Epilogue
二年後。
ある五月の朝。ザックは食べ終わった朝食の皿を前に、ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。洋子はテーブルとキッチンの間をパタパタと忙しく歩き回っている。ふと足を止め、子供部屋に向かって大きな声で呼びかけた。
「ララー。早く着替えてご飯食べなさーい」
「はーい」
子供部屋からララの返事が聞こえると、洋子はキッチンへ戻った。ザックはコーヒーカップを手に取ったが中身が空なのに気付いた。カップを持ったまま洋子がいるキッチンへ顔を向ける。
「ヨーコ。コーヒー……」
「やだ! 卵が焦げちゃう!」
洋子がキッチンで慌てふためいている。
「はいはい……」
ザックは立ち上がり、自分でコーヒーを注ぎに行った。フライパンの中の卵をターナーでかき混ぜている洋子を横目で眺め、テーブルに戻ると再び新聞を読み始める。
洋子がララの朝食とコーヒーポットを持って来た。ザックの隣の席にララの朝食を置く。
「ザック、コーヒーは?」
「自分で淹れて来た」
「あら、ごめんね」
洋子はザックの頬にキスすると、食べ終わった皿を持ってキッチンへ戻る。
「ママー! ルークが……」
子供部屋からララの声が聞こえた。
「今度はなーに?」
洋子が子供部屋に駆けていく。
「こら! ルーク、危ないでしょ! 下りなさい!」
洋子の大きな声がして、ザックは振り返って子供部屋に目を遣るが、またすぐに新聞に目を戻した。
ルークは二歳になったばかりだ。やんちゃで手が付けられない。洋子が困り果てた様子で子供部屋から顔を出した。
「ルークったら全然言うこと聞かないのよ! いったい男の子ってどうなってるの?」
「さあな……」
ザックは新聞を読みながら呟いた。ここ最近、毎日繰り返されているやり取りだ。
以前洋子は、アンソニーが亡くなる前の夜に、彼が呟いた言葉の意味を訊いてみた事がある。ザックは「そうか……」と一言呟いて、少し寂しそうに微笑んだだけだった。ドクターグリーンは、その言葉の意味を教えてくれた。それは、古くから彼らに伝わる言葉だった。
「今日は死ぬのにふさわしい日だ」
アンソニーはそう言ったらしい。
洋子はアンソニーと初めて会った日、彼の身に起きた事をずっと奇跡だと思っていた。至近距離から放たれた銃弾が、アンソニーの腕をかすめただけだった事を。でも、そうではない事が分かった。
過去に妻を奪われ、一人息子まで失いかけることになるアンソニーにとって、その日は死ぬのにふさわしい日ではなかった。ただ、それだけの事だ。そしてそれから六年後、息子がもたらした家族との幸せな時間の中で、アンソニーは自分の死を受け入れたのだ。
アンソニーの晩年は幸せだった。そう信じたい。そして、自分たちがこうして幸せでいられるのは、アンソニーがいてくれたおかげだ。それだけは確かだ。
ザックは奇跡を信じていない。自分の身に起きたことでさえ、奇跡だとは思っていない。
「奇跡なんてものが、本当に起こるなら……」
ザックは言った。
「俺より奇跡が必要な奴はいくらでもいるだろ。そいつらに回してやれ」
ザックは決して聖人ではない。奇跡を信じてただ待っていられるほど、ザックは辛抱強くもないし、自分の人生に失望していない。
着替えて部屋を出てきたララがザックの隣に座る。
「おはよう、パパ」
「おはよう、ララ」
ザックはララのおでこにキスをした。その時、子供部屋から何かが落ちる大きな音が響いた直後、さらに大きな声でルークが泣き始めた。
「だから言ったでしょ! 危ないって!」
洋子の呆れた声が響いてくる。
大泣きしているルークを抱いて洋子が子供部屋から出てきた。
「ララ、何飲むの?」
朝食を食べ始めているララは口をもごもごとさせながら、手を挙げて元気に答える。
「オレンジジュース!」
「はいはい……」
洋子は泣いているルークを片手に抱いてあやしながら、片手でララのジュースを用意する。
「早く食べないとお昼までに着かないわよ。昨夜、電話でアニーにサンドイッチお願いしちゃったんだから」
今夜は満月。これからシルバーレイク・タウンに行くのだ。湖畔に花束を置きに。理不尽に人生を奪われた朗と、十五歳の少女のために。
昔、シルバーレイク・タウンでサムから教えてもらったこと。歳を重ねるごとに、その言葉は洋子の中で重さを増していく。
「大切な者の死を乗り越えるということは、忘れるということではない」
決して忘れない、忘れることは出来ない。満月を見る度に、今は見ることの出来ない者達の姿を思い浮かべる度に、洋子はサムの言葉を噛み締める。
先に逝った者達へ、遺された私たちが出来る事は……いや、そうではない。私たちは遺されたのではない。私たちは生きているのだ。生きている私たちに出来ることは、彼らの命に感謝すること。大切な命を育み、慈しむこと。そして幸せに生きていく、この人生を。なぜならザックの言うとおり、この一瞬も時は流れているから。愛する者をこの腕に抱き締めていられる時間は、とても貴いのだ。
ルークはまだ泣き止まない。洋子の肩におでこを擦り付けて大きな泣き声を上げている。ぶつけたお尻がまだ痛むわけでもなく、半分は甘ったれているのだという事は洋子もザックも気付いている。そんなルークを見遣り、ララが呆れて肩をすくめた。
「まったく、ルークは男の子のくせに本当に泣虫ね。いったい誰に似たの?」
読み終わった新聞を畳みながらザックが言った。
「俺だろ……」
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続編『I’m here -Kokopelli3』も是非宜しくお願い致します。




