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前編

初投稿です。

思ったよりも長くなったので前後編に分けました。


かっこがPDF縦書き表記に対応できていないとのご指摘を受けましたので修正致しました。

誤字脱字も含め、不具合や修正漏れがありましたらお教えいただけると助かります。

*改稿作業が終了しました。(2013.3.21)

**追加修正しました。(2014.3.26)

   始まりは何も無かった

   それはやがて〈虚無〉となった

   永い永いあいだ〈虚無〉はそれだけで存在した


          ───はじまりのうた───







 彼女は獲物を追っていた。

 中型のまだ角がそれほど大きくない若い雄ジカだ。肉や内臓は貴重な食料となり、皮や骨は衣服や装飾に使われる。自然の与えてくれる恵みに捨てる所など無い。彼女のように森での狩りを生業なりわいとする〈狩り人〉たちはそれを良く知っている。

 狩り人は特殊な訓練を積んだ者たちだ。地上ではシカと同等の速度で走り、樹上ではリスのように木の枝を渡る。世界に満ち溢れる〈自然の恵み〉を自身の肉体に反映させ、驚異的な身体能力を発揮する事が出来る者だけが狩り人となれるのだ。


 個人の縄張りを持たない狩り人は数人ずつ集まって組と呼ばれる集団を作り、領主から借りた縄張りで日々の糧を得る。本来なら組衆と連携して獲物を追って仕留めるのだが、彼女は一人で獣を追っていた。単身の狩りなど余程の実力と運に恵まれなければ成功しないが、彼女はやり遂げなければならなかった。

 彼女──ミアイ──は今日で組を抜けるのだ。


 細く華奢な身体、赤みの強い暗褐色の癖っ毛と鳶色の瞳。愛らしい容貌には厳しい表情が浮かんでいる。来月十六歳になるミアイは、同じ年頃の娘たちとは違い、男のような服装をしていた。頭から被る麻のシャツに、大きなポケットの付いた袖無しの上着(ベスト)とズボン。足にぴったり合った靴は丈夫で柔らかい革。そのどれにも防虫効果のある染料が使われていた。一日の大半を森で過ごす者として当然の備えである。


 狩り人はそれぞれ男衆、女衆と呼ばれる。ミアイは女衆だけの組に居たのだが、組頭くみがしらのイアンと折り合いが悪くなったのだ。もちろん初めは上手く行っていたと思う。イアンは前の組を抜けて困っていたところを拾ってくれた。恩もあるし感謝もしている。組を移ってそろそろ半年になるというのに、この一月くらいは殆ど話をしていない。

 きっかけは些細な事だった。……ミアイにとっては。向こうには向こうの意見もあるだろうが、些細な行き違いの後はどんなに愛想良く、根気良く話しかけても相手にされなくなった。組衆と食卓を囲んで「一人楽しく」喋り続けるのももううんざりだった。


 だが他のどんな理由より、信用できない者たちと狩りをすることが恐ろしくなっていた。

 小柄でしなやかな身体と俊敏な脚力のミアイは『囮』役だ。草食の比較的大人しい獲物の進路に先回りしたり、肉食の獣相手なら文字通り自身を餌にして仕留めやすい場所に誘導する。

 組の者たちが信用出来ないミアイは、自身の長所を生かせないことに苛立った。『横手』と『止め』が連携してくれないのだ。狩りは稼ぎも良いが、その分危険も大きい。思い切った事の出来ないミアイの動きは鈍り、他の三人も一歩遅れた補助しかしない。一瞬の遅れが大怪我に繋がりかねないのに、信頼出来ない者と組んで上手く運ぶ訳が無いのだから。


 悩んだ末に、組を抜けたいと打ち明けるとすぐに承諾された。予想通り引き止められることも無かったが、『最後の狩り』が許されたのは予想外だった。

 掟を破って追放された場合を除いて、組を抜ける者に与えられる権利だった。組を抜ければ当然稼ぎが無くなる。すぐに次の組へ移る事が決まっていれば良いが、そうとも限らない。狩り人を辞めて別の仕事に就く場合もある。通常の狩りはあらかじめ決められた取り分だけになるが、〈最後の狩り〉ではその獲物の全てを報酬として受け取れる。餞別であり祝儀でもあった。


 獣の痕跡を追い、幸運にも中型のシカを視認するまでに一刻(一時間)も掛からなかった。イアンがミアイに確認してから狩りを始める。追い込みまでは組衆も手伝ったが、今までが嘘のように呼吸がぴったりだった。

 樹上から三人が鹿の周囲に等間隔で降りる。東側を開けてそちらへ誘導するつもりだった。東側は山の中央へ向かう緩い斜面なのだ。

 獲物の西に降りた『横手』のグエンが短弓で東側へ追い出す。矢はシカの後ろ足を掠った。ミアイは樹上で腰のナイフを抜き、逆手でしっかり握り締めた。飛び降りる勢いでシカの背後から首の付け根に突き立てる。


────浅い!

 よろめいたものの、倒れる前に獲物はぐん! と速度を増して走り続ける。とどめになるはずの首への一撃は急所から少しずれてしまった。手負いの獲物は最後の力を振り絞って逃走する。斜面を跳ねるように移動するうちに着実に動きが鈍るのを期待していた。引き離されまいと追うミアイ。


 イアンたちはミアイがシカを追って姿を消すのを無言で見送っていた。『最後の狩り』では稼ぎを総取りする本人がとどめを決めなければならない。手負いにしてしまったのだから、この先はミアイ一人で追うのが決まりだ。上手く仕留めれば換金所へ現れるだろう。

「仕留められれば……ね」

 イアンの口元に嘲笑が浮かぶ。シカは他の組の縄張りへ向かって逃げているのだ。獲物は諦めざるを得まい。そして、どこかの組が拾ってくれるまでせいぜい金に苦労すれば良いのだ。

 組を抜けたミアイの事などイアンたちはすぐに考えの外に追いやった。次に組衆を増やす時は、もっと控えめな者にするつもりだった。若衆を抜けたばかりの未熟者なら、もっと控えめに振る舞うだろう。



 ── ◇ ──


 

 シカを単身で追ってから半刻以上は経ってしまったろうか。もうイアン組の縄張りから外れてしまっていた。隣接する別の縄張りに獲物が逃げ込んでしまう事も珍しくないので、追い込む際には自分たちの縄張りの中央へ向かうよう誘導するのが常だった。今回は山腹への登りを利用して消耗させるつもりだったのだが、やはり追う方向を誤ったと言わざるを得ない。故意かどうかを考えるのはすぐに止めた。

 先回りして進路を変えさせようとするが、中々思い通りにならない。縄張り荒らしは重罪だ。掟破りとして捕まれば資格を剥奪され、二度と狩りを許されない事だってあるのだ。どちらにしろ高額な賠償金を払わなければならない。そんなのはご免だった。


 獲物に手傷を負わせていれば、少しなら縄張りを越えても目をつぶって貰える。礼として多少の心づけは要るだろうが、目に余る事態になる前に諦めなければならない。

 何度も進路を遮るように地上へ降りる。シカは驚いて横へ跳ねる度に、どうしても行って欲しくない方向へ走り込んでしまう。

「せめて横へ行ってよ……!」

 つい声に出して呟いてしまう。予備のナイフを握り締め、再度樹上から進路を見定める。

 焦るミアイの心を見透かしているのか、シカは再び最悪の方向へ走り出した。



 ── ◇ ──



「やっぱりだ、誰か縄張りに入り込んでるよ」

「シカの足跡と血の跡だな、深追いしすぎたか?」

 少年のような高い声に、地面を調べていた大柄の男がのんびりと応じる。

「ついうっかりじゃ済まない所まで来てるんだぞ。どうするよ? テン」

 怒りの滲んだ更に別の声が問う。三人の視線が一人に集まった。

「……縄張り荒らしは重大な掟破りだ」

 長い腕を胸で組み、自身に言い聞かせるように言葉を発していた。眉根を寄せて厳しい表情をしている。

「突き出すしかないな」

 他の三人も同意と肯定の仕草を示す。


「タカ、カクを見付けてくれ。シム、タカについて獲物を追え。……ヤスは俺と来い」

 カクはタカの兄でこの場にいないもう一人の組衆だ。この兄弟には〈絆〉が存在する。〈絆〉は遠く離れていても、居場所の特定や意思の疎通が可能な能力である。数多あまた有る〈自然の恵み〉の発露の一つだった。


 誰かが自分たちの縄張りに入り込んだ気配を感じ、カク一人を縄張りの中心から調べるために別行動させていたのだ。素早く指示してから重い溜め息をつく。

「せめて一言断ってくれれば────」

 それならば罪人として突き出さず済んだと考えているらしい自分たちの組頭に、ヤスは呆れてしまう。

「テン、お前なあ……」


 大柄なタカが軽やかに樹を渡り、後を追って小柄なシムも森に消えた。

「情けを掛けるなよ」

 強い意思を感じさせるヤスの灰青色の瞳は、明るい陽差しの下では銀色に見えるほど色が薄かった。短く刈り込んだ黒髪や固く引き結んだ薄い唇、高い頬骨と細い顎、その全てが鋭利な刃物のような印象を強めている。怒りを湛えた視線は真冬の雪山の吹雪並みに冷ややかだった。

「分かっている」

 テンは肩にかかる黒髪を邪魔にならないよう紐で結んでいた。黒い瞳と長めの前髪が見る者に暗く陰気な印象を与えている。眉根を寄せて考える癖のせいで普段から無愛想に見えるが、今は実際に険しい表情をしていた。


 縄張り荒らしを見逃せば自分たちだけの事では済まない。収穫の少ない年に掟破りが起きれば、稼ぎに影響が出て餓死者が出るかも知れない。狩り人たちの稼ぎと権利を守るのも組頭の義務だった。縄張り荒らしは厳罰に処される。引っ捕らえて衆人環視の中で換金所に突き出すのだ。

 換金所はその名の通り収穫物の買い取りの他に、狩り場も取り仕切っている。そんな場所へ縄張り荒らしとして突き出されれば今後の信用は無くなる。狩りどころか村の半端仕事さえ回して貰えず、食い詰めてしまうかもしれないのだ。本来ならそこまで気に病む必要は無いのだが、テンは後味の悪さに眉をしかめて唇を噛んだ。

「……行こう」

 溜め息と共に呟くと、タカとシムの消えた方角へテンも走り出した。



 ── ◇ ──



 慣れない縄張りの中で行動したせいか、焦って集中し切れなかったのか、ミアイはシカを見失ってしまっていた。しばらく地上で足跡を探してみたがどうしても見付からない。状況は最悪だった。獲物に逃げられ最後の狩りは失敗、このままだと縄張り荒らしの汚名まで付いてくる。こうなったら一刻も早くイアンの縄張りに戻らなければならない。

 きっと彼女たちはミアイの失敗を鼻で笑うだろう。それがどうした! 縄張り荒らしと呼ばれ軽蔑される事に比べれば物の数では無い。

 だが、その考えは遅きに失した。


 自分に対して強い敵意を感じ、反射的に真上に逃げた。三メートルほど上の自身の腿よりも太い枝に空いた左手で掴まり、足を前に跳ね上げる。足が顔の前に来るより早く手を離し、くるりと一回転して枝の上に着地する。流れるような動きは一呼吸足らずだった。

 そのまま身体を伸ばし、後ろへ飛ぼうとした背中に気配を感じた。刹那、左肩と右手首に強い痛みが走る。耳元で低い声がした。


「動くな」

 全身のうぶ毛が恐怖に逆立ち、血の気が音を立てて引いていく。ミアイの左腕を背中に捻り上げ、右手首を掴んだ男が続ける。

「暴れれば腕を折る、抵抗するな」

 淡々とした口調が事実だと告げている。ミアイは言われた通り身体の力を抜いてあらがうのを止め、全てを諦めた。自分は縄張り荒らしとして捕まったのだ。




 背後の男は左腕と右手首をしっかり拘束している。ナイフを捨てるよう命じられ、素直に従った。手から滑り落ちたナイフは一度だけ煌いてすぐに見えなくなった。抵抗を止めた事で締め上げられる痛みは緩んだが、何かあればすぐに対処できる力加減だった。相手が縄張り荒らしでも必要以上に痛め付けるつもりは無いらしい。などとぼんやりと考えていると、正面に人影が姿を現した。長身の男が苦々しい口調で問い質す。

「お前が縄張り荒らしか」

 ミアイには返す言葉も無かった。


 相手をまともに見る事が出来なかった。唇を噛んだままうつむいていると同じ声が繰り返す。

「お前は俺たちの縄張りを荒らした。それは分かっているのか?」

 誇りを汚した自分の行為が恥ずかしくてたまらなかった。身体の中が心臓でいっぱいになったように耳元で鼓動が聞こえた。膝が震えて脚に力が入らない。下を向いたまま黙って頷く。男が溜め息と共に重々しく話し出した。


「今から換金所へ────」

 そこへ男の背後から二つの人影が現れた。一方は大柄でもう一方は小柄で細身だった。小柄な方が身を寄せて何事か囁いている。長身の男は厳しい表情で頷きながらそれを聞いていた。

「…………女だったんだ」

 捕まった掟破りを見た小柄な少年が意外そうな声で言う。

「なっ……! ミアイ…………!?」

 大柄な男がこちらを見て驚き喘ぐ。聞き覚えのある声に名を呼ばれてミアイははっと顔を上げた。ボサボサのくすんだ金髪が顔を半分隠してしまっている大柄な男は確かにタカだった。

「えっ……、タカ!?」

 タカがいるのは……、確かタカの縄張りの組頭は……。初めて正面の男の顔を見た。

「テン────」




挿絵(By みてみん)



「タカの知り合い?」

 シムがタカを見やるが、視線を向けられた当人は悲壮な顔色で、何も聞こえていない。驚きの余り口を動かすだけで声にならないのだ。

 黒髪の長身の男──テンがタカを一瞥してまた溜め息をつく。ミアイの背後でその様子を見ていたヤスが舌打ちした。

 気難しいように見えても、テンには甘いところがある。縄張り荒らしと組衆が顔見知りだと情けを掛けて見逃してしまうかもしれない。ヤスとしては居ても立ってもいられない心境だったが、かろうじて表には出さずに済んだ。だが、テンは意外にもきっぱりと言い放った。


「例え誰かの知り合いだろうと、いや、知り合いだからこそ信頼を裏切った事を赦す訳にはいかない。…………ミアイだったな。お前には俺たちと一緒に換金所へ出頭して貰う」

 一度言葉を切り、また重く溜め息をつく。今度もヤスは心の中だけで安堵の溜め息をついた。


「申し開きがあるなら今のうちに聞いておく。何かあるか?」

「ごめんなさい」

 小さな声だったがやっと言葉が出た。

「ごめんなさい……」

「分かっていてやったと認めるんだな」

 テンは顎が落ちるほど苦い薬を口一杯に頬張ったような表情をしていた。震える声で訴える。いたたまれずにまたテンから目を逸らした。

「手負いにしたから、少しなら見逃して貰えると思ったの」


「少し、だと……?」

 低い声で呟く。そして、唐突に強い怒気とともに声を荒げてミアイの名を呼んだ。びくんとミアイの身体が跳ね、思わず顔を上げてテンを凝視する。テンは腕を肩の高さに上げて東を指し示した。

「よく見ろ…………、これが少しか? ここまでやっておいて、お前は見逃せと言うのか……!」

 異様に低いテンの声はかすれていた。かっとなって声を荒げた事を悔い、たかぶった感情を無理に抑え込んでいるためだった。少なくとも、怒鳴らず話が出来るくらいには落ち着かなければならなかった。


 そんな葛藤を知らぬミアイは、言われるままにテンの示した方へ首を向けた。そこにはガラテア山の中腹にある美しいムトリニ湖が見えた。狩り人の脚なら四半刻も掛からず湖岸に着いてしまう距離だろう。ミアイの居るこの場所は、テン組の縄張りの最奥だった。

「こんなに近くに……」

 縄張りを割り振る際、基準の一つになるのがこのムトリニ湖だ。川や湖などの水辺があれば魚介類や水棲植物なども収穫に加えられる。豊かな稼ぎを見込める条件の良い縄張りなのだ。


 イアンの縄張りからは地形の関係で湖は見えない。湖面の輝きがチラリとでも目に入っていたなら、ミアイはその場で回れ右をしていたろう。完全にミアイが悪いのだ。

「ごめんなさい、こんなに奥まで来ているって気付かなかったの……」

「そうだろうな」

 食い縛った歯の隙間から言葉を吐き出す。己の非を認め、素直に謝るミアイの態度はほんの少しだけ怒りを静める役に立った。


 テンの溜め息は癖らしく、何事か言う度に溜め息をついている。

「低い枝を移動していたから目に入らなかっただろう」

「! 見てたの?」

「ああ、見ていた。お前が獲物の進路を変えようと二度降りたのも、獲物を見失ったのも知っている」

 そんなに前から後を付けられていたのに、全く気付かなかったとは……。ミアイは心底驚いた。やはりテン組は優秀な若手の男衆が集まっているのだと感心してしまう。湖岸が縄張りとなっているのも当然なのかも知れない。


 ミアイの賞賛が聞こえないテンは続ける。

「獲物は俺たちが仕留めた。このまま換金所へ行って賠償金を払って貰おう」

 賠償額は揉め事の元となった物の価値で決まる。今回は獲物となったシカの値段を元に算出されるのだ。換金所がシカの肉や角、骨などを買い取った金額の三倍から五倍が相場だが、それを決めるのは荒らされた側の縄張りを仕切る組頭だ。これだけ縄張りの奥深くまで入り込んでいるのだから、酷く怒らせているだろう。元値の十倍を要求されても仕方ないが、まず獲物の売値をはっきりさせる事が重要だった。

「わか……ったわ」

 これ以上恥の上塗りはしたくなかった。せめて潔く不名誉を受けようと決めたミアイはテンを見据えた。

「あなたたちの言う通りにするわ」




 テンの目配せでヤスはミアイの拘束を解いた。ミアイは痛む左肩をさすった。テンは村へ戻る合図をして踵を返した。その背にタカの言葉がかかる。

「待ってくれ」

 それを聞いたヤスはまたも心の中で激しく毒づいた。うちの組のもんは揃いも揃って甘すぎる! テンもテンだし、タカもタカだ! そのまま呆けてりゃ良いものを見逃してくれとか言いやがったら思い切り尻を蹴飛ばしてやる! と、固く決意した。ひっそりと不穏当な決断をしたヤスを他所に、タカはテンに追いすがって待ってくれと繰り返した。

「俺の決定が不服か? 見逃す事は出来ないぞ」

 テンははっきりと不機嫌だった。

「違うんだ、そうじゃない。違うんだ……」

 タカはしどろもどろで何が言いたいのか分からない。


 溜め息──何度目なのかもう分からない──をついてテンがタカを落ち着かせている。やっとどもらずに出て来た言葉は、新たな頭痛を呼び起こしそうな内容だった。

「ミアイはわざとやった訳じゃない。悪い奴じゃないんだ、それは俺が保証する! だから少しだけ情けを掛けてやってくれ」

 やはり頭痛がするらしくテンは手を額に当てて深く重く息を吐き出す。

「だったら……、どうしろと……」

賠償金かねを払うのは仕方ないと思う。それにお前なら売値もとの十倍なんて無茶な取り決めはしないだろう? だから、せめて突き出すのだけは勘弁してやってくれ」

「表沙汰にするなと?」

「頼む……!」


「…………ねえ、どうしてそんなに庇うのかわかんないんだけど」

 普段のタカは面倒臭いからと、自分から何かをしようとしない。テンに噛み付くなど有り得ないのだ。タカの必死さに困惑していた。シムの疑問は皆の疑問でもあった。

 他の組衆と比べ、シムはずっと若かった。背丈もミアイより低く、顔立ちも幼い。くるくると良く動く大きな青い瞳と、首の後ろで結んだ長めの黒髪。狩り組の男衆より、若衆のほうがしっくりくる年齢に見えた。


 対してタカはとても大きかった。腕も太く、胸板も厚く逞しい。長めの髪が気になるらしく始終頭を掻いている。時折言葉に詰まりながらも身振りを交え、顔をしかめたテンに必死に訴えていた。

「借りがあるんだ。腹痛はらいたの薬を無料ただでくれたし、金が無い時に何度か飯を食わせてくれた」

「そうなの?」

 シムがミアイに訊く。ミアイは首を振りながら答えた。

「薬を渡す代わりに仕事を頼んだから無料ただじゃないでしょ。食事もそう、手伝いの代金だから正当な報酬。貸しなんて────」


 縄張り荒らしの手伝いかと混ぜ返され、ばつが悪そうにミアイは下を向いて黙ってしまった。シムに怒り出したタカを不機嫌全開の視線で黙らせて、テンがミアイに訊く。

「タカの腹痛は何かの病か? それと、手伝わせた仕事は真っ当なものか?」

「悪い病気じゃないわ、酷い食あたりだったけど感染うつらないものだったから。もう随分前の事だし。仕事は治療所の雑用よ」

「治療所?」

「治療所は男手が少ないのよ。ぐらぐらする椅子を直したりするのは大変だから、空いた時間にそういう雑用をやってもらって食事で払ったの」

「ミアイは腕の良い治療師なんだ」

 タカが自分の事のように嬉しそうに言うと、肩をすくめて顔を赤らめたミアイがぼそぼそと答える。

「まだ治療師じゃないわ」


「本当にあの薬湯くすりは良く効いたんだ」

「それは……、あなたがわたしを信用してくれたからよ」

「?」

 タカはじっとミアイを見詰める。

「相手が治療師や師補ならみんな正直に話してくれるわ。でも、わたしみたいに調合士の資格しか持っていないと、本当の事をちゃんと教えてくれなかったりするの。転んだと言うのが恥ずかしいからって、骨が折れているのにちょっとぶつけて痣を作っただけだと言い張ったりね。嘘で誤魔化しても怪我や病気は治らないのに……。あなたは何を食べたか全部話してくれた。だから症状に合った正しい薬を作れたのよ」


 話しているうちに自分の不始末を思い出したのだろう。目を伏せたミアイは両腕で自分を抱き締めるように肘を掴んでいた。爪が白くなるほど力が入っている。

「あなたはわたしを信じてくれたのに……、それなのにわたしは…………」

 溢れた涙が頬を伝ってぱたぱたと落ちる。

「ごめんなさい、タカ……」

 震える声でそれだけ言うと両手で顔を覆ってしまう。慌てたタカが再びテンに言い募った。

「テン、情けを掛けてやってくれ……! なあ、頼む…………テン!」

「…………分かった」

「ミアイはわざとやった訳じゃ…………、え?」

「分かったと言った」


 ヤスとシムも、声を殺して泣いていたミアイまでが顔を上げた。この場にいる全員に注目されながらテンは宣言した。

「突き出す事はしないがアシュトンとガリに報告して判断を仰ぐ。侘びはシカの売値の三倍。…………それで良いな?」

 最後の言葉はタカに向けたものだった。タカに否やは無い。

「ああ、もちろんだ! 恩に着る」


「ちょっと待て! 良い訳無ぇだろ!」

 不満の声を上げたのはヤスだった。

「決定が不服か?」

 ヤスはかなり怒っていた。青白い炎のような視線でテンを睨み付け、ミアイを指差して喚く。

「当たり前だっ! この女は俺たちの縄張りを荒らしたってのに、見逃したのと変わらないだろうが。タカの事を考えに入れたとしても侘びが三倍は安すぎる。いや、タカの言い分を通すなら余計にもっと高くても良いだろうよ。十倍とまでは言わんが三倍は安すぎる!」


 何故その金額なのかと詰め寄るヤスに、テンは自分の考えを淡々と説明した。

「一つ、獲物は、足跡が示すように縄張りの外から追い込んで来たものだからだ。もし中で狩りを始めていたなら問答無用で突き出すがな。二つ、タカの件だ。組衆が世話になったのなら多少の融通を利かせても良いだろう」

 と、何か言い掛けてテンは口をつぐんでしまった。

「その言い方だと、タカがこの女の責任を持つように聞こえるぞ。こいつがとんずらしたら代わりにタカが賠償金かねを払うってのか?」

 怒りを抑えてヤスが言う。


 ミアイがどんなに人格者だろうと縄張りを侵したのは事実だ。掟破りを庇うのなら相応の覚悟が必要だとタカも解っているはずである。主張が通った以上、タカにはミアイが負った負債を返済させる義務が生じるのだ。

「ああ、そうだ。俺が責任を持つ」

 真っ向からヤスを見据えてタカが答える。半分寝ているようないつもの様子では無い。真剣な表情は狩りをしている最中と同じだった。

「これでも不服か?」

 テンの問い掛けに、今度はヤスが溜め息をついた。

「……分かった。組頭おまえに従う」


 テンはミアイたちのいる枝に移って右手を差し出す。ヤスはミアイを挟んだ幹側だ。ミアイは差し出された腕をおずおずと握った。お互いの腕を掴んで手首を合わせ、左手で握った拳を自分の腕に乗せれば正式に決まりだ。最後の最後でミアイは何故か躊躇ってしまった。

 本当に甘えてしまって良いのだろうか。頭が混乱して考えがまとまらない。腕を握っているテンの手をじっと見ていた。指の長い大きな手だった。手首を合わせて、ゆったりと握っている指を伸ばせば指先が肘に届いてしまいそうだ。袖の生地を通して体温が伝わって来る。とても暖かった。


「あの……、突き出さないでくれる…………の?」

「お前まで俺の決めた事に不満か?」

微かにからかうような響きが混じっていた。上目遣いに見やると目が合った。見返す暗い色の瞳は静かで怒気は無かった。

「ありがとう」

拳を腕に乗せて握る手に力を込める。テンも応えて握ると手を離した。ミアイの頭越しに境界まで送るようヤスに言う。

「狩りを続けるぞ。……カクが待ちくたびれているだろうな」

 誰にともなく言うと枝を蹴って森に消える。タカは去り難いようだったがシムに急かされてテンに続いた。


 ヤスと二人で残されたミアイは居心地が悪かったが、それはヤスも同じだったようだ。

「縄張りを出るまで付いていく。それと……、逃げるなよ」

 一旦言葉を切ってミアイに鋭い視線をぶつける。

 ちょっとばかり誇りを傷付けられたミアイがむっとして返す。

「逃げないわよ。鹿の値段を知りたいから、後でちゃんと換金所に顔を出します」

「…………だと良いが」

 ヤスが隣の枝へ移って手招きする。ミアイも続こうとしてあっと声を上げた。

「あの……、落としたナイフを拾っても良い?」


 明らかな不信感を見せていたヤスの表情が少し緩んだ。道具は決して安くは無いし、使い慣れた物が一番だからだ。頷いて、先に降りろと言う。

「ありがとう」

 自分が信用されていないのは解っているので、性急な動きを避け、別の枝へ二回ほど移動してから地上に降りた。ナイフの落ちた辺りへ近付くと探さなくてもすぐに見付かった。土を払って腰の後ろの鞘に収める。

「お待たせ。行きましょ」

 ヤスに声を掛けるとそのまま走り出した。



 ── ◇ ──



 境界を越えるとヤスはすぐに引き返して行った。ミアイはイアンたちを探して本来の縄張りの中を探したが見付からなかった。縄張りの中には幾つも『拠点』となる場所があり、別行動を取った時の連絡や、現在位置の確認に使われる。テン組の縄張りを出たミアイはまず鹿の追い込みを始めた場所に戻り、次にそこから一番近い拠点を調べたが、どちらにも目印は無かった。

 あと二刻ほどで陽が暮れる。もうすぐ西の空が夕焼けに染まり始めるだろう。日暮れまでに換金所へ戻るのが決まりだ。夜の狩りは、経験を積んだ狩り人でも細心の注意が必要だからである。単身ひとりで行動するなど自殺行為としか言えない。


 例えイアンたちと合流したとしても、ミアイに今日の獲物の取り分は無い。『最後の狩り』を始める前にも収穫は無かったのだ。それでも、もう無理に顔を会わせる必要が無いと思うだけで気が楽になった。

 気分良くこのまま帰る事にした。この縄張りを見るのも最後だと思うと複雑な心境だった。最短の道程を使って移動する。イアン組の縄張りを抜けると村共用の縄張りになる。そこは許可を取れば東ガラット領内の者なら誰でも収穫が出来る縄張りだ。人里に近いので獣は少なめで、薬草類も高価なものはあまり無い。それでも、村の女たちが日々の食卓に並べる青物や、ジャム用の果実を採りに行くには丁度良い場所だった。


 半刻(三十分)ほどで開けた場所に出た。南西の門は男たちが当番で見張りをする。門と呼ぶにはささやかなアーチだが、街道の方面への出入り口には違いない。門から半円形に腰の高さの柵が設けてあった。

 ここが領内の『中心』東ガラット村だ。便宜的に『村』と呼んでいるが、住宅の他に行政や共同の施設が集まった緩衝地帯である。領主から個人で縄張りを借りている者は、隣接する縄張りの者たちと集まって小さな集落を作って生活していた。しかし森の収穫で食料は賄えても、ナイフや鉈、衣服の生地などは得られない。街道を南へ馬車で数日行くと大きな街があるが、個人でそこまで行くには時間も掛かるし危険が大きすぎる。収穫物を売って現金を得たり必要物資を得るための場が必要なのだ。


 村の中での樹渡りや屋根の上の移動は禁止されている。中へ入ると広場になっていて、村の祭りもここで行われる。手慰みの雑貨やちょっとした青物などを扱う屋台がいくつか準備を始めていた。現金だけでなく物々交換も出来るので、村近くに家のある女たちが立ち寄って、自分たちの重要な会議をするのにも便利だった。

 向かって右手奥に行くとミアイには馴染みの療養所だ。広場を挟んだ門の正面は役所で、領主のガリの執務室もこの中だ。その左手に換金所があり、更に左隣に食堂がある。外周を囲む森の中に、数軒ずつの小さな集落が固まったものが点在していた。

 村の中はまだ人が少なく静かだった。広場を横切って換金所へと向かう。もうすぐ狩りから戻った組衆たちが、続々と換金所に現れるはずだ。今日の稼ぎに一喜一憂し、食堂で仲間と話しながら夕食をとるだろう。その中にはイアンたちも居るはずだった。彼女たちにだけはこの不名誉を知られたくない。


 換金所に入ると、中央を仕切っているカウンターに男が二人だけいた。片方はこちらに背を向け、もう片方の男はカウンターの向こう側に座って手前の男と話している。換金所は銀行も兼ねているから、非番の男衆が金を下ろしにでも来たのだろう。

 男の用件はすぐに終わって出て行った。ミアイは足早にカウンターに近付いた。暇な時間帯なので、カウンターに居たのは換金所兼銀行責任者のアシュトンではなかった。大柄で威圧感のあるアシュトンは何となく苦手だったのでほっとした。

「ミアイだけ早上がりか? イアンたちはまだ戻ってないよ」

「うん。ちょっとね」

 換金所で働く者は、狩り場も統括する都合で組の編成もよく知っている。目の前にいるサイリーも例外ではない。ミアイは用件を切り出した。



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