What's going on?
次の日の朝、柔らかな朝陽が差し込む寝室のベッドでは、洋子が一人で眠っていた。
ダイニングテーブルの自分の席に着いているララは、心配そうにキッチンを覗き込んだ。
「ママは?」
「ママは具合が悪いんだ。寝かせてあげなさい」
キッチンに立ってオレンジを切りながら、ザックが威厳たっぷりに言う。
ララはさらに心配そうな顔になる。
「朝ご飯はどうなるの?」
「今、俺が用意してるだろ。見えないのか?」
ザックはララをチラッと見るとオレンジをカッティングボードに置き、傍らのフライパンを振ってプツプツと気泡の出ているパンケーキをひっくり返した。裏面はきれいな黄金色に焼けている。その見事な手際にも拘らず、ララが不満そうな声を上げた。
「え~、パパが? パパが作ったご飯なんて食べられるのかなあ?」
ザックは花の形に飾り切りしたオレンジの断面をグッとララの方に突き出し、口を尖らせた。
「言っとくけどなぁ、これでもママのために毎日食事を作ってた時もあったんだぞ!」
「そんなの見た事無い! いつ?」
「お前が生まれる前の話だよ。ママはいつも美味そうに食ってたぞ! なあ、ヨーコ」
「本当よ」
ララが声のした方を向くと、開いた寝室のドアの枠にもたれて洋子が立っていた。タンクトップにスウェットパンツで、ベッドから出てきたままの姿だったが、すっきりとした顔で微笑んでいる。
ザックは焼きあがったパンケーキをオレンジとサラダが載った皿に滑らせ、それを持ってキッチンを出た。座っているララの前に朝食を置くと、そのまま洋子に近付いた。
「大丈夫なのか?」
「うん。今朝はすごくすっきりしてる」
「パパー! シロップは?」
洋子の額にキスをしながら、ザックはキッチンカウンター横の戸棚を指差した。
「場所は知ってるだろ? 自分で取りなさい。ヨーコ、何か食べられそうか?」
「もちろん。あなたが作ってくれるんでしょ?」
ララはシロップのビンを持ってテーブルに戻りながら、驚きの顔で両親を見ていた。昨夜はあんなに仲が悪そうだったのに、一体どうしたのだろう、と。柔らかな微笑を交し合う両親を前に、ララの頬も自然と緩み始める。パパとママは仲良しなのが一番だ。ララにとっては嬉しい驚きだった。
ザックはその後、洋子の朝食を用意しララの弁当のサンドイッチまで作ると幼稚園へ送って行った。
洋子は一人でゆっくりと朝食を摂った。アンソニーが亡くなる前の、あの賑やかしくも明るい日常が戻ってきたようだ。しかし、ザックが元に戻ってホッとしたのも、朝食を食べ終わるまでだった。
「家事なんかしなくていいからな」
そう言ってザックは家を出たが、今日は体調が良いので帰ってくる前に朝食の後片付けを済ませてしまおうと考えた。キッチンに入り洗い物を前に腕まくりをしたところで、ザックがあっという間に帰ってきたのだ。
「ヨーコ、何しようとしてるんだ?」
目を丸くしている洋子にザックが咎めるように言った。後片付けをしようとしているところを目撃されたという事よりも、今そこにザックがいるという事が衝撃だった。洋子は時計に目を向ける。
「あり得ない……」
居留区を出て、住宅街にある幼稚園までララを送りに行って戻ってくるには早過ぎる。
今度は洋子の方が咎めるような目でザックを見た。
「ザック……どこでララを降ろしてきたの?」
「何言ってんだ。ちゃんと幼稚園の門の中まで送ってきたよ」
両手を広げて得意げに話すザックに洋子は呆れ返った。という事は、どれだけすっ飛ばしてきたのか、想像するのも恐ろしい。
その後もザックは洋子を病人扱いし、何もさせなかった。洋子はソファに寝そべったままで、ちょっと立ち上がっただけでもチェックが入る。
「今日は体調がいいから……」洋子が訴えてもザックはまるで聞く耳を持たない。「それは何もしてないからだ。何か始めたらまた具合が悪くなるに決まってる」ザックは手を腰にあて、仁王立ちでそう断言する。洋子は仕方なくソファの上でおとなしく横になり、食事の後片付けや掃除をするザックを眺めている他にする事がなかった。
「まったく……この男、極端すぎるのよ!」
洋子は天井を見上げながら、苦々しく呟いた。
午後になり、ザックはララを迎えに行った。「くれぐれも安全運転で」出る時にそう念を押したにもかかわらず、またザックはあっという間に帰ってきた。そんなに信用が無いのかと、洋子はがっくりと肩を落とす。実際、家事は午前中のうちにザックが全て終わらせてしまったのだ。まだ陽が高いから洗濯物を取り込むのにも、夕食の準備をするのにも早過ぎる。むしろ、やる事がなくて退屈していたのだ。
ザックは睨みつけてくる洋子に言い訳をした。
「信号が全部青だったんだ」
もちろん洋子にはそれが嘘だというのは分かっている。幼稚園までの道のりに信号なんて無い。ザックの後から家に入ってきたララが興奮気味に喋り出した。
「ママ! すっごいんだよ! パパの車ビューンってね……」
ザックがララの口を手でふさいだ。
「バカ。言うなって」
洋子は溜息をついた。
ザックはロフトに上がり、ララをアシスタントに就けて仕事を始めた。ザックが注文の商品を読み上げ、ララが商品の載ったラックから捜し当てて持ってくる。ララにとってはゲーム感覚だ。そのララは、ひとつのダンボールの中を覗き込み首を傾げている。ザックはキャスター付きの椅子を回転させ、ララの方に身体を向けた。
「これかなぁ?」
「その隣を見てごらん。そう、それだ。それの黒」
「これ黒なの? 青と黄色も入ってるよ」
「黒地だ。……全く、子供ってのは融通が利かねえな……」
ザックは上体を捻り、机の上の伝票にチェックを入れながら呟いた。途端にララが頬を膨らませる。
「パパ! ララの悪口言ってるの?」
「違うよ。褒めてるんだよ」
洋子は二人の様子をソファから眺めていた。椅子に座ったザックはララの方に身体を向けているので洋子には背を向けている。洋子はそっと立ち上がって歩き出した。
「何をする気だ?」
ザックが背を向けたまま言った。
ザックが洋子の監視をするのは初めてではない。シルバーレイク・タウンにいた時、初めのうち洋子は要注意人物であり、ザックは密かに監視していたのだ。ビルからの指示で、洋子に気付かれてはいけなかったのだが、今はそれに比べれば楽なものだ。
洋子は立ち止まり、うんざりした顔でザックを見上げた。
「トイレよ」
「そうか」
「ねえ、後ろにも目が付いてるの?」
「教えてやろうか? ちょっとした空気の流れで分かるんだよ。気配が」
その野生動物のような五感は何なのだろう。こんな男にかなうわけがないと、洋子は腕を組み溜息をついた。相変わらず背を向けたままのザックに捨て台詞を吐く。
「それじゃ疲れるでしょ? いっその事、また発信機でも付けたら?」
ザックはようやく洋子の方を向くとニヤッと笑った。
「それもいいな」
洋子はトイレから出てくると、またソファに寝そべった。
しばらくすると、ザックは洋子がいるソファの向こうにある、敷地のゲートに面した窓に顔を向けて立ち上がった。近付いてくる車の音に洋子が気付いた時には、ザックはララを従えて一階に下りていた。洋子がソファから起き上がると、ちょうど目の前をザックが通り過ぎるところだった。
「俺が出る。寝てろ」
ザックが洋子を指差して制した。
「ララが出る。ママは寝てて」
ララはザックの口調を真似している。洋子は肩をすくめると再びソファに横になった。今日のザックは冴え渡っている感じがする。まるで、今までの鬱状態は充電期間だったとでも言わんばかりだ。
訪ねて来たのはビルだった。玄関でララが嬉しそうな声を上げて挨拶をした。
「ハーイ、ビルおじさん」
「やあ、こんにちは。元気そうだねララ」
「ハイ、ビル」
洋子はソファに横になったまま、リビングへ入ってきたビルに挨拶をした。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
ビルに尋ねられると、洋子は笑顔で肩をすくめて首を傾げた。
「さあ……ザックに訊いて」
意味ありげな洋子の答えに、ビルは眉をひそめてザックの顔を覗き込む。ザックは組んでいた腕を解き、右手を洋子の方に向けると唇の端を歪めて子供が出来た事を打ち明けた。ビルは丸みを帯びた顔に満面の笑みを浮かべ、輪郭をほとんど円にしながらザックの肩を叩いた。
「そうか! おめでとう!」
「ああ、どうも。それより、仕事の途中か?」
ザックはなおざりに礼を述べると、背広姿のビルを見て訊いた。
「仕事で来たんだ」
洋子がソファから立ち上がった。
「コーヒーでも淹れるわ」
「あ、俺が……」
「いいから!」
洋子が断固とした口調で言うと、少し怯んだ素直にザックは頷いた。
「はい……」
ザックとビルはダイニングテーブルに向かい合って座り、子供の誕生の時期などについて話している。ビルはなかなか本題に入らず、きっとザックだけに話したいのだろうと察した洋子は、二人の前にコーヒーを置くとララに声を掛けた。
「仔馬でも見に行く?」
「うん!」
ララを連れて外に出ようとする洋子にザックが声を掛ける。
「ヨーコ、あんまり……」
「少し動きたいのよ!」
うんざりした洋子はザックの言葉に被せて強い口調で言った。
「……はい、気を付けろよ……」
ザックは小さな声で付け足した。
洋子とララが外に出ると、ビルはテーブルの上にノートパソコンを出した。ザックもビルに向き直る。
「何だ? 仕事って」
ビルは一枚の写真を出してザックに渡した。
「こいつを知ってるか?」
どこかのスラム街で隠し撮りされた写真だ。猥雑な夜の街中にある一軒の店から、若いネイティブ・アメリカンの男が出てきたところを写している。手前にある歩道の街灯と、店の入口の上にある照明が、少しはすに構えた男の顔をはっきりと照らしていた。
ザックはその写真をしばらく眺めていたが、おもむろに首を振った。
「いや、知らない。でも、誰かに似てるんだよな……」
「名前はコリン・サンダースだ」
「サンダース……ああ、昔この辺に住んでた。確かこいつの父親が麻薬の売人をしてて、捕まって服役したって聞いたぞ。それがもとで家族もこの居留区から出て行ったって……。その時俺はフィラデルフィアにいたから、詳しくは知らないけど……」
ビルは既にその事を知っているというように、眉ひとつ動かさずに頷いた。
「そうだ。とっくに出所して、その後は真面目にやってた」
「やってた? サンダースは死んだのか?」
「ああ、そうだ」
ビルは頷いた。ザックもアルフレッドの事は知っている。しかし、その息子の事となるとほとんど記憶は無い。確か、アルフレッドの妻が小さな男の子を連れて歩いていた、そんな遠い昔の映像がおぼろげに頭に浮かぶだけだ。その頃ザックは高校生ぐらいだ。小さな子供など見掛けても、それほど興味など湧くわけも無い。
ザックは写真の男の身なりから思った事をそのまま口に出した。
「で、息子の方は今はギャングか……」
「教祖だ」
ビルが静かな声で訂正すると、ザックは眉根を寄せた。
「教祖? こいつが?」
「ああ、ブログを使ってな。怪しげな儀式なんかをやって信者を集めてる」
「儀式って、インディアンの儀式と関係あるのか?」
「いや。調べてみたが全く関係無い。既存の宗教や思想なんかを都合のいいように解釈してな、自論を展開して自分を特別な人間だと祭り上げてるだけだ。これを見ろ」
ビルはコリン・サンダースのブログを開くと、ザックに見えるようにパソコンの位置を動かした。
真っ黒い画面にインディアンの羽飾りの絵が浮かび上がった。その輪の中で二匹の蛇が出現し、くねくねと動き出したかと思うと鉤十字を作った。
「何だこれ?」
ザックは眉をひそめ、画面をスクロールさせた。黒い画面に白抜きの文字がびっしりと書いてある。そこには、どこかで聞いた事のある様々な宗教用語が乱れ飛び、終末論やついにはブッダまで出てきた。どうやらこの世界は、このコリン・サンダースの意思ひとつで滅ぼす事も存続させる事も可能だと言いたいようだ。救われたい者は、自分を尊敬して言うとおりに行動し、その身を捧げるべきだと。
ザックは失笑しながら首を振った。
「無茶苦茶だな……こんなのについてくる奴がいるのか?」
「ま、信者と言っても出入りは激しくてな。オカルト好きの若者が興味本位で集まって来るんだろう。やってる事はギャングと変わらない。資金集めのために強盗をしたり、儀式だといって犬や猫を虐待したり……」
ザックはパソコンの画面からビルに顔を向けた。
「こんなもんに名前出されてブッダも大迷惑だろうな……。FBIは何でこんな奴ら追ってんだ?」
「奴らにはスポンサーがいるんだ」
「スポンサー?」
ビルは苦々しげに顔を歪めた。
「お前も知ってるだろ? フランクリンだ」
「麻薬王か……何だってフランクリンがこんなガキ共に……」
ビルは苦い気分を中和させるように、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口含んだ。
「フランクリンの息子がこいつらとつるんでたんだ。二ヶ月前に大きな麻薬の取引があってな。そこに踏み込んだんだが、フランクリンの息子が発砲してきて、うちの捜査官に射殺された」
「バカか? どうせ捕まったところで、親父が一個中隊並みの悪徳弁護士軍団送り込んでくるだろうに。わざわざ自分から死にに行くことないだろう」
呆れているザックにビルは肩をすくめてみせた。
「親父にいいところ見せたかったんだろう……。それから、この二ヶ月の間にうちの捜査官が五人襲撃にあってて、うち三人が入院中なんだ」
「そうなのか?」
ザックの反応にビルは目を見開いた。
「そうなのかって、知らなかったのか? お前、ニュースも新聞も見てないのか?」
「……ここんとこ色々あってさ……。見てたかも知れないけど、頭には入ってないかも……」
ザックが苦笑いをすると、ビルは溜息をついた。
「頼むぜ、ホントに……帰宅時に待ち伏せされて殴る蹴るの暴行を受けたり、白昼留守の家に火を点けられたりな」
報復行為。この連中がやっているという事にザックは納得した。もしフランクリン一味ならば、そんなに生易しいものではないだろうからだ。非合法組織である事は周知の事実だが、ボスであるジェフリー・フランクリンは政治家とも裏のパイプがある実力者の大悪党だ。何度も逮捕されているがことごとく不起訴になったり、起訴に持ち込めても無罪を勝ち取っている。証人や陪審員を脅迫したり買収するのはお手の物で、目的のためには手段を選ばない。目撃されるリスクを侵して襲撃した相手をわざわざ生かしておく事などしないはずだ。目撃者もろとも殺しているだろう。
ザックはパソコンの画面に目を遣った。いくらフランクリンの息子の友人だったとしても、こいつらは組織の末端も末端、取るに足らない小物だろう。何故FBIが手をこまねいているのか理解出来ない。
「だったら早く捕まえりゃいいだろ。こんな奴ら」
「ところが、コリンは仲間を連れて失踪したんだ。五日前にな、両親を殺して」
ザックは頬杖をついていた顔を上げた。
「両親? さっきサンダースが死んだって言ったのは、こいつが?」
「ああ。ひどいもんだったぞ。自分の部屋に手作りの下手な祭壇みたいなのがあってな、そこに切断された両親の頭が二つ並んでた」
ザックはもう一度写真を眺めた。
「こいつがここへ戻ってくるかも知れないって事か。分かった、こいつを見かけたら連絡すればいいんだな?」
「何言ってる! 連絡するだけじゃない! 気を付けろ!」
ビルの切羽詰った口調にザックは首を傾げた。
「何で俺が? FBIを辞めたのは五年も前だし、俺がフィラデルフィアに行く前、こいつはまだほんの子供だったんだ。接点なんか無いぞ」
「お前には無くてもこいつにはあるんだ。続きを見てみろ」
ビルは顎でパソコンを示した。
ザックは怪訝そうな顔で画面をスクロールした。相変わらず自分勝手な主張が続いている。バカバカしくて真面目に読む気にはなれない。ザックは流し読みをした。と、その中である一文が目を引いた。その文は上下と間隔が空けられ、文字も大きく書体も違うため嫌でも目に付いた。
『Eagle is dead』