SCENE 15 * JACK * With Jennie
二月七日、午後。
ジャックとジェニーはランチ・ブレッド・カフェでランチを食べてからずっと、ウェスト・ランドにある図書館にいる。窓際、四人掛けのボックス席に並んで座り、ふたりは本を読んでいた。といっても、ジェニーは普通の物語なものの、ジャックはなぜか、“世界のワイン”などという本を見ている。見たことがあるとかないとか、ページをめくりながら、そんなことを考えている。特におもしろくはない。つまらなくもない。ようするにどうでもいい。
ジャックは昨日、ジェニーを家まで送る道の途中、両親がいない来週の土曜に、家にこないかと彼女を誘った。泊まってほしいなどと言うつもりはなかった。だがジェニーは、“泊まりたい”と言ってくれた。顔を真っ赤にしながらの真剣な表情に、真剣な表情で言われたその言葉に、彼女の覚悟を感じた気がした。──おそらく、だが。
今日会ってから、そんな話はしていない。さすがにできない。だがその反面、待ち遠しくてしかたがなかった。
できるかもしれないことがではなく、そうなれるかもしれないことでもなくて、ふたりきりで、彼女と一晩中一緒にいられることが。彼女がひとりで家に来るという、そういう覚悟を決めてくれていることが、嬉しくてしかたない。
今日、ジェニーはいつもと変わらないような気がするのだが──それでも表情を隠すのが上手な子なので、内心はもしかすると、同じように感じてくれているのかもしれないと、思ったり思わなかったり。
「──あのね」彼の左隣、窓際に座って本を読んでいたジェニーがふいに切りだした。彼に微笑む。「今日、家を出る前に嬉しいお知らせが」
ジャックの心は、彼女の微笑みだけでもう、おなかいっぱいになりかけた。「なに?」来週末のこと以上に? という本音もある。
「マイキーの奥さんがね、妊娠したらしいの」
予想外、というか、予想のはるか彼方にあった言葉に、彼はぽかんとした。
マイキーというのは、マイクという、ジェニーの専属靴職人(ジャックが勝手にそう呼んでいるだけ)のことだ。彼女の地元にある小さな商店街、ハーバー・ストリートで、“マイキー・シューズ”という小さな靴屋を経営している。ジャックにとっては、去年十月、ジェニーの誕生日に贈る灰色の色褪せた靴を、悪態をつきながらも最終的には売ってくれた人物だ。ジャックとジェニーは交際をはじめてから、月一回のペースで、ふたりで彼に会いに行っている。
「ほんとに?」ジャックは訊き返した。
「ええ。すごく嬉しい」
そのジェニーの笑顔を見ただけで、彼はやはり満足──いやいや、違うだろ。「子供、いなかったんだよね?」
「そう」視線をそらすと、彼女は広げた本の上で両手を握り合わせた。「結婚して、十年くらいだったかしら。子供が欲しくなかったわけじゃなくて、できなかったの。何年か。それでふたりとも、諦めちゃってたみたいで。──でも」また彼に微笑む。「マイキーがね、去年の秋、あなたに会って、それでまた、もう一度、がんばってみようって思ったらしいの。私が今履いてるスニーカーをあなたに売ってくれて、あなたが帰ったあと、すぐ家にいた奥さんに電話したんですって。声が聞きたくて。それで家に帰って、ちゃんと、もう一度がんばってみないかって言ったらしいの」
思わぬ話に胸が、いい意味でしめつけられ、ジャックは泣きそうになった。
ジェニーが続ける。「夕べ奥さんの様子がいつもと違ってて、朝いちばんに産婦人科に行ったんですって。それで妊娠がわかって。電話くれたの、ジャックのおかげだって」
意外という言葉意外、見つからなかった。マイクがそんなふうに言ってくれるとは思わなかった。
たまらなくなったジャックは、左手をダークブラウンのシートにつき、右手でジェニーを抱きしめた。
「──嬉しい」
本当に嬉しい。自分こそ感謝している。あの靴がなければ、ジェニーのことを気にすることもなかったかもしれない。あの靴がなければ、なにもかもが、今とは違っていたかもしれない。
ジェニーも両手で、彼を抱きしめて応えた。
「うん。私も嬉しい。すごく嬉しい。ごめんなさい、もっと早く言えばよかったんだけど。嬉しくて、でも来週のことも考えてて、なんか、いっぱいいっぱいになっちゃって」
やはり彼女は、同じことを考えてくれている。「うん。それは僕も同じだし」
「ん──あとね、マイキーが今度、奥さんにも会いにきてくれって。つまりは家にってことだけど。彼の奥さんがすごく会いたがってるの、あなたに」
ああもう、嬉しすぎて幸せすぎて、どうしていいかわからない。「うん。行く。君と一緒に」
「ええ。──ただね」身体を離すと、彼女はまた真剣な表情を彼に向けた。「問題があるの」
どこかで聞いたようなセリフだな、と彼は思った。だがすぐ、自分が昨日言ったのだと思い出した。
「うん」
「あなたも知ってのとおり、マイキーとうちは家族ぐるみのつきあいなの。それでね、私が電話に出たんだけど。私はその報告を聞いて、まっさきにパパを呼んで、電話を代わったのね。で、ママと兄さん──ウィリアムに報告した。そのあいだにマイキーがあなたのこと、パパに話したらしくて。私の恋人だってことも、とうとう。それであなたに会いたいって言いだして。そこから話が延びて、ママもすっかりその気になっちゃって」
ジェニーはマイクに、両親には話さないでと、ジャックのことを口止めしていた。兄のウィリアムには話しているらしく、両親に知られたくないわけではなく、はじめての恋人で、どう話せばいいかよくわからないうえ、性格上、根掘り葉掘り訊かれるのが好きではないから、という理由からだ。いずれ話すからもう少し待ってと、ジャックは彼女に言われていた。
ジャックにとってそれは、ショックどころか、やはりそれが普通なのだと思った。ライアンもわざわざ親に話したり、会わせたりはしない。やはり自分がおかしいのだとも思った。
つ、ま、り。「──家族、に、会う?」
彼女が苦笑う。「やっぱり、気まずいわよね。ごめんなさい、忘れて」
そう言われ、彼は右手で彼女の頬に触れた。
「君がいいなら、会う。会いたい」
時々、好きすぎて、どうにかなりそうになる。
「君がどんな家庭で育ったのか、君がどれだけ家族に、周りに愛されて育ったのか、見てみたい」
三ヶ月経っても、まだ知らないことが、たくさんある。
「それで、もし君がよければだけど、来週末はいないけど、今度、僕の両親にも会ってほしい」
気持ちが真剣すぎて、大きすぎて、言いだせなかった。
「僕は両親に、君のことを話してある」
十七歳の自分には、大きすぎる気持ちのような気もする。
「ふたりも、君にすごく会いたがってる」
大きすぎて、時々、不安になる。
「無理にとは言わない。君がいいならだけど」
抑える方法が、わからない。
両目に涙を浮かべ、それでもジェニーは微笑んだ。彼の右手に触れ、左手で彼の頬に触れる。
「嬉しい。私も、会いたい。あなたのこと、もっと知りたい。あなたがいいなら、いつでも」
──図書館でキスなどというのは、不謹慎だと、わかっている。──抱きしめたあとで、考えることではないのだが。
「──ジェニー。好きだ。すごく」
彼女は頬を染めて微笑んだ。
「ええ。私も、あなたのことが、すごく好き」
どうしてもキスがしたくて、彼は顔を近づけた。
あと数センチというところで、ジーンズのポケットの中の携帯電話のバイブレーションが震えた。
ジャックはかたまった。
ジェニーが静かに苦笑う。「携帯電話、鳴ってない?」
同じ場所に入れている鍵に当たって、わりとわかりやすく震えてくれている。
「──だね」ひさしぶりにやられた気がした。誰だ。このひさびさのタイミングの悪さはなんだ。「出たほうが、いい?」
「それは、ね。大切な電話だったら困るもの」
簡単に予測できた答えだった。「すぐ戻る」
「うん。待ってる」