I'm in blue
父親というのは、息子の人生に対してそれぞれがそれぞれ特別な思いを抱くようだ。父親が息子に何を与えるのか、何を残すのか、そして何を望むのか。それらは父親としての真価が問われるのみならず、息子の人生にも多大な影響を与える。息子はいつか自分の父親を越えなくてはいけない。父親が偉大であればあるほど、息子に掛かる重圧も大きくなる。だからこそ、息子とどう接していくかが問題となるのだ。
息子が自分で選んだ道を歩んでいくのを、心配しながらも黙って遠くから見守る父親。
息子は大物になると盲目的に信じ、自分の果たせなかった夢を託す父親。
自分の輝かしい軌跡を息子にも歩ませようと、その人生にレールを敷き詰める父親。何が輝かしいかは全く個人の主観であり、それが社会通念上の善であっても悪であっても関係がない。ジェフリー・フランクリンと息子のルイスもそうだ。ただ、その輝かしさとは後者の方である。
ルイスは麻薬王としての父親を尊敬していた。生まれた時からその恩恵を享受していた。幼い時から欲しい物は何でも与えられ、父親の取り巻きである皆こわもての屈強な男達が自分の前にひれ伏した。
それもこれも麻薬王として裏の世界に君臨する父親からもたらされたものである事を理解していた。そして、自分がその素質を受け継いでいる事も。
その日父親は、二十一歳のルイスに輝かしい門出の舞台を与えた。ルイスは胸を躍らせた。自分もついに君臨する時が来たのだ。裏の世界に。輝かしき麻薬王の後継者として。
しかし、そこへ自分とは相容れない者達が水を差しにやって来た。どんなに素質と環境に恵まれていたとしても、厳しい試練はあるものだ。乗り越えた困難が大きければ大きいほど、その成功は輝きを放つ。自分の将来は約束されているのだ。それを疑った事は無い。誰にも邪魔は出来ないはずだ。自分は特別なのだから。ルイスは銃を抜いた。
「親父も俺を誇りに思ってくれるだろう」
引き金を引いた次の瞬間、ルイスは全く予想だにしていなかった門出を迎えた。
アンソニーの葬儀から一ヶ月が過ぎた。いつまでも悲しみに沈んで立ち止っているわけにはいかない。仕事や家事、しなければいけない事は毎日あり、それらは待ってはくれないのだ。それでもアンソニーの笑い声や姿が消えた家の中は、空虚なほど静かで広く感じられる。それと同時に、アンソニーが自分達にとってどんなに大きな存在だったかという事を洋子は思い知らされるのだ。
一ヶ月経ってもザックの様子は変わらない。笑う事も、家族との会話もほとんど無くなっていた。口を開くのも億劫そうで、いつも不機嫌に黙っている事が多い。黙々と日々の仕事をこなし、その後は一人で物思いに耽っている。
洋子はそんなザックを心配していたが、この頃では疲れを感じていた。
テイラーは深夜の道を車で家路についていた。ここ連日の残業で心身ともに疲れきっている。ついこの間の大きな麻薬取引現場に踏み込んだ時も、発砲してきたガキがいて同僚の捜査官が怪我をした。幸い命に別状はないが入院中だ。人員が少ない上に事務仕事も山のようにある。しばらくはこんな日々が続くのだろう。テイラーは自宅の駐車スペースに車を停めた。
車を降りると、妻が大事に育てているバラの茂みから突然三人の男が現れた。ハッとして振り向くと、後ろから来たもう一人の男に硬い物で頭を殴られた。地面に倒れたテイラーを四人の男が次々に蹴り始める。体を丸め、激痛に耐えながらテイラーは目を凝らした。男達の足元の服装から、皆若者だという事が分かる。襲撃者はテイラーを蹴りつけながら甲高い笑い声を上げている。
この男達は待ち伏せしていたのだろうと思い、電気が消えている家の窓を見上げた。家族の安否が気になったのだ。その時寝室の窓に灯りが点き、外を覗く妻の顔が見えた。妻は自分の夫が暴行を受けている現場を目撃し悲鳴を上げ始めた。一人の男がTシャツをめくり、ウエストから銃を出すのが見えた。
「危ない! 窓から離れろ!」
そう叫ぼうとしたが、胸を蹴られ息が詰まった。男が窓に向けて引き金を引く直前、妻の顔は窓から消えた。銃声と窓ガラスの割れる音が響き、その直後に妻の悲鳴が何度も聞こえてきた。
「こいつら……銃を持っているのに、なぜひと思いに俺を殺さない?」
妻が無事だと分かると、そんな疑問が頭の中に渦巻いた。
銃声や物音で隣の家や向かいの家に灯りが点くと、男達はバラの茂みの向こうへ逃げて行った。車のエンジンが掛かり、遠ざかっていく音を聞きながらテイラーは気を失った。
さらに一ヶ月が過ぎたが、ザックは相変わらずだった。それでも淡々と仕事だけはこなしている。そういう男なのだ。以前なら仕事が一息つくと待ってましたとばかりに馬場に出て馬と遊んでいたが、最近はそんな事もしなくなっていた。馬場の中を元気に走り回っている馬達の姿を、柵にもたれて無表情に眺めているだけだ。しかしその瞳に馬など映っていない事を洋子は分かっている。アンソニーの病気の事で、ザックは自分を責めているのだ。そして、そんな時のザックには誰も近寄る事すら出来ないでいた。
ララでさえ父親と距離を置き始めた。突然気難しくなってしまった父親に戸惑いを感じているのだ。からかう事はもちろん、話し掛ける事もためらうようになっていた。夕食が終わると黙って部屋へ引き上げる父親の背中を寂しそうに見ている。そのせいか、この頃では母親の洋子にいつも纏わりついていた。
洋子は自分の体の異変に気が付いていた。しかし、自分の事で精一杯という感じのザックには打ち明けられずにいる。話をする時間も無い。ザックは誰とも目を合わせようとしないのだ。内に籠り、自分自身に対する苛立ちをどうする事も出来ずに苦しんでいる。洋子が何とかしたいと思っていても、当の本人が他者との接触を拒んでいるのだ。
その日、ララが幼稚園に行っている間、二人はロフトで仕事をしていた。ザックはパソコンに向かいインターネットでの注文を受け、伝票を作成し洋子に渡す。受け取った伝票を見て、商品を箱に詰めるのが洋子の役目だった。
フェニックスにあるセレクトショップからの注文の品を、ラックに収められたダンボールの箱から取り出そうとした時だった。洋子は急にめまいに襲われ、手近にあった箱を摑んだまま床に座り込んでしまった。箱の中に入っていた商品のモカシンが辺りに散乱した。送り状の住所を打ち込んでいたザックは全く気が付いていない。暗くなってしまった視界に少しずつ光が戻って来た洋子は、麻布の袋に入れられたモカシンを箱の中に片付け始めた。すると突然激しい吐き気に襲われ、急いで箱をラックに戻すと立ち上がり、階下のバスルームへ急いだ。
送り状をプリントアウトするカタカタという音を聞きながら、ザックはぼんやりとパソコン画面を見ている。自分の横を駆け足で通り過ぎる洋子を一瞥しただけで再び画面に目を戻した。
ベンはアルフレッド・サンダースの自宅があるアパートへやって来た。ここ数日間、同僚のアルは工場を無断欠勤している。一緒に働き始めて七年になるが、こんな事は初めてだ。アルも昔は色々あった様だが、それは自分も同じだ。今は真面目な彼の人柄を信じたい。
自分の押した呼び鈴が部屋の中でけたたましい音を立てているのが聞こえるが応答はない。ドアノブを回すと鍵は掛かっていなかった。同僚でもある友の名前を呼びながらドアを開ける。やはり応答は無く物音もしない。入ってすぐの狭いダイニングにも人影は無い。火の消えたガスコンロには鍋が置いてあり、嫌な臭いをさせている。
不意にカサカサという音が聞こえて振り向くと、キッチンシンクの中をゴキブリが這っていた。アパート自体が古くお世辞にもきれいな建物とは言えないが、アルの妻ジュディはきれい好きで几帳面な女性だ。何かただ事ではない気がして仕方が無い。
独身のベンは何度もこの家に招かれて食事をした。彼の家の事は分かっている。寝室のドアをノックして開けたが、そこにもいなかった。
あと残るは息子のコリンの部屋だけだった。コリンは昔から内気な子だったが、ここ数年はほとんど姿も見せなくなっていた。ベンが夕食に招かれてこの家を訪れた時にも、コリンだけは同じテーブルに着かないのだ。家にはいるようだが部屋から出てこない。コリンの話になると、アルもジュディも声をひそめる。
「自分の部屋にいつも引きこもっていて、パソコンやゲームばかりしていて困る」
最近のアルはこんな愚痴をこぼしていた。
コリンも今は二十二歳だ。部屋に勝手に入るのは気が進まなかったが、一応全ての部屋を調べてみようと思った。ベンはコリンの部屋のドアを開けた。アルとジュディはそこにいた。そして、ベンはこれからの一生を、この部屋で見た光景の悪夢に悩まされる事になる。
洋子は庭に出て、キャロルと彼女の息子のチャーリーを迎えた。チャーリーは近所の住宅街に住む十歳の男の子で、ザックが乗馬を教えている。
チャーリーは引っ越してきて間もない頃、馬に乗って観光客のガイドをしているザックを見掛けた。それ以来、休日にはちょくちょくやって来るようになった。どうやらザックに憧れているらしいのだ。
半年ほど前に洋子はキャロルから「チャーリーに乗馬を教えてやってほしいと、ザックに話してくれないか」と頼まれた。きっとザックは嫌がるだろうと思った。別にチャーリーの事が嫌いというわけではない。他人に何かを教えるという事をとても面倒臭がるのだ。それでも洋子は一応伝えてみた。案の定、「あんなストレスの溜まる事やってられるか!」という返事だった。シルバーレイク・タウンにいた頃の事だ。ザックが管理人をしていたレイクサイド・インの隣に馬場があった。そこの主のジミーに頼まれて初心者の男の子の乗馬の指導をした事があったのだ。その時に懲りたのだと言う。生まれた時から馬が身近にいたザックは、気が付いた時には馬に乗れていたというのだから無理もないかも知れない。もちろんキャロルにそのまま伝える訳にもいかず、洋子は何とか理由をつけやんわりと電話で断った。
ところが次の日、キャロルに車で連れてきてもらったチャーリーはザックに直接頼み込んだ。十歳の少年の必死な願いを、さすがのザックも断る事が出来ずに引き受けてしまったのだ。この展開に洋子は内心で喜んだ。どうせ平日には観光客などほとんど来ない。仕事の合間にザックが馬と遊んでいる時間を有効活用出来るわけだ。ちゃんとした乗馬教室ならばもっと丁寧に優しく教えてくれるだろうという事で、洋子が設定した格安のレッスン料も貴重な収入となっている。
レッスンの初日。チャーリーはツイードのブレザーを着て乗馬ズボンにブーツと、伝統的なヨーロッパの乗馬スタイルでやって来た。
「格好だけは一人前だな」
チャーリーの姿を見て笑い出し、からかったザックを洋子はすぐにたしなめた。
ザックといえば、いつもジーンズにエンジニアブーツ、上はTシャツかラフなシャツで肌寒い日はポンチョを羽織るといった格好なので、そのちぐはぐな二人が一緒に乗馬をしている光景を見て洋子はいつも吹き出していた。
その日ザックはチャーリーが来たのにも気付かず、馬場の奥の柵に腰掛けてタバコを吸っていた。洋子は馬場にアレックスがいるのに気付き、ザックに声を掛けた。
アレックスは身体の大きな気の荒い牡馬で、アンソニーがいない今、アレックスを制御できるのはザックだけだ。
「ザック! チャーリーが来たから、アレックスを厩舎に入れて」
ザックはチラッと洋子を見ると柵から下り、アレックスを呼んだ。いつもなら、駆け寄ってくるアレックスに飛び乗るところだろうが、今日は手綱を引いてぼんやりとした顔で歩いている。アンソニーの死から三ヶ月が過ぎようとしているにも関わらず、未だ沈み込んだままのザックに洋子は溜息を漏らす。
「ちょっと待っててね」
洋子がチャーリーとキャロルに笑顔を作り声を掛けた。
ザックが馬場の芝にできた窪みに足を取られ、バランスを崩した拍子に手綱を変な風に引っ張ってしまった。嫌がったアレックスがその大きな身体を捻りザックにぶつけた。ザックが芝に倒れ込み、手綱が手から離れるとアレックスが棹立ちになった。硬い蹄がザックの頭の上に振り落とされようとしている。
「ザック!」
洋子の叫び声でザックは蹄に気付き、芝の上を転がり間一髪何とか頭を割られずに済んだ。洋子が慌てて柵に駆け寄った。
「ザック! 大丈夫?」
気が動転して蒼ざめた洋子が見守る中、ザックは肩を押さえて立ち上がると顔をしかめた。
「痛え……。大丈夫だよ、あんまり騒ぐな……」
身体の力が抜けてしまった洋子は柵を摑んだまましゃがみ込み、大きな息を吐き出した。ザックは不機嫌そうに、泥が付いて汚れた自分の服を見下ろす。
「アレックスを入れたら、着替えてくるから」
未だ激しい動悸が治まらない洋子を残し、ザックはアレックスを連れて厩舎へ向かった。