SCENE 11 * RENA * With Rian With Reo
ベネフィット・アイランド・シティの北隣に位置するローア・ゲート・シティ、イースト・プランクという町の小さな駅で、レナたち三人は電車を降りた。近くにあった店で花を買い、バスを乗り換えて、今度は名前のわからない山のほうへと向かう。目的地であるレナたちの曾祖母の墓は、その山を少しのぼった先にある。
向かいに小さな教会を構えるこのあたりは、昔は葬祖母の墓が建つ墓地のみだったのだが、いつからか少し離れたところに立派な霊園ができ、それが拡張されたらしく、曾祖母や曽祖父が眠るその墓地まで侵食して、古いだけだったその墓地も、外郭を含め、今は立派な霊園の一部になっている。もちろん墓に眠る人間たちを無理に起こしたりということはせず、コンクリートの道をキレイに舗装しなおしたり、設備を一新して管理者を統一させる、というようなことが行われただけだが。
芝生の上に建つ白い墓石の前に、レナは立った。曾祖母の墓だ。墓石には彼女の名前、“レナーテ”の文字が刻まれている。彼女は買ってきた花束をそこに添えた。
「“レナーテ”──が、ひいばーちゃんの名前か」
彼女の一歩うしろでレオと並んでいるライアンが言った。
ここまで来てもレナにはまだ、彼がなぜここにいるのか、その理由がわからなかった。確かに昨日、冗談で一緒に来るかとは言ったが、冗談は冗談でしかない。レオと二人で墓参りに行くということ以外、なにも話さなかったのに、ライアンはなぜかレオにバスの時間を訊いて、ウェルス・パディで乗り合わせ、ここまで着いてきた。まさか昨日のあの会話で、浮気を疑うわけがない。だとすれば彼はいったい、なにをしにきたのだろう。
レオがライアンに答える。「そう。姉ちゃんの名前も、ひいばあちゃんの名前からつけた」
「だからお前ら、イニシャルがLじゃなくてRなんだな。変わってるなとは思ってたけど」
「そー。って、俺のは便乗しただけみたいな感じだけど」
この二人がなぜこれほど仲がいいのか、それもまた、レナには謎だった。去年末、カウントダウンイベントに誘うためライアンと電話で話し、成り行きで会うことになり、その時にレオの自転車を借りることになったのだが、レオが彼と仲がいいということも、まったくといっていいほど知らなかった。
レオがレナに言う。「姉ちゃん、約束」
わかっている。二年前のあの日、曾祖母の見舞いに行き、レオは花を生けるために花瓶に水を入れにいった。たったそれだけの短い時間で、自分の様子がおかしくなったこともあり、彼はなにがあったのかと訊いた。一部のことは話したものの、それ以上は話さなかった。話せなかった。あんな残酷な言葉を、話せるはずなどなかった。
レオは、それなら二年後、自分が受験生になった時に教えて、と言った。姉ちゃんと同じに近い状態で受験するから、と。その約束を、受け入れた。
すぐには答えず、レナは曾祖母の墓の前に膝をついた。墓石にある彼女の名前に右手の指先で触れ、目を閉じる。
今でも思い出そうと思えば、あの時彼女が言った言葉が、表情が、まるで昨日のことのように、鮮明に思い出せる。
そしてその記憶は、今もレナの心を苦しめる。後悔に押しつぶされそうになる。
その感情をぐっとこらえ、彼女は静かに口を開いた。
「──レオが、病室を出たあと、試験はいつだって訊かれた。私は、二月十八日からだって答えた。がんばってって、言ってくれた。もちろん、みたいに──私は、答えた。それで私、言ったの。“ひいおばあちゃん、思ったより元気そうでよかった”って──」
あの時の彼女の表情を、微笑みが消えた瞬間を、今でも憶えている。
「──ひいおばあちゃんは、言った。“──そうね。でもね──病院と家を、行ったり来たり。本当に、もう疲れたわ”」
見ているものは、まったくといっていいほど、違っていた。
「“神様も、こんなふうに長生きさせたりしないで、早く迎えに来てくれればいいのに”」
感じていることは、まったくといっていいほど、違っていた。
「──もちろん私は、そんなこと言わないでって、否定しようとした。でも──」
レナの頬を、涙が流れる。
「“もう、死にたいの。死にたいのよ”」
自分は、周りは、生きていてくれさえいれば、それでいいと思っていた。
「──そう、言われた」
曾祖母も当然、生きていたいのだと思っていた。
「──それで、もう長くはないって。高校に合格する私の晴れ姿を、もう見られないかもしれないって」
彼女の気持ちも考えず、自分は、周りは、“よかった”と、よく考えもせずに口にしていた。
「でも、もし自分が試験の前に死んでも、せめて入試が終わるまでは、見舞いにもお通夜にも、お葬式にも、来ちゃだめだって」
気まぐれに見舞いに訪れるか、それすらせず、一年に一度か、それ以上の間隔をあけて顔を出し、その時会っただけで、“元気そうでよかった”と、“もっと長生きして”と、他人事のように、簡単に口にしていた。
「──“わたしの可愛いひ孫。愛してるわ、レナ。わたしのわがままだと思って、聞いてちょうだい”」
レナは泣きながら、墓の前の、花束を置いた冷たい土に、両手で触れた。
「──“わたしとあなたの、最初で最後の約束”だって──」
家と病院を行き来するのがあたりまえになっていたあの日々を、病院のあの味気ない食事を、まるで無人島にでも放り出されたかのように感じてしまいそうなあの病院での暮らしを、家に帰ってもほとんどベッドの上、点滴と大量の薬で生かされているだけの、ひとりでは自由に動くこともできない、いつも誰かに支えてもらわなければならない、どこにいてもただ窓の外を眺め、外から聞こえてくる話し声や笑い声をただ聞いていることしかできないあの不自由な生活を、彼女がどう感じているのか、それを、自分は、周りは、なにも考えていなかった。
彼女は、ずっと苦しかったのだ。
なのに彼女の立場になって考えたことなど、一度もなかった。
曾祖母は、私の入試を待たずに死んだ。
“よかった、やっと逝けたんだ”
そう思った。願いが届いたのだと、そう思った。もう苦しい思いをしなくていいのだと、やっとラクになれたんだと思った。
“よかった、やっと逝けたんだ”
そう思うことは、非常識? そう思うことは、悪いこと? 死んだ人間に対して、名前をくれた彼女に対して、愛してくれた人間に対して、失礼になる?
私は、曾祖母との約束を守るため、試験が終わるまで、曾祖母に会いに行かなかった。言われたとおり、受験に集中した。
入試二日目、面接が終わったあと、迎えに来てくれたママの運転で、曾祖母の家に行った。そこに着くまで、レオはずっと、手を握っていてくれた。
いつも曾祖母が使っていた、広く味気ないあの部屋で、曾祖母の遺影を抱きしめた。
そして、泣いた。泣きわめいた。
本当にこれでよかったのか、わからなくなった。だって、曾祖母に会えなかった。
本当なら看取らなければならない立場にいた。それはわかっている。約束を守ることで、周りの親戚たちからの視線がどんなものになるか、陰でなにを言われるか、それも覚悟のうえだった。
数日前からずっと曾祖母についていた父親は、私を赦してくれた。
“レナに愛してるって伝えて”
最期にそう言っていたと教えてくれた。
そして私は、またわからなくなった。
その言葉を直接聞けなかった。私も愛していると答えられなかった。それでよかったのか、約束はそれほど大事だったのか、なにを優先するのが正しかったのか、なにもわからなくなった。
葬式にも参加しない私のことに文句を言う親戚たちに、父親は約束のことを説明した。それでも返ってくるのは否定的な意見ばかりだった。そんなものは関係ない、そんなものは年寄りのただの戯言で、来るのが常識だと。
生きていてよかったと思うのが常識? 元気で長生きするのが常識? そうしてくれと本人に伝えるのが常識? 約束を守るのは非常識? それなら、曾祖母も非常識ということになる?
なにもかもがわからなくなった。けっきょく、あとに残ったのは後悔だけだった。それは、時間が経つごとに大きくなった。
今でもわからない。なにが正しいのか、自分は正しかったのか、曾祖母は正しかったのか。
“最初で最後の約束”
そんなことを言われてしまえば、守らないわけにいかない。何度もそう自分に言い聞かせた。
けれどときどき、最期に会おうとしなかった曾祖母の言葉まで、疑ってしまいそうになる。本当に愛してくれていたのか、疑ってしまいそうになる。名前をくれたことを、本当は後悔しているんじゃないか。本当は、愛してなどいなかったんじゃないのか。
私にだけ漏らした本音は、本当は、私に会いたくなかっただけなんじゃないのか。
疑いはじめると、キリがなかった。
よく考えもせず、軽い気持ちで長生きしてなんて、元気そうでよかったなんて、そんな言葉を口にしてしまってごめんなさい。
無理をさせてごめんなさい。
会いにいかなくてごめんなさい。
約束を守ってしまってごめんなさい。
非常識でごめんなさい。
すべては後悔の中に埋もれ、どうやっても、「ごめんなさい」という言葉にしか繋がらない。
「姉ちゃん──」
レオも泣きそうになっていた。両膝をつき、泣きじゃくるレナの頭を抱き寄せた。
彼女はもう、それ以上話せなかった。けっきょく答えが出ることなど、一生ないのだろう。正解が判る人間など、きっとどこにもいないのだろう。正解など、最初から存在しないのだから。
レオにすがるようにして泣くレナと、それを泣かないようにと必死になりながら支えるレオを、背後からライアンの腕が包んだ。
どれくらいの時間かはわからないが、三人はそんなふうにして、いくらかの時間、ずっとそこにいた。