4話 道化の遺産
あの後ローレンはアーシェの治癒魔術により一命を取り留めた。それでも全快には程遠く数日は安静にする必要があるだろう。
サイカはローレンにひたすら謝った。ローレン本人は簡単に許してくれたが申し訳なさで一杯だ。それほどあの怪我は危険だった。具体的には致命傷一歩手前である。まさに生きててありがとうな状態だ。
なおそんな怪我では稽古続行は無理である。
ローレン持ち前の義理堅さから続行しそうになったが、そこはサイカとアーシェが必死になって止める。むしろ無理やりにでも医者の所に連れて行き、診察が終わると脇道もさせずお帰り願った。
帰り際に言われた「手加減の訓練には付き合ってやる」の言葉には、あまりの申し訳なさと感謝の念で自然と頭が下がる想いだ。
そんなこんなで夕方である。
家に帰って自室へ戻り夢玉の入った紙袋を持ち、すぐに家を出た。
シアはこの夢玉をあげると言って寄越した。
しかしサイカのような小市民が持つには夢玉は値段の高すぎる代物だ。なにせ一般的な市民では一年くらい頑張って働かないと買えないだけの価値がこの夢玉にはある。つまり平均的な結婚指輪 四つ分である。
サイカはこれを受け取ってすぐに突き返す覚悟を決めた。だから紙袋からまだ一度も出していない。
プレゼントを返品などと野暮なことだ、がそんなこと言っている余裕はない。だって心臓に悪い。
返すなら一刻も早い方が精神衛生上 都合が良い。
アーシェの貴重な休日ということもあり、朝昼は剣の稽古を優先した。だがそれでも今日中にはなんとしても返品すべくサイカは孤児院へ向かった。
さてその孤児院は部屋が一人一人に割り当てられている。孤児院にしては珍しいことだ。その辺りは個人経営の利点、というよりジョシュアの采配によるものだろうか。
それより問題なのは部屋毎に表札がないことだ。孤児院に着いたは良いものの、シアの部屋がどれかわからずサイカは途方に暮れた。
という訳で事前に教えて貰っていたとある人物の部屋に向かう。その部屋は二階の奥にあり、木彫りで刻まれた部屋番号は220だ。
ノックをしてしばし待つ。
ドアが開いていつもの快活そうな様子の少年、イグルが出て来た。
「おうサイカか! こんな夕方にどうしたよ。もしかしてもう冒険者したくなったか?」
「こんな夕方に悪いとは思うけど冒険者はまだいいや」
「そりゃ残念。とりあえず上がるか? 茶菓子はねぇけど抹茶ぐらい出すぜ」
「ありがたいけど大した要件じゃないからさ。でもなんで抹茶?」
「以前に冒険者仲間に茶菓子とセットで貰ったんだよ。けど抹茶は苦くてな……どう処分したものか悩んでたんだ」
「いや飲めよ」
元来 抹茶は茶菓子と一緒に味わうものである。単品で味わえばそれは苦いだろう。まだ少年と言って良いイグルの味覚にその味は理解し難かったのかもしれない。
日本の要素が濃い抹茶には心惹かれる部分はある。
ただ抹茶はさほど好物と言う訳でもないため今回は見送ることにした。
「ところでシア……シアフィールの部屋どこにあるか知らない?」
「……シアフィールの? 一応知っちゃいるけどよ。あんな暴力女の部屋なんぞ知ってどうすんだよ」
イグルの表情が僅かに不満そうに歪んだ。
サイカもあまり他人の関係に口を挟む気はない。
だがサイカの家まで引っ張って来たのはシアである。夢玉を半ば押しつけられたとはいえあの高級品をくれたこということもある。その所為だろうか、シアに対して彼のようには悪感情を抱けなかった。
だから暴力女と言うのは言い過ぎではないかと思ってしまう。身内としての軽口で暴力女と呼ぶならまだしも、サイカには残念ながらイグルの言動に温かみを感じ取ることは出来なかった。
確かにサイカとて彼女とは初対面で殴りかかられた身だ。イグルが暴力女と呼ぶのも多少は解る。思い返せば二度目の邂逅でもいきなり殴られそうになったことだってあった。三度目なんて目を瞑ってる時に不意打ちされたりもした。会う度に拳を振るわれているのだから、シアのことを暴力女と呼ぶのはサイカにも十二分に理解できる内容だ。
こうして鑑みると、弁護の余地はまるでなかった。
「預かり物があるんだ。それ返そうと思ったんだけど、シアの部屋がどこにあるのかわかんなくてさ」
「いつの間にあの女に会ったんだかな。けどタイミングがわりぃよ。アイツ昨日から帰ってねーらしいぜ」
魔法具専門店に行った日だ。とするとサイカと別れて以降、一度も孤児院に帰っていないのだろうか。
「確か門限あったよね。もしかして他の家に自由に泊まったりできるくらいには、ここの規則って緩い?」
「そこまで緩くねぇよ? 規則破ったらジョシュアさん怖ぇからな。せめて事前 連絡くらい入れねぇと地獄だな。だから門限破ろうとする奴はほとんどいねぇし、一日帰って来ない場合はまぁ……面倒臭いことになってることも多いかもな」
「面倒臭いこと?」
「興味本位で森まで行って魔物に襲われてたり、山まで行って遭難したりは割とあったぞ。ここらは比較的に治安良いけど、人売りに攫われるなんてことも在り得なくはないしな。まぁあれの場合は攫おうとするともれなく返り討ちで人死にが出るだろうけど。例え森まで行って運悪く魔物の群れに出会っても一方的に蹂躙する方だし。てな訳で多分森かどっかで道に迷ってんじゃねぇの?」
「……ある意味では信頼が凄く厚いんだね」
心配はしてしまうが、サイカもシアの武闘を見ているためイグルの言動には納得できた。
人死にや迷子云々は置いておくが、シアに襲い掛かった所で返り討ちにされる様を想像するのは容易だ。あの人族としてはあまりに力強過ぎる拳や蹴りが直撃すれば、例えばオークくらいなら一撃で行動不能である。
とは言えそこまで単純とは思わないが。不意打ちで昏倒させられる可能性もあれば、薬物という手もあるだろう。ただあまり不吉なことを言うのは気分的に憚られた。
けれどイグルもさほど心配そうではないのは少し安心できる。
いくらそれほど仲が良くなくとも、さすがに同じ孤児院内の人間の不幸を喜ぶことはないだろうとの判断だ。
「さすがは能力持ちってことだよ。冒険者で換算すると下手すりゃB級並みなんじゃねぇのかアレ?」
とても気になる単語が出て来た。
冒険者のランクも気になるが、それ以上に能力持ちという言葉が気になる。
「ちなみに能力持ちの意味を忘れちゃったみたいなんだよね。だから説明があると嬉しいな」
「サイカの記憶喪失って変な所で出てくんのな……。
能力持ちってのは固有能力を持ってる奴を指す言葉だよ。固有能力ってのは簡単に言えば、そいつ特有の特殊な力だ。暴力女の場合は無限再生、傷が出来たらすぐ治る。あとその副作用か力も魔力も化物染みてんな。
能力持ちなんて滅多に居ないからな、俺もこれくらいしか知らねぇんだ。これ以上はサイカの母親か妹にでも聞いてみろよ。魔術師だから俺より詳しいと思うぜ」
あの怪力がただの副産物。なるほどさすが異世界と言う他ない。魔術以外にこれほど無茶な力が存在する事実にサイカは若干引き気味だ。
「いや充分わかったよ。説明ありがとね。でも凄そうだな固有能力? 俺も何か欲しかったな」
言い終えて、そういえば全自動武術はもしかして固有能力だろうか、などと少し考えた。ただアーシェが気付きそうなものなので違うとは思うが。
「こればっかりは生まれ持った才能だかんな」
「才能ねぇ……」
異世界に来たにも関わらず魔術も使えず能力もない。せっかくファンタジーが存在する世界だと言うのに、どうにもそう言った才覚とは縁が薄いようだ。
ただ能力が使えないのが普通と言う事実は助かった。魔術のように生活と密接に関わっていたらどうしようかと思っていた所だ。
「それはそうと預かり物はジョシュアさんに頼んだらどうよ。アイツが帰ってきたら渡してくれると思うぜ?」
そう言ってくれるのは嬉しい。だが夢玉はサイカにとって超高級品である。誰かを経由することには抵抗がある。
「ありがと、でもシアが帰ってきたら自分の手で渡すよ。という訳でその時のためにシアの部屋を教えて貰えるかな」
『それは雨降る夜のこと、二台の車は仲良く赤く燃えていた。
普段は静かな十字路も今では明るく騒がしい。
路地の中心で燃える車と、囲んで騒ぐ野次馬達。
気持ち悪い、気分が悪い。
これはいつかの再現で、酷く恐ろしい夢だった』
翌日になった。あの後でシアの部屋も教えて貰い準備は万端だ。
いつも通りにユリスと共に孤児院へ向かう。なおアーシェは今日から再び仕事的な修羅場だ。
なおサイカの手に夢玉入りの紙袋はない。まだシアが孤児院に帰っていない可能性がある以上、あまり高級品を持ち歩きたくなかったのだ。
まずはシアが帰ってきたことを確認してから、それから取りに行けば良いと言う判断だった。
もう帰っているだろうか、サイカは不安に思う。
一度は楽観したものの、時間が経つと不意に不安が過る。本当に危ない目に合っていないかと。ちゃんと帰って来るのかと。
らしくないと、サイカは思った。
シアとはまだそれほど付き合いがない。そんな他人のためにここまでの不安を抱くなど、サイカ本人からして意外であった。
昔からの悪い習慣で、サイカは他人のことで心動かされることは少ない。
潤也だった頃の学生時代、仲の良い友人が転校することになってもあっさりと見送った。些細な言い合いから疎遠になった級友も居たが、その事についての後悔も些細なことでしかなかった。イジメられていたクラスメイトには平然と見過ごし続けて来た。
そんなサイカである。
理由が違い過ぎるが、それでも付き合いの浅いシアに対してここまでの不安を抱くのは自分でも違和感がある。
何が違うのかの心当たりは、今回ばかりは命の危険があるかもしれないということだろうか。
そもそも他人に頓着がさほど湧かないと言う悪癖は、両親が死んでから出来上がった物だ。
幼い頃はそうでもなかった。人の言葉や行動にちゃんと一喜一憂していた。こんな関心の薄い人間じゃなかった。人並みに好奇心旺盛で、人並みに傷ついたり喜ぶ子供だった。
それが潤也の両親が死んで、狂ってしまったのだ。
交通事故で両親を亡くしてから、親戚を名乗る知らない人が沢山来た。
遺産だの誰が潤也を引き取るかだの、子供であった潤也の不安を煽るような言葉が並べ立てられていた。皆が怖い表情をしていたのを、子供心によく覚えている。そんな大人たちを見ていて不安に駆られても、潤也の味方として守ってくれる存在である両親はもう手の届かない所に逝ってしまっていた。
だから潤也は目と耳を塞ぎ縮こまって、周囲が落ち着くのを待った。
それからだろうか。何が悪かったのかはっきりとはわからないが、その子供は人を今一つ信じ切れなくなった。人との距離を今一歩の所で、詰められなくなってしまった。他人の喜びや嘆きに心があまり動かなくなった。
そんな子供の悪癖は、歳を重ねても悪い習慣としてこびり付く。
特段困った事態も起きず直す機会も逸しただけに、もう一生この習性とは付き合う物だと思っていた。
その妄念が、シアに命の危険があるかもしれないという事柄であっさりと崩れかけていた。どうも他人の不幸に疎いと言うのも、生死に関わることは例外らしい。
「ねぇお兄ちゃん、朝から調子悪そうだけど大丈夫?」
孤児院へ行く道程の中でも特に人気のない通路で、隣を歩いていたユリスが心配そうに見つめてくる。
表面上まで暗くなっていたとは気付かず、慌てて取り繕った。
「ごめんごめん、大丈夫だよ。ちょっと怖い夢を見たのを思い出してただけだからさ」
「それなら良いけど、怖い夢ってどんなの?」
「乗り物が事故おこして燃えちゃう夢だよ」
「え、乗り物って馬車とかだよね。どうして燃えちゃったの!?」
「どうしてと言われても……夢の話だからね。不条理なくらい突然に燃えちゃったんだよ」
実際の乗り物は普通車と中型トラックだったのだが、この世界では乗り物と言えば馬車である。残念ながら車を扱うほどこの世界の化学は進んでいなかった。
もちろん馬車同士でぶつかっても普通は燃えないので馬車で話の再現は難しい。
「突然 馬車が燃えるなんて……馬はどうなったの?」
「……馬は大丈夫。走って逃げて行ったから燃えてないよ」
日本の道路を疾走する馬車など冗談ではない。
馬なんて最初から居ないのである。
「そっかぁ、馬が無事で良かったよー」
「そうだなー、良かったなー」
サイカは愛想笑いの棒読みだった。
どうしても架空の馬に感情を込めることが出来なかったのだ。
至極どうでも良い話である。
「……それで乗ってた人は?」
「どうなんだろうね。そこで夢が終わったからわからず仕舞いなんだ」
「そっか、でも夢の中の話なんだよね。現実で突然に馬車が燃える訳ないから気にしない方が良いよ絶対!」
「確かに気にしても仕方ないか」
潤也は両親が事故に合った場面を初めて見た。
何せあの交通事故が起きた時、潤也は親戚の家で両親を待っていたのだから。
だからあの夢は虚構である。そうだと解っていても脳裏に刻みこまれてしまった以上は、もう忘れることなんて出来ない。
だが気にしない事にした。心配されてまで気にするのは、何か違う気がするのだ。
だから出来る限りの自然体でいるよう心がけようと決めた所で、奥の路地から二人の男女が出てくることに気付いた。人気のないこの通路では割と珍しいことだ。
男の方の赤黒い髪や精鍛な顔付きには見覚えがあった。確か魔法具店に行った帰りに出会ったアドリスと言う男性だ。
もう片方はそれこそ見覚えがある。どうしてこんな所にいるのかと驚くが、確かにシアフィールだ。
無事で良かった、そう思う。どこか不安に思っていた気分が晴れていくようだ。
そんな安堵の想いとは裏腹――――身の危険を察知したサイカの体は、反射的にその場を跳び退いていた。
「『吾が声を受け入れろ』」
アドリスの声を始まりに、煉瓦造りの道路から淡い光を帯びた魔法陣が浮かび上がる。膨大な魔力が込められた陣の発動。その予兆を無意識に感じ取ったサイカは自動的にその範囲外へ逃れていた。
だがユリスは未だ魔法陣の内だった。
魔法陣に刻まれた術式に魔力が通ることで魔法が出力される。
甲高く乾いた音が鳴り響き、魔法陣が眩く発光した。
その時確かに魔術は発現していた。
魔法陣から光が消え、煉瓦の色彩とほぼ同化する。魔法陣があると知っていなければ気付かないほどの線の薄さだ。
そこでようやくサイカは我に返る。
「……ユリス?」
見た目は変わっていない。だが声を掛けてもただ呆然と立ち尽くすのみで反応がなかった。ただその瞳は焦点が合っていないように見える。
サイカの困惑は大きい。
アドリスと言う一応は知った顔にいきなり魔術を使われた。そのアドリスの隣にシアがいることなんて特に訳がわからない。
そして今のユリスが心配なのにも関わらず、体が近寄ることに警鐘を鳴らすのだ。
「予期せず別の獲物を捕まえてしまったか。やれやれ、さすがに本命ともなれば素直に罠には嵌ってくれんということかな」
魔法陣を起動させたその声で、アドリスは誰にともなく語りかける。
サイカの体は既にアドリスへと警戒を露わにしていた。
「ユリスに、何をしたんだよ」
「…………ほう、君に家族意識と言うものはないと思っていたのだがな。しかし道理で一度は出会っていながら見逃す訳だ。道化と言えど、生体からでは純粋な人形は生み出せなかったと言うことか」
ビクリ、と体を震わせる。
アドリスの言葉は今一つ理解できない事ばかりだ。だがそれでも確実に、朝霧 潤也の意識が此処にある理由の一片をアドリスは語ったのだとそう悟る。
知れるなら知りたかった真実の手掛かりを前に、サイカはその欲求を無理やりに押さえつけ再度問いかける。
「質問に答えてくれよ……あんたはユリスに何したんだ」
そこでアドリスはようやくサイカへと真っ直ぐ視線を向けた。
「そう大したことではないがな。私の言うことをよく聞くよう洗脳の魔術を掛けただけだ。それも効果は精々三十分程度な上に、高度な命令は聞かせられんと言う扱い辛い代物だ」
体が警戒する理由がサイカにもわかった。
命令してユリスに攻撃させる程度のことは出来るのだろう。迂闊に近づいていれば実際にそうなっていたかもしれない。
そして洗脳と聞き、サイカはシアの様子を伺う。アドリスに洗脳されている可能性を疑ったためだ。
だが呆然としているユリスとは違い、シアとはあっさりと眼が合った。
「まぁ悪いとは思うけど、これも仕事だしね。それにしても記憶喪失とか人格変わってるとかヒントはあったけど、まさかアンタが道化の遺産だとは思わなかったよ」
シアからは確かな意思を感じる。少なくとも洗脳をされているようには見えない。それだけに今居るサイカが本来のサイカでないことを指摘され、罪悪感が胸を燻る。
「……俺達をどうするつもりだよ」
「端的に言えば誘拐だな。道化の遺産には価値があるからね。だからその君さえ大人しくしてくれるなら、そちらの少女の安全は保障しよう。逆にこの場から逃げるなら彼女を殺すし、抵抗するなら彼女が君の相手だ」
誘拐されたその先に、禄でもない未来が見え隠れしていた。
我が身が一番大事な以上、答えは決まり切っている。
「…………」
それでも声が出ないのは、喉がカラカラに渇くのは一体何故か。
このサイカは本来ではなく所詮は偽物。ユリスも偽りの家族で妹だ。この欺瞞に多少の負い目はあれど、命を差し出してまで助けたいとは思わない。
にも関わらず、逃げようとも抵抗しようとも体が動かない。感情すら伴わない。
「ふむ、どうやら選べないようだな。それも良かろう、せめてもの慈悲だ。選択の余地なく君を屈服させてあげよう。シアフィール、君も動け」
「はいはい、わかりましたよ」
面倒臭そうにシアは全身に魔力強化を施していく。
目に見える程の膨大な魔力がシアから漏れ出していた。
「そして命令だ『あの男を無力化しろ』」
「……はい」
ユリスの虚ろな目がサイカを捕え、幽鬼の様に動き出す。
「セット……」
ユリスの背後より虚空から電気の球体が発生した。一つ二つと瞬く間に増殖し、すぐに十を超えて二十に到達し、なお増殖を繰り返す。
ただし雷球の電力はそう大したものではなかった。無力化するとして選択したのが適切な電圧による死なない程度の電撃だったためだ。
「……行け」
静かな号令と共に、雷球がサイカを貫かんと一斉に掃射される。弾丸が数十、視認を許さない雷速で空気を駆け抜けた。
しかしその号令に先んじ、サイカは横へ無駄なく一歩踏み出し体を捻る。それだけで気付いた時には、直線を突き進んだ数十の雷球が全て外れていた。
まるで安全地帯を予知したかのような動き。その動きにシアは驚愕しながらも気を引き締め、アドリスもまた驚愕しながら歓喜する。さすがは道化の遺産だと。
その危機回避能力はサイカ本人の予想も上回っていた。いくらこの体が凄いと言えど、まさかあれだけの数の雷球を躱し切ることが可能とは思っていなかったのだ。
しかし驚きはない。平常時ならともかく、ユリスが操られ攻撃してきたのだ。今のサイカに驚くだけの余力はない。
それでも体が勝手に動くと言うのなら好都合だと思った。
外敵から身を守ってくれるなら、身内や友人を迎撃しようと構わない。体の防衛本能に任せておけば、感情に振り回されて体を鈍らせることもないだろう。
故にサイカは自動で動くままに身を委ねる。
深く呼吸を取り込む。
神経を研ぎ澄ませていく。
全身の無駄な力を排除し、理想的な自然体を作り上げる。
「……二射目、行け」
十数個まで生成した雷球を、ユリスは更に掃射した。
その視線、表情、空気の流れから魔力の流れなど、人間が意識的には感知できないような事象までもを感知し未来を予測し、サイカはその身をいち早く安全地帯へ置いた。予定調和の如く外れていく雷の弾丸。いくら速くとも直線にしか進まず、しかも術者が洗脳されているためサイカの体にとっては聊か単調に過ぎた。
すかさずシアは地を蹴り、ネコ科の獣染みた動きで距離を瞬く間に詰める。その勢いを乗せた拳はうねりを上げながらサイカへ向かう。半身を捻りながら腕で十全に受け流す。にも拘わらずサイカの腕には強烈な衝撃が走った。
シアはすぐに振り向き様の上段蹴りを放った。中腰になるだけで紙一重に躱す。
シアの上空を指した足先が一転、力強く踵落としを打ち下す。サイカが半歩後ろに下がることで、踵が鼻先を素通りして行った。次いで煉瓦が割れる轟音。踵の着弾点を中心に、蜘蛛の巣状にヒビが入っていた。
逸脱した力から放たれるシアの攻撃は一つ一つが殺人技だ。
あんな攻撃が直撃すれば死ぬ。掠っただけで致命傷になりかねない。誘拐どころか殺す気ではないかと疑い、その恐怖に悪寒が背に走る。
それでも体は自動的だ。踵落としを空ぶったシアの隙に反撃しようと掌底を形作る。撃ち出す寸前、危険を察知しその場から跳び引いた。
幾つもの雷球がサイカが居た場所を通過する。
ユリスの魔術に冷や汗を流す間もなくシアが追従し、硬く握った拳を打ち出してくる。その図抜けた力から放たれる拳は、ただそれだけで並み大抵の生物を死に至らしめるだけの威力が込められている。無駄のない動きで回避行動を取りながらその攻撃を受け流す。
更にシアの猛攻は止むことはない。力強く流れていく拳や蹴りを、紙一重で躱し或いは受け流す。
如何にサイカの体の技量が非凡でも、シアの猛攻を前にしてはそう容易く反撃には出られなかった。
そもそも二人は土台が違い過ぎる。
並外れた魔力による強化と元来高すぎる素の身体能力が合わさり、シアの力や速さは飛び抜けている。攻撃の度に腕先や足先が霞み、目で捉えきれない程の速さ。攻撃の度に引き裂かれた空気が肌に叩きつけられる程の力強さ。それだけの身体能力を扱えるだけの技量も有しているのだから始末に負えない。
それに引き替えサイカは所詮13歳の体である。普通より身体能力は高いがあくまで普通と比べての話だ。魔力強化による底上げもまともに出来ない。
純粋に力だけで比べるなら、それこそ子犬と巨像くらいの差は存在していた。
これだけ力に差がありながら、戦いになっていること自体が一種の奇跡だ。それほどまでにサイカの戦闘技術そのものは逸脱している。稀とは言えシアの僅かな隙を付き、反撃をしようとするほどには。
だがその反撃もユリスの雷球による妨害で無為に終わる。シアに雷球が当たらないよう配慮されていることと言い、アドリスの洗脳は優秀だ。
シアの攻撃を最適化した動きで捌き続けながら、サイカは焦燥に駆られていた。最少動作で立ち回っているとはいえ、呼吸が乱れ体が重くなり、体力の限界が見え始めたからだ。殺傷力の強い攻撃にさらされ、神経が磨り減っていくことも体力消耗の大きな原因だろう。
シアは未だ息一つ乱していない。ユリスも魔力が無くなるのはまだ先の事だった。アドリスなど戦線に参加していない以上、余裕が有り余っているだろう。
このまま続けばジリ貧であることは目に見えている。
要はユリスの妨害があるからいけないのだ。原因が解ればそれを封じるよう動かない手はない。
シアの蹴りを躱す際、ユリスとサイカの間にシアを置くよう移動する。ユリスから見て死角に位置する場所に陣取り、譲らないまま再びシアの攻撃を捌き続けた。
とはいえ横合いからでも雷球を放てるだろうし、気休め程度の効果しか望めないだろう。だがその気休めの分、シアの隙に付け入ることが出来る。
その考えを読み取れたシアの拳が、焦りで大振りになった。望外の隙にサイカは大振りの拳を掻い潜り、自身の最速でシアの顎先を拳で打ち抜く。
脳を揺らされ脳震盪をお越し足踏みするシアの横を、サイカはそのまま通り過ぎた。シアが行動不能になる数秒の隙に一直線でユリスの元へ駆け抜ける。
幾つもの雷球の連弾を最少動作で躱し、遂にユリスの懐へと到達した。
サイカは腰から肩、腕先までを極限まで捻りながら掌底を形作る。その動作で思い浮かぶは、螺旋を穿ち対象の内臓を圧潰するあの絶技。
中腰に構え、ユリスに向けて震脚と共に掌底を打ち出――――
――――家族を殺すのか?
脳裏に過ぎった思考に体が停止する。
流され続けていた頭で、僅かにでも魔人さえ殺しかけたこの技を打つことの意味を考えてしまった。それも相手は偽りとは言え妹で、殺人への忌避感だって人並みにある。
そんな僅かな隙は、あまりに致命的だった。
「行け……」
未だ控えていたユリスの雷球3つが弾丸となり、サイカに的中した。
全身に強烈な痛みが駆け巡る。
辛うじて意識こそ失わなかったが、体は痺れ頭が真っ白になる。
「結構頑張ってたけど、結局ここまでだね」
サイカがよろめき後ずさった所に、後ろから来ていたシアがサイカの腕を取る。
薄く刻まれたままの魔法陣まで引っ張り、その陣内にサイカを無造作に投げ入れた。その衝撃と痛みに小さく呻き声を上げる。
「予想以上に手間が掛かったな。さすがは道化の遺産だ」
サイカに近寄ったアドリスは、サイカを見下しながら称賛の言葉を述べる。
朦朧とする意識の中、サイカはこの場で唯一 気兼ねなく明確な敵と言えるアドリスを睨んだ。最適な動きを導き出す体の補正も借り、気力で立ち上がる。
とにかくこんな状況を引き起こしたアドリスを殴らなくては気が済まない。力なく拳を握り、思うように動かない体を必死で動かして振りかぶった。
「『吾が声を受け入れろ』」
サイカが殴るより遥かに速く、アドリスの詠唱で魔法陣が起動する。
陣が発光し、洗脳の魔術は完成する。
サイカの目から光が消え焦点がズレた。
握られた拳は解かれ、振り上げた腕はだらりと下がる。
サイカの中にあった潤也の自我は洗脳の魔術により束縛された。意識の底へと自我が沈んで行く。
『――――意識が覚醒状態であることを確認。人形の自我を起動します』
ところでこれは仮定の話だが、もし潤也の自我という異物がなければサイカにはどのような自我が存在していたのであろうか。
元よりサイカは道化に造られた存在だ。だからその自我は、道化以外の言葉など聞く耳持たぬ、忠実な人形であったのだろう。
そしてその人形は、この後に訪れる道化の道楽に付き合うために戦闘思考で調整されていた。
『――――人形の自我の起動を確認。これより被験体の実戦測定のための最終実験を行います。魔物召喚術式、起動』
遠く山の麓、石造り小屋で強大な魔力が迸る。
森の中から白い光の柱が天を貫いた。それは街から見てすら解る程の魔力の噴出。
突然に現れた光の柱に、シアとアドリスは目を見開き釘付けとなった。
「馬鹿なッ。あの不発弾が起動したとでも――――――」
光の柱に釘付けとなったアドリスの隙に、人形の自我を伴うサイカは反応した。脱力状態から放たれる無拍子の抜き手。それは寸分たがわずアドリスの喉を射抜き突き刺さった。
「ガ、フ…………きさ、ま……」
抜き手を引き抜く。血が喉から零れ出た。
憎悪で顔が歪むアドリスに、サイカはただ淡々と感情のない視線を送る。
アドリスの体が傾き、地に倒れ伏した。喉からは変わらず血が流れ出て煉瓦の地面を濡らしている。
アドリスという術者が死んだことで、洗脳の魔術は解かれた。
まずユリスが洗脳から解放され、しかし洗脳のショックで気絶し地面に倒れた。サイカも洗脳の束縛が解かれたことで潤也の自我が浮上し、そして同じく意識を失った。
一人残されたシアは既に光の柱など見ていなかった。
突然の惨劇に反応できず、地に転がる三人を見つめしばらく呆然としていた。
「…………嘘でしょ」
アドリスさんがログアウトしました。
彼は一章の中ボスだった訳ですが、何の見せ場もなかったですね。
だが例えアドリスがいなくなっても第二第三のアドリスが(以下略)