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She's my precious

 洋子はチャーリーのレッスンを心配しながら見ていたが、どうやらザックは集中しているようだった。チャーリーが怪我でもしたら大変だ。ザックもその辺はちゃんと心得ているらしい。洋子はお茶を置いた庭のテーブルで、向かい合って座っているキャロルに向き直った。ララは店の建物の脇に咲いた花を摘んでいる。

「ザックは大丈夫なの?」

キャロルに訊かれ、洋子は伏目がちに首を振った。

「あの人きっと、アンソニーの事で責任を感じてるの……。病気の事、気付いてあげられなかったから……」

「ヨーコ、あなた顔色が悪いわ。大丈夫なの? ストレスって一番悪いのよ。……もしかして、まだザックに言ってないの?」

洋子は気まずそうに頷いた。キャロルは眉根を寄せると、困った子供を見るような顔で首を振る。

「ヨーコ。早く言わないと……いつまでも隠せる事じゃないし、遅くなればなるほど気まずくなるのよ」

「分かってる。でもね、落ち着いて話なんか出来る状態じゃないのよ。私達の事なんて、いないみたいに振舞ってる……。私の事なんかどうでもいいのよ……」

キャロルは泣き出しそうな洋子の手を握った。

「でも、ザックにも関係のある事よ。こんな事、他人から聞かされたらよっぽどショックだわ。あなたから言わないと」

洋子は伏目がちに頷いた。 


 レッスンが終わり、チャーリーとキャロルは帰って行った。三人で家に入ると、ザックは何も言わず寝室へ向かう。洋子も後からついて行き、声を掛けた。

「ねぇザック。話があるんだけど……」

ザックは面倒臭そうな顔で振り向いた。

「悪いけど後にしてくれ。髪にまで泥が付いてるんだ……」

そう言うと、さっさとバスルームに入ってしまった。

 洋子はララの遊び相手をしながらザックが出てくるのを待っていた。長い時間を掛けてシャワーを浴びたザックが寝室から出て来たが、洋子が声を掛ける間もなく外へ出て行ってしまった。むっつりと黙り、話があると言った洋子の事などまるで目に入っていない。洋子が外へ出てみると、ザックは馬場で片付けを始め、馬を厩舎へ入れている。

 ザックが仕事を終えて家に入る頃には、洋子は夕食の準備を始めていた。それからザックはロフトに上がり仕事を始める。夕食の間はひっきりなしに洋子に話し掛けてくるララの相槌に追われた。ザックは黙ったまま食事を終えるとすぐに寝室に入ってしまった。

「一緒に暮らしていても、相手を避ける事って出来るのね……。これじゃ家庭内別居だわ……」

ララが真剣な顔をしてコップに麦茶を注ぐのを見守りながら、洋子は口の中で呟いた。話があると言った事はきっと憶えているはずだ。しかし、こういう態度を取るという事は、今は話したい気分では無いのだろう。

 夕食の後片付けは大変だった。度々めまいに襲われてはかどらず、辛くなってしゃがみこんでしまった。それを見たララが心配そうに近づいて来る。

「ママ……大丈夫?」

洋子は無理に笑顔を作った。

「大丈夫よ。今だけなの。もう少ししたら、元通りの元気なママに戻るわ」

「本当?」

「本当よ」

 ララの手を借りて何とか片付けを終わらせると、洋子はソファに倒れるように横になった。身体がだるく、疲労困憊だ。おそらく精神的なものが身体に及ぼしている影響も大きいのだろう。いつ、この暗闇から抜け出せるのか。洋子は額の上で両手を組み、大きく溜息をついた。するとララが目の前のローテーブルでお絵描きを始めた。紙にクレヨンで動物の脚のようなものを描き、洋子に見せた。

「何を描こうとしているでしょうか?」

洋子はソファに寝そべったまま、ララが描いた絵を見て答えた。

「う~ん、何だろう? 犬かしら……」

「ブー! 残念でした」

ララはその脚に大きな身体と長い頭、ふさふさした尻尾を書き加えた。

「何を描こうとしているでしょうか?」

元気の無い母親を喜ばそうとしているララの健気さに洋子は胸が熱くなった。洋子は心からの笑顔で答える。

「今度こそ分かったわ。馬ね?」

「ブー! 残念でしたぁ」

「え~? 違うの?」

洋子は大げさに口を尖らせて訊いた。ララは悪戯な笑顔を浮かべながら、そこに縞模様を付け足した。

「何を描こうとしているでしょうか?」

「分かった。シマウマね」

「正解! ママ、やっと当たったね!」

 二人が笑っているところへ寝室のドアが開き、ザックが出てきた。ソファに寝そべっている洋子を一瞥すると、そのままソファの後ろを通り過ぎキッチンカウンターの横の戸棚へ向かう。洋子は笑うのを止め、ザックを目で追った。ザックは戸棚からグラスとバーボンを出した。キッチンカウンターでグラスにバーボンを注ぐと、一気にそれを飲み干した。

 洋子は思わず目を見開いた。ザックがそんな酒の飲み方をするなんて初めてだ。ザックは空になったグラスにさらにバーボンを注いだ。ボトルを戸棚に戻し、グラスを持って寝室へ向かう。

「……ザック?」

心配そうに洋子が声を掛けると、寝室のドアの前で振り向いたザックは冷笑を浮かべた。

「のん気でいいな」

その言葉は、これまでの洋子のザックに対する心配と気遣いを怒りに変えた。この男のせいで家族がどんな思いをしているか、全く気にも留めていないくせに。洋子はソファの上で起き上がるとザックを睨みつけた。

「何だよ?」

洋子の怒りにザックが挑むような口調で返した。

 洋子はザックを罵倒してやりたくて口を開きかけたが、ふと隣のララが目に入った。一触即発の両親の雰囲気を感じ取り、緊張した顔で下を向いている。洋子は必死で怒りを抑え、首を振って答えた。

「何でもないわ……」

踵を返したザックはそのまま寝室へ入って行った。

 洋子は唇を噛み、しばらくザックが消えたドアを睨みつけていたが、大きく息を吐き出すと俯いたままのララに話し掛けた。

「ごめんねララ。大丈夫よ、何でもないの」

ララはぎこちなく頷き、その後は黙って静かに絵を描いていた。


 その後ララを寝かしつけ、子供部屋から出てきた洋子は疲れきっていた。昼間のキャロルとの会話が頭に浮かぶ。あまり先延ばしにしてはいけないのは分かっているが、さっきのザックの様子では話を切り出すことすら出来ないかも知れない。

 寝室へ入るとザックはベッドの中で、ヘッドボードを背に座っている。洋子が入って来たのには気付いているはずだが、そっぽを向いていて話をする気など全く無いのが分かる。ベッド脇のチェストの上には、バーボンがグラスに半分ほど残っていた。

 とりあえず風呂に入って疲れを洗い流し、その後ゆっくり話そうと考えた。重い足取りのまま、洋子は黙ってバスルームに向かった。


 考え事をしていたのと、だるい身体をなかなかお湯から引き上げる事が出来ず、バスルームを出た洋子はのぼせ気味で足元がふらついていた。既にザックはベッドに横になり、目を閉じてしまっている。今日もダメだったかと、洋子は溜息をついた。チェストの上の空になったグラスを片付けようと手を伸ばした。その時、ザックが洋子の手首を摑んだ。寝ているのだと思い込んでいた洋子は慌てふためき、手を引っ込めようとしたが逆に強い力で引っ張られた。堪らずに倒れ込んだ洋子にザックが乱暴にキスをした。それは、そのまま溶けてしまいそうないつもの甘美なザックの唇ではない。どこか刺々しくて冷たく、暗い欲望に満ちたその唇に洋子は違和感を覚えて身体を震わせた。しかも強い酒の匂いにクラクラしてくる。押し退けようとしたが力ではかなわず、そのまま洋子はベッドに押し付けられた。ザックの唇が喉元に下り、タンクトップの裾から入ってきた指が脇腹に触れると洋子は身を硬くした。

「お願い……やめて……」

やっとの事で洋子が声を絞り出すと、ザックが動きを止めた。酒に酔った虚ろな目で泣き出しそうな洋子を見据える。

 ザックは洋子から顔を背けて離れると、ヘッドボードを背に座った。洋子もベッドの上に起き上がりザックの方を向いた。しかしザックはこちらを見ようとしない。

「ねぇ、ザック……」

洋子の言葉を遮ってザックが口を開いた。

「俺が気に入らないなら、出て行ってくれても構わない……」

その言葉に腹が立った洋子は冷笑した。

「前にも聞いたわ、同じような台詞。あなたは、私には他に行く所がないって分かってて言ってるのよね? あの時もそうだったわ」

ザックは黙ったままだ。洋子は続ける。

「あなた、そうやってこれまで自分が築いてきたものを全部ぶち壊すつもり?」

ザックが洋子を睨みつけた。

「俺が何を築いた? 築いたものなんて何も無い。この家は親父の家だ。俺の家じゃない。FBIだってそうだ。死ぬのが怖くなって辞めただけだ!」

ザックが自分の事をそんな風に思っているとはショックだった。これまで肩肘を張り、あまりにも脆い内面を押し込めていた虚勢が崩れていくのが見える。

 洋子は溜息をついて打ち明けた。

「ザック……私、妊娠してるのよ。つわりがひどいの……」

「えっ?」

ザックが驚いた顔で洋子を見つめてきた。その表情で、そんな事は予想すらしていなかったのだと分かる。ザックは驚愕に見開いた視線を洋子に固定したまま口を開いた。

「……今、どの位?」

洋子は本当の事を言うのを一瞬ためらった。でも、こんな事をごまかしても後々辛くなるだけだし、すぐに分かってしまう。正直に言う事にした。

「今、十二週……かな?」

ザックは目を細めると、途端に詰問口調になった。

「十二週? 病院には行ってるのか?」

洋子は目を逸らし、黙って頷いた。この男にごまかしなど効かない事は百も承知だ。案の定ザックは洋子の一番都合の悪いところを鋭く突いてきた。

「かなり前から分かってたんだろ? 何で隠してた?」

「そんな……隠してたなんて……」

「俺の子供じゃないのか?」

頭に血が上った洋子はザックに平手を飛ばしたが、顔に当たる前に手首を摑まれてしまった。

「冗談だよ」

ザックは真顔のまま言った。

「言っていい事と悪い事があるわ」

洋子は腕を乱暴に引き、ザックの手を振り払った。

「皆俺に隠し事するんだな……」

自嘲を含んだザックの呟きに、洋子は溜息をついて天井を見上げた。やはりアンソニーの事をまだ気にしているのだ。しかし、そんなものはとんだ被害妄想だ。洋子はザックを横目で見ると、咎めるように言い返した。

「隠してなんかいないわ。あなたが気付かなかっただけよ。少しは責任感じたら?」

「責任? ああ、いつも感じてるよ。全部俺が悪いんだろ?」

ザックは口元を歪めて卑下た笑みを浮かべる。その様が悲しく、洋子の怒りの感情は瞬く間に消え失せてしまった。

「ザック……私に責任感じても、アンソニーの事で責任を感じる必要は無いのよ」

父親の名前を出され、ザックは鋭い目で洋子を睨みつけた。

「アンソニーは病気の事を隠してたのよ。私達に知られたくなかったのよ。それがなぜか分かる?」

「よく分かってるよ。俺が頼りないからだろう……俺に任せておけないから、入院も出来なかったんだ」

洋子は俯いて首を振った。

「分かってないじゃない……違うわよ……」

洋子は顔を上げ、自分を睨みつけているザックの目を見た。どうしても分かって欲しい。親子という近くて遠い関係であるが故に、見る事が出来なかった父親の本当の姿を。

「アンソニーは幸せだったのよ……あなたがこの家に戻ってきて、家族を持って、賑やかな生活が楽しくて仕方なかったのよ。……だから病院のベッドで五年生きるより、この家で三年暮らす事を選んだんだわ」

 そんな事が信じられるか、そう言いたげにザックは洋子から目を逸らした。しかし、アンソニーが毎日にこにこと楽しそうに笑っていたのを思い出し、ザックの唇が微かに震えた。洋子の今にも泣き出しそうな声が聞こえる。

「ザック……あなたがアンソニーに何をしたか分からないの? あなたはアンソニーを幸せにしたのよ。アンソニーは幸せなまま逝ったのよ……あなたにしか出来ない事だわ……」

ザックは震える唇を引き結んだ。洋子の目からは涙がこぼれ出している。

「自分を誇りに思ってよ、ザック……私はあなたを誇りに思ってるわ……」

父親が幸せかどうかなど、考えた事も無かった。自分が見ようとしていなかった事を洋子は間違いなく見ていたのだ。その事実にザックは打ちのめされ、深い悔恨と共に尊いものを崇めるような目で洋子を見つめた。

「ヨーコ……」

 ベッドに両手をついて下を向いたまましゃくりあげている洋子の肩に、ザックが手を置き顔を覗き込んだ。洋子は顔面蒼白だ。

「ヨーコ……?」

「ううっ……」

突然洋子は口を押さえると身をよじって肩に置かれた手を振り払った。目の前にいるザックを邪魔だとばかりに押しのけ、這うようにベッドから降りるとバスルームに駆け込んだ。

「お、おい……」

バタンと閉じられたバスルームのドアをザックが呆然として見ていると、激しくえずく洋子の声が聞こえてきた。

「おい! 大丈夫か?」

ザックがドアを叩きながら中にいる洋子に声を掛けた。

「もう! 大丈夫じゃないわよ! どうにかして! 助けてよザック!」

洋子の泣き叫ぶ声が聞こえ、ザックは困った顔で髪をクシャクシャと掻いた。

「どうにかしろって、俺に言われてもなぁ……水持ってこようか?」

いつの間にかザックの酔いはすっかり醒めてしまっていた。

 大騒ぎは夜中まで続いた。


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