷いた。
それを合図に、スサノオは両翼に懸架した噴進式推力補助機関を点火する。光芒が空中に白く閃き、次いで奔流となってそれが噴き出した。
白煙が青空に長く尾を引き、それがアメノハバキリを天高く押し出していく。
「こいつ……。なんてやつだ」
スサノオは近付くにつれて、相手の大きさが徐々に分かってきた。高空の強い光を受けて銀色に輝くその身体は、まるで八つの谷、八つの峰にまたがるほどに大きい。
「まるで城ですわ」
クシナダが言った。確かに城である。六基の巨大な発動機を後ろ向きに積み、不動の威容を保ちながら轟然と飛んでいる。
加えて、恐ろしく速い。本来の性能を保っていたなら、アメノハバキリなどはとっくに引き離しているはずだ。
「追い付けますか」
「なんとかやってみる」
スサノオは燃料の尽きた推力補助機関を切り離し、混合気流入弁を最大に開いた。それでも距離の縮まり方は、じりじりするほど小さい。
「こりゃ、ウロウロしていられんな」
相対速度が小さいということは、敵の旋回機銃の狙いもよくなるということだ。そうなれば被弾時の脆弱性で劣るこちらが著しく不利だった。返り討ちにされる危険が高い。
そのとき相手と自機の様子を見て、クシナダが口を開いた。
「ミコト様、お待ちください。暫くこのままの距離を保って進みましょう」
「どういうことだ」
「このまま突っかけても、恐らくこちらが蜂の巣になるだけですわ。攻撃をかける気なら、まもなく敵は爆弾倉の扉を開くはずです。そうすれば速度が落ちますから、そのとき一気に」
「肉薄して叩き落すか」
「そうです」
「分かった」
スサノオは速度を少しだけ落とし、敵の銃塔の射程外ぎりぎりのところを並進して飛んでいった。
「こいつは、一体どこから来たのかな」
連れ立って飛んでいる敵の横顔を見ながら、スサノオはふとそんなことを思った。オロチの六基の発動機の音は、離れていても、こちらのそれよりも大きく聞こえるようだ。
「さぁ……。海の向こうの、遠い遠い龍の国でございましょうね。海は海の国、風は風の国より参るもの」
「なるほど龍の国か。このオロチが、群をなしておるのだな」
「お止しくださいませ、左様な話。私は気味が悪うございます」
「そうかな。わしは、いつか行ってみたいという気がする」
「どうぞ、お独りで行ってらっしゃいませ」
そのとき、敵が機首をちょっとだけ、上げた。スサノオはおやと思い、オロチがこちらの会話に反応を示したというように感じた。しかし、敵が爆弾倉の扉を開いたため、爆撃行程に入ったのだということが分かった。
「開いたぞ」
「いまです!」
スサノオはわずかに頷き、操縦桿を思い切りよく倒した。両翼がぐらと翻り、陽光が閃く。
沈黙を続けていた敵の銃塔が、一斉に撃ち掛けてきた。火点は胴体の上下に合計十六門。連装機銃塔が四基ずつ。
スサノオは素早く敵の上方に出、下部機銃塔の死角に入った。これで敵の向けられる機銃は半分の八門になる。が、それでもまだ多い。
アメノハバキリは、狂気の如く撃ちまくってくる弾幕の中を、真っ直ぐ突っ込んでいった。……ように見えるが、実際にはスサノオは機をわずかに横滑りさせて、敵の照準を紙一重のところで外している。
スサノオは37ミリ砲を撃ち、次いで20ミリ機関砲を山のように浴びせて、敵の銃撃の合間を縫い、下方へ抜けた。
敵はみじろぎもしない。
「化け物め!」
スサノオは笑った。
◇
「無闇に撃ったところで効き目はなさそうですわね」
37ミリ砲の弾をこめたクシナダは、改めてオロチを見上げた。相当数の弾を当てたはずだが、全然効いていない。
「弾を当てていればいつかは落ちるだろう? やつも不死身ではないはずだ」
「ですが、その前にこっちがお陀仏ですわ。弱点に絞って攻撃しませんと」
「弱点というとなんだ」
クシナダはオロチの巨大なシルエットを見ながら、ちょっと首をひねって考えた。
「まず、あの垂直尾翼ですわ。とても大きいでしょう?」
「うん」
「大きいのにも理由があります。オロチは図体がでかいですから、安定性を得るために、垂直尾翼を大きく取らねばならないのです。ですから、あれを壊せば一発で落ちます」
このあいだ、敵給油機の銃塔を狙い撃ちにしていったスサノオにとってみれば、造作もない話だ。
「更に、あれだけの大きな尾翼。恐らく真後ろを撃てるのは尾部の一基の銃座だけです。まずはあれを潰して、それから垂直尾翼を撃ちましょう」
スサノオは目をしばたいた。
「そんな簡単なことでいいのか?」
「私、小難しいことは嫌いですもの」
スサノオは機を旋回させ、オロチの後ろにつけた。両者の距離は徐々に狭まっていく。オロチの巨大な機影は、とっくに照準器から大きくはみ出ていた。
「おかしいな」
「どうなさいましたの?」
「一発も撃ってこないんだ」
敵の射程には既に入っている。先刻とは打って変わった奇妙な静寂が、二機の間に流れていた。
するとその直後、敵機の尾部に赤い光が灯った。その光はアメノハバキリの右翼に真っ直ぐ伸び、正確に追尾している。
「まずい!」
スサノオは翼を翻して鋭く上昇した。直後、甲高く大きな破裂音が巻き起こり、スサノオの操縦席を掠めて、白い光の線が遥か後方にすっ飛んでいった。それは遠くの山間に着弾し、爆煙を吹き上げる。
「なんですか、あれは……」
クシナダは一瞬の緊張がまだ解けず、胸が高鳴っている。
「電磁加速砲の本物だ。あれが相手じゃ後ろからやるのは無理だ」
防備が一番薄くなるところに、一番強力な火器を配置したということだろう。そのようなやり方は高天原でもある。……もっとも、威力は桁外れだ。
「どうする? このままじゃ爆撃されちまう」
「いま考えてます」
クシナダは、うらめしげにオロチの巨体を見た。いい加減クシナダには、我関せずと飛び続けるオロチのことが、忌々しくなっている。
「では、ミコト様。こう致しましょう。まず敵の正面に回ります」
「正面だと? おい、反航戦を挑む気かよ」
スサノオは驚いた。反航戦では、相手にとってこちらは静止目標となる。しかも真正面は多くの火器で武装され、機銃の数も一番多い。
「ですが、それが一番手っ取り早いやり方ですわ。正面攻撃なら相手の速度のおかげで弾の威力が増しますし、致命傷となる箇所も多くあります」
「だが……相討ちになるぞ。それでもよいのか」
後席を振り返って、スサノオは言った。スサノオは死を恐れない。が、いまはクシナダを後ろに乗せている。
クシナダは、スサノオを真っ直ぐに見つめ返して、首を横に振った。
「いいえ。相討ちなどにはなりませぬ」
「どうしてだ」
スサノオがわけを訊くと、クシナダは躊躇せず答えた。
「あなたが、スサノオノミコトだからですわ」
――そうか。
それで、スサノオは決心がついた。
自分はアマテラスから高天原を追われることによって、この出雲の地へ降り立った。もしそのことに理由があるならば、それはかのオロチを鎮めることに相違ない。
――ならば、わしにはオロチを鎮めるという天命が、生来具備されていることになる。しかし……。
心配なのはクシナダのほうである。
「わかった。ただしそなたは頭を低くして、小さくなっておれ。弾の当たらんように」
「心得ました」
そう言うとクシナダは、自らの身体を櫛に変えて、スサノオの頭の上に乗っかった。
「おいおいヒメ」
スサノオは機を旋回させながら、苦笑する。
「ここなら、弾が当たりっこないですわ」
「そりゃ、そうだが。まぁ、しっかり掴まっているんだな」
スサノオはその櫛を深く髪に差した。機はオロチと向き合う場所まで来ている。
「これで向かい合った。よし、戦闘機で一騎討ちだ。二人乗りだがな」
「相手は十何人も乗っていますから平気です」
オロチの巨体が眼前で大きく膨らむ。スサノオが狙いをつけると、オロチは前に向けられる機銃を全部動員して、嵐のように弾を見舞ってきた。しかし当たらない。スサノオとクシナダは、いま太陽を背にしているのだ。
――姉上、ご助力ありがとうございます。
スサノオは彼方のアマテラスに向けて、胸中で念じた。昼の太陽はその名の通り、アマテラスのものである。
オロチとの距離が更に縮まる。スサノオは20ミリ機関砲を使って、操縦席を撃った。20ミリ弾を立て続けに受けて、操縦席の前面風防が朱に染まり、そして吹き飛ぶ。
次いでスサノオは37ミリ砲を敵主翼の付け根に命中させ、そのまま下へ抜けた。大きく旋回して見上げていると、突如敵機の長大な主翼がへし折れて、凧のように飛んでいった。自らの主翼が生んだ巨大な揚力が、自らの身体を引き裂いたのである。
片翼を失ったオロチは、大きくバランスを崩し、くるくる回転しながら地上に落ちていった。
◇
「……ほかのものは跡形もなく燃えちまってましたが、これだけは綺麗に残っておりましたよ」
それから数日後。あの馬主の男がスサノオのところへやってきて、一個の大きな機械を差し出した。
二本の軌道が突き出た細長い機械で、それは一見がらくたのようだが、実際はそうではない。
「驚いたな、残っていたのか」
スサノオは模型でならば見たことがある。オロチが尾部に搭載していた電磁加速砲である。
「だんな、こいつをどう致します? 闇で売りに出せばみんな大騒ぎしますぜ」
男はそう言ったが、スサノオは首を振った。
「そのような考えは、ばかなことだ。わしはこれを姉上に献上しようと思う」
「献上?」
男は目を丸くして、スサノオと件の代物を交互に見た。
「そんなことでいいんですかい? まったく、だんなは欲がなくていけねえですよ。人が良いんだか悪いんだか、分かりゃしねえ」
「人の世の中とは、そのようなものだと思う」
そのとき、水車小屋の中からクシナダが顔だけ覗かせて言った。
「あなた、いつまで悪巧みの相談をなさっていますの。洗い物が片付かないじゃありませんか。早く召し上がってくださいまし」
「あぁ、分かった」
スサノオはそう答えると、もう一度男に向き直った。
「そういうことだから。とりあえず、これは有り難く頂戴しておく」
「ちぇっ。そんならわざわざ持ってくるこたぁなかったな」
男は不満そうに石を蹴った。
「まぁ、そう言うな。その代わりといってもなんだが、お前に銘を彫ってもらいたい」
「銘? 高天原に献上する品にですか」
「お前が見つけてきたのだからな。……よし」
スサノオは懐から木簡を取り出し、渋るクシナダに墨と筆を持ってこさせた。
――天叢雲剣。
そうして、そのように書いて男に手渡した。
男はそれを持って、元の通り馬に荷車を曳かせ、帰っていく。
その後姿を見送って、それから、二人はどちらからともなく顔を見合わせた。
巷には、暖かな夏風が吹いている。
クシナダは、ふっと柔らかに微笑み、スサノオの手を掴むと、家のほうへくるりと向きを変えた。
「さてと、ごはんごはん」
「あぁ、あぁ」
空は、夢のように青い。
穴だらけになったアメノハバキリが、草原の上で翼を休めている。
その休めている翼に、また蜻蛉が止まり、その上で彼もまた翅を休めた。
◇
この小説は、インターネット小説サイト「駿河南海軍工廠」のブログ「玉川上水」(http://aqira.blog61.fc2.com/)上に掲載した同名小説と同一のものです。