6話 災害級
まず初めにあったのは衝撃。体の芯に残るような鈍く重い痛みを感じた。
次いで体が痺れていることに気付く。体は動かせる範囲だが神経を苛んだ。
――――GRAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!
大気を揺るがすような咆哮。完全に目を覚ましたサイカは弾かれるように飛び起きた。
その先に見た光景に絶句する。
直線状に森が焼失し、山が形を変えていた。
黒焦げの大地と木だった黒炭と。今もなお燃えている木々が森の中を赤く染めている。
その惨状より僅かに離れた場所に、不出来な人間が転がっていた。
その人間は全体的に焼け爛れた皮膚に、溶解しかけた衣服がこびり付いている。
何よりも左肩から先が無い。不出来な人形にさえ見える少女。
それがシアだと気付けただけでも奇跡的だった。それくらい酷い姿を見て自失する。
巨大な黒い獣が健在であるサイカを見付け、再び唸り声を響かせる。それさえ今のサイカには思慮の外だ。破壊の権化と成り代わり疾走を始めたヘルハウンドに、欠片の意識すら向けられない。
あやふやな意識でサイカは彼女の元へと一歩、踏み出した。たったそれだけでヘルハウンドの突進を躱し、それなりの距離が在ったシアの元まで辿り着いていた。
仮にヘルハウンドの自我が奪い取られていなければ、先の光景は随分と異常に映っていただろう。獲物の体を砕こうと突進した瞬間、陽炎のようにサイカの姿が消え去ったのだから。
体の危機回避が働いたのかは分からない。興味もない。
木々が砕ける音が遠ざかるのも気にせず、サイカはシアの元でしゃがみ込んだ。
両の足に強烈な痛みが走る。小刻みな震えが止まらない。そのことすらどこか遠かった。
脆い体であんな芸当を仕出かした。その反動だとぼんやり思い浮かべるも、意義があるように思えず流した。
シアと最後に会った時、敵対していたように思う。
彼女が何を思い敵対していたかなんて把握していない。今の状況がどうしてなのかもわからない。アドリスが居ないこともどうしてかわからず、あの黒い獣が何故暴れているのかも知らない。
ただヘルハウンドがサイカを獲物と定めているのは理解できた。
希薄だが敵意に近い意を何故か感じ取れた。
状況的に見て、シアは守ってくれたのかもしれない。道化の遺産を大事に扱うと言う理由かもしれないが、少なくとも結果的にはサイカを守った。そう考える方がこの状況に合う。
歯を噛み締めた。歯茎から血が滲み出る程に強く。
両手を握り締めた。爪が食い込み骨が軋む程に強く。
「ちくしょう……」
親しい人の死に目に会いたくない、そんな酷く馬鹿げた考えだった。
いつも誰かと親しくなる時、一歩踏み込めなかったのはそういうこと。自覚してしまえばなんて阿呆なんだろうと蔑んでしまう。
騒音を撒き散らしながら凄まじい速度でヘルハウンドが疾走している。木々を打ち砕きながらUターンしてくる光景をサイカは眺める。
憎たらしくもシアの居るこの場から離れる暇さえ与えてくれないようだ。瞬く間に彼女諸共巻き込むコースで疾走してくるだろう。
迎撃しようと、馬鹿げた考えを起こす。
暴走列車よりも確実に凶暴だろう相手を前に、何をする気だと理性が叫ぶ。
だがどうにでも出来るとも感覚が囁いていた。
タガが外れているとでも言うべきか。今のサイカならある程度の肉体限界は無視できると、感覚が伝えてくる。
元よりサイカの体は技量において既に極致へと至っている。
先の戦いでは2対1とはいえ敗れた。その何よりの原因は、サイカの体が脆過ぎたため。十全に武を振るえなかったことが起因していた。
だが仮に一瞬でも、サイカの体に宿る本来の技量を十全振るえたならば。ヘルハウンド如きは敵じゃない。
ただしそれほどの力と武をサイカの脆い体で引き出せば、一撃で体の臨界点を超えて自壊が始まり、緩やかに死へと至るだろう。
(それでも俺は、アレを殴りたい)
両足を肩幅に開き全身を前傾へと傾け固定する。左手は軽く握って眼前へと突き出す。右拳を痛めるくらいに強く握り締め、肘を曲げたまま後ろへと引き絞る。
深く空気を取り込み息を止める。
全身全霊全神経を疾走するヘルハウンドに集中する。
喜怒哀楽をそぎ落とし、思考を合理化し、雑念を消去し、全ての生物に設けられている自壊しないためのリミッターを脳と体の両方共に根こそぎ外す。
本来なら拾い切れず零すであろう五感から取得される膨大な情報。その情報をひたすら処理し尽くし、肉体の持ちうる許容限界を超えて弓の様に引き絞る。その体は現時点ですらも悲鳴を上げていた。
一切合財の余分を不要と断じたサイカの自我は、次第に忘我の彼方へと霞んでいく。
“無我之境地”――――そう呼ばれる概念が武術には存在する。
今のサイカは彼の境地にも通ずる領域へと一気に上り詰めていた。
ヘルハウンドの凶悪な速度による突進も、今となっては酷く緩慢だ。強固な巨体が幹から木を打ち砕く様子が鮮明に視える。
その様子に知性はなく、野生の勘も欠如していた。平原であれば音速すら置き去りにしかねない速度も、木々を砕く作業でいささか以上に減速している。
ヘルハウンドの正しい現状をサイカは感覚のみで見抜いた。
そして外へと広がった感覚は、視界の外にある事象すら読み解いていく。背後で立ち上がった少女の様子までもを詳細にサイカへと知らせた。
「――――え」
数段飛ばしで一気に駆け上り詰め、境地へと片足突っ込むまでに至った状態。それが容易く瓦解した。
シアが生きていたと。
その事実で。
「っの、馬鹿!」
シアは普通なら死んでいるような重体で足を伸ばす。あろうことか攻撃寸前の恰好で硬直しているサイカの背中に足を置き、思い切り蹴り飛ばした。
サイカは自動で危機回避が働いて半ば自分から跳ぶことで衝撃を回避する。シアもサイカの背を思い切り蹴り抜いた反動でその場から飛び退く。
すぐ後でヘルハウンドの突進がその間を通り過ぎ、直線状の全てを薙ぎ払って行った。
サイカは地面を軽く転がり、体を跳ね起こして着地する。
「シア、大丈ッつうぅぅぅぅ!!」
全身を蝕む焼けるような痛みに言葉が悲鳴へ変わった。
こんな痛みを度外視していた少し前の自分が理解できない。
思えば様々な事象を伝えて来ていた感覚も途絶えている。
とは言えこれが正常だ。
少し前のサイカの方が明らかに正気じゃなかった。
同時に助かった。攻撃しないでもこんな有様だ。もしヘルハウンドへ攻撃していれば、例えサイカが一撃であの魔物を討ち果たせたとしてもあの感覚通りに自壊していた。そう考えただけでゾッとする。
シアは重症のように見えるが、黒く汚れているだけで怪我自体が左肩以外にはなさそうだ。
と言うよりも治っている。目に見える速さで怪我が修復され、失った左肩以外の外傷がない。その左肩とて骨と肉が傷口から絡み合うように復元していく。
そうだった、とサイカは安堵の息を吐く。
前にイグルに教えられていたことだ。
固有能力『無限再生』。傷ついてもすぐに再生して元通りになると言う、出鱈目極まる絵空事のような能力だ。
少なくとも肩が吹っ飛ぶ程度の怪我はすぐに治ってしまうらしい。
「無事で良かった」
まず出てきたのは安堵の言葉。
「助かったよ、ありがとう」
加えてお礼を言った。
その言葉をシアは咀嚼する。
激痛が和らいだのを感じ、左肩の完治を確認した。
サイカから顔を逸らして、疾走するヘルハウンドを見る。木々をなぎ倒して大きく迂回しながらサイカを狙おうとする怪物。そこから意識を逸らさないという名目でサイカから顔を逸らした。
こうも素直にサイカが無事を喜ぶものだから、慣れなくてこそばゆかったのだ。それに何より後ろめたい。
「状況が解ってないだろうけど、とりあえず休戦しよう。もう誘拐所の話じゃなくなってるから、誘拐もしないよ」
「あ、うん」
サイカも意識を失う前まで敵対していたことを思い出す。
一時休戦を持ちかけてくれて本当に助かった。悪くすればただの先延ばしでしかなくても、友人と敵対するなんて状況にはなりたくない。
そして木々が打ち砕かれる轟音にサイカは身を竦ませた。
咄嗟に疾走するヘルハウンドに意識を集中する。
五メートルもの巨体による疾走からの突進。木々をまるで紙細工のように吹き飛ばす様はあまりの迫力だった。どうしてこれほどの怪物に今まで恐怖を抑え込めていたのか不思議なほどだ。
迂回を終える。そして目標であるサイカに向かうと、そこからは速過ぎた。
あまりに速い突進に、考えるより先に体が反応する。サイカは自動で回避行動に移っていた。
全身を激痛が這いずり回っても横へ跳んだ。だが今までと比べてキレに欠けている。このままだと躱し切れない。
その危機を見て取ったシアはすぐに体を沈めて右拳を握りしめる。
真っ直ぐに跳躍し、サイカに突進してくるヘルハウンドの胴体に横合いから全力で殴り込む。
突き込んだ拳は鋼鉄でも殴ったかのような感触を伝え、骨が砕ける痛みとそれが修復される感触に見舞われた。それでもヘルハウンドの疾走の軌道は逸らせたらしく、サイカには当たらず駆け抜けて行く。
一命を取り留めたサイカの心臓が煩いくらいに早鐘を打つ。
あの突進は掠っただけできっと重大な怪我に繋がる。それこそ今の状態で受ければ、その突進では死なずとも、次の突進以降が続かないだろう。
こんな所では死にたくない。
どうやったら切り抜けられる。
逃げるのは駄目だ。境地に達しかけた状態の時に、ヘルハウンドから完全に標的とされていることは感覚でだが理解した。
そしてあの速度からは逃げられない。
ならば勝ち取るしかない。
「シア、あれの動き何とか出来ないか」
「……鈍らせるくらいならなんとか」
浮かない表情を見るに、それでも精一杯なのだろう。
これを頼むのは気が引ける。けれど他に良い手段が思い浮かばないから覚悟を決めるしかない。
「頼んでも、良いかな」
「なんとか出来そうなの?」
境地に達しかけた状態をサイカは体感している。
それは脳や体のリミッターの外し方も体感したと言うことだ。
あの時の様に根こそぎ外すことは無理だろうが、それでも限定的になら意識してでも出来ると思う。
この体で無茶をすればきっと凄い痛みに襲われるのだろう。
そう思うと体が震えるが、シアに危険な役を頼むのだ。
そのくらいが丁度良いと精一杯 強がって笑う。
「出来そうになきゃ言わないよ」
相手に隙さえあればこの体なら反応してくれる。
多少でも無茶をして、より本来に近い技量を再現できたならあの黒い獣とて打倒できる。
境地に一度は達しかけたことで、サイカ自身がこの体の武に直接触れた。だからこそここまで信頼し、あれを倒せると信仰する。
「……わかった。それじゃ後は任せるよ」
そう言ってシアはサイカの前に出たが、別にサイカの言葉を信じた訳ではなかった。
もしかしたら程度には思っても、相手は何せ災害と称される怪物だ。生半可ではどうにもならないだろう。そういう意味では可能性があるだけ上等だ。
幸い無駄に終わっても無限再生が身に宿っている限りそう死ぬことはない。
先ほどはあまりに久しぶりの戦場に再生速度が日常レベルにまで低下していたが、今はもう切り替わり再生速度は段違いに上がっている。
痛みだっていつもの慣れ親しんだ隣人だ、と頑なに自己暗示をかける。
サイカを誘拐しようとしたことで、どうにもまともに顔を会わせられない。
だったらここで清算しておこう。
幾度かのヘルハウンドの疾走突進により木々はなぎ倒され転がっている。火が燃え広がってもいる。
足場は悪くなれど随分と見晴らしは良くなった。
迂回を終え、今また疾走しようとするヘルハウンドの姿がよく見える。
シアは体制を低くする。
猫科の獣が獲物に狙いを定めるように、全身のバネを押し潰す。
全身の魔力強化は最低限に保ち、それ以外の全魔力を右手に集めた。右手に留まり切らず溢れ出た魔力が淡い光となって辺りを染める。
疾走するヘルハウンドは今までよりも明らかに速い。
木々が減ったことで単純に減速する理由が少なくなったためだ。足場の悪さなど気にもせず文字通り蹴散らし、速すぎる所為で生まれる暴風を纏って疾走する。
シアは全身のバネを開放しヘルハウンドへと前傾姿勢で走り出した。
即座に間近まで迫るヘルハウンドへ向けて跳躍する。体中の魔力を一滴残らず固く握った右拳へ収束した。眩い魔力光を放出する右拳を、全力でヘルハウンドの頭部へと打ち放った。
両者の衝突。周囲に衝撃波が突き抜け、土煙を巻き上げた。
正面衝突により互いにその疾走が一瞬停止する。その一瞬でシアの右拳から肩にかけて肉が引き裂かれ骨が粉々になる。
「GRAaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」
そしてシアが弾かれるように真後ろへ吹っ飛ぶ。右腕だけじゃない、体全身が砕けそうな衝撃に見舞われる。木々を五つも砕き、ようやくシアは止まることが出来た。
ひたすら痛い。自己暗示なんて所詮は強がりだったと思い知らされる。
(けど役割は果たせた)
一割程度の速度にまで落ち込んだヘルハウンドの疾走に、苦痛の表情をなんとか笑みに変えて見せた。
その予想以上の光景に、シアが大丈夫かサイカの意識が向く。だが体は両者の激突と同時に役割を果たそうと動き続けていた。
肉体を顧みない限界を超えた力で大地を蹴る。木の幹を蹴り、木の枝を蹴って軽芸師のように宙を舞った。減速し切ったヘルハウンドの背に着地する。
着地の衝撃が全身に走り、襲い来る並外れた痛みに視界が点滅する。酷使し過ぎた身体はいたる所で内出血を起こし肌を青黒く変色させる。
それでも身体は動くし動かす。
暴れながら疾走を続けるヘルハウンドの背の上を移動し、頭部が触れられる位置まで歩く。
右手を掌底の形にする。
右腕から肩と腰にかけてを限界まで捻り、更に自身の柔軟性の限界まで無視し自壊させながらなお捻る。
極限を超えて引き絞られた状態。そこから突き下ろすように、一気に解放して螺旋を描き敵手を穿つ。内部を破壊する振動がヘルハウンドの頭部、その更に内部を射抜き脳髄を蹂躙した。
肉体に縛られた生物である限り致命は逃れられない衝撃だ。ヘルハウンドの四肢が疾走中にも関わらず崩れ折れた。
サイカはヘルハウンドが倒れ伏したことにより前方へ投げ出される。地面に叩きつけられる寸前、体が自動で受け身を取った。
ヘルハウンドがどうなったか見届けなければ、そう思いよろけながらも満身創痍の体でサイカは立ち上がる。
痛みは何故か薄れて来ているが、気を張っていなければ意識が途切れそうだった。
ヘルハウンドを見れば、目に耳に鼻に口から止めどなく血を流している。
(終わったか……?)
そう思った瞬間、ヘルハウンドの赤く意思を感じさせない虚ろな目に射抜かれる。
悪寒が背筋を突き抜けた。
魔力がヘルハウンドの口に収束し、空気が歪むほどの熱量が吐きだされる。
サイカは直感する。
あれこそが森を焼き、山を削った攻撃の予兆だと。
躱せるかどうか思考を巡らし、その途中で射線上に街があることに気付いた。
山を削り取るほどの攻撃が街を襲う。
容認できる訳がない。あの街に住んだ期間は潤也の意識としては短い。だが偽りとは言えサイカの家族が居る。孤児院の人達からも良くして貰った。
それにあの街はサイカの生まれた街だ。理由はどうあれ潤也はその体を乗っ取った。だから本来のサイカに変わり、山を削る程の攻撃にあの街を晒すなど許容する訳にはいかない。
攻撃される前に倒す。
そう結論付け踏み出そうとするが、思うように体を動かすことが出来ない。
体は既に限界を遥か超えていた。あの絶技をするのに必要な筋肉繊維は軒並み千切れている。
そもそも立っていることすら異常な状態だ。サイカの体でなければそれすら出来なかったであろう。
「ぐ、おぉぉぉ!」
せめて射線だけでも変えると、その想いで更に限界を超える。
上段へと撃ち出す蹴りをヘルハウンドの顎へと放った。
鈍い音を鳴らす。鋼鉄を蹴ったような感触があるだけで、ヘルハウンドの顎と首は微動だにしない。元よりただの蹴り技でダメージを与えられるほど生易しい存在ではなかった。
(ここで、死ぬ? しかもあの街まで巻き込んで? ……冗談じゃない、冗談じゃないっ!)
けれど止める手立てがない。
認められないのにどうにも出来ない。
ヘルハウンドの口へと徐々に集まる魔力も、高まる熱量もどうしようもない。
「サイカ!」
後ろからシアの声が聞こえた瞬間、サイカは瞬時に横へずれた。
シアが凄い速度で駆けて来る。その状態は万全だ。体も魔力も完全に回復している。
これこそが無限再生という固有能力。
僅かな時間で瞬く間に万全な状態へと移行する。これまでシアを生かして来た能力だ。
そしてシアは右拳に全魔力を収束する。
熱線を発射寸前のヘルハウンドの元まですぐに駆け抜け、強烈なアッパーを見舞った。周囲に衝撃波を撒き散らしながらヘルハウンドの首が真上へ跳ねる。
同時、全てを溶かし尽くす熱線が放たれた。紅蓮の光が空に浮かぶ雲を薙ぎ払う。
そして紅蓮の熱線は放射され続ける。
その状態で首を下そうとするヘルハウンドに、シアは慌てて首を押し留めた。
「ぐぐっ、くぅ……!」
再生される魔力を片っ端から身体強化に使うが、徐々に首が下がっていく。熱線の角度も下がっていく。
既にヘルハウンドは死に体だ。にも関わらず首の力のみで、シア全身の全力を上回っていた。
サイカは朦朧とする意識の中、左手を掌底の形にした。
右腕より左腕の方が損傷具合が低い。所詮は程度の差でしかないが、あの絶技を行うなら左腕の方がまだ出来る可能性がある。
こんな体であの絶技を再現できるかはわかない。
やった後でどうなるかもわからない。
それでも見捨てるなんて出来ないと、左腕から左肩、腰までを限界まで捻る。
千切れかけていた幾つかの筋肉繊維が千切れて行く。骨が軋みを上げる。あれだけ痛かった痛覚はもはやない。それだけは幸いだったと、明滅する意識の中で思った。
左の掌底がヘルハウンドの頭部の横合いから、響き渡る震脚と共に螺旋を描いて穿ち脳髄を蹂躙した。
紅蓮の熱線が途切れる。ヘルハウンドの首から上の、穴という穴から血が一層激しく湧き出る。
シアはヘルハウンドの首から手を離すと、轟音を立てて大地に落ちた。
相変わらず様々な個所から血を流し、今度こそヘルハウンドは絶命した。
それを確認してサイカは安堵する。
思わず瞼が下がり眠気が増した。
そんなサイカを見たシアはギョッとする。
まるで死人のように生気が感じられなかったからだ。
「サイカ!? ちょっと大丈夫!?」
それに答える間もなく、サイカは意識を手放した。
白い髪がなびき朱い瞳は爛々と輝く。白いローブ姿の道化師マルグリットは満面の笑みを浮かべていた。
「素晴らしい」
万感の想いを込めて呟かれた言葉。
ただそれだけの光景が、しかし只人から見れば異常に映ったことだろう。
何せ立っている場所からして異常だった。
透き通るような青い空。
どこまでも続く蒼い海。
このどことも知れない大海原の中心で、道化師マルグリットはこともなげに水面を直立していた。
「再現率2割程度とは思えない出来だね。能力持ちの少女が加勢したとはいえ、ヘルハウンドを退けられたのはいささか予想外だったよ。異物が混ざったのが上手く作用したのかな」
マルグリットは先の戦いをずっと見ていた。
破棄したとはいえ変わった実験体だ。最終実験を施し眺めるくらいの関心はあった。
そして結果はマルグリットの想像を超えた。心の底から微笑ませてくれる程の望外だ。
「なるほど、意思がなければ届かない境地もあるということか。盲点だったね。道理で今までの人形が弱過ぎた訳だ」
越えられないであろうハードルである災害級を退けた。
文字通りに死力を尽くしあの実験体は勝ち取ったのだ。
これは笑わずにはいられない。
故にこのまま失うのはいささか惜しい。
より楽しませてくれるかもしれない素材だ。
自壊し果てるなどと言う結末は好ましくない。
「だから報酬として受け取ると良い。親たる私が君の生を祝福しよう」
世界へと接続する。
表層を侵食し、中層を潜水し、深層に至りて術式を網羅する。
復元魔術。治癒系列の上位であるこの魔術の使い手は少ない。
そもそも治癒魔術とは相応の時間をかけて肉体を治す術式であり、並外れた精密性と胆力が必要とされる。その治癒系列においての上位となれば使い手が希少となるのは必然だ。
それも魔術行使の対象であるサイカは、国境はおろか大陸すら横断する座標に存在している。そんな相手に治癒を施すなど本来なら狂人の戯言と切って捨てられるべき暴挙だ。
しかし膨大な魔力の迸りと共に、超長距離への復元魔術は行使された。
失敗など在り得なかった。
あの実験体は死人寸前から万全にまで、僅か十秒足らずでその状態を回復させたことだろう。
他の魔術師達が聞けば思わず耳が腐っていると疑わざるを得ない程の不条理。それを容易く実現させるからこその傾国級(Aクラス)。単体で国を揺るがすと認められた存在である。
「今後も君には期待してるよ。もっと私を震わせてね」
そう言って優しく微笑み、道化師マルグリットはサイカから意識を外した。
実は一章のボスには氷竜を使おうと言う案もありました。けど何度か構成を練って思ったんです。
これどうやっても勝てないよね、って。その答えを出してからすぐにヘルハウンドにレベルダウンさせました。それでもけっこう無茶しましたが(主人公が)。
何はともあれ無事にボス戦終わって良かったです。出来はまぁ……見ての通りですが。
もっと上手く描写できるようになりたいですね。。。