I know where you are
夕方になりオレンジ色の夕陽が芝を染める中、ザックは馬場に出ている馬をアレックスだけ残して厩舎に入れた。アレックスに鞍を付け、馬場から出すとポーチの柱に手綱を結わいた。
家に入ると洋子はキッチンで夕食の支度をし、ララはローテーブルでお絵描きをしていた。ザックはそのまま寝室へ入りドアを閉めた。着ているシャツの上にホルスターを付けると、チェストから取り出した銃を収める。クローゼットから出したポンチョを羽織ると寝室を出た。ララがお絵描きの手を止めて顔を上げた。
「パパ、お出掛け?」
「うん、ちょっとね」
ザックはララに近付いてしゃがむと、スケッチブックを覗いた。
「何描いてるんだ?」
「パパとママ」
まだ輪郭しか描かれていない絵を見てザックは微笑んだ。
「上手だ」
ララのおでこにキスすると立ち上がった。
洋子がタオルで手を拭きながらキッチンから出てきた。ポンチョを羽織っているザックの姿に眉をひそめる。
「ザック……出掛けるの?」
「ああ。最近全然構ってやらなかったから、アレックスのストレスが溜まってるみたいなんだ。少し走らせてくる」
玄関へ向かいながら説明するザックの後に続きながら洋子が尋ねる。
「今から?」
「夕飯までには戻る」
ザックはドアの前で振り向き、洋子にキスをすると出て行った。
アレックスに跨り敷地を出て薄闇の中を走り去っていくザックの姿を、洋子は廊下の窓から不安な顔で見ていた。昼間、庭のベンチの上に弾薬の箱が置いてある事に気付いていたのだ。洋子は寝室に入り、ベッド横のチェストの引き出しを開けた。いつもあるはずの銃がない。
「やっぱり……」
ザックは銃など持って一体どこに行くつもりなのか。不意にこの家に初めて来た日の事を思い出す。犯罪組織を摘発するため、洋子をここに置いて出掛けていったあの日を。洋子の呼吸が速くなった。あの日の夜、ザックは三発の銃弾を浴びたのだ。震える手でチェストの引き出しを閉め、カーテンが開いたままの窓へ顔を向けた。東向きの窓ガラスの外は暗く、そこには自分が映っている。洋子は自分が泣きそうな顔をしていることに気付いた。
ザックはアレックスを西へ向かって走らせていた。ああいう奴らの隠れそうな場所は見当がついている。この辺は空き家も多い。持ち主が高齢で死んだり、大した産業も無いこの荒地に見切りをつけ、仕事を求めて街へ出て行く者も多いからだ。サンダースの家も空き家になっているが、あそこは荒れ過ぎている。
西の外れにうってつけの空き家がある。周りを潅木に囲まれ、道路からはそこに家があることすら分からない。シャッター付きのガレージもあるから車も隠せる。
そこには去年まで偏屈な老人が住んでいた。子供は無く、三十年前に妻を亡くしてから他人との関わりを絶っていたのだ。子供の頃悪ガキで有名だったザックとジョンは、その家に近付くだけで老人に怒鳴られ追い払われていた。
一時期住民の間で、その老人が自分の妻を殺したのではないかという噂が流れた。まだ子供だったザックは、大人達がそんな事をヒソヒソと話しているのを面白がっていただけだ。アンソニーだけがその噂を否定した。「彼女は病気で死んだのだ」と。
去年老人が死に、彼の寝室から妻への愛を綴った数百編の詩と、古びた妻の日記が見つかった。三十年もの間その老人は喪に服し、妻の思い出と共に生きていたのだ。アンソニーは正しかった。
「そうだ……いつも正しいのは親父の方だ……」
急に冷えてきた空気に白い息を吐きながら、ザックはそんな言葉を呟いた。俯きそうになる顔を上げ、前方を睨みつけると居留区の西の外れに向かってアレックスを急き立てた。
蝋燭が投げかける灯りの中で、コリンは銃弾から取り出した火薬をパラパラと左の掌に振りかけた。そこへライターの火を近付けると、小気味良い小さな破裂音と共に掌の上から炎が上がる。コリンを取り囲むようにして座っている仲間達が低い感嘆の声を上げた。炎はすぐに消え、黒く煤の付いた掌を仲間にかざす。痛みも熱も感じない。彼らの上気した顔を見渡し、畏怖の念に満ちた眼差しを受けてコリンは満足気に笑った。
毎日恒例のプチ儀式が終わり、仲間は電池式の蛍光ランタンを点けると携帯電話をいじったり、携帯ゲームを始めたり思い思いに楽しみ始める。それでもコリンは満足だった。蝋燭の前であぐらをかいたまま「くっくっ」と肩を揺らして笑っていた。
「俺はこいつらとは違う。俺は今、研ぎ澄まされている……。さっきのクラックは俺の感性をちょこっと押し上げるに過ぎない。俺は特別な人間なんだ……」
一人悦に入って呟くコリンの耳に、馬の蹄のような音が聞こえた。周りを見渡したが、仲間には聞こえていないようだ。ヘッドホンで音楽を聴きながら頭を振っている奴。一心不乱にゲーム機のボタンを連打する奴。奥のキッチンでは、テーブルの上の白い粉を鼻から吸い込むのに夢中になっている奴。皆、凡人だ。
「ふん! 愚鈍な奴らめ!」
コリンは吐き捨てるように呟くと玄関横の窓に近付き、目隠しに貼ったダンボールの隙間から外を見て驚愕した。
夕闇の中、男を乗せた馬が真っ直ぐにこちらへ向かってくる。その男の上空には一羽の猛禽が飛んでいた。
「イーグル!」
コリンは窓から顔を背け、壁に背中をつけて部屋の方を向いた。自分以外に蹄の音に気付いている者はいない。
「俺だけに聞こえているのか? それとも、こいつらが鈍いだけか……」
口の中がカラカラに乾き、呟いた言葉は声にはならなかった。体中から汗が噴出してくる。
ザックは家から一定の距離を置き、止まらずに家を取り囲んでいる潅木の茂みの外側を回り始めた。隙間から見えた窓は暗い。おそらくダンボールのような物が貼り付けられているのだろう。中を覗く事は出来ないが、人の気配を感じる。家の裏を回り、茂みが途切れているガレージの前を通ると確信した。生い茂る雑草が、ガレージのシャッター付近と玄関の前だけなぎ倒されている。間違いない。誰かがここを使っている。
自分だけにしか聞こえていない蹄の音は、家の周りを走っている。コリンは姿の見えない人馬の音を追うように首を巡らせた。蹄の音は頭が割れそうなほどに鳴り響いているが、仲間は皆自分の楽しみに没頭している。その呆れるほど間抜けな連中を怒鳴りつけてやりたかったが、今声を出せば外にいる男に気付かれてしまう。今はまだその時期ではない。コリンはちぎれそうなほど唇を噛み締めた。
ザックは玄関の正面から二十メートルほどの距離を置いてアレックスを止めた。陽は完全に沈み、月明かりにぼんやりと浮かび上がるその家に顔を向けた。ポンチョの中で銃に手を掛け、玄関の横にある窓を睨みつける。奴はここにいる。ザックの直感がそう告げた。そして誰かが自分を見ている事も感じられる。瞬きもせずに唇を細く開け、長い息を吐き出した。銃の安全装置を外す。もし今ここで、奴が何かアクションを起こしてくれば手っ取り早く事は済む。ザックは待った。
蹄の音は玄関の正面で止まった。コリンの背中に冷たい戦慄が走る。肩で息をしながら再び外を覗いた。馬に乗った男が見える。真正面を向いており、その頭上を旋回する猛禽もまだいる。大きな翼を広げた真っ黒い影が、赤みを帯びた月の中を飛んでいる。コリンには、その月が暗闇にぽっかりと開いた黄泉の国への出入り口に見えてならない。
コリンはイーグルの顔を知らない。幼い頃、この居留区で数回見かけただけのイーグルはとても大きな男だった。自分の父親が小柄だったせいかも知れない。とりわけ印象に残っているのは大きな手だった。何度、その手に捕まれる悪夢にうなされたことか。
今、そこにいる男がやけに大きく見える。暗くて見えるはずも無いのに、その男の鋭い眼光に射抜かれる感覚を覚えた。心臓が破けそうなほど鼓動が早くなる。
「イーグルの亡霊だ……。ついに俺のところにも……」
父親はイーグルに取り憑かれたのだ。コリンは鼻の頭に皺を寄せ、両目をきつく閉じた。
あの日、意を決したかのようにアルフレッドは、息子であるコリンの部屋のドアを勢い良く開けた。今朝、どこからか帰って来たコリンは火薬の匂いをさせていた。パソコン画面から不機嫌そうに顔を上げたコリンに「いったい何をしているんだ」と詰め寄った。その時に目にした黒地に白抜きの文字が書かれた異様なパソコン画面にアルフレッドは目を見開いた。
「もうイーグルのことは恨んでない。こんなことはやめるんだ」
コリンは父親の言葉に愕然とした。あんな目に遭わされて、それでも恨んでいないと言う父親を理解出来なかった。父親だけではない。家族全員が辛い目に遭ったのだ。それまで住んでいた場所を追われ、お気に入りの遊び場も友達とも引き離された。新しい学校には馴染めず苛められたのだ。出所してからなかなか仕事が見つからなかった父親は、時折イーグルへの恨み言を口にしていたのに。その時コリンは気付いた。
「父さんは、イーグルに操られてる……。イーグルの亡霊に……」
このままでは父親の人格が乗っ取られてしまう。おそらく、母親も既にそうなのだろう。その前に自分が何とかしなければ。
「そうはさせるか……」
喉の奥から唸るような声を出し、コリンは傍らのナイフを握った。
コリンは目を開けてもう一度外を覗いた。亡霊はまだそこにいる。両親をイーグルの呪いから開放した後、儀式を行い二人の魂は浄化した。しかしまだイーグルは滅んでいないのが分かった。コリンの身体は硬直し、全く動かすことが出来ない。口で短い呼吸を繰り返しながら、その亡霊が放つ威圧感に圧倒されていた。
しばらく待ったが動きは無い。ザックは手綱を引いてアレックスの向きを変えさせ、来た道を戻り始めた。ついてくる猛禽にも気付いていた。全速力で走る馬を警戒して偵察しているだけだろう。いつの間にか猛禽はどこかへ飛び去りいなくなっていた。
夕食が出来上がる直前になって、約束どおりザックは戻ってきた。思う存分走る事が出来たのだろう、アレックスの満足気ないななきが玄関の向こうから聞こえてきた。ザックはそのまま厩舎へ向かったようで、洋子が玄関の扉を開けた時にはその姿は無かった。洋子はポーチに出てザックを待ちながら、銃を持って出掛けた訳を問い詰めてやろうと思っていた。
ザックが階段を上がっていると、腕を組んでポーチに立っている洋子が何か言いたげなのに気が付いた。ポーチに上がり洋子の目の前に立つと、どこに行っていたのか訊かれる前にキスをする。洋子は恥ずかしそうに俯き、言葉を飲み込んだ。洋子を黙らせる術は心得ている。
「約束どおりだったろ?」
「うん……」
ザックの言葉に洋子は俯いたままで応えた。洋子のその反応に満足したザックからは自然に笑みがこぼれる。そして開け放したドアの向こうからはシチューのいい香りが漂ってきた。
「さぁ、飯だ、飯だ」
傍らを通り過ぎ、家の中に入っていくザックの後姿を洋子は振り返って見つめた。約束どおり、ちゃんと帰って来てくれた事に何よりも安堵していた。きっと何事も無かったのだろう。
「まあ、いっか……」
洋子も続いて家の中へ入った。
ザックは今日の自分の行動が、危険なほどコリンを追い詰めてしまった事に気付いていなかった。もし、洋子がちゃんとザックを問い詰めていたら、これから起こる事態は避けられたかも知れない。